Sunday, September 27, 2009

死者と瞑想 <自分を知っていてくれる者の死を巡って>序章

 世は新たな時代を迎えつつある。依然としてITは大きな柱となっていて、脳科学ブームである。しかしその影でひっそりと哲学について考えている一郡の人々がいる。そしてペシミズムに浸ることをモットーとした宗教カルトの人々もいる。私はそのいずれにも関心があり、そのいずれにも大いなる関心はない。そのことをまず断っておかなくてはならない。しかしそれは諦観的な感情ではない。寧ろ人間である自分の起源について常に思いを馳せ、いずれ古代の人々よりももっと以前の私たちの祖先の感情が理解出来るような気がする日があるのだ。それは一部私の身体にも受け継がれている資質である。それは私の性格が社会にどのように奉仕することが出来るかという観点の私の資質ではなく、もっと原始的な内奥からの叫びのようなものである。
 それは呪術的でさえある。しかし宗教的感情を理解するということはある意味で倫理、道徳、そしてそれら一切を司る感情というものの正体を把握しなくてはならない。感情というものの正体は恐らく私たちの日常生活だけからは理解することは出来ない。
 ただ私たちは今でも殆ど毎日言語活動に勤しんでいる。それはブログを通してだったり、人と会って話したりすることによってである。しかしそれらは実はよく言われるようにそれほど重大な開きはないのだ。要するに何らかの形で他者と関わるということが一番重要なのだ。
 他者と関わるということは他者の存在を認めていることに他ならない。他者の存在を求めることというのは、自分自身を他者と同じような存在として考えることが出来るということに他ならない。他者と自分は確かに社会では異なった存在だし、要するに他人という奴は厄介な生き物である。にもかかわらず他人という存在を視野に入れずに我々は自分というものの正体を掴むことなど出来ない。自分を理解することは他人を知ることであり、他人と自分との相関性において自分の立場を省みることである。
 古代より、いやもっとずっと以前から人間は意思疎通をしてきた。しかし今のような言語活動をしてきたわけではないだろう。寧ろ今現在のような言語活動を獲得したのは意外と未だ新しい時代だったかも知れない。しかし今現在の言語活動以前のもっと原始的な言語活動に対する着目おいてこそ恐らく我々人間という生き物の本質が理解出来る気がする。というのも我々には絵を描くことが出来るし、音楽を聴くことが出来る。そして他人と一緒に酒を飲むことが出来る。その全てが人間の行為においてなくてはならないことである。
 何故酒を飲むのかということを本質的に追求した哲学者を私は知らない。(ニーチェが触り程度触れているものの)また音楽を聴くことの楽しみを理解していた哲学者が大勢いたということも聞かない。(これもニーチェやウィトゲンシュタインくらいか?)しかし私たちは言語活動において、どうやら音楽的に如何にセンスのない音痴の人でもしっかりと言語活動することには以前から疑問に思ってきた。つまりこういうことだ。言語発声という行為は音楽的な行為であり、それは所謂「音楽」ではないかも知れないが、れっきとした呼吸の呼気と吸気の反復行為である。それに私は原音楽という秩序を考えているのだが、それは集団同化意識のなせる業であると思う。しかしそれだけが言語活動ではない。例えば確かにビジネスでは私たちは一分一刻も無駄には出来ない。それは納期というものがあり、決算ということがある。そして給料を貰い、それを家族に渡す。この行為の連鎖は日々の私たちの言語行為を幾分目的的な社会機能の一部に組む込みがちだ。しかし重要なのは、そういう忙しい連鎖において我々は一時常に休息を味わってもいる。それはどういうことか?つまり電車に乗って立っていても、座っていても、他人とはまた別の時間を過ごしている。つまり他人と共存しながらも実は密かに自分だけの時間を過ごしている。そしてその私秘的な忙しい時間の中での一瞬の安らぎを皆求めており、そのことについて誰しも同意している、他人のプライヴァシーを大切にしよう、と。そして私はそれを現代人に固有のことのようにずっと思ってきた。しかし恐らく古代人には古代人に固有のストレスがあったのだ。あるいは言語活動黎明期の人間には人間なりのストレスはあったのだ。ただそのストレスの発散の仕方が違ったということだけの話である。江戸時代には日本には鉄道は通っていなかったし、その時代の人々は移動を肢で、そして身分の高い人は馬に乗ったり、少し金のある人は籠に乗ったりしただろうし、もう少したつと人力車に乗った人もいたであろう。しかしその中でそれはそれなりに自分だけの孤独を昔の人々なりに、確保していたし、またその確保の仕方が現代人とは異なっていたけれど、それでもそれなりに今現在の人類にはないストレスはきっとあったのだ。
