Thursday, November 27, 2014

シリーズ 愛と法 第十六章 種と愛の在り方④ 情と愛はどう違うか?Part2 理と法(1)

韓流ドラマでは情を重んじると言った。それは宮廷がより両班の利権と権威を重んじる余り平民以下(奴婢も含めて)への差別意識が強かったが為に、それにも関わらず心医(ドラマ<ホ・ジュン>)は宮廷の御医(王族の為のかかりつけの医師)をテーマとしたものであり、しかし医師とはそういう権威や権力の為の道具であってはならず、あくまで人民の為に誠心誠意尽せという主張となっている)が金銭を取らずに一般平民や奴婢迄診療したという事で一度は徹底的に宮廷の体罰を受ける設定となっている。しかしホ・ジュンは一切金銭を取らずに診療したので、地位や名声を求めての行動ではなかったという事で体罰に耐えた事で却って人望を得る物語となっている。其処で重要なメッセージは法に逆らってでも理さえあればそれはヒューマニズムであり理性的判断であるという事だ。それはホ・ジュンが理を通し、賄賂を使って診療する順番を早くして貰う等の一切の誘惑に打ち勝っているという描写で示されている。
つまり理とは法より重いという主張が其処にある。事実法はそれ自体権力者や権威的な腐敗に拠って捻じ曲げられ、必ずしも正義的なものでない場合も多々あり得るからだ。
しかしそれでも我々は情と理が結び付けば、それはかなり説得力のある行為であると認識し得るも、アメリカ合衆国ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官の黒人18歳青年射殺事件での公判で警官が不起訴となった事でロンドンでも同じ様な人種差別的射殺事件があったので五千人の市民が不起訴処分を不当と訴えるデモ迄起こしているが、日本では其処迄するという事はない。それは日本では(勿論在日韓国人への差別等が有り、それなりに民族問題はあるものの)黒人が多く居住して白人から差別を受けるという様な歴史自体がなく(日本人は格段黒人を差別する意識が多く在る訳ではない)敢えて外国の事例に対して抗議をするモティヴェーションが無いと考えている人達の方が多い、という事を意味する。
しかしイギリスは確かにアメリカと使用言語も同じだし、歴史的にも血脈的な繋がりもあるし、事実黒人奴隷を輸入したりしてきた(リヴァプールがそうであり、ビートルズの曲で有名なペニー・レーンがその地だった)ので、ロンドンで抗議デモをする事には意味があるのだと思われる。
だが面白いのは、その様に自分達とは関係ない事にはいらん口を差し挟むまいという日本人の判断は、では理性的であるかと言うとそうとも言えず、それは只単にエゴイスティックにドメスティックであるだけであり、功利主義的な判断であるに過ぎないだろう。又その様に日本人の存在自体が欧米では観られるだろうという事も想像される。だがそれなら同じ様にロンドンでは行われるデモが北京やソウルでは行われない事も論うべきかも知れないが、当の欧米人が中国や韓国は又別の文化圏だと勝手に思っている可能性も在る。
情と理が結び付いたら確かに法のいい加減さをも克服する、超越すると仮に結論づけたとしても尚、情と理の接合のさせ方もだし、情自体の在り方、理自体の在り方がやはり民族間では差異もあるし、国民性も反映する。その点では日本人には日本人の情と理、韓国人には韓国人の情と理、アメリカ人やイギリス人には彼等なりの情と理というものがあるのだろう。
だがそういう風に言えば何となく納得してしまえるとしたなら、やはりユニヴァーサルな情と理というものも存在し得るという事になる。
それは前回示した地震や津波で赤ん坊を背負う母親は子供をまず守るべきであるが、それが出来て尚余力があるなら(津波が目前に迫ってきている様な場合以外では)隣人や見知らぬ通りすがりの他人でも危険を察知したら教えるとか互いに協力し合うべきであろう。そういった意味では倫理的には韓流ドラマ<ホ・ジュン>の描写の様に診療して貰う順番は賄賂や顔で何とかすべきでなく、あくまで来た順に並んで待つものだという公的なマナーが理性論的には正しく、それを逸脱する事は如何に私的には我が子を優先させたいという情があっても許されるべきではない、という意味では理と法がもし接合され得るなら、それが常に順当な判断だという事になるだろう。
その点では国民性とか民族性というものとは別個に成立し得る正義論が在り得るだろう。宗教的伝統の差異はどの民族や国家にも在り得るが、そういった極基本的な事ではどの宗教でも同じ事を言っている筈である。
日本人がロンドン市民がイギリスでも起きた似た事件の被害者である青年の両親も立ち上がり、アメリカ人の被害者の青年の両親と協力し合う等の事は自然な成り行きであるが、日本人にとってはそうではないと日本人が思っているという事が、文化差、歴史差というものを我々に実感させる。
でも日本人も又射殺されたのが黒人であり、白人は黒人程は射殺されないのではないかと問い、事実がそうであるとしたら、其処にある種の理不尽を発見し得るという意味では日本人なりに何となく情というもののユニヴァーサリティだってあり得るのではないか、と思考するだろう。それは欧米人が色々な可笑しい文化伝統的であっても日本にも隣の韓国にもマナー遵守とそれに伴う差別や生活レヴェルの格差があるなら、それは可笑しいとか理不尽だとか思うだろう様な意味では、確かにユニヴァーサルな倫理論は成立し得ると言える。
私的である事は常に許されない訳ではない。勿論自らの家族が危機的状況では全てにそれを優先すべきである。しかし職場に居て給料を貰っているなら、それは全うすべきであり、私的な事をその場では捨てるべきである。だからどうしても私的な事を優先すべき時は職を辞して、そちらを優先すべきである。そうでなければ社会全体へ迷惑をかけるし、社会に損失を与えるからだ(此処等辺は哲学者中島義道も多くの著書で展開させている)。
責任倫理とはそういう事である。
だが人種差別自体がイギリスやアメリカの様なタイプのものとしては存在しない歴史の国々で同じ様にミズーリ州ファーガソンで起きた事件に対して抗議デモをする事は確かにヒューマニズム以前的に法的以前的に、既に内政干渉という事になってしまうという判断が無意識に日本人にも働いているとしたら、それはそれで全く無根拠でもない。やはり成り行きを見守っていくしかない。しかし全くアメリカともイギリスとも日本は無関係ではない以上、そういう風に注目していき、それなりに自分なりの意見を各自持つ事は必要であろう、と言い切れるなら、それこそが倫理的なユニヴァーサリティであり、そのユニヴァーサリティが理であり、その理を我々がイギリス人やアメリカ人とは違う立場から情的に結びつけるとしたら、それは彼等とも意見交換し得るものの見方であろう。しかしそういう機会を持てるのなら、逆に英米人とは全く無縁の日本固有の問題に就いて彼等が意見する時は真摯に耳を傾ける必要だけはあろう。
それを見失ってしまえば現今の対中国や対韓国の日本外交の遅滞・停滞と同じ事態をそれ以外の国々(今挙げた例で言えば英米の国々)との間でも齎してしまうだろう、という事だ。

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