Friday, February 6, 2015
シリーズ 愛と法 第十八章 哲学的愛は感性から会得出来る①
哲学者が言う種とは民族的なことであるけれど、ダーウィンの『種の起原』等から種とは一般的に人間ということ、ホモ・サピエンスだと受け取る感性の方が我々には強い。霊長類の種からそう考える訳だ。哲学者はそれを類と呼ぶ。
でも哲学的と言うとどうしても難解であると感じ取ってしまう感性は哲学者の仕事の責任でもあるが、実は人類愛とは即ち哲学的愛のことなのだ。だがそれは哲学が左脳的な理屈で全てを理解しようとするタイプのマナーであることから堅苦しく感じてしまうが、私はこの部分は右脳的な感性で理解する部分があってもいいと思うし、その方がより伝わると考えている。感性から理解しようとする部分では哲学者よりずっと科学者の方が優れているし、それを哲学者がそれは倫理的に正当な手続きではないと批判するなら、そう批判する哲学者の方が自分達だけのマナーに拘っている。其処で今回はもっと日常的に実際的なことから感性的に哲学的愛を理解して貰おうと思って、哲学史的な解釈と違った角度から考えてみよう。
我々は音楽を愛する。だが音楽にも色々あって、例えばクラシックの欧米の基礎である楽理に基づいた交響曲とか協奏曲とか所謂オーケストラで演奏される様なタイプの音楽以外にも大衆的な音楽、民俗的音楽は沢山世界に存在する。でも此処でもクラシックファンはクラシックは楽譜も世界共通だしユニヴァーサルだと言いたい部分もあるけれど、実際我々は日本語とか、地元であるなら方言がよく分かる者同士なら阿吽の呼吸で理解出来る民謡等を愛するという気持ちは誰しも持っているだろうが、それは郷土愛的な感性であり、違う地方の違う方言を話す人達にとってはやはり我が郷里の歌が優先されるという感性は確かに誰しもあるけれど、同時に異郷に旅して自分の故郷の様に其処を感じたり、其処で歌われてきた民謡、長唄とか地唄とかに感銘を受けたりするということも珍しくない。そればかりか世界中のどんな行った事のない国の行った事のない地方の民謡にでも感銘を受けたりする。何も自分の住むおらが村のおらが歌だけが素晴らしいという訳ではないし、それだけを誇りにする訳でもない。言葉が直ぐに理解出来なくても、いい歌であれば、感情の様なものは伝わり、外国語の歌でもいいと思えるし、感動もする。要するに演奏はユニヴァーサルであり、言葉が通じなくても理解出来るけれど、歌はそうではないということはない、歌でもいい歌かそうでないかくらいは直ぐにその歌われている外国語を理解出来ない我々でも感じ取れる。
つまりそういう部分で我々は哲学的愛というものを考えたっていいのではないか、と私は考えているのだ。哲学的という言葉がそれに相応しくないのなら人類愛と言い換えてもいい。つまりそういう部分で我々は同じ霊長類の仲間である他民族をも理解出来るということである。
歌は直接空間に響き渡る言葉の、詩の、歌詞の伴った音楽であるが、音楽という以前に歌である。それは楽器演奏、器楽自体の持つ道具への愛とは少し違った(勿論クラシックの声楽では声というより、人間の発する喉と口を使った音を音楽の要素、楽器の音と同質に扱うという意味で、一般的に民俗音楽的な民謡とは歌い方が違うので、それを一先ず違うと捉えておいて)ものである、つまりそれは歌い人の歌そのものの精神の披露、言ってみれば詩的な歌という芸、パフォーマンスである。楽器演奏にも我々は楽器自体がよく歌っていると捉えることもあるが、それは要するに楽器の演奏自体が歌の様な詩情や哀愁があると捉えることであるが、歌にはそういう作曲家の書いた楽譜という完成された思想図式を実現するということではない、歌う人の感情や感性を込めているメロディとリズムのついた朗読という要素がある。それは朗唱であり、詩精神、詩内容の解釈的な披露なのである。
アーティストは集団的熱狂として合唱したり合奏したりすることはないから、一人で自室に籠って制作するので、アートのモードが広まるのは個人対他者全員という図式である(間接的伝染)が、音楽の場合には演奏は少なくとも集団的熱狂に拠って横の伝染、横の遺伝が行われる。歌手や声楽家は一人で通常歌う作業なので、アーティストと似たタイプの伝染、遺伝の仕方を横に持つと言えるが、音楽の空気的伝染とは集団的熱狂が根幹には横たわっている(直接的伝染)。それはそもそも音楽自体が発祥的に集団の作業としてのものであるからである。しかしだからこそ歌は一人で歌われる時、その主役を他の全員がバックコーラスであれ演奏であれ支えるという集団的なカリスマ願望の実現となる。
そしてその歌い手の歌とコーラスとか演奏との一体感の中で我々はたとえ語彙を理解出来なくても、どんな感じの感情を歌い切ろうとしているかということを瞬時に感性的には理解する。哀しい感情なのか、切ない感情なのか、空しい感情なのか、喜ばしい感情なのか、良かったほっとしているという感情なのか、他者や集団や組織を称える感情なのかを瞬時に理解することが出来る。要するにそういった言葉の一つ一つの意味への理解無しにも成立する感性的な、感情把握的な理解こそが人類愛的なものではないだろうか?或いはそういう他民族の集団的熱狂とか、共感作用、共同注意自体を理解し得る、その行為の連鎖全体をいいものであるとか感動的であるとかを理解し得ることこそ、人類愛、つまり哲学的愛と言っていいと思うのである。
そして我々は外国の歌を聴いて、その時に凄くいいと思ったから歌詞を翻訳して理解してみようと思ったりする訳である。そういう気持ちになるということ、なれるということはその侭、人類にとって共通する愛や悲しさや嬉しさ、怒り等を相互に理解し合えると信じているということを意味するし、まさにそういう風に思える時、ユニヴァーサルな感性とユニヴァーサルなヒューマニズムと正義や公平等の理念的な事とが一体化していると感じられるのではないだろうか?
だから愛と言うとかなり堅苦しく形式的な語彙だと思う部分も我々にはあるし、法となれば尚更である。しかし法は先程述べた様に各地方に異なった習俗や風習があり、そのこと、つまり日常習慣と密接な民謡があるけれど、それはそういう一つの各地方に拠って異った独自の法であるけれど、異郷でも異郷の民謡からある固有の懐かしさを感じ取ることは我々には出来る。それはデ・ジャ・ヴュかも知れないし、他の何かかも知れないが、懐かしさとかほのぼのとした気持ちになれるとか、要するにそういう心を鷲掴みにされる感動というものが限定的な地方とか、その当事者にしか理解されたり良いと感銘を与えたりするのではなく、異郷者、外国人にも理解出来て、素晴らしかったり、郷愁とか懐かしさを与えたりすることが出来るということの内にユニヴァーサルな人類愛的理解を我々は相互にし合っているのであり(事実私はドナウ川にもシシリー島にも行ったことがないけれど、スメタナの『我が祖国から~モルダウ』を聴く時も、フォーレの『シシリアーノ』を聴く時もある固有の懐かしさを感じ取ることが出来るのだ)、それを哲学的愛、人類相互に理解し合えるヒューマニズムの様なものだ、と考えていいのではないだろうか?
それは時として主義主張、イデオロギー等さえ超え得る暖かいパワーを秘めていると言える気がするのである。そして古い民謡、伝統的所作や歌い方に則ったものでも、現代のポップスでも、そういう伝統であれ今のモードであれ、それを知識的に知っている訳ではない人に対しても、素晴らしいとかぐっと心を締め付けられるという良質の感動を与えることが出来るし、その感動を理解出来るという部分こそ、我々はユニヴァーサルな全人類に備わった感性、哲学的愛、或いは人類的愛と呼んでいいのではないだろうか?
Monday, January 19, 2015
シリーズ 愛と法 第十七章 種と愛の在り方⑤ 情と愛はどう違うか?Part3 愛と想像力
何度か私は国家民族毎に固有の宗教伝統的文化と密接な社会倫理感から派生するドメスティックな感性に就いて考えた。それはある意味ではユニヴァーサルな哲学的認識から言えば退屈なことである。しかしそれはやはり愛と法やその関係を語る上で欠かせない。まずどの民族にとっても愛とは心のゆとりと寛ぎと癒しに於いて成立する、という点から考えても当然ドメスティシティ自体が極めて愛の成立条件として必要なのである。ブータン人がアメリカ合衆国カリフォルニア州のビヴァリーヒルズに豪邸を建てて住む事を理想とか夢だと思うとは思えない。又其処に住むアメリカのセレブリティ達が香港の集合住宅に住んでみたいと思うとも思えない。つまり誰しもが自国の文化と習慣と伝統的な生活習慣に則った生活を理想としているし、そういった条件を自己の生活に満たす事と、愛を成就することとは不可分である。
しかし現代社会は同時に常に世界全体の動向と無縁に運営されている国家も民族も居ない。ウェブサイト自体は既に世界を共時的な認識で世界市民性へと全人類を誘っている。昨今で言えばフランスで今月起こったシャルリ・エブド襲撃テロ事件以降の一連のテロ事件に対する全世界の余波は具に世界中に情報が報道として配信される。それを全く意識の外にして生活する生活者は世界には居ない。少なくともブロードバンドが整備されている都市空間やエリアを持つ国ならそうである(当然過疎エリアはあり得るし、しかしその過疎地を持つ国家全体がそうである訳ではない)。
すると我々はドメスティックな愛の成就の慰安を個人的に必須のものとして認識しつつも、ユニヴァーサルな愛の在り方をも考えざるを得ない。それは法というものが国家の歴史・文化等と関わりなく成立していないのとは別個に愛自体は人類的視野で語られ得ると言える。
其処で我々は異民族や外国人にとっての愛をその国にもし自分が生まれていたのなら、という形で想像することが出来る。そしてそうすることで相手の立場を考慮してそれなりに他者、他民族の愛をも考えることが出来る。つまりその想像力こそが愛である、と言える。想像力とは自分には実感としては理解出来ない他者や他民族のことを自分の立場に置き換えて考えることであるが、他者の心自体がそういった意味では他民族等全般に共通する愛の普遍への想念の基礎にある。他者の心それ自体は決して読み取れる訳ではない。それは想像というより類推し得るのみである。
他者の心の様に自分の帰属する文化伝統と無縁の国家や民族の愛を考えることは想像力という一つの他者論に於ける理念上での思考であり、それこそがヒューマニズムである。テロの犠牲となった人達の生前の行動とはどんなものだったのだろうか、と9.11の時にも他国の世界市民は考えていただろう。その点で今年に入ってフランスで起きたことも同じである。
表現の自由自体は無限に認められるものだとも私には思えないが、と言ってジャーナリズムの表現の自由が侵害されていいものではない。只イスラム教文化圏の国家が例えば今回の犠牲者であるフランス自体を批判し、揶揄するマンガをジャーナリズムで公表しても世界的規模では影響力を持たないということをイスラム教過激派は熟知していて、それが故に敢えてテロへ及ぶことで世界へ不満を発信しようという意図であったのではないか、とだけは想像される。
自国民以外の市民同士の愛を考える時は想像力だけが縁である。だがそういう風にもし自分がアメリカ人であるなら、シリア人であるならと想像することこそがヒューマニズムなのであり、それは意外と限りなく多くの市民が世界でもそう容易くし得ないことである。殆どが自国民同士のことしか考えられない。にも関わらずリアルとしてはウェブサイトが世界を繋いでいて、頻繁に情報だけは送信されてくる。そのギャップででは世界に於いて自国や他国の生活市民のことを考えるということが、愛が理念である、それは寛ぎとか癒しという個人の感性にとっては極めて不可欠の要素で満たされた実際の愛とはもう一つ別のレヴェルの人類愛ということになるであろう。
只その想像力が適切であるな否かで観念的であるだけで実態とかけ離れた論議になるのではない、つまり実質的な普遍的人類にとっての愛という想念が齎されるであろう。それはきっと哲学的愛というものでもあるのではないだろうか?