 言語活動はビジネスライクであるか、そうではないかによって大きくその様相は異なる。しかし社会に奉仕するための手段的な発話とか会話というのは古代からあったであろう。そしてそれと同時に気心の知れた人々同士の会話とか対話といったものも常に同時にあったであろう。つまりビジネスは何も現代人だけの特権ではなく、恐らく言語行為がやっと誕生した頃からあったのだ。ただビジネスの内容とか形式とか生活レヴェルの本質的課題が異なっていただけである。
 例えば原野で狩猟をすることで生計を成り立たせていた頃から人間には他者というものの存在、そして家族の間での時間を持っていた。つまりその頃から家族と他人、他人の中でも特に親しい人間との間の人間関係はあった。しかしそれ以前人間が殆ど偶然的に言語行為をするようになる頃からストレスというものはあった筈だし、何らかの悩みというものを抱えて人間は生活していた。そして当然のことながら、その頃にも家族、友人、他人という人間社会の現実はあった。
 動物でも高等な知性を持ったものたちは他個体の、つまり他者の死を自覚している。とりわけ親族の死というものには敏感な動物というものはある。例えば象は明らかに他者の死を、つまり同一種内の死という現実を受け止めている。そういう意味ではかなり多くの動物が他者の死を受け入れている。尤もただいなくなったから、寂しいという気持ちを持つくらいで明確に死を認識しているかどうかは疑問な場合も多いだろう。例えば他者の死を自覚出来ても尚、自分もまたいつかはそうなるのだ、と理解しているかとなると、これは今でも疑問であろう。だがどんな動物でも自分の死が近いことだけは理解出来るだろう。ただ健康な時にさえ自分の死を理解出来るか否かは、恐らく言語行為、言語認識能力、そしてそれら一切を支える人間固有の感情、それが進化して倫理とか道徳と呼ばれるようになっていった認識力に関係があるだろう。幼年、少年、青年、中年、壮年、老人といった年齢的な階層性は動物にもある。しかし明確に幼年期から死を自覚出来るという能力は人間において特徴的な資質である。そしてそれは言語能力所有の根拠の大きな一つであると私は考えるのだ。だから動物にも死を理解する瞬間はある。しかしそれを想定して生涯の設計をするということを人間ほど明確に意識しているとは私には思えない。ただ人間である私にはそう思えるだけで、意外と動物にも大いなる能力があるということは考えられるところである。
 ただ人間はそれを他の動物に先駆けて理解することが出来たということは言えるだろう。そしてこれは完全に私の直観なだけであるが、動物の中でも自分の死を常に受けて入れて生きている人間の祖先たちは恐らく言語獲得以前的に、自分の死を健康時にも理解したのだ、と私は思う。
 死を理解することとは、哲学的に考えれば、他人と自分を死が分かつことを理解することである。そしてそれはどちらか一方が、例えば親や子供が、他人でも親しい者が先立つことを知ることだから、他者同士での労わりを生む。昔大脳が肥大化したから直立二足歩行をすることが出来たということと、直立二足歩行をするようになったから、大脳が肥大化したのだ、と捉えることの論争があった。しかしそれは恐らくどちらでもよい。その段階では恐らく人間は言語行為までは行ってはいなかった筈だからである。
 例えば鳥類でも囀り、動物も鳴くことがあるかから、音声的な行為というものだけを採ればかなり古くから、恐らく直立二足歩行完遂以前から発声はしていただろう。しかしその段階では未だ人間は何かを明確に伝えていたかと言えば、疑問である。恐らく単純な身体健康上の状態を伝え合う程度だったことだろう。しかし音声にある時意味を付与するようになる。これはかなり大脳が発達してからのことである。
 確かに感情というものの複雑な様相はそうたやすくは獲得出来なかっただろう。そういう感情の綾というものは確かに言語の発達に伴って発達したと考えることも出来る。しかし私は発声行為として、現在の音韻論的な秩序を形成することが出来たという事実は、それほど驚異的な事実ではなく、寧ろ内心の感情の襞が複雑化したことの方が重要であると考えている。寧ろその内面的な感情の発達こそが、言語行為において複雑な音声出力的行為をなすことになった、と考えた方が自然である。勿論音声伝達の初期には我々はそんなに大したことを表現出来なかったであろう。しかしその出来なさに対してある種のもどかしさならかなり長い間感じて生活していたと私は思う。それは外国人が言葉を理解出来ないで、困惑している姿を見てもそう思えるのだ。勿論証明は出来ないから、それは科学的見解ではない。   
