Monday, September 28, 2009

第一章 情報伝達そのものが感情的な行為である

 私は情報を得ることも、伝えることも全て感情的な行為としてしか考えられないのである。それは何故か。人間にもまた他の幾つかの動物同様偽装することが出来るからである。本来嘘をつくことを遂行出来るということはなかなかの知性を要求することである。しかし同時に嘘をつくことというのは最初から嘘だけしかつかない者にとっては益の少ない行為であることを嘘つきは皆理解している。全てを嘘で塗り固めることというのは、案外巧くはゆかないものである。つまり真実を語ることで、つまり偽の情報を他者には与えないで他者に対して信頼を得ることが出来なければ、人間関係そのものが破綻をきたすので、嘘というものの効果とは時々するということに限るのである。普段嘘をつかない人間は、嘘をたまについたとしても、それほど怪しまれない。しかしいつも嘘をついているような個人は信頼を得ることなど出来はしない。それはどんな犯罪者でも心得ている心理である。だから他者にそれがたとえビジネスであろうとも、なるべく嘘を付かず、真実を報告することが長期的な展望に立てば、他者から信頼を得ることは犯罪者でも知っていることである。そういう意味で嘘をつくことというのは必ず何らかの形で真実を語るという文脈のない生き物には意識することが出来ない。これはア・プリオリな真理である。もっと端的に言えば、嘘という概念は誠実であること、真実であることという概念の文脈なしには成立しないということである。そして意思疎通は誠実性の表明であり、相互確認である。
 言語活動がたまたま我々の喉頭によってなされてきた、ということは恐らくただの偶然であろう。それは手話のようなものでもよかったし、表情でもよかった。しかしある時人間は全て真実を表明することを鬱陶しく感じ出したのだ。つまりいつかは自分も死ぬということを全ての人間が知っている(少なくともある一定レヴェルの知性のある者なら誰でも)ということがプライヴァシーを人間間に付与させたのだ。
 人間はどんなに家族を大切に思う者も、どこかで一人きりになりたいという願望を持っている。それはどんなに孤独の好きな人間でもどこかでは他者と触れ合いたいと願うという思いを持つのと対になって存在する。他者や集団と触れ合うことのどんな好きな人間でも、孤独になりたいと常にそのような矛盾した二つの心理は隣接してもいるのだ。そのことを確認し合えることからこそ、他者への信頼を形成するのだ。それは他者を労わり、思い遣ることを人間が知っているからである。つまり他者を思い遣る行為とは、それがたとえ表情による明示であっても、尚ストレスフルであることを皆知っている。だから逆に他者に他者に対して気を遣わせることを時には猶予させてあげる気持ちに人間はなるのだ。これが四六時中一緒にいるということは家族ではない場合には耐えられないであろう。いや家族でさえ、個人にプライヴァシーはあるのである。あるいは秘密さえあるのだ。
 動物は秘密を持っている。しかし多くの動物では秘密を持つことを疚しいとは思わないのだ(だからそれは厳密に秘密とは呼べないかも知れない)。ある行為をいいことであり、ある行為を悪いことであると知るということは、その行為が自分にではなく、他者に迷惑をかけるということを知るということである。他者が迷惑をするのを知るとは自分が他者から迷惑をかけられた経験があり、それを他者の悪意として認識することが出来、あるいはそういう経験が過去にあったからであり、他人の立場に置き換えることが出来るから生じる認識である。そしてこれは言語行為として発声し、音韻秩序に沿って会話出来ない人間がいたとしても理解出来る感情である。つまり私は言語的思念というものを持たない人間にも、感情の意味を理解することが出来ると考えているのだ。言語を使って自分の感情を示すことというのは、寧ろ言語がない状態でも、ある程度の感情表出を表情等によって可能であるというア・プリオリなしには成立しないであろう、と私は考えるからある。