次回は哲学的愛というものをもう少し踏み込んで考えていってみよう。(つづき)
Thursday, November 27, 2014
シリーズ 愛と法 第十六章 種と愛の在り方④ 情と愛はどう違うか?Part2 理と法(1)
韓流ドラマでは情を重んじると言った。それは宮廷がより両班の利権と権威を重んじる余り平民以下(奴婢も含めて)への差別意識が強かったが為に、それにも関わらず心医(ドラマ<ホ・ジュン>)は宮廷の御医(王族の為のかかりつけの医師)をテーマとしたものであり、しかし医師とはそういう権威や権力の為の道具であってはならず、あくまで人民の為に誠心誠意尽せという主張となっている)が金銭を取らずに一般平民や奴婢迄診療したという事で一度は徹底的に宮廷の体罰を受ける設定となっている。しかしホ・ジュンは一切金銭を取らずに診療したので、地位や名声を求めての行動ではなかったという事で体罰に耐えた事で却って人望を得る物語となっている。其処で重要なメッセージは法に逆らってでも理さえあればそれはヒューマニズムであり理性的判断であるという事だ。それはホ・ジュンが理を通し、賄賂を使って診療する順番を早くして貰う等の一切の誘惑に打ち勝っているという描写で示されている。
つまり理とは法より重いという主張が其処にある。事実法はそれ自体権力者や権威的な腐敗に拠って捻じ曲げられ、必ずしも正義的なものでない場合も多々あり得るからだ。
しかしそれでも我々は情と理が結び付けば、それはかなり説得力のある行為であると認識し得るも、アメリカ合衆国ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官の黒人18歳青年射殺事件での公判で警官が不起訴となった事でロンドンでも同じ様な人種差別的射殺事件があったので五千人の市民が不起訴処分を不当と訴えるデモ迄起こしているが、日本では其処迄するという事はない。それは日本では(勿論在日韓国人への差別等が有り、それなりに民族問題はあるものの)黒人が多く居住して白人から差別を受けるという様な歴史自体がなく(日本人は格段黒人を差別する意識が多く在る訳ではない)敢えて外国の事例に対して抗議をするモティヴェーションが無いと考えている人達の方が多い、という事を意味する。
しかしイギリスは確かにアメリカと使用言語も同じだし、歴史的にも血脈的な繋がりもあるし、事実黒人奴隷を輸入したりしてきた(リヴァプールがそうであり、ビートルズの曲で有名なペニー・レーンがその地だった)ので、ロンドンで抗議デモをする事には意味があるのだと思われる。
だが面白いのは、その様に自分達とは関係ない事にはいらん口を差し挟むまいという日本人の判断は、では理性的であるかと言うとそうとも言えず、それは只単にエゴイスティックにドメスティックであるだけであり、功利主義的な判断であるに過ぎないだろう。又その様に日本人の存在自体が欧米では観られるだろうという事も想像される。だがそれなら同じ様にロンドンでは行われるデモが北京やソウルでは行われない事も論うべきかも知れないが、当の欧米人が中国や韓国は又別の文化圏だと勝手に思っている可能性も在る。
情と理が結び付いたら確かに法のいい加減さをも克服する、超越すると仮に結論づけたとしても尚、情と理の接合のさせ方もだし、情自体の在り方、理自体の在り方がやはり民族間では差異もあるし、国民性も反映する。その点では日本人には日本人の情と理、韓国人には韓国人の情と理、アメリカ人やイギリス人には彼等なりの情と理というものがあるのだろう。
だがそういう風に言えば何となく納得してしまえるとしたなら、やはりユニヴァーサルな情と理というものも存在し得るという事になる。
それは前回示した地震や津波で赤ん坊を背負う母親は子供をまず守るべきであるが、それが出来て尚余力があるなら(津波が目前に迫ってきている様な場合以外では)隣人や見知らぬ通りすがりの他人でも危険を察知したら教えるとか互いに協力し合うべきであろう。そういった意味では倫理的には韓流ドラマ<ホ・ジュン>の描写の様に診療して貰う順番は賄賂や顔で何とかすべきでなく、あくまで来た順に並んで待つものだという公的なマナーが理性論的には正しく、それを逸脱する事は如何に私的には我が子を優先させたいという情があっても許されるべきではない、という意味では理と法がもし接合され得るなら、それが常に順当な判断だという事になるだろう。
その点では国民性とか民族性というものとは別個に成立し得る正義論が在り得るだろう。宗教的伝統の差異はどの民族や国家にも在り得るが、そういった極基本的な事ではどの宗教でも同じ事を言っている筈である。
日本人がロンドン市民がイギリスでも起きた似た事件の被害者である青年の両親も立ち上がり、アメリカ人の被害者の青年の両親と協力し合う等の事は自然な成り行きであるが、日本人にとってはそうではないと日本人が思っているという事が、文化差、歴史差というものを我々に実感させる。
でも日本人も又射殺されたのが黒人であり、白人は黒人程は射殺されないのではないかと問い、事実がそうであるとしたら、其処にある種の理不尽を発見し得るという意味では日本人なりに何となく情というもののユニヴァーサリティだってあり得るのではないか、と思考するだろう。それは欧米人が色々な可笑しい文化伝統的であっても日本にも隣の韓国にもマナー遵守とそれに伴う差別や生活レヴェルの格差があるなら、それは可笑しいとか理不尽だとか思うだろう様な意味では、確かにユニヴァーサルな倫理論は成立し得ると言える。
私的である事は常に許されない訳ではない。勿論自らの家族が危機的状況では全てにそれを優先すべきである。しかし職場に居て給料を貰っているなら、それは全うすべきであり、私的な事をその場では捨てるべきである。だからどうしても私的な事を優先すべき時は職を辞して、そちらを優先すべきである。そうでなければ社会全体へ迷惑をかけるし、社会に損失を与えるからだ(此処等辺は哲学者中島義道も多くの著書で展開させている)。
責任倫理とはそういう事である。
だが人種差別自体がイギリスやアメリカの様なタイプのものとしては存在しない歴史の国々で同じ様にミズーリ州ファーガソンで起きた事件に対して抗議デモをする事は確かにヒューマニズム以前的に法的以前的に、既に内政干渉という事になってしまうという判断が無意識に日本人にも働いているとしたら、それはそれで全く無根拠でもない。やはり成り行きを見守っていくしかない。しかし全くアメリカともイギリスとも日本は無関係ではない以上、そういう風に注目していき、それなりに自分なりの意見を各自持つ事は必要であろう、と言い切れるなら、それこそが倫理的なユニヴァーサリティであり、そのユニヴァーサリティが理であり、その理を我々がイギリス人やアメリカ人とは違う立場から情的に結びつけるとしたら、それは彼等とも意見交換し得るものの見方であろう。しかしそういう機会を持てるのなら、逆に英米人とは全く無縁の日本固有の問題に就いて彼等が意見する時は真摯に耳を傾ける必要だけはあろう。
それを見失ってしまえば現今の対中国や対韓国の日本外交の遅滞・停滞と同じ事態をそれ以外の国々(今挙げた例で言えば英米の国々)との間でも齎してしまうだろう、という事だ。
シリーズ 愛と法 第十五章 種と愛の在り方③ 情と愛はどう違うか?Part1
韓国哲学研究者の小倉紀蔵に拠れば韓国人は法より情を重んじる、という事だが、それは韓流ドラマを観れば主人公の行動が必ず情で法に背き、其処で制裁を受け、しかし観ている鑑賞者は皆情を捨てられない生き方を是とする様に作られている事からも、彼等韓国人の深層心理には法にだけ縛られる事を潔しとしない世界観が大きく支配している事だけは分かる(その顕著な例は今放映中で佳境にある『ホ・ジュン』であろう。其処では心医という語彙が使われている)。
しかし人は確かに人事(ひとごと)であれば、責任やその履行を最優先に主張し、それを果たさぬ者を揶揄するけれど、それが自分に課せられた責務であるなら、その履行が如何に大変かを悟り、同じ立場に立たされた他者へ同情も禁じ得ない。そういう意味では当事者にしか分からない相互の情というものは存在し得る。
そしてそれでも尚責任を履行しない事へは自ら戒めを抱くだろうし、同じ様に戒めを持ち自己を律する他者のみを情で観よう。しかし仮に責任を履行し得ない他者に対して情で見ないで責任倫理だけで判断しても、相手にもそれなりの事情もあったのかも知れない、という意味では人間はかなり自らの主観で許せる相手とそうでない相手を恣意的に選別しているという事も分かる。
所詮人へ厳しいのも、情で接するのも主観であり恣意的なその都度の判断でしかないと知れる。其処でそれなら、寧ろ相手の立場を自分で理解し得る・し得ないで判断するのでなく、全て一緒くたで判断して、法を守る者は如何なる他者でも等し並に正しく、そうでない者も等し並に正しくないとして接する以外にない、という判断が一番正当であると思えてくるのだし、それは確かに理性論的に正しい。
情は法より重要であるとは確かに責任倫理的には言えないし、それは端的に謝りである。しかしにも関わらず時と場合に拠っては法だけが全てであるとは言い切れず、一切の情を注がない事の方が悪であると判断せざるを得ない事もある。
民族とか国家もその一つであり、同胞という意識自体も全く常にそれだけを最重要命題にする事も現代グローバル社会、世界的視野からは正しくはない。にも関わらず誰しも特定の国家に属し、民族を有している以上、同胞同士協力し合わないでいるだけなら、非難されて然るべきだという判断も、それはそれで正しい。
結局相手が外国人だから何があっても知らん振りという事も許されないが、同胞だからと言って一切手加減もしないという事は客観的に正義や法の前では正しくても、人は確かに法にのみ従順で、法順守だけしていれば、後はどうでもいいという事もない、という視点からは決定的に言い得るし、正しい。
相手が外国人であれ民族的な同胞であれ、妻であったり夫であったり、要するに家族としてパートナーであるなら、やはり身内同士で助け合うべきだし、そういう時に公的客観的基準を持ち出すのはやはり可笑しい。と言って一切私的な関係でだけ助け合い、それ以外何も他人とは協力し合わないという生活態度や姿勢では社会的態度として適切であるとはやはり言えない。
結局どういう場合に私的な事を優先し、どういう場合にはそうであってもいけないのか、という事に帰着する。それは結局国民の義務を果たしているのかとか、社会成員としての義務を物理的精神的に果たしているのかという判定から、それをしているなら、それ以外の事では私的な事、身内、親族も含めた血縁的関係、要するに家族を優先してもいいという事になる。とりわけ親子関係に於いてそうである。
だがその親子とか血縁関係でも同僚とか同業者とか、要するに他人であっても、何処迄私的な事を優先すべきか、何処迄公的な事を優先すべきか、という事も実際民族毎にそのケース判定は微妙に異なるだろう。集団や組織を優先すべき場面が民族や各国民に拠って異なる、という事は大いにあり得る。それは社会行動とか社会判断でどういう風にするべきかが民族や国民毎に大幅に異なるという事がある以上当然である。そして其処では大いに民族史、国家史、要するに宗教的不文律から、日々の生活感情と不可分な文化的感性が其処に大きく立ちはだかっている以上、文化差、民俗学的差異は決定的にリアルには大きい、と言える。それを前回、前々回に私はそれなりに整理して考えてみたのである。
だが民族や国家帰属性を離れても判断し得る部分も当然あり得る。しかし豚肉をイスラム教徒に強制する事も出来なければ牛肉をヒンドゥー教徒に強制する事も出来ない。或いは日本の様に法的に拳銃等の銃器を所持する事を許さない国の市民にアメリカの全米ライフル協会の理念を理解せよと強制する事も同じ様に出来はしない。
だからそうなると結局ユニヴァーサルに相互に理解し合える範囲とはかなり狭まってしまうとも言えるだろう。しかしだからと言ってユニヴァーサルな愛と法の倫理が狭く矮小化された観念しか生み出さないともやはり言えない。
それは考えていく必要がある。そして今回韓流ドラマで情が法より観念的民族思考的な正義論では優先されるという事を例証したが、では情は韓国人の特権なのだろうか?やはりそれも違うと言える。
ドラマで頻繁に描かれるか否かより、そういう内容のドラマでも凄くいいものであるなら、どの国民でも理解し合える(例えば『おしん』は日本ドラマだが、かなり広範囲に世界中で親しまれ理解された)とも言える。
其処で危機的状況(地震や津波等)に陥った時他人も家族も助ける事が出来ない場合には、やはり家族を優先してもいいのではないかという想念も沸き起こる。しかしそれを優先しても尚、他人とも協力し合うべきだし、同一の運命で共有し合わねばならぬ状況では家族同士だけで結束していればいいのではなく、やはり他人とも協働すべきだし、情報交換し合うべきだという点ではユニヴァーサルに一致する見解が持てる様に思える。少なくとも赤ん坊を抱いた母親が津波を目前にした時赤ん坊をまず助ける事を優先する様な場合以外では、極力他人も同じ臨場に居合わせたなら相互に助け合うべきであろう。
この点では許されるべき私的な咄嗟の行動と、そうでなく咄嗟でないなら極力他人とも協力し合い、助け合うべきだ、とは言えるだろう。
次回は今回最後に述べた私的であっても許され得る状況とそうではない状況をもう少し踏み込んで考えてみよう。
Sunday, November 2, 2014
シリーズ 愛と法 第十四章 種と愛の在り方②
聖書では「はじめにロゴスありき」と記されている。キリスト教は多分の言語唯一理性ツール主義と言える。事実アメリカ人の母親は世界でも最も赤ん坊をハグしないと言われる。赤ん坊へスキンシップで愛情を示すのは東南アジアやオセアニア等では多いかも知れないが、欧米で同じ様にそうであるとは言えない。この事一つ取っても欧米社会が言語理性的正義を命題化させている事が分かる。
アメリカ軍が終戦後日本に駐留していた時代ミステリアススマイルと日本人の笑みを称したのは有名である。それから約七十年が経った。しかし確かに表面的には日本は欧米型の社会に移行したかの如き様相である(マスメディアや資本主義自体はそうである)けれど、赤ん坊へのあやし方等では異なっているだろうか?それはあくまで地方部の事で都市部ではそうとも言えないと言えるだろうか?