 しかし少なくとも言語行為が心の発達、端的に言えば、感情の襞のない段階から偶然的に発達したとはとても私には思えない。だからどんなに人間が高等霊長類に人間が言語習得させても不可能なのは致し方ないであろう。というのも基本的に言語活動することが可能なだけの感情の襞を獲得していなければそれは不可能だと考えた方が自然であるからだ。つまり私は人間には統語秩序等を駆使して何らかの言語活動をなす素地として感情理解というものの進化が認められたのであろうと考える。少なくともかなり長期に渡る前言語状態というものはあっただろうと考えるのだ。
 イルカや霊長類注1は確かに言語行為に近いことをするようだし、鏡を見て、かなりの割合で自分を認識することが出来るとも言われている。しかし彼等に人間が言語獲得以前にあったと私が思う前言語状態のようなものがもっと明確にあれば、彼等ももっと複雑な言語行為をしていただろう。尤も動物学的には未だそこら辺も解明していないようなので、今後意外に凄い意思疎通能力を各種動物が保有していることが判明するかも知れない。しかし死の自覚、他者の死といつかはそれが自分にも到来することを人間が幼少期からに既に理解出来たという事実が人間を言語活動を、ただの音声発声行為なだけではなく、もっと意味表出的な行為をすることを促したと私は考えるのだ。
 他者の死への自覚は他者の人生全体を自分で追想することを強いる。そこで他者への尊厳として埋葬という行為が発生する。それは言語的には未だ覚束ない段階で既に執り行われていたであろう。あるいはそういう共同作業(埋葬他の)体験とそのことに関する記憶が共有されることで、他者間の意思疎通という行為に意味が出てくる。
 AとBとCの成員が仕事を分担し、Cだけが別行動をする場合、AやBの共行動成員に対して単独行動成員Cは好意からCしか知らない情報を、また何らかのC不在時でのAとBしか知らない情報をAとBはCに伝えようとする。その情報供与は明らかに信頼感によって醸成される行為である。意思疎通において嘘をつかないこととは、他者信頼の確実度に比例して増加する。あるいは嘘をその他者につかないことが、信頼度を増加させる。そして嘘をつくことが後ろめたい行為であると直観的にそう感じることが出来るという能力は、恐らく自分もまた死んだ他者のようにいつかは死ぬということを人間が知っていて、そのために限りある時間を悔いなく生きたいと考えることが出来ることと関係している。つまり他者を欺くことよりも真実を報告し、向こうからもまたそういう真実を聞きたいと願う心理を生む。そういう感情を抱くことが意思疎通行為を要求し、そこに発声という行為と結び付けることをたまたま人間が出来たということである。他人に対して労わりの感情を示すことで他人からよく思われたいし、そればかりではなく自分でも他者に対して悔いのない生活を送りたいと願う心理の発生が言語行為を生み出したと考えた方が私は自然であると思う。
 今までもチンパンジーに言語を習得させようと人間がしてきたが、寧ろ私に言わせれば、チンパンジーが他者に対する思い遣りとか、善悪の判断を他者から教えられるのではなしに、自分で判断出来る能力が人間並みにあればその時初めて彼等に言語習得を可能にするのであり、そういう判断がつかない内は、どのような動物にも言語行為は不可能であろう。イルカが超音波を使って言語行為をしていることはよく知られている。そしてイルカは他者の死も、自分の死も知っているかも知れない。そういう意味ではチンパンジーやオランウータンもそうかも知れない。しかし未だその範囲がどれくらいかはよく分かっていないらしい。
 結論的に最初に言っておけば、発声という事態のみを言語行為の起源と考えること、つまり言語を習得したから感情が細やかになったという考えがあり、言語全体に漲る情報摂取と、情報供与という実はこれは極めて初歩的な感情行為なのであるが、それをしたから感情の襞が細かくなったという説を私は採らない。言語行為というものを発声することで聴覚的行為として定着させる前段階において何らかの内的な意味理解が、感情の襞の複雑化を通してなされていなければ、言語行為を可能にする側頭葉の各言語中枢が発達することもなかった、と私は考えたい。何故そう思うかということを第一章では説明したいと思う。(注1、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、イルカ、アジアゾウが鏡で自己を確認する。)

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