 では何故そう考えるかと言うと、そう考えた方が言語習得することがたやすいだろう、と私は考えるからである。逆に言語獲得以前に何らの感情的な気持ちを抱かないような人間がいたとして、その人間に言語を習得させようと努力してもその人間には言語を習得することが出来ないだろう。だから犯罪者で、しかも他者に迷惑をかけずに何でもするという者がいたとしたら、それは病理的状態であると言ってもいいし、そもそもそういう者の発する言語とは全く誠実性というものが欠如しているのだから、知性だけであって、少なくとも理性というものはないのだろう。彼等も言語習得時には少なくとも感情の襞を理解することが出来た筈である。
 理性とはいち早く考えられていたのにもかかわらず、それを前提しているということであり、それ自体はカントまで問われなかったと思うがそれは何故だろうか。理性というものの秩序を整えたのがカントであり、それ以後の何人かの哲学者であることを考えれば、理性というものの存在が存外理解困難なものであり続けたということだけは言えるであろう。だから理性のない動物には秘密を秘密であるとして背徳的な感情を抱くことは恐らくないであろう(尤もチンパンジーとかイルカにはあるのかも知れないが)。  
 背徳という感情は明らかに禁止が生む。禁止とは理解するよりも早く、それはいけないことだ、してはならないと肝に銘じることの出来る行為に対して前もって人間が設置した法意識である。それは集団的レヴェルででもそうだし、個人の内面からしてもそうである。だが背徳という良心と不可分な心的様相のない動物には、秘密に対して疚しさを感じはしないであろう。またそこまでどんな種でも考えることが出来る個体がいるのなら、彼等にも人間の言語に匹敵する言語を身に付けてゆく可能性があるということではないだろうか?
 ここで疚しさというものの正体を少し考えてみようと思う。
 例えば人間は間違った情報を悪意ではないにせよ、他者に伝えた場合、「しまった。悪いことをした」と感じる。これは自分の悪意からではなくて、不注意であり、勘違いによるものである時さえも疚しさを感じる。そういう時の疚しさとは他人に対して思い違いをして恥ずかしいという感情を無意識の内に感じるのだ。つまり疚しさとは羞恥に関係があるようである。
 例えば情報伝達をする者が無表情に真実を伝えることはある種のニュース原稿を読むアナウンサーにも感じることである。しかし親しい者同士ではそういう無表情はしなくて済む。しかしそういう伝え方と伝える内容の真実度というものには何の関係もない。例えば腕のいい医師が仮に愛想の悪い人間であったとしても、そのことで悪い治療をすることさえなければ、愛想が飛び切りよくて人当たりもいいのに、腕の悪い藪医者よりはずっとましであると私たちは考える。つまり情報伝達者が信頼性を獲得するのは、明らかに正しい情報を、有益な情報を他者に伝える者であり、好感の持てる伝え方をする者ではない。勿論日頃から挨拶をきちんとすることと同じで、いい応対の人間が同時に有益な情報を伝えることが出来るのなら、それがベストであろう。しかしいくら好感の持てる人間でも、真実味のない情報を与える迂闊者よりは、無愛想でいながらいい加減な情報を与えないように心掛ける(たとえ悪意で嘘をついたのではなく、間違っていた場合でも素直に謝るようなことをするだけでもいい)あるいは悪意で決して嘘をつくことのない、正しい有益な情報を与えてくれる者を人間は信頼するようになるものだ。その点から考えても、疚しさとはそういう調子のいい情報伝達者であることを避けたいという当然の人間の心理が大きく関係していると思われる。それは責任という考えである。責任倫理なのである。だから逆に責任倫理の欠如した者はいくら好印象を与える者でも、どこか胡散臭いという感情を他者から持たれるのだ。つまり出来ないことは出来ないと伝え、知らないことを知らないと伝えない者に対しては当然のことながら胡散臭く思うし、そうではなく常に誠実であった者が試しに誰かに嘘をつくと、ある疚しさを自分自身に対して感じることとなる。