実際には赤ん坊をハグする風習自体もかつて程ではないかも知れない。しかし身体感覚的には日本人はやはり決定的に欧米人とは違う。
神道のお清め、お祓い等は死を穢れとして捉える思想が根源にある。それは道教でも同じであると前回述べた。その発想自体が日本民族の感性が言葉正義論ではない事を示している。空気を読む等の感性は言葉化され得ないものの方を重視する感性と言える。日本人はロゴス主義的ではないが故に弁解とは見苦しいものと社会的通念としてはされる。
つまり日本人はこれだけビジネス優先的社会へ移行しても尚、言葉的ではないもの、つまりロゴス的な言語自体の普遍性とは別個の感性を重視する民族だと言える。
他方キリスト教ではあくまで人間主体の正義論が展開される。キリスト教徒は自分を進化論的な生物種、動物と同祖を持つ生命体とは捉えない。それは生物学者だけである。
キリスト教は人間が特別である。人間中心主義自体が神をも支える。従ってもし仮に此処で全ての生物も使命を全うする事を目指し、そのユニヴァーサルな価値としては対等だと言ってなら、 その者は進化論者ではあるけれど、人倫主義者ではないと見做される。これは宗教だけでなく哲学の徒も同様である。思想哲学宗教は全面的に人間中心主義である。その点ではルネッサンスの文藝復興運動自体も同様である。そして自然科学はその礎の上に成立する。
又キリスト教は一方では愛を隣人や敵へも注ぐが、イエスとその弟子達とは別格扱いとなっている。要するに聖書とはイエスとその弟子を家族愛的に結び付けられたものとして別扱いにしているのだ。この点では日本にキリスト教を移植した明治期の新島襄とその同志社大学の熊本バンドを中心とする人達にも受け継がれている発想である。
異教徒infidel、misbelieverとは異教徒でしかない。従ってユダヤ教の選民思想はキリスト教では階級制的家族主義へ移行している。
しかし仏教では修行に拠る悟りのレヴェルに於いて当然階級は成立する。解脱も涅槃も一つの悟りの境地であり、それは体得者同士にしか分からない事である。その点では仏教も又当然の如く階級制的である。
と言うより宗教とは必然的に階級制的にならざるを得ない部分がある。表向きの平等主義とは相反して宗教活動実践者同士では厳然とそうである。
その意味では他民族、異民族、異教徒を差別しない純粋にグローバルな宗教等世界に一つもない。しかしその事実は裏を返せば、その閉じた仲間内でのドメスティシティ自体はある程度どの宗教にもある訳だから、その点でのみユニヴァーサルである。
愛は確かに一方では宗教的な慣習性とは別個の理性論に拠って習俗文化を超越する。しかし私自身は日本人であり、死ねば土に還るという発想も色濃く持っている。これは日本での仏教風土的感性と言ってよい。恐らく欧米人にはないものである。日本人には逆に弁証法にせよ論理思考にせよ、所謂欧米人的な哲学論理思考自体が文化的にはない。
従って愛の在り方とか愛を論じる仕方も欧米人と日本人一般とでユニヴァーサルに理解し合えるとは限らない。
宗教的死生観が異なれば当然社会倫理的な色々な意味での通念や不文律も異なってくる。当然その不文律自体の考察や分析はユニヴァーサルに行えるだろう。しかしそれはあくまで学者や研究者間の中でのみである。つまり愛はそれ自体ハグし合う習慣がある欧米とそうでない日本(欧米では赤ん坊をハグする事は少なくても、大人同士は逆にハグし合うし、その点では五輪等に出場する海外経験の豊富なアスリート達以外は日本では今でも他人とハグし合う習慣はない)とでは当然セックスの感性も異なってくる。性愛自体が文化習俗的な感性に彩られていると言える。
それでも国際結婚もあり得るし、ビジネス上ではあらゆる異なった文化圏と交流しなければいけない現代人は常にドメスティシティとユニヴァーサリティというダブルスタンダードを理性論的に携えていかなければならない。
国際政治では愛はマララ・ユスフザイさんの様な人倫的演説でしか把握出来ない。しかしユスフザイさんが女性へ教育を訴えても、尚イスラム教の文化習俗自体は消滅しない。アメリカでも南アでも黒人は白人とは異なった文化ルーツも持っている。ヒスパニックも又白人とも黒人とも異なった文化背景がある。そういった異民族同士が共存し合うという事実は、我々に愛の普遍性を考えずに済ます事を許さない。だから逆に愛を文化習俗的異性から法それ自体が民族毎に多様であると捉える処から論議を進めていくしかないとも言える。
此処で一つの結論に達した。愛の普遍性を論じるには、法の個別性と個がどう向き合うべきかという事に尽きる、という事である。
次回からは法の個別性が愛の普遍性へ抵触し得るか、もしそうだとしたら、どう考えたらよいか、を考えていこう。
Monday, October 27, 2014
シリーズ 愛と法 第十三章 種と愛の在り方
重要な事とは、私達は普遍という事を念頭に生きていく訳ではないという事だ。普遍とは私達一個一個の個にとって具体的であらゆる固有の条件を背負って生きていく上で人生の途上の何時か何等かの瞬間に悟る様なもので(と言ってそれは何かそういう価値あるものとして見出さなければいけない様なものでなく)、悟る事に拠って生きていく上での自信とか安心を得るだけの事であり、例えば私なら日本のある場所に生まれ其処に何年か居て別の場所へ引っ越しという様な極めて具体的な私自身が幼い頃には私自身の力ではどうにもならない外部からの強制に拠って、その限定的条件の下で成長していかざるを得ず、その固有の条件自体へ好き嫌いとか不平不満等言い様もないものである。
つまりそういう風に誰しもが付与された(付与する者が神であれカミであれ仏であれ何であれ)固有の条件下で我々は生きていくとは何かを自分なりに見出していく他あり得ず、普遍が最初から与えられている訳ではないという事だ。
日本では前世、来世を論う仏教は奈良時代に定着していった訳だが、遣唐使等の施策以前的に国家規模の統一を図るものは神道だった訳だが、神道は現世的宗教であり、死者を穢れとして捉える。従って天皇等の古墳(墳墓)は須らく生者の近寄っていくべき場所でなく、死の穢れを鎮める意味合いがあり、神社でお祓い等の祈祷をするのも、当然の事ながら死への穢れを祓う意図のものである。死者の鎮魂や供養は仏教が担ってきた。それでも日本では神仏混淆であったが、明治政府に拠り神仏が分離される運びとなって現在へ至っている。
対し台湾では明治政府的な神仏分離的意図が政府に拠って為された事がなかった為に江戸期以前の日本同様、神仏は今も混淆的である。しかも中国では毛沢東の文化大革命に拠り仏教寺社等を破壊して無宗教的国家へ再生されたので、今ではそれ以前の中国の宗教伝統的文化の名残は却って台湾か香港に残存するという訳だ。
中国大陸では長江(揚子江)を境にそれより北では仏教が、それより南では道教が一般的に文化的に強く、道教では神仙思想と老荘思想とで役割分担され、前者では大極という中心(渦巻き的システム。此処等辺は極めてワトソンとクリックの二重螺旋を彷彿させる)を持つ陰陽五行等(日本では安倍晴明に拠る陰陽師として継承されてきている。神戸に唯一道教の寺がある)の風水等の方位学的知見等を生んできた訳だが、日本の神社でも大きな建物を神宮と称し、それ以外を神社としている様に台湾では、大きなものを宮、小さな一般的な神社的役割のものは廟と称している。
仏教はそれ以外でも台湾でも存在し、その点では明治政府神仏分離以前的な日本と今の台湾は酷似している。
宗教伝統的格式とか風習とかは好き嫌いを問わずどの国でもどの地域でも誰しもが幼い頃から自然と身に付けており、それは個人の選択以前の問題である。個人の自由意志とか選択とかは、あくまでそういった強制的などの自己にも課せられる運命的な条件(生まれてくる時に男女とかトランスとかの条件がある様に)を付与され、誰しもがそれを背負う形で成長していく過程で理性とか道義とか正義とか倫理とかを学ぶ内に自ら掴み取っていくものとして後発的に意識されるものであり、その理性的な判断とは、あくまで誰しもが逃れられない個に背負わされた、付与された固有の条件というものの上で成立するものなのだ。
田辺元はその事に就いて師の西田幾多郎からの教えや訓示以外でも懊悩し、『種の原理』を著したが、それが戦争を正当化する軍部に利用され、その事実への贖罪心理から戦後直ぐに『懺悔道の哲学』を著した。だが彼の内部での信念は理論的な意味で種という発想自体を否定するものではなく、あくまでそれへ軍部利用されていったプロセスに内在する自分自身のどうする事も出来なかった運命へ必死に懺悔に拠って抵抗を試みたと言う事が出来る。
田辺が大きく後年啓発されたハイデガーは既に田辺的な観念には若い頃に到達していた。田辺はそれを発見する事で、ハイデガーと自分とを比較検討したりして、最終的にはハイデガー批判をも兼ね備えた理論と論理へ到達した。
ハイデガーは『存在と時間』で既に今日の分析哲学が現象性として考える個の他者との間のどうしようもない孤絶性を死というものの主体にとっての逃れられなさと、他者から介入される事の無い事を、唯主体的な責任付与的運命の下に描出していた。
その後の著作である『現象学の根本問題』ではその主体の運命を実在論として存在論として、本質存在(エッセンティア)と事実存在(エクシステンティア)という風に二分させ概念設定する事でその主体の運命的な条件と生きるという事の真理を見出そうとした。ハイデガーは愛という様な語彙は使用しない。哲学として存在論としてそういう判断を哲学では保留するという事が一つの哲学者固有の自己判断であり倫理である。科学者も今度は倫理それ自体を論じないという倫理がある。それは科学者の領分ではないという自覚に拠ってである。
つまりそれこそが主体のどうしようもなく背負わされた運命であり、固有の個としての条件であり、普遍は或いはその逃れられなさに於いてのみ誰しもに拠って実感され得るものかも知れない。愛もそうである。それはキリスト教の様にそれ自体としてダイレクトにイエスやヨハネに拠って言及される場合でも、哲学の様にそれ自体として論われる事を保留される場合でも、誰しもが固有の条件からは逃れられないという運命的な個の他者からの隔絶、孤絶その事を言うのかも知れない。
つまり主体の運命、命運的な固有条件、絶対的に一回性的な出来事や背負わされたものの孤絶性、隔絶的孤独の持つ本質的には他者に委ねる事の絶対不可能性に於いて、真理とか普遍というものが考えられるなら、愛も又公的な道徳として如何に説得力を持って説かれても尚、最終的には主体の自己判断、自己決裁に拠って履行していかざるを得ない一つの他者への手の差出、与えるという事の行為実践である。自分の心の中のどういう状態を他者へ何かを差し出す、与えるという事を意味するかは、終ぞ誰から教わるものでも、教えて貰い納得するものでもない。
それは率直に自己で何かを為して精神的に充足しているか否かの自己判断にのみ委ねられている。他者の愛が自己の愛と相同であるかとか、自己の愛が他者への差出とか与えに値するかを他者に判断して貰う様なものではあり得ない。つまりその判断の主体へ全面的に委託されたという意味こそ、愛の本質である。愛の本質は従って法それ自体の目の行き届くものではない。何故なら法は目の行き届く範囲に常に留まるからだ。しかし如何に他者から感謝されようが、如何に法的にその行為は愛に値すると迄判断されようが、その事と自己内の精神の充足とか悔いが無いのかそうでないのかとは別個の事である。
