Wednesday, September 30, 2009

第二章 責任と愛情、信頼

 情報伝達、意志伝達が信頼を基本としていることは、生物学者のハミルトンの利他的行動その他で実証されている。テレビで茂木健一郎氏が語っていたが、人間の脳は感動するとそのことを他者に伝えたくなるらしい。それは意味理解、つまり感情の襞を進化させてきたからである。しかし親しい人に対しては確かに感動を伝えたいというのは極めて自然なことであるが、それほど親しい人間ではない、つまり他人に対してはまた少し違う。この親しさの段階に従って、人間は私的、公的に差異を作ってきた。そして親しい者を裏切ることは人間でも逸脱者以外にはそうなかったであろう。しかし他人に対してはそれと多少は違ったであろう。しかし他人に対して攻撃的であり、嘘をつくことは次第に社会全体から爪弾きにされてゆく運命にあったであろう。それがハミルトンの功績であるところの利他的行動へと人間を落ち着かせる(尤もハミルトンにとって他者とは家族であり、トリヴァースが初めて本当の他人をこの範疇に引き入れた。これを互恵的利他主義と言う)。この時責任ということが発生するのだ。責任は本来他人に向けられたものであり、その信頼が家族内にも向けられた時、家族を養うとか家族の生活を維持するという行為へと向かう。しかしその前には家族の愛情の享受、自己愛、そして親しい者への愛情、そして他人への責任、そして家族内に向けられる責任と愛情という段階を踏む。この点では精神分析が20世紀に多大な功績を残したと思う。そして文化人類学は人間の宗教感情の起源に挑戦しようと思ったということだけでも多大な功績があると私は思う。私は現代の自然科学が文化人類学や精神分析とあまり結束していない状況を残念に思う。確かに自然科学者たち、とりわけ脳科学者たちは、生物学者とか哲学者とは結束しているようだが、やはり彼等だけでも解明出来ないこともあるのではないだろうか?
 例えば社会という現実が出来上がる頃には言語自体も統語構造とか意味の世界はかなり出来上がっていたと考えるのが自然である。しかしその前段階にはやはり統語を必要とする情報伝達という極めて感情的行為が要求された現実があった筈である。そして情報伝達内容の面から考えると親しく常に行動を共にする他者たち、つまり家族と仕事仲間と、それ以外の疎遠な人々との親近度の差が情報内容と情報伝達方法の差を生む。その差の認識が感情の襞に様々な階層を作る。その階層の差が愛情と責任のバランスを決定する。
 例えば他人を信頼するということは信頼する人間を裏切らないということである。しかし他人に対して親しさの度合いは違う。そこで親しさの差が愛情に裏打ちされた責任(他人)と、責任に裏打ちされた愛情(家族、友人)という両極的な二つの傾向の間に様々な段階を築く。この段階に対する認識こそが社会認識であり、哲学を産む土壌となる。
 宗教は恐らくもっと自然全体に対して社会全体が拮抗する意味合いから集団の論理から発生したのであろう。だから民族性とか国家意識とかそういう一切は全て宗教的感情、つまり集団同化意識から発生していると考えられる。人間はこの信頼の度合いという家族、友人、他人という階層性と、内面的宗教感情という言わば社会全体が自然の脅威(災害、疾病)に対する恐怖、そして死に対する個人的恐怖が集団と個人の関係性の中で綯い交ぜになって一個の感情を形作る。だから一個の感情というものは信頼という対他的な感情と、自分一人の内面的な世界とが、同時的に複雑に絡まりあっているから、どこからどこまでが社会的な認識で、どこからどこまでが個人的な認識であるかという判定は一概に付けられないものであろう。
 責任は親しい者を守るという人間の基本的な感情と、そうではない人にも迷惑はかけないという利他的な智慧が結びついて様々な彩りを形作る。だから仮に家族内で犯罪者が出た場合、家族は家族を守ろうとするだろうが、ある段階に来ると社会的な制裁を受けることを潔しとする場合もあるだろう。その時家族の決断は私的であることと公的であること、信頼と責任の配合バランスの内部で懊悩するということとなるだろう。
