Monday, January 19, 2015

シリーズ 愛と法 第十七章 種と愛の在り方⑤ 情と愛はどう違うか?Part3 愛と想像力

 何度か私は国家民族毎に固有の宗教伝統的文化と密接な社会倫理感から派生するドメスティックな感性に就いて考えた。それはある意味ではユニヴァーサルな哲学的認識から言えば退屈なことである。しかしそれはやはり愛と法やその関係を語る上で欠かせない。まずどの民族にとっても愛とは心のゆとりと寛ぎと癒しに於いて成立する、という点から考えても当然ドメスティシティ自体が極めて愛の成立条件として必要なのである。ブータン人がアメリカ合衆国カリフォルニア州のビヴァリーヒルズに豪邸を建てて住む事を理想とか夢だと思うとは思えない。又其処に住むアメリカのセレブリティ達が香港の集合住宅に住んでみたいと思うとも思えない。つまり誰しもが自国の文化と習慣と伝統的な生活習慣に則った生活を理想としているし、そういった条件を自己の生活に満たす事と、愛を成就することとは不可分である。
 しかし現代社会は同時に常に世界全体の動向と無縁に運営されている国家も民族も居ない。ウェブサイト自体は既に世界を共時的な認識で世界市民性へと全人類を誘っている。昨今で言えばフランスで今月起こったシャルリ・エブド襲撃テロ事件以降の一連のテロ事件に対する全世界の余波は具に世界中に情報が報道として配信される。それを全く意識の外にして生活する生活者は世界には居ない。少なくともブロードバンドが整備されている都市空間やエリアを持つ国ならそうである(当然過疎エリアはあり得るし、しかしその過疎地を持つ国家全体がそうである訳ではない)。
 すると我々はドメスティックな愛の成就の慰安を個人的に必須のものとして認識しつつも、ユニヴァーサルな愛の在り方をも考えざるを得ない。それは法というものが国家の歴史・文化等と関わりなく成立していないのとは別個に愛自体は人類的視野で語られ得ると言える。
 其処で我々は異民族や外国人にとっての愛をその国にもし自分が生まれていたのなら、という形で想像することが出来る。そしてそうすることで相手の立場を考慮してそれなりに他者、他民族の愛をも考えることが出来る。つまりその想像力こそが愛である、と言える。想像力とは自分には実感としては理解出来ない他者や他民族のことを自分の立場に置き換えて考えることであるが、他者の心自体がそういった意味では他民族等全般に共通する愛の普遍への想念の基礎にある。他者の心それ自体は決して読み取れる訳ではない。それは想像というより類推し得るのみである。
 他者の心の様に自分の帰属する文化伝統と無縁の国家や民族の愛を考えることは想像力という一つの他者論に於ける理念上での思考であり、それこそがヒューマニズムである。テロの犠牲となった人達の生前の行動とはどんなものだったのだろうか、と9.11の時にも他国の世界市民は考えていただろう。その点で今年に入ってフランスで起きたことも同じである。
 表現の自由自体は無限に認められるものだとも私には思えないが、と言ってジャーナリズムの表現の自由が侵害されていいものではない。只イスラム教文化圏の国家が例えば今回の犠牲者であるフランス自体を批判し、揶揄するマンガをジャーナリズムで公表しても世界的規模では影響力を持たないということをイスラム教過激派は熟知していて、それが故に敢えてテロへ及ぶことで世界へ不満を発信しようという意図であったのではないか、とだけは想像される。
 自国民以外の市民同士の愛を考える時は想像力だけが縁である。だがそういう風にもし自分がアメリカ人であるなら、シリア人であるならと想像することこそがヒューマニズムなのであり、それは意外と限りなく多くの市民が世界でもそう容易くし得ないことである。殆どが自国民同士のことしか考えられない。にも関わらずリアルとしてはウェブサイトが世界を繋いでいて、頻繁に情報だけは送信されてくる。そのギャップででは世界に於いて自国や他国の生活市民のことを考えるということが、愛が理念である、それは寛ぎとか癒しという個人の感性にとっては極めて不可欠の要素で満たされた実際の愛とはもう一つ別のレヴェルの人類愛ということになるであろう。
 只その想像力が適切であるな否かで観念的であるだけで実態とかけ離れた論議になるのではない、つまり実質的な普遍的人類にとっての愛という想念が齎されるであろう。それはきっと哲学的愛というものでもあるのではないだろうか?
 次回は哲学的愛というものをもう少し踏み込んで考えていってみよう。(つづき)

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