キリスト教で説く愛が他者への与えであるとしたら、それは他者が自己に拠って与えたものをどうするか、どう受け取るか自体が他者へ委ねられ、その部分での決裁に関し与えた者もどうする事も出来ない、それを踏み越える事の互いでの出来なさこそ一つの主張であり、キリスト教的悟りと言える。キリスト教は一般社会的な法を説いているのではない。しかしキリスト教的愛の法があるとしても尚(それを一つの愛の与えとして受け取ったとしても尚)、それはその与えに対する受け取りに関して、何人たりとも越権する事が出来ない、それは神でもである(その事は永井均が『私、今そして神』で述べていた事である)という一種のどうしようもない我々全体への突っ放し以外ではない。
このある種の主体という事、現象的な私という事の内でしか個の精神的充足感を認める事の出来なさの神さえもの踏み越えられなさに対して現代哲学は提言しているのだし、宗教伝統文化慣習もその事を恐らく太古より習熟していた筈であり、民主主義とか社会倫理とか言っても、それは外在的法でしかなく、内在的な法以前的な主体の自己判断性は誰しもが誰からも踏み越えられ得ず、踏み越え得ず、その突っ放しそれ自体の中でしか全ての愛への論議は為され得ず、それを認める処からだけ、この様に論述している言語自体も運用され得るのだという事以外ではない。(つづき)
Wednesday, October 15, 2014
シリーズ 愛と法 第十二章 宗教のアヘン性と聖書/科学の時代の逆行不可能性
重要な事は、愛が意外と制度、我々が誠実だと思ったり、正義だと思ったりといった外的強制と無縁には成立していない、何故なら我々が社会で生活しているからだと納得しても尚、それだけでないもっと絶対的純粋な信念はあり得るだろうかと問う誠実性が哲学者的立場の人達だけのものであり得るかと問えば、そうでないし、哲学者とは只単にそういうロールとして社会で(好かれているとかそうでないとかとは関わりなく)認定されているに過ぎず、哲学的思念、思索は誰しもが持てる筈だし、それを「哲学」としてでなく人生上での対自的訓戒として生きていく場合、愛が慣例的慣習的な儀礼性としてだけでなく、もっと自己信念とダイレクトに絆を持ち得るある種の信仰にもなり得るものと捉えれば、そう捉える仕方も決して特権的な思索ではないと分かる事である。
そもそもキリスト教の場合は愛の在り方そのものを社会儀礼性や慣例性、慣習性から切り離して、それ自体の価値を問う試みとしての宗教でもあった。キリスト教自体(イエスもヨハネも含めて)、従ってパリサイ人、律法学者達にとって危険思想そのものであった。イエスやヨハネの行っていた事は、パリサイ人や律法学者達が考えている様な職業とか社会、つまり閉じたコミュニティで承認されている地位としての行為ではない愛の在り方を説く、哲学者風に言えば誠実性の問いだったからである。
しかし実際実利的な方向に宗教文化とは裏腹に人類は歩んできた。社会機能維持インフラの全ては科学的知に支えられて進化してきたと言える。交通機関がそうであるし、貨幣経済の合理主義的経済秩序がそうであるし、教育をはじめとする全ての社会文化インフラがそうである。寧ろ愛の誠実性的在り方を説く宗教とは、そういったインフラ整備へと人類が邁進する事になる基盤としてはどの国家民族でも必要であったものの、それが確定的に文化様相として不動点、つまりふらふらとどっちつかずでいるより、何処かに定める(例えば此処は祈る神聖な場所であるとか、此処は糞尿を排泄する不浄の場所であるとかの)地点に到達すれば、既にそれは儀礼化されてしまい、後は具体的なインフラ整備へと人類の視点は移行していった。つまり科学がそういうインフラ整備の為の方便を得て具体的に始動してしまえば、既に儀礼的なああでもないこうでもないという試行錯誤は停止され、具体的行動へと意識のアスペクトが移行するのだ。
従ってそうなってしまった後に、否キリスト教の教えの誠実性は可笑しい、本当はこうであるべきだと言っても、それは全て危険思想と見做される。それは日本の様に仏教的思想文化の移植、儒教文化の移植を執り行って来た民族でも神道的な清めや不浄さへの忌避等の想念は変わらず規定し続けるのと同じだ。
現代社会で生活する我々は宗教が世界を引率するには、余りにも科学の恩恵を得過ぎた。科学への日常的な安穏な肯定こそが我々の宗教儀礼性さえ文化として認識する自然な信仰だと言ってさえいい。
科学への信仰の正当性への疑いなさこそが宗教戦争に明け暮れた中世以降は、試行錯誤の時代ではないと警鐘を鳴らす信仰であり続け、それが少なくとも世界大戦の時代以降は定番となってきている。宗教で人類史を打開させる事を少なくともキリスト教文化圏と日中韓、北・東南アジアでは(イスラム教文化圏以外では)忌避されている。其処では民主主義が一応体裁上では北朝鮮、中国を除き宗教で駆動させる国家機能、社会機能ではない(そう考える点では北も中国もそうである)事を証明する為の方便となっている。
キリスト教のユニヴァーサリティと我々が勝手に受け取っている事は、そういった国家社会集団の不文律的な慣例性慣習性から解放されて尚価値を容認されるものとして愛の在り方を個人の選択として受け取ろうという事が、勿論其処には民族伝統的思考回路もあるのだが、主題としては唱えられていたという認識なのだ。従ってマルクスが宗教とはアヘンであると言った時、それは暗にキリスト教さえ懐疑的俎板に載せてよいのだとしているが、それはそういう思考が発生し得る地点にやはりキリスト教の唱える個人の選択(儀礼的規約外的な個人主義宗教説諭)を前提していた、と言える。聖書は旧約の段階では通史観的ユダヤ民族選択物語であり、その歴史的事実の持つ人間実像への解釈が主題であるが、新約聖書ではそれを通した愛の在り方の理性論的規定、つまり定言命法示唆としての問答が中心なのだ。
その意味では今日我々が社会正義として受け取っている民主主義、自由平等友愛とは全てキリスト教新約聖書中心主義的、つまり聖書問答の弁証法を基本としたものである。其処に疑いを持つ事は基督教的には異教者という事となるのだ。従ってもしキリスト教さえも一つの選択肢でしかないと受け取ればゾロアスター教、マニ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、道教、儒教、神道といった全ては対等となる。すると当然イスラム国の思想そのものも、イスラム教から派生した一つの思想ともなってしまい、それ自体完全存在否定は出来なくなる。それをも哲学的誠実性やキリスト教の個人選択、愛の在り方への問いは思考する自由は与える。
勿論イスラム国的仕方は決して正しいとは言えない。そう我々は直観する。だがそう言い切る為の根拠は自由でも愛でも、それ自体を誠実に個人に問えという形での問題提起に尽きる。自由や愛の在り方自体を問う事の自由迄我々は規定してしまっているのだ。問う事の自由をアナーキーに保証し得るとしたら、しかし何でも思想としては在りとなってしまう(哲学では何でも在りなのだが)。それは可笑しいとしか思えない。しかしそれが可笑しいと言い切る根拠を問わずして何になろう、と自由が規定(?)する自由に自由や愛をさえ考える事を保証する理性がそう囁く。しかし本当にそうなのだろうか?そういうある種の経済や国家に関して思想実践したマルクス主義的な思考実験の愛版、自由版が今も尚有効だろうか?それは当然科学こそ正義であるという観念に対してさえ差し向けられ得るだろう。
次回はその問いに対して、まずキリスト教以外の宗教の死生観から考えていってみよう。
Thursday, October 9, 2014
シリーズ 愛と法 第十一章 定言命法は誠実性を超える(前回の補足的意味合いから)
ニーチェが言った誠実性とは、自分が思っているのに思って等いないと言い切ってしまういい子ぶり批判でもあった。それはイエスが息子二人に何かを頼んだ時快諾する息子を誹り、一度は断った息子を肯定する時にも適用されていたし、イエスは<リア王>のコーディリアスの様な誠実さを認めたのだった。
しかしそれは前回の結論としてはイスラム国に参加する事だって自分で正しいと思えば正しいのだという決心へも繋がるし、それを否定出来ない。誠実性とはそういう危険性も実際にはある。
にも関わらず我々はイスラム国に参加する事は良くない事である、とは哲学書や思想書に書きはしないだろう。何故なら今の所そういう活動に身を投じる事は危険分子として見做されるが、やがてそうでなくなる時期も来るからそう書いてはいけないのではない。
どんな時代や状況が到来しようとそういう風には書けないのだ。つまりそれこそが文章化する事での誠実性と言えよう。
つまり生まれてきた国が日本だったから、それは如何様な理由があろうと処罰され得るから避けておこうと皆思う様な場合、それをいけないという風に書けないのだし、もし自分の身内にイスラム国の参加者が居て、しかもそれが民族的にもイスラム教徒であった様な場合、それをいけないとも言い切れない。イスラム国自体に問題があろうと、それを生み出したイスラム教圏自体にはそういったテロ集団を生み出す土壌自体が存在したという事だけは間違いない。
前回の重要な議題でもあった<与える>とはつまりそういう事である。与える事の本質とは受け取る側(者)の主体と自発を促し、責任を相手へ委ねる事、つまり相手の意志(自由意志)と主体を信用する事が基本としてある、という事だ。それは愛の基本である。
だからその愛の仕方、方法、つまり法はそれ自体その都度それを考える主体に拠っても変わり得る。イスラム国をいけないとか否定する論理自体は(そういう風に判断する自分が日本人だから)というそれ以上の是非を論じる暇は誰にもない。だが自分自身の国際正義や社会正義や人倫的正義としてはそうでない、だから敢えてその活動に身を投じるという意志自体は否定出来ないが、そうしなければいけないという何か外部からの圧が無意識に発動されているなら、それは考え直した方がいいとしか言い様がない。それらその都度の判断こそ法である。
従ってカントの言った定言命法とは、ニーチェの言った誠実性より上位にある。何故なら誠実性とはあくまである選択肢を取る時、その選択肢が正しいと自分自身で思うからと根拠づけるだけだからだ。だが人は理性自体さえ常に正しいと言い切れないとカントを通しても知っている。つまり正しいと思えないから正しくないとか、正しいと思うから正しいのなら、自分自身が健全な判断を下せない時に、その下せなさ自体に誠実であるなら、それはそれが正しいと思っているのだから(健全な判断を下せる様になったら、それは正しくなかったのだ、と後で振り返りそう思えてしまう様な事であっても)正しくないとは思えない、それが本性だからだ。
だからこそ誠実性とは自分自身の刹那的な誠実も含むが故に、且つ定言命法の様に一歩引き下がって、デカルトの様に自分自身のものだと思っている様な当たり前の事さえ、自分自身の判断ではないかも知れない、と疑う様なコギトを巡る真理さえ見据えているが故に、誠実性とは刹那的な自分自身への正直さという意味で、定言命法には劣ると言える。
誠実性は定言命法へ適用されて初めて意味があるのであり、定言命法なき誠実性は、イスラム国は正しいと思えば正しいという判断も正当化してしまう。
イスラム教圏自体には恐らく問題がある。それは日本社会にも韓国社会にも問題があるのと同じ様にである。しかしそれだからと言ってイスラム国の仕方は正しいと言い切れば、当然連合赤軍もオウム真理教も正しいという事になってしまう。