 人間はデズモンド・モリスの言葉を借りれば、裸のサルであり、そういう着衣の習慣が人間に羞恥感情を醸成したということは可能性としては考えられると思う。しかしそれは寧ろ偶然的なことである。事実愛する者同士は裸も恥ずかしくもなく、また人に裸を見せる仕事の人も大勢いる。羞恥の根幹とはもっと別の部分にある。
 人間には私が名付ける原音楽的な心理があり、それが他者と何かを共同ですることであり、他者と意見を一致させることであり、合奏したり、ダンスをしたりすることである。そしてそれは集団同化意識であるが、人間は孤独な心理に打ちひしがれ、またそういう瞬間を持続させたいとも願う。それは人間が対人間としてではなく、対自然の存在として意識する傾向である。これは他人の存在に対して敏感になるから私はこれを原羞恥と呼ぶ。
 少々その羞恥の根源である私が原羞恥と呼ぶものに対する注目と原音楽と呼ぶものに対する注目に視点を向ける時現代の学問に一つ言いたいことがある。それは次のようなことである。
 まず言語学はあまり今までのように発声システムとか概念とかに拘り過ぎない方がいいと私は思う。例えば人間はたまたま現在のような音声聴覚システムにおいて電話等を通して相手の表情が見えなくても会話はすることが出来るが、例えばインターネットとかチャット、携帯メールとかもここ数年の間に定着したものだし、電話でも高々百年以内の出来事である。そういう現代文明に至るまでの長い間に培ってきたもの、例えばそれらよりは古い文字の発明とかを何故人間に促進したのかという観点からすれば、明らかに人間は情報を他者同士で伝え合うという行為の定着が考えられ、その点が重要である。しかし文字発明以前的にはやはり人間が音声秩序として発話するようになっていったプロセスが考えられるのだが、その音声発声行為に意味を付与するようになったということは、音声発声という行為と、それ以前の内的な感情の襞の進化という別々の現実があり、岡ノ谷進氏のご指摘のように、音声秩序と意味の一致を偶然的に発見したことが現在のような発語行為へと人間を駆り立てたと思う。概念とは比較的最近の人類の歴史において登場した、と思われる。
 脳科学は言語中枢とか要するに新脳、大脳皮質、前頭前野とかの局在システムではなしに、もっと脳全体のことに今現在注目するようになってきたが、言語に関する研究も古脳と新脳の連結作用、つまり根本的なニューラルネットワークに注目する必要もあるのではないかと素人なりに考えているのだ。私の考えでは他性認識の根幹は古脳にあるのではないかと思うのだ。そしてこの古脳の他性認識を支える原羞恥を、新脳が、つまり大脳皮質が概念的に把握することが出来る、つまり羞恥を社会的な現実と結びつかせることが出来る能力、まさにそれが原羞恥と原音楽を同一の照準に合わせるということのだが、それが人間に社会的な羞恥、つまり倫理、道徳、良心、愛情、信頼といった感情のシステムを内的に構築させ、そしてその内面の叫びが外部出力的で、結果としてストレス発散ともなり得る音声発声秩序として「自己」の考え、思いを他者に伝えるという行為、つまり意思疎通、意志伝達行為をなすことを要請したのだ。だから音声発声と意味を結び付けられたという事態はまさに偶然であったと思われるが、一番重要なことは意味の獲得であり、そして意味の獲得という事態は、統語秩序であるとか、文法であるとかそれよりもずっと以前になされていた、と私は考える。寧ろ統語秩序とか文法とかは、意味というものがクリアになればなるほど必然的に要請された、と考えた方が私は自然だと思うのである。
 では意味とは何か?それは自己の内的感情を他者に伝える欲求が起源であると考える。つまりこういうことだ。意味とは外部自然とか環境全体から人間が受ける感慨、あるいは他者との触れ合いにおいて、人間同士が社会を構成するに従って、尤もその段階ではかなり音声発声によって意味を伝達することの萌芽は確立していたと思われるが、私はその対外部、他者、対象、事物、現象に対する感想、印象を告知する習慣、少なくともそういう心的な要請が音声発声秩序と結び付けられて行ったということが言語活動の起源であるとするなら、感情の襞を内的認識として進化させてきたことが、他者に告知することの要請を産み、それがやがて言語活動へと結び付けられて行ったと考えるのが一番自然であると私は考える。