 責任と信頼のシステムを少し別の角度から考えていってみよう。まず愛情と信頼というものの違いと、その表現の仕方、そしてその二つと責任の関係について考えていってみようと思う。
 現代では脳のニューロンの働きを解析することも比較的可能になった。fMRIと言う方法も採られ、極めて今後の脳科学は注目を浴びている。しかしそのような状況を成立させる基盤に我々が自然科学を信頼している、という事実がある。責任というものは他人に迷惑がかからないということをも意味すると言った。責任の認識が同じ地球上に生活する限り、自国の利益にならないからと言って、自分が住む地球の裏側の国々の悲惨に目を瞑ったり、あるいは自国の利益のために他国を犠牲にしたりしてはいけないという倫理を産む。責任と倫理は表裏一体である。だから責任ある立場の人間は自分だけの単なる思い付きの感情でことを判断してはならない。そういう意味で信頼性のおけるものとして科学的数値、統計上でのデータ等がある。それらは個人的感情を極力排除して、公正で公平な認識を得ようとするものであるから、必当然的に、科学的認識というものとは責任倫理によって要請されていることになる。つまり科学の合理思想を人間が信頼するということは、一方で人間はそういう合理思想には加担しない、要するに駄々っ子的部分が濃厚にある、ということを人間自身がよく心得ているからである。
 しかし愛情となるとそれ自体もまた一個の信頼感情なのだが、少し事情が異なってくる。つまり愛情にはどこか歪な部分もあるからである。人間には優れた人間であっても、どこか自分にはない破壊的な、他人から見たらどうしようもないような破綻的な性格や傾向性の人間に惹かれてゆく部分もあるのだ。それは世間の人間同士の結び付き、友人関係、夫婦を見ればよくわかることである。つまり人間には一方で自然科学とか統計的数値を信頼する、そういう合理志向的側面もあるが、同時にそれとは反対の非合理的側面というものが常に共存して、その二つに引き裂かれながら生活しているのだ。そういう両極端の志向性の駆け引きが人間という存在を極めて矛盾した心理、そしてそれと共に発生する各個人に内在する独自の価値観を醸成してきているのだ。
 この価値観の独自性ということが愛情の形態にも多様性を付与する。そしてそれは言語活動自体にも影響を与え続けている。例えば我々は進んだシステムのパソコンを利用し、メールやネット、チャットをするが、実は我々の画像上での文字配列とか記述に纏わる文明も、基本的には原始時代の人間の意志伝達と本質は変わらないと思うのだ。
 つまりこういうことである。原音楽には他者に対して「合わせる」欲求があるから、音楽もそうだし、身体律動確認型の行為は全てここに収斂されてよいと考える。しかし実は数学の基礎の一つである数えるという行為、単位という概念の理解もここに収斂されると私は思う。幾何学的な発想はそれとは少し違って創造的であるから複合的(あるいは空間同定的直感力)であろう。しかし人間のコミュニケーションを観察していて分かることなのだが、人間は他者に追随するような言動をすることもあり、それを私は「引用される意味」を人間が採用していると捉えているのだが、これと共に、いつもそうしてばかりいたら息が詰まるし、面白味もないので、「見出される意味」も求めていると私は考えている。つまり後者は他者追随型の協調性ではなく、自分独自の発想の進言などに見られる人間の意味に対する対応である。だがよく個性的な人間と会話していると楽しいし、充実しているが、同時に個性的な人間とばかり話していると、得てしてそういう人間は自分の主観も相当力説して語る傾向があるから、時々そういう個性的な人間との会話とか交際を差し控えたいと願う心理にもなる。特に自分の仕事とか自分にとって何かが閃いたような時期にはそういう人間と会うことを差し控えたりすることを選択することというのは日常あることである。だから人間には「引用される意味」の段階で留まっていたいという欲求と、いやそればかりでは面白味がない、ということで「見出される意味」を求め、他者からそれを聞きたかったり、自分でも進言したりしようという欲求も持ち、その反復が人生であると言ってもいいだろう。