しかしイスラム国内部で生まれ育った者はそういう事さえ聞かされる事なく生き方を決めなければいけないだろう、しかし少なくとも哲学の言っている誠実性とは、その事迄語られてはいない、否聖書にさえも。
そして定言命法はイスラム国内部で生まれ育った未来の青年の様な立場でも、日本人として生まれた未来の青年の様な立場でも、それぞれ自分自身にとってその都度一番正しいと信じられる事を、理性的に格率に従って考えて判断せよ、という定言命法だけは等し並に(与えられる)だろう。
何故なら与えるとはあくまで真理だけを述べ、その真理にどう従うかは責任として(与えられる)者に委ねられているからである。
Wednesday, October 8, 2014
シリーズ 愛と法 第十章 根源悪(根本悪)とキリスト教
聖書で<貧しい人は幸いである>と言う時、得ようとだけする人を悪の入り口に立ち、偽る人もそうであり、逆にそうでなく偽らず、真っ正直な気持ちで居る人(つまり与え様とする人)は神と対話し得るとそう考えている。ピーター・ミルワード神父は日本在住者で日本語に翻訳された多くの著作もあるし、原文でも本を出している。其処(<イエスとその弟子>講談社新書、別宮貞徳訳)から読み解いてみよう。
二人の息子の父からの頼みに対する返答で<イエス>と返答した息子が前者で<ノー>と返答した息子が後者としている。シェークスピアの<リア王>の娘コーディリアこそ前者であり、ゴネリルは言葉巧みにリアを惑わしその実裏切るので後者である。シェークスピアは聖書を踏まえて書いているとも取れる。
<貧しい人は幸いである>は甘言を弄す事もなければ、得ようと貪る事もなく、従って実直であればこそ甘言に拠って得る事は少ないかも知れないが、明らかにその実直さで他者に与え得るものがある。つまり聖書は基本的に得ようと思い欺瞞的で偽善的な取り繕いを弄す事なく、自己利益から言えば失わせてしまう誤解も恐れず、勇気を持って自らの悪を噛み締めて生きていくという事に外ならない。
しかし我々は真っ正直に嘘偽りなく与えようとする者に現代社会で直面すると臆してしまう。怖くなってきてしまう。つまり其処に我々の生来の功利主義が控えている。カントが根源悪(或は根本悪)と呼んだものとは、功利主義的な安泰だけを願う勇気の無さが素直な他者の行為をさえ悪辣な甘言と受け取ってしまう事、それは結局自らが悪辣で功利主義であるが故に他者全体に対してその本当に素直な心もあるのだ、という事(勿論そうでない真に偽善的欺瞞的な事もある訳だが、それ等の違いを見抜けず)から、一律に他者全般へ不必要に懐疑的になり、甘言的取り繕いの応酬だけに依存して、それが心地良くなっていってしまう惰性的行状を言っているのだ。
愛なんて信用しないという事、つまり惰性的打算的繋がりに安心を得てしまう事、それは勇気を持たず真理を見つめる事なく、曇った悪こそ救われる的な(それは親鸞に拠ると<歎異抄>では真理なのだが)悪しき開き直りで社会機能維持に貢献し得ていると錯覚する事を言っているのだ。
愛は信用出来なくなればなる程観念性を帯びる。何故なら愛を信用しなくなった者とは素直な他者の好意を受け取れなくなるからだ。
大人的な態度という観念程曖昧なものはない。儀礼的に失礼のない様にだけ振る舞い、一切の他者への感謝の念もなければ、協力もし合わないという選択肢が一番気楽でいいと考え生活出来るくらいに日本もそうだし、一定程度の先進諸国は社会秩序的には安定している(勿論時折凄く凄惨で残酷な犯罪も起きるが、それはかなり件数的には稀であればこそ大きく報道される。又自然災害的な悲惨さとは現代社会にだけ特徴的な事ではない。勿論地球温暖化に拠る悲惨な状況、或いは地殻変動的な地震や火山の噴火等もあるが、それさえ固有の現代の自然的傾向はあるものの、古来同じ様に勃発してきた事でもある)。
愛が儀礼的な取り繕いへの安穏とした安心だけとなってしまった時、それはたとえセックスをしても、抱きしめ合っても或いは心は虚ろであり、素直な他者への信用、信頼、憩いはない。それは義務感であり善意であり、形式的秩序だけを維持したいエゴイズムである。これはハイデガーの言う頽落の中でも最低であるにも関わらず、経済生活的な安定からは意外とそういう悪しき現実主義だけが形として残って、その安定性の上で真理探求への向上心を失っていく。
聖書の思弁性とは旧約聖書の<神の選択と葡萄畑>でも書かれている事で(旅に出た葡萄畑の主人は収穫をしたいが、農夫達がその収穫の報告者である召使を酷い目に合わせ、主人が息子を今度は派遣すると彼を農夫は殺してしまい、自分達で支配してしまう時)イエスは貴方達ならどうすると問うと、他の農夫に葡萄畑を与え、その悪辣な農夫達を罰すべきだと返答する者へ、神の国は貴方達から取り上げられ、もっとそれを与えられるに相応しい別の良い実りを結ぶだろう人達へ与えられると諭すのだ。
此処には通り一遍の返答をする者への激しい侮蔑が込められていて、旅に出た主人を批判する論理が展開する。つまり此処でイエスの言っている事はマルクス主義的な観念とも共通するメッセージが発せられている。しかし重要なのは、イエスの返答とは、安易に即断をするイエスとの問答者への批判となっているという事だ。
此処にイエスの聖書全体のメッセージでもある思弁的理性とでも呼ぶべき対話術と思弁性が漲っている。イエスの言葉は語り過ぎず、後はそれを聴く者(聖書を読む者)が自分で考えよとある部分では突っ放している。つまり与えているのだ。
かつてのフランス映画の様な不条理な終わり方をする際に後は鑑賞者達が各々自分の心で考えて欲しいというメソッドに近い。
イエスの言葉は確かに淡々としていて、自己責任の無い者が読めば突っ放して冷たい様にさえ思える。だがそれは自分の心に問い詰めて考えよと与えていると考えれば、愛の法なるものは存在し得るのなら、それはきっと生温い世辞や美辞麗句、或いは社交辞令的な取り繕いとは全く別種のもので、突っ放しているかも知れないが、自分自身の頭と心で考えよ、と与えてくれていると読む者、聖書の説教を聴く者は考えざるを得ない。それはある意味では法自体が重要なのではなく(法自体が重要だとする形式主義こそハイデガーの頽落であり、イエスがパリサイ人・律法学者を通して批判している処の事である)、愛を自分の頭と心でその法則を考えよと言っているという意味では哲学者、中島義道が著している<悪への自由―カント倫理学の深層文法>で言っている処のカントの定言命法とは即ち形式的に設定されている法なのでなく、その都度自分の頭と心とで考えよ、というカントなりの与えである事と極めて隣接している。
その点では新約聖書でのイエスの言葉とカント(の定言命法と根源悪<根本悪>)とハイデガー(の頽落)とは一直線で結び付く要素を秘めている。
それは法とはその都度自ら最も正しいと考え得る処の信念を持って設定せよ、という事以外でない。
しかしそれではイスラム国が真に正しいと思うなら、其処に参加せよ、してもそれは罪悪ではない、という解釈も成立させてしまうだろうか?実はそうである。そしてそう解釈させてしまえる剰余を残して書かれている処に宗教書も哲学書もある種の危険性がある。そして、それはしかしウィトゲンシュタインが<論理哲学論考>で述べている様に、この書の読者は此処迄読んできて、その際に使った梯子を上り切った後で捨てよ、と命じる、つまり哲学(彼の書いたテクストの事を指して)なんかに頼るな、と言い放っている事と同じなのであるが、その同じ事、やはり此処に書かれてある事を信じても、その都度イエスの言っている事、カント、ハイデガーの言っている事は、全てではないと思って読み切る事、或いは読み進む事こそ正論である、とイエスもカントもハイデガーも言っていると受け取る事も(つまりイスラム国へ参加する事さえ自由なのであるなら)全く可能な様にそれ等のテクストが我々に与えられている、とも言えるのだ。
つまりキリスト教で言う処の得ようとだけ思うな、与えよとは、それ自体罪な事、悪への唆しさえも含有した与える者も与えられる者も命を賭けた行為に外ならない、という一つの(やはり物静かに語り過ぎないイエスの口調の様な)語り、或いは囁きなのである。(つづき)
Saturday, June 21, 2014
シリーズ 愛と法 第九章 愛とエゴイズム続編Ⅱ
愛は甘えへと転化しやすい。その典型的例が映画『それでも夜は明ける 12years a slave』で描かれていた。
アメリカ南部の奴隷制時代には北部で自由黒人として生活している人達とは無縁に依然奴隷としてしか黒人を扱わないという不文律があって、それが結局後日南北戦争の誘因となるのだが、ニューヨークで生活していた自由黒人の男性を南部に拉致して奴隷として働かせる様に仕向け、奴隷商人から報酬を貰う為に誘拐する事件等もきっと当時かなり多く在ったのだろう。それをこの映画は題材にしている。しかしこの映画で重要なのは、主人公が再度自由を取り戻す事にあるのではなく、奴隷としての生活を余儀なくされていた時期の主人公へ生きる希望を見出させる奴隷女性の存在である。
彼女は堅い格式に縛られて育った奴隷主の白人男性の妻が夫へ提供する癒しを夫である男性自身が感じられず、精神的にも奴隷のその女性へ依存している事が映画的にも重要なテーマだった。当然異性への眼差しを持つ自らの夫の不貞相手という意味でもこの黒人奴隷女性は奴隷主の男性の妻からも虐待を受ける。思い余った黒人女性から主人公の元自由黒人として一般市民生活を営んで来ていたが拉致されて奴隷の身に甘んじている男性は自分を殺してくれと依頼される。勿論主人公は断るが、彼女がやっと自由黒人としての証明書を持って北部から現れた白人の知人に連れられニューヨークに戻るその瞬間、生きる希望の光であった奴隷同僚である主人公が去っていく前に熱く抱擁をするが、片や自由を獲得して綿花畑から去っていく男性と対照的に残された女性は映像の左隅に小さく頽れる姿が映し出されていた。彼女の未来は再度絶望の淵に立たされ続けるだろう。その意味でこの映画の結末とは、自由への日々は未だ遠いという暗示ともなっているのである。
奴隷主の白人男性は肉体的にだけ黒人奴隷女性へ依存しているのではなく、明らかに白人に課せられていた当時の南部のノブレスオブリッジに対して逃避的気分に拠り自らが管理する奴隷へと精神的に依存していく様が描かれていた事がこの映画の本質だと思われた。
精神的甘えとはこの様な特殊な歴史的経緯を持つアメリカ南部だけでなく、現代でも存在するだろう。つまり自らは愛と信じて疑わない多くの夫婦や親子の間でも精神的甘えが何等かの現実での葛藤や矛盾や障害からの逃避という形を取って顕在化している、という例は観られるかも知れない。
LGBTという概念規定自体がそうである。
そもそもレズやゲイでしかあり得ない様な精神状態とかジェンダー的な自覚で生まれて来た人達(彼等彼女等はそれはそれで色々と精神的にはきつい面も現代社会にもあるだろうが)だけでなく、人生経験の途上で異性との出会いで躓く人達は大勢居て、彼等彼女等も又後発的な経験依存的な精神的な失望、つまり異性と共存する事自体の失望を味わう形で後天的にレズやゲイになっていく事は考えられる。又それだけでなくそもそも人間はヘッセの『デミアン』やエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』でも描かれていた様な意味で同性の気になる存在は思春期以降死ぬ迄誰にとっても大きな精神的な関心事である。そして生涯憧れてしまうタイプの同性とは存在する。只その事実をどれくらい深刻に受け取るか、それとも受け流せるかに拠って同性愛へ行くか、其処迄行かずに踏みとどまるかが決定されているに過ぎない。