だから大脳皮質の言語中枢とか、大脳の認知システムとかの探求一辺倒ではやはり不足してくる部分とは、脳の今まで思考とか感情とかとは関係がないように思われてきた部位と感情レヴェルを司る部位(例えば扁桃体とか)との連携がもっと重要になってくるだろうと素人なりに思うのだ。そうでなければただ言語中枢的理解だけでは人間による言語行為獲得の起源の謎には迫れないような気が私にはするのだ。そしてよく言われてきている遺伝子のシステムも勿論極めて脳科学同様重要であるが、寧ろ遺伝子と大脳の関連性、大脳と身体の関連性、遺伝子と身体の関連性、遺伝子と古脳の関連性、古脳と大脳の関連性、古脳と身体の関連性において、つまり全体的システムにおいて初めて我々は対他的告知へと至る感情の襞の進化の謎が解明されてゆくのではないかと考えるのである。
 つまり意味とは内的感情の告知によって完成するのだ。そして意味の伝達が完成した時、あらゆる言語秩序、例えば音韻システム、統語秩序、文法が完成するのだ。文法の完成は同時に社会における法秩序の完成を意味する。自然科学が大成するのはもっとずっと後であろう。勿論単純な単位の認識の獲得は言語発声という能力によっても齎されている。呼気と吸気の反復に対する意識はそれだけで一つの単位の獲得であり、それを客体化した時、我々は自然科学の起源を持ったのだ。しかしそれ以前に神という単位を考え出すことが人間にはあった。それは社会を一つに纏める誘引力として作用した。
ギリシャが偉大であったのは理性に着目したことである。そしてそれはどこかで神と結びついていた。しかし中世には神の存在が肥大化して、近代にはそのことに対する反省として形而上学に対する批判が相次ぐ。しかし近代以降、現代の哲学は自然科学の方法論と、形而下学に依拠し過ぎ、理性は軽んじられるようになり、再び今理性は注目を浴びている。チューリング・マシーン等の多大な実験と認識転換がなされた偉大な20世紀も終わり、我々は再び出発点に立たされている。それはあの偉大な物理学をも産んだ自然科学を推進した人間の欲求の根源に対する着目をする時が来たのだ。
 動物にも愛情はあるし、感情表現というものはある。しかしその感情表現を伝えることはある程度出来ても、その正確な表現が出来ないことは、ある意味では音声発声システムの発見がなされていないこともあるが、それは大きな理由の中の寧ろ一部であり、彼等には彼等なりの別のシステムで進化させることは出来た筈だ。しかし彼等には何故人間のような文明が築けなかったかと言うと、それは恐らく原羞恥というものと原音楽、つまり原羞恥は他性認識の起源であり、原音楽は社会的意識、つまり集団同化意識であるが、その二つを交差させることが出来なかったという一点にあると私は思うのである。
 物を創造することは、それがどんなことであれ、愛情表現もまた根幹的な創造行為の一つであるが、それは色々な事態を交差させることである。例えばその一つとして住居を空間的に確保することと、建造物に時間的耐性を保たせることである。もう一つは愛情は自分と他者の感情の襞を交差させることである。信頼の根幹にはそれがある。その二つに最も必要なことというのは何かを想像出来ることである。それは過去に対する記憶の確保とそれと関連した未来への想定意識である。これがあるからこそ色々な感情を重ね合わせ、交差させて複雑な感情を形造れる。感情が複雑になればなるほど創造のレヴェルは進化する。その創造進化の過程から住居の進化、芸術表現の進化、愛情表現の進化という事態が招聘される。そしてそれら一切は情報伝達の有用性の確固とした認識であり、それは他者を信頼することである。他者を信頼しなければ偽の情報を伝えるであろう。それは鳥類にも出来る。しかしもし彼等にもっと人間のように他者に対する信頼を持てる能力が備わっていたら、人間の文明に近いシステム創造をすることが出来たであろうと私は考える。
 ここでもう一つ定義しておこう。情報伝達の基本は他者に対する信頼である。

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