Sunday, November 17, 2013

シリーズ 愛と法 第六章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて②

 幸福とは何か最初からこれこれこういうことであると決められたことではなく、その都度何かを行うことで得られる喜びの中から自ら主体的に掴みとっていくことである、とはまず言い得ることである。そして幸福感自体も、一人の人間の中でも徐々に変化していく。自分自身が変われば幸福の在り方も変わる。
 しかし人と人との繋がりでは、どうも人は孤独であることを孤立していると捉えがちである。しかし愛自体もそこに大きな責任を伴えば孤独である筈である。寧ろ本質的には寂寥感や孤独感は積極的に幸福感と姻戚関係にある。共謀関係にあると言ってもよい。
 愛は何時か愛する他者と死別することを必ず意味する。幸福も必ず何時かそれが終わることをも意味する。
 又、幸福感という観念がなければ孤独も寂寥もあり得ない。孤独や寂寥とは人間が幸福を求めるからこそ、そこで生み出されている。他者からの無理解、幸福であると実感し辛さこそが孤独や寂寥を生み出している。従って幸福を殊更求めない生き方では孤独こそが普通である。孤独でないことなどそこではあり得ない。一人ぼっちでしかあり得ない生き方では一人ぼっちでは孤独だという想念へは向かわない。
 幸福であるとは往々にして他者と共謀して生活することで得られる一人ぼっちではないという観念に拠って多く裏打ちされがちであればこそ、そうでないことが孤独となってしまうのだ。寧ろその観念こそ打ち捨てて然るべきであろう。
 つまり孤独も寂寥も悪いことではないのだ。と言うより其処からしか幸福さえ実在し得ないと考えるべきである。
 愛がもし責任に拠って維持されるものであるなら、愛とは孤独である。それを維持しようとすること自体が孤独である。と言うより愛を持続させようと決意すること自体に孤独以外のものがそうそうあり得ない。
 だから幸福は孤独ではない、ということではない。そして幸福の価値や観念、或いは実在の仕方も全て定型も法則もあるのではない。法則化され得ないもののみを我々は幸福と呼びたがってきた。そしてかつて幸福だと思っていたことは自由と責任に於いて得ている自主的主体的なものではないと気づいた瞬間、幸福には値しないと実感されるし認識される。つまり幸福とはその幸福を得ようとする者の意志と努力と習慣的に行われること、行われるべきことの現実的変化やそれらへの認識の変化に拠って絶えず変化していくものなのだ。
 これは愛とそれを支える法も幸福の在り方への認識の変化と実在的な変化とに拠って大きくその在り方を変えていく、ということをも意味する。
 心の幸福は恐らく本質的には誰にとっても与えられるものでも、与えられる様に待っているものでもない。常に何かへ向かって挑み、その挑みに対して一切の贖罪の心理がないということが、幸福へ向けて歩んでいるか否かの里程標である。
 否そこ迄宗教的に捉えるべきでさえないかも知れない。要するに行動することの中で行動して良かったと後で思えるとか、行動しながら、それでいいと思えるということの中に幸福へと向けて歩む意志がある。愛と法もその歩みの中で絶えず定義を変更させていくべきものとして認識すべきではないだろうか?
 次回はその愛と法の変更可能性に就いて、幸福への歩みと問いかけから実際的な例に沿って考えていこう。(つづき)

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