と言う意味では、バイセクシュアルとは異常性愛的なメンタルな状態ではない。寧ろ全人類的に持つ精神的傾向でもある。
トランスセクシュアルは古い言葉で言えば(ふたなり)等とも言って、両性具有的な生殖器保持者は(私は生殖生理学者ではないので、どれくらいのパーセンテージで出現するか迄は知らないが)一定程度どの時代でも存在する。彼等の持つ精神的問題とバイセクシュアルの持つ精神的問題は大分異なっている。
にも関わらずLGBTという形で全てを一緒くたにしてしまう処にある種の現代社会での臭いものには蓋をせよ、という暗黙の発令を私は感じ取ってしまう。
今から振り返ってみても、マーティン・ルーサー・キング牧師やマルコムXを登場させたアメリカ合衆国史に於いて、精神分析対象とされるべきは当時の白人達でもとりわけ精神的に黒人奴隷女性へ依存していた男性達である。そして確かにオバマ大統領の登場に拠ってアメリカは黒人奴隷制の時代の社会矛盾を解消したかに見えるが、内実的には精神的な依存とか甘えの様な収拾不能なメンタルなメカニズムを解明する迄に至っているとは言えない、という事は、巨大資本の金融企業体やウェブサイトビジネス等の世界の成功者達と、失業者達との二層構造へと分岐していく社会様相で、成功者自身が中間層(激烈に減少しつつあり、貧困層へ転化されている)以下の人達へ精神的に依存しているのかも知れない、という自由資本主義文明国の持つ必然的な精神的矛盾があり、それが益々資本主義マネーゲームプレイへと国家や社会全体を駆り立てている様に思われる現況では確かな事である様に思われるのだ。
だが本ブログの存在理由は社会構造とか世界経済矛盾自体を摘発する事にあるのではない。あくまで問題とされるのは、人間心理の中にある迷いや矛盾への割り切れなさがどう社会倫理や社会進化過程に参与しているのか、という部分である。
成功者とは一度社会的信用とか信頼とか他者からの尊敬心を得てしまうと、それを如何に長く持続し得るかだけが至上命題となっていく。その過程で彼等に必要となるのは、積極的に非成功者、経済力的な意味での敗者達なのである。そして彼等が何時迄も自分達の様にならずに、下層的な市民層の中で狭い範囲で旋回していてくれる事が理想となる。つまり彼等から尊敬され一目置かれる為には、自分達以上の成功者を彼等の中から出さないという事以外ではない。そういう風には絶対に示す事はないが、内心でそれ以外に自分達の外部から得るカリスマ性を維持し得る道はない。この部分では黒人奴隷制自体が撤廃されても、ビジネス成功者や経済的パワー保持者達に拠るハヴノットへの精神的深層的依存とは明らかに世界全体を支配している。
そういう暗黙の了解においてこそ世界経済とか世界の治安の安定(それは実際には今はシリア、イラク等で実現されないという事を証明し、恐らく今後も何時迄もシリアやイラクが安定化すれば別の諸国が不安定な状態へと突き落とされるというもぐら叩き促進的な状況は変わらないだろう)を辛うじて必要である、と世界市民が同意している(その証拠にアメリカが厭戦気分となり、各地で多発するテロリズムを抑制しようと軍事的に動かぬ限り益々世界で内戦が頻発する状況は明白化している)。
そしてそういうストイックな常に暫定的な内戦防止維持でやっと世界的安定を得られるのだと知っている現代人は、益々同性愛的精神的依存傾向を強めていくだろう。つまり最終的にレズとかゲイではないという事が実際に性行為へは赴かないという最後の一線を死守するだけで、結婚して子供が居ても、独身でも相手が結婚していようがいまいが、精神的には益々友情の延長戦である同性同士の信頼が、相互甘え実現態としての慰安を深層的には積極的に望むという傾向は強まっていくだろう。そもそも全てのチームプレイで臨む集団のスポーツ〈サッカーでも野球でもバスケットボールでも〉での同性のプレイヤー同士の信頼関係の中にもそういった同性愛的傾向は読み取れるし、銀行やメーカー等のチームプレイでも共演する役者同士でもそういったメンタルな甘えや依存は読み取れる。
そもそもライヴァル心とか敵対者という発想の中にもバイセクシュアル的、ゲイ、レズ的側面はあるのだ。だからこそそれでも尚現代でLGBTを命題化せざるを得ないという問題意識の停滞的リアルこそが、我々の内実的なバイセクシュアル的なメンタリティが誰しもに内在しているリアルを本格的に分析する事を旧態依然的なモラルが阻止しているという事実を逆照射しているものとも思われる。
次回は精神的甘え、今回述べた共依存関係(成功者は下層市民層へ、下層市民層は成功者をカリスマ的に偶像化する事で成立している)が言語的にどういう影響を我々の生活で与えているかを考察してみよう。
付記 何をLGBTとするかという判断自体に、管理者側のエゴイムと、自分達は正常であると思いたい、そして彼等と括る事に拠って精神病理学的にも生殖生理学的にもアブノーマルな人達を設ける事で、自らは安心を得たいという事、つまり共依存、無意識の甘えが立ち現れている、と言う事も出来る。
Thursday, May 1, 2014
シリーズ 愛と法 第八章 愛とエゴイズム続編
前回取り組んだ愛と性の問題も、実は愛とエゴイズムの問題とも完全に重なる。其処でエゴイズムから歪な愛、しかしかなり日常的には起き易い疑似愛から愛を考えてみよう。その前の再度肉体的愛の形をおさらいしておこう。
夫婦や愛人同士の性交渉で相手と性の相性がいいと思っている事は、即ち自分自身の性的嗜好を相手が理解してくれているとある意味では幻想しているから、相手の身体とその反応に愛着を持つ事を通して、相互に相互の愉悦を幻想し、相手へ性交渉で得る身体的快楽を素直に相手へ伝える事から相互に性交渉が楽しいものとなるのだ。
相手が気持ちいい表情や反応を示す事が嬉しいと思える事を相互に伝え合えるからこそ身体的律動をより加速化しようとすることで、男女(或いはストレート以外でも)が相手へ気持ち良さを伝えようとするのだ。相手を気持ち良くさせることが出来ると実感して嬉しい表情を相手に伝える事を相互に確認し合えると、心底愛し合えたと実感し得るのである。
こちらが相手を通して自分自身を気持ち良くしたいと同時に、相手へもこちらを通させて気持ちよくして(させて)あげたいという事が同時に相手もそうである、と実感し得た時良い理想的性交渉だと言える。
しかしそう思い込んでいるだけで相手は我慢しているのかも知れない、とは全く言い切れないということはない。要するに自分自身が気持ちいいという事はある種の身勝手なのだ。勿論それが全く無い交渉は耐えがたい。しかしそれだけである、つまり相手への配慮なんて一切考慮していないのに、惰性的に身勝手に相互にいい相性であると思いこんでいる場合もあり得る。
それは性交渉に限らず同性同士の友人関係でも、師弟関係でも何でも当て嵌まる。相手を愛おしいと思える理由が師弟関係の場合では、相手が未だ自分を追い越していないと自覚していられる内は健全に維持し得ても、相手が凄く成長して師匠である自分の立場を脅かす様に感じられるのであれば、相手へ恐怖感情を持つ事もあり得る。それでも尚相手の成長が喜べるという事であるなら、その師匠の弟子への愛は本物だと言える。
しかしそうでないのなら、そしてそれは意外と我々の社会では多い事であるが、本物の愛ではないのに、相手の至らなさを愛しているという、所詮愛着を持てるのが、愛するペットというものが自分程頭が良い事が決してないからこそ可愛いのと同じで、出来損ないの自分の子供、出来の悪さにこそ愛着を感じ取っている様な事があり得るなら、本物の愛の様に誤解している、或いはそう思い込もうとしている疑似愛であろう。勿論知的障害を持つ子供を愛する事は可能だし、それも本物の愛であるが、そういう場合でもそうでなく健常的な子供への愛でも、相手が成長しきれない、成長をなかなかしない事自体に憩を見出しているのなら、それは疑似愛である。
其処に多くの身勝手さ、愛着の持てる事の選択に於けるエゴイズムが差し挟まってくる。
だから再び性交渉へ話を戻すと、まるでホストの様に相手へ献身するだけの相手への愛撫を続け、相手がこちらを楽しませてくれる工夫を一切しないでいる事でも耐えている様であり続けるなら、義理や義務感で自分を愛してくれているのだと女性は負担となっていくこともあるかも知れないだろうが、それでも尚お金を払ってホストに楽しませて貰っているのだから、オナニーをお金を払って相手を使ってしているのと同じである場合、それは疑似愛である。
又、DVをされているのに、しばしばあり得る相手から心底頼られているのだと思い込もうとして、自分へ危害を加える男性へDVされつつ献身しているのだ、と思い込もうとする相手へ、次第にDVをする男性の方も疑似愛を感じ取りシラケてきて、相手へより憎悪を募らせる事はあり得る。そうならないのなら、DVを続けている男性は自己理性が完全に麻痺しているに過ぎなかろう。
要するに耐える事、相手の非を我慢し続ける事も又固有の身勝手なエゴイズムでしかあり得ない。にも関わらず自己犠牲的愛で疑似倫理的充足感を得てしまっているナルシスとは、当然自分は相手へホストの様に献身しているのだ、と男性は思い込むし、相手からの暴力を受け止めてあげられる位に自分は相手へ寛容さで包み込んであげているのだ、と女性はヒロイズムに酔っているのだからなかなか始末が悪い。
愛とエゴイズムで最もよく見られるものの一つこそ、自分自身を自己犠牲的なヒロイズムのヒーローやヒロインへ仕立てあげる疑似愛である。そして意外とこれは、相手が自分自身より劣っているから憩を見出せ、こいつを可愛がってやろうと思える疑似愛と近接している、と言う事が出来る。
相手を使ってオナニーをする事だけ、つまり自分の身体部位の快楽を得る為だけに自分へ奉仕する自分を奴隷化する事や、相手からDVを受けているのに、それをじっと耐えて受け止めている自分を愛する事とは、相手に理性的に他者存在を受け止めるという心の余裕を与えないエゴイズムという意味で共通するからである。それは成長したいという子供や尊敬し合える友人関係や、師匠を乗り越えたいと欲する弟子の向上心を摘んで迄も、自分の優位を保っておきたいと願う身勝手と、この二つは極めて似ている。相手の理性的な他者へ接する感情、つまり相手を尊敬すればこそ乗り越えたいと欲する理性的向上心を阻害して迄自己の愛着心、つまり相手が自分より劣っているからこそ、相手を許せるという身勝手さとは、ホストの人格を無視して、オナニーマシーンとして人間を奴隷の様に使う女性や、DVという肉体的な破壊力を行使する男性の野蛮を発揮させる事を受け止めてあげる事で相手へ奉仕していると思い込みたいDVされる事を選び取る女性は(相手がシラケてきているのに、自分をもっとぶってと言うなら偏依存だし、相手も喜んで女性を甚振り、それでも尚愉悦の表情を崩さぬサディズムにあるのなら共依存関係にあると言っていい)相手の理性的成長や向上心を持たせぬ侭にしておきたい、というエゴイズムという意味では全く相同の心的メカニズムを保有している、と言える。