それにどんなに他者追随型で、伝統保守的な人間にも固有の「見出される意味」があるし、逆にどんなに個性的、自主的で、伝統破壊的な革新的な人間にも「引用される意味」に加担するようなオーソドックスな面というがあるのだ。そして私が考える原羞恥は明らかに「見出される意味」の中に起源的に備わっているように思われる。そして逆に「引用される意味」は原音楽的な体系に彩られている。人間は自然科学に代表される合理的判断と共に、そういう公平無私な態度と共に、幾分偏見に満ちた大胆だが、屈折した考えとか発想に惹かれる部分があり、それはどちらかと言うと非合理的判断であり、幾分ギャンブル的な感性の発露である。しかし同時に四六時中そういう態度とか発想に浸りきることに辟易しもするので、そういう時には原音楽的なバイオリズムを採用しようとする。それは破壊的であるよりは身体順応的な、もう一つの人間の本能である。勿論音楽自体の中にも「引用される意味」というオーソドックスと共に「見出される意味」というものはあるだろう。それは芸術にも文学にもあるだろう。あるいは自然科学にも数学にも「引用される意味」(それも発見された当初は「見出される意味」だったものが殆どだろう。)もあれば、「見出される意味」もあるだろう。そしてそれらは複雑に絡まりあっていると言える。
 そして話は戻るが、文字配列を目にする行為とは、読むことであり、文字配列を視覚的に楽しむことであり、それは絵を見る行為とも関連があるが、文字を打ち込む行為、書く行為といったエクリチュールは、そうしながら論理思考することであるから、当然「見出される意味」的な思考実験である。しかし同時に文法とかある学問、報告文とか要するに形式的に備わった技術とか文体、内容の検討といったことにおいて「引用される意味」は常に検索されているのだ。そして基本的に他者の目に触れさせる目的性からは記述とか、記述されたものを読む行為は「引用される意味」の世界であり、原音楽であるが、同時にその意味的世界の理解、つまり共感とか反感とかいった一切は「見出される意味」の世界であり、原羞恥的な郷愁が無意識にある。つまり意味とは原始的な本能の叫びのようなものがあると考えているのだ。つまり文章という秩序、形態そのものは記述者による社会的責任倫理であるが、同時にそれを記述する行為の中では、あるいは読む行為の中には、密かに私秘的な感慨を得ようとする心情倫理、と言っても近代的なそれではなく、もっと原始的な郷愁が控えている。だから実際に顔をつきあわせる人間関係ではあまり巧くいっていない人でも、文字の世界に埋没すれば、それだけで憩いを見出すということもあるのだ。そして著者や文章作成者に共鳴し得るのなら、それはやはり一つの愛情でもあるのだ。そしてそういう著者の本を何冊も読もうと意志決定の合理化をなすものこそ信頼である。その著者への信頼である。信頼とはだから、基本的には愛情を基本としている。確かに愛情というものも範囲が広いので、偏愛的な愛情も多く存在するだろうが、信頼もまた基本的にはそれが「引用される意味」(学歴や経歴、職歴を見て人を判断することもまたそこから引き出される判断である)であれ、新しい発見であるところの「見出される意味」であれ、それを「いいものである」、「好感の持てるものである」という判断によって経験的に意志決定しているわけだから、科学的判断であるとも言えるのだ。だから当然のことながら「見出される意味」にも非科学的なそれへの傾注もあれば、逆に極めて信頼度の高い科学的なそれもあるということであり、そのことは「引用される意味」でもそうである。「引用される意味」で非科学的なことの代表は、民族的な宗教文化と、それに対する信頼感、居心地のよさであろう。
 ここで一つ定義しておこう。愛情とは科学をさえ包み込む信頼であり、それにはいいものに対してもあるし、悪いものに対してもある。信頼は愛情のある部分に依拠しているが、科学に対しても宗教に対しても等しく接する。

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