しかし先程の性交渉でも相互愉悦獲得目的性で語られ得る、相手を気持ち良くさせてあげたいけれど、そうしながら自分も相手から気持ちよくして貰いたいという欲求が同時的に発生し得るのだから、それは許され得る身勝手さであろう。そして愛とは、意外とこの相手への愛着、それは先程述べた様に相互に愛し合うばかりでなく、相手の欠点や弱点さえ愛すのであれば、当然相手が自分より劣っているからこそ安心出来る、慰安を持てる、寛げる、憩を見出せるという事だから、当然身勝手な愛着というものをも必ず含む、と言い得る。
つまり愛の公理があるとすれば、それはルール、つまり法的には相手へ奉仕する部分も必要だけれど、相手から奉仕して貰いたいという契約もあるが、同時に相手へ奉仕する事のヒロイズムに適度に酔う部分もあるから、それは献身という身勝手、つまり相手の主体性を無視する部分も当然ある、という事となるし、そういった身勝手さえ絶無であるなら、長期持続し得る愛とはならない、という意味では我々が何と言う事のない平凡だけれど、見慣れた自分の住むエリアのお気に入りの風景同様、配偶者でも愛人関係でも相手を愛し続けられる条件としては長期愛着が保てると自覚し得ているという事であり、その愛着とは適度の身勝手な相手への自分より劣っている部分への発見も手伝っているのだ、という事が言えるのではないか、という事が今回の一つの結論である、と言えよう。
しかし献身的愛の全てが身勝手なナルシスであり、ヒロイズムに酔う疑似愛を愛だと思い込みたいナルシスである、とも確かに言い切れない場合もある。次回はその事、つまり例外的な真実の献身的愛という事に就いて考えていってみよう。(つづき)
付記 DVされているのに、別れられぬ女性の男性のDVとの共依存関係は、ある意味ではそうまでしても別れぬ理由に、別れたら又一人ぼっちになる、という相手と出会った時から今迄の運命的出会いの崩壊への恐怖がある。それは次回伝えようと思うかつてアメリカ南部に奴隷制の存在した時代の奴隷主と奴隷との関係や、奴隷同士の関係でも言える事だ。そして当然献身的愛は奴隷同士でもあったと思われるが、その事も書こうと思う。
Saturday, February 15, 2014
シリーズ 愛と法 第七章 愛と性は一致するか?①
もし愛と性とが完全に常に調和を保ち一致している、その志向性も、その願望も、その理想も、要するに全てのそれらに付帯する価値に於いて完全に一体化し合致していたなら、恐らく世界中の全ての文学、思想、哲学は完全に覆されるであろう。
我々にとって身体と心と言う時、かなりの比重で性と愛とも言い換えられる。
第三章で既に述べてきたことと、前章で述べた幸福感ということは常に完全分離しているとも言い切れないが、完全一体化しているともやはり言い難い。言い切れないより少しこちらの方が強い。
エロスは自分自身で理性だと思っていることに常に従順ではない。寧ろ理性とはエロスに耽溺するか、或いはエロスに翻弄されることの内に仄浮かぶ「心とはこうであるべきである」という理念である。それが理念であるからには、全ての我々の性行動が完全に理性に拠って制御されているとは言い難いということをも意味する。恐らくそれは結婚をしていてもしていなくても同じである。
人間は自分自身の全行動を理性に拠って制御していると思っているのなら甚だしい幻想である。それは仮に法的に一切触れない様に日頃から行動していてもそうである。
対人感情の全ては理性に拠る統制下にあるわけではない。寧ろ全ての対人感情がかなり感情的気分、それは決して理性的に判断していると言えない性質の判断に拠ってなされている(心に持たれている、と言い換えてもいいが)と言える。人間は全行動を統制することが容易な心のロボットではない。寧ろ心とは行動や習慣や記憶や様々なものに拠ってその都度右往左往させられている。勿論全ての行動や習慣を統制しようと心がけることは出来る。しかしその統制それ自体が既に過去の記憶にかなりの度合いで支配を受けている。心のデータベースは常に現在知覚へと総動員される。しかし既に忘却してしまっていることもかなり多く、記憶違いもあれば、知覚自体も錯覚に塗れている。 エロスはリビドー的なことも含めれば常に揺れている。好きだと思っている相手へ一挙に幻滅することもあれば、理性的にこの相手は不適切だと思っている相手に対してさえ欲情する。勿論全てのエロス的情動も何等かの形でそれが喚起される根拠は詳細に分析すればあるのかも知れない。しかしその様に全記憶、全習慣を隅から隅迄探る心の余裕は我々にはない。今抱えている全問題に取り掛からねばならないからだ。かくしてエロス的な衝動は処理されて然るべき問題へと格下げされる。 しかしこの格下げは処理しさえすればいいという形で決定されるので、非理性的なことである。我々の身体は理性的ではない。非理性的であればこそ病気にも罹るし、努力を怠りたいとも思う。要するに理性は身体にとって身体と心との乖離を自覚する我々に拠って設定された処方であり、ほんの部分的な解決法である。身体的な苦悩、病苦やエロス的衝動の全てを身体は処方しなければいけないので、その身体の処方を手助けする為に理性が動員され病院へ行くとか、ベッドで横になって安静にしていようと我々は意志決定する。 しかし性衝動自体は意志決定とは違う。全人類史的な婚姻制度はこのことを人間が知っていたからこそ設定されてきている。しかしその性衝動の抑制方法や、性衝動自体を過剰に喚起させまいとすることに動員される理性はその具体的処方を提供しているわけではない。従って身体の病理的な判断、免疫その他のものを含む身体自体の判断こそが病気であり、そうなった時にそれを治癒させようと画策する時にも理性は動員されるし、倫理的な社会認識に於いて性衝動を抑制しようと画策する時にも理性は動員される。そしてこの事実こそ性衝動が理性とは別個に身体的に判断するということを意味する。 しかしエロス的衝動を喚起するものは意外と多くは文化であり習俗でもある。そしてどういう状態の観察、どういう事態の到来に拠ってそれが喚起されるのかを我々はなかなか客観的に知ることが難しい。それは恋という衝動にも示されている。 好きな相手、好きになってしまう相手とは理性的に判断されているわけではない。そして通常は異性への好感度は性的衝動と見做される。勿論同性に対しても憧れとか羨望の様なものは同性愛的傾向の全く希薄な者へも到来する。 愛は性愛をも含み込もうとする。しかし性衝動は愛という理性的判断、或いは理性的衝動と言ってもいいものに拠って統制されているわけではない。エロス的衝動は愛という理性へ謀反を起こすことも稀ではない。勿論愛する相手へエロス的衝動を抱くということはあり得る。そしてそれは社会的責任に於いて全うされているのなら、非難されない。にも関わらず非難されることを承知で犯す性衝動の行動化はエロスが喚起しているとすれば、エロスは背徳的な美学をも含有していることとなる。そのことを考慮に入れると、寧ろ愛と性の一致は理想である。それが理想であるからには、恐らく我々は愛と性とが甚だしく一致していない状況を日頃から多く経験している証拠である。 そしてエロスそれ自体が悪いことなのではない。何故ならエロスとは愛や性を巡る全ての感情的事態を並列化させて我々に認識させる文化であり習俗であるからだ。と言ってそれは何か国家や共同体や帰属組織や職業だけに拠って支配を受けているわけではなく、あくまで想像力の産物である。寧ろ性衝動を滞りなく実行させる為にストイシズムを一時的に除去する為に設けられている身体の側の処方でもある。 エロスは極めて社会文化的側面があるとすれば、それは官能小説やノンフィクションを読む際に喚起される性的好奇心等を育む磁場であると言えるが、それは身体的な生殖生理学的衝動でもある。その複合化されたものをエロスと我々は呼ぶと言えよう。しかし文化的側面も個々の性格遺伝子的傾向に拠ってより個人的な感受性、個人的な感性、個人的な想像力が成立する。想像力の父は好奇心である。そしてそれに拠って随伴する性衝動は愛とは別個のものである。と言うよりそれをも愛に拠って統制させ発動させないとすると、愛それ自体の意味修飾的なこと、つまり愛の定義への理性的判断に拠って性は完全にストイックに統制されてしまうからである。(つづき)
Sunday, November 17, 2013
シリーズ 愛と法 第六章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて②
幸福とは何か最初からこれこれこういうことであると決められたことではなく、その都度何かを行うことで得られる喜びの中から自ら主体的に掴みとっていくことである、とはまず言い得ることである。そして幸福感自体も、一人の人間の中でも徐々に変化していく。自分自身が変われば幸福の在り方も変わる。
しかし人と人との繋がりでは、どうも人は孤独であることを孤立していると捉えがちである。しかし愛自体もそこに大きな責任を伴えば孤独である筈である。寧ろ本質的には寂寥感や孤独感は積極的に幸福感と姻戚関係にある。共謀関係にあると言ってもよい。
愛は何時か愛する他者と死別することを必ず意味する。幸福も必ず何時かそれが終わることをも意味する。
又、幸福感という観念がなければ孤独も寂寥もあり得ない。孤独や寂寥とは人間が幸福を求めるからこそ、そこで生み出されている。他者からの無理解、幸福であると実感し辛さこそが孤独や寂寥を生み出している。従って幸福を殊更求めない生き方では孤独こそが普通である。孤独でないことなどそこではあり得ない。一人ぼっちでしかあり得ない生き方では一人ぼっちでは孤独だという想念へは向かわない。
幸福であるとは往々にして他者と共謀して生活することで得られる一人ぼっちではないという観念に拠って多く裏打ちされがちであればこそ、そうでないことが孤独となってしまうのだ。寧ろその観念こそ打ち捨てて然るべきであろう。
つまり孤独も寂寥も悪いことではないのだ。と言うより其処からしか幸福さえ実在し得ないと考えるべきである。
愛がもし責任に拠って維持されるものであるなら、愛とは孤独である。それを維持しようとすること自体が孤独である。と言うより愛を持続させようと決意すること自体に孤独以外のものがそうそうあり得ない。
だから幸福は孤独ではない、ということではない。そして幸福の価値や観念、或いは実在の仕方も全て定型も法則もあるのではない。法則化され得ないもののみを我々は幸福と呼びたがってきた。そしてかつて幸福だと思っていたことは自由と責任に於いて得ている自主的主体的なものではないと気づいた瞬間、幸福には値しないと実感されるし認識される。つまり幸福とはその幸福を得ようとする者の意志と努力と習慣的に行われること、行われるべきことの現実的変化やそれらへの認識の変化に拠って絶えず変化していくものなのだ。
これは愛とそれを支える法も幸福の在り方への認識の変化と実在的な変化とに拠って大きくその在り方を変えていく、ということをも意味する。
心の幸福は恐らく本質的には誰にとっても与えられるものでも、与えられる様に待っているものでもない。常に何かへ向かって挑み、その挑みに対して一切の贖罪の心理がないということが、幸福へ向けて歩んでいるか否かの里程標である。
否そこ迄宗教的に捉えるべきでさえないかも知れない。要するに行動することの中で行動して良かったと後で思えるとか、行動しながら、それでいいと思えるということの中に幸福へと向けて歩む意志がある。愛と法もその歩みの中で絶えず定義を変更させていくべきものとして認識すべきではないだろうか?
次回はその愛と法の変更可能性に就いて、幸福への歩みと問いかけから実際的な例に沿って考えていこう。(つづき)
Friday, November 15, 2013
シリーズ 愛と法 第五章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて①
我々が意外と多くの日常生活でのお仕着せ的観念を植えつけられているものとは幸福感であろう。
しかし今この幸福という観念をもう一度再考してみると、意外とよくその意味を多くの人達が考えていないということにも気づかされる。
つまり寧ろこの幸福感それ自体が多くの思考の可能性を塞いで来たとも言い得るのだ。そこで今回は愛と法を考える上で制限するモラル的力ともなっている(それはいい意味でも悪い意味でも)幸福感に就いて考えてみよう。
幸福感は愛情の注ぎ方から受け取り方、家族観とも一体化されて我々は幼少時から訓育されてきている。要するにある正業へ就き安定した収入と家庭を持ち、地域社会でも一定の安心を得て、自分自身も社会へ貢献するという形で定型的な価値規範として君臨している。
しかし現代社会ではかつての良識とかモラルに準じたそういう模範的生活を全ての人達が得られる訳ではないと多くの人達が知っている。要するにある定型へと嵌め込み巧みに社会へ反社会性を身に着けぬ様にする為の訓育的観念であるところの幸福感自体への懐疑を多くの市民が自然と持つことが当然となっている現代社会では、幸福という考え方自体が一つの盲腸的な観念のポジションであると認識することすらそれ程不自然ではなくなってきている。
良い子として育ち、きちんと社会へ順応して税金を収めて生活していくということそれ自体は決して悪いことではないが、その定型が何か特別個々人に役立つメッセージとか強烈な感動を誘う訳でもない。
寧ろ勤労観自体が凄く激変している今日では、これこれこういう風に真っ当に生きていれば幸福とも言い切れない状況に支配されている。
既に性も婚姻制度の在り方さえ多様化している現代社会では、どう生きていくべきかから、どういう生活スタイルと人生の充実感をどう得るかそれ自体さえ、まず個人の選択に委ねられていて、何に対して満足するかということさえ価値的に多様化されていて、幸福という観念自体が干からびたものとなっていると言ってさえ言い過ぎではない。
寧ろ不幸、それは病に罹ることもだし、精神的に大きな苦悩を抱え込むこともそうであるが、そういう状況だけに支配されていないということの方が、幸福という定型へ準じて実現されているか否かより重要だと言える。
つまり明らかに不幸ではない限り、後は何れ程幸福かとかの判断はその都度個人が下していけばそれでよく、こうでなければいけないということ自体がないと言っていい。だから愛の在り方も何かこうでなければいけないということはないのだ。何か著しく反社会的に法的に社会生活が他の市民に迷惑をかけることさえなければ、どう過ごそうが人生は個人の選択に委ねられている。
お金儲けを本論とするか、趣味の実践を本論とするか、恋愛を重ねることを本論とするかも自由であるなら、出来るだけ勤勉ではないある部分法的に罰せられぬ範囲で怠惰な生活を送りたいとさえ望んでも、それが他人に迷惑さえかけなければ、それさえ自由である、ということの方がこうでなければ幸福とは言えないと言うよりも自然である。
この自由選択の自然さこそが、寧ろ幸福という観念の有効性を著しく弱化させてきている。幸福であるか否かを判断する暇があるなら、何か具体的に実行していった方がいいという判断の方がずっと現代社会では自然である。
そして何が自然であると思えるかということさえその都度の恣意的な判断でしかない。ある部分どういう仕事を人生でその都度選択していくかということの方が予め価値的に幸福という観念に当て嵌めて仕事を選ぶことより自然である。つまり仕事内容に拠ってそれぞれ異なったやり甲斐というものが存在して、ある仕事とかあるコミュニティで一定の社会的地位を得ることが、何か社会全体のグローバルな価値規範に於いてどうであるという評定を無意味なものにしているのが現代社会を生きるということなのである。
従って幸福感(観)ということ自体が既に抽象的な形而上的価値なのであり、具体的にイメージング為難いのだ。それは既に分析哲学とか倫理学の哲学用語的な抽象性の語彙なのである。そして何に基準を設定するかに拠って幸福であるか否かも、或いは幸福という観念を態々持ち出すことも自然で適切であるかも変わってくるとしか言い様がないのだ。
だから初回の今回は著しく苦しくないこと、つまり身体健康的にも精神的充実感としても凄く不幸ではないことだけがある程度いいことなのだ、とユニヴァーサルに言い得て、それ以外はその都度何に基準を設定するかによって異なった回答がその都度用意されていて、予め幸福とはこういうことであるとは言えないということだけが取り敢えず真理である、とは言い得よう。(つづき)
Thursday, July 25, 2013
シリーズ 愛と法 第四章 愛と法の関係
感謝するという事が、感謝される側にとって然程苦ではない力添えであっても、感謝する側が凄く苦境にあった場合、そうでない時に力添えされても嬉しいけれど、苦境で他の誰も手助けしてくれない状況下ではそれだけで言い尽くせいない気持ちになるという意味で、自己本位なものであるという考えは、しかし感謝する側とされる側の関係を冷徹に観察する処から出されるが故に、達観者の冷酷、そんな事知っているのなら、何故お前が助けないという倫理を我々に齎す。しかし当然の事ながら全ての他者を救う事の出来る神の様な人間は我々の世界では居ない。
感謝の持つ自己本位とはしかし恐らく平静な状況で齎される私利私欲とも少し違うだろう。苦境に陥らねば我々は通常他者存在を有り難く、得難く感じる事は出来ない、という意味では苦境で手を差し伸べてくれる他者とは感謝の念を通してそういった苦境に陥らぬ平静な状況でも他者存在を慈しめと命じる何かがある。
それはそれだけ我々が自己中心主義的に自己愛に耽溺する傾向があると我々自身が密かに誰しも知っているからである。我々が日々行う思考実験で最も頻繁に登場するのが反事実的条件法(counterfactuals)である。要するにここには論理的理詰めではないある飛躍があるからだ。そしてその飛躍とは端的に自己を悪の要素があると知っている我々に拠る日々の述懐の中で自己行為としての過去事実への後悔の念がその論理的飛躍を齎している。つまり「あの時もう少し彼(女)の立場に立ってあげられていさえすれば」という風にである。
この様に自責の念を生じさせる様に論理思考的な意味でも飛躍を齎す様に我々の思考=脳の作用が出来ている。
その反事実的条件法を構築するのに最も貢献している事こそ、自己に於いて誰しもが知っている処のナルシシズムである。
端的にナルシシズムとは良心と定言命法的な判断のナルコティズム(昏睡状態、嗜眠性)なのである。それは判断の正当性とか適切性を著しく見え難くしてしまう一種の夢幻性なのである。
それはほんの小さな事であるなら思考上ではアイロニーとして済まされるし、会話上などでは山葵の様なものとしてウィットに奉仕するだろう。しかしそれが実行する処迄膨らんでいくとジョークの域を超えて悪意となる。その事を我々の定言命法的理性と良心は知っている。
しかし時として我々は狭量な心持ちとなる事もある。これはマルセル流で、感謝の気持ちに拠る慈しみや有り難み、忝なさ(辱さ)を我々が持つ事に拠って信仰的感情が芽生える事の反面教師として我々自身が知っている。それは他者の非、他者の失態への寛容の無さそれ自体である。
我々は我々自身の非力を知っていればこそ感謝を捧ぐべき存在へ畏まる。それはそうする事に拠って自己悪を抑制し、狭量な心持ちがしばしば意外と気楽に悪意へ走っていく事を我々が知っていて小悪を鎮静化している、大悪になる前にそうしているのである。
そういった意味では我々の言語活動自体が一種の倫理的自己悪発生への鎮静化作用の為の行為だとさえ言える。
となると法とはそれ自体それに拠って愛を縛るものではあり得なくなろう。つまり法とは愛だと錯覚しているものの正体が他者の小悪への寛容さを失いつつある人間がいよいよ知らず知らずの内に自らのその他者への大悪を育ててしまう非情なるアポリアへの解毒剤として定言命法的理性と良心が用意したものである。従ってそれはこういう一つの最初の結論を導き出す。
法とは愛と対立するものではなく、愛それ自体が作っていくものである。そして愛がそれを作るのは我々が他者の失態と小さな悪意を大きな悪へと育てていってしまう、妬み、嫉み等の全てを我々が大悪として育てぬ限り、それを大悪として育ててはならぬと知る為に持っている、と自ら実は既に我々全てが人生の初期に知っていたからである。
法とはその法に拠って裁かれぬ状況を自ら維持する為に、寧ろ他者への寛容さを保持し続ける為に我々が用意した戒めとして存在する、と言っていいのだ。
そして上記の事実は次の様に言い換えてもよい。
愛とは寧ろ知への愛たる哲学のパレーシア(パルーシア)が時として陥りがちな自虐的ナルシシズム(後悔の念はその最小のものである。それを大きく育てていかぬ様にすべきだと我々は知っている。)に対して、考え抜く事には、ある潤いある憩いが思索には必要であり、それを獲得する為に我々は労働をするのだ。そしてその潤いを確保し続けよという囁きこそが愛である、と言えないだろうか?そしてそれは当然分け与えるべきものであるし、専有するものではなく(そうであるなら価値が半減すると我々は知っている)、そうであればこそ、休息と多少の相互のエゴイズムへの寛容と、それでいて自己閉塞へと持ち込む心の専有に拠るナルシシズムからの超脱という理想ではないだろうか?(つづく)
Tuesday, May 28, 2013
シリーズ 愛と法 第三章 愛と甘え
懐疑的眼差しで正しいと思える愛をも反省へと追い込む事こそが愛の倫理と言えるのではないか、という事が前回の論旨であった。知らず知らず我々が日常的に陥る「愛は言葉化出来ない」という捉え方は、愛と甘えの関係を彷彿さずにはおかない。
今回は愛と甘えに就いて、その密接な関係にある事から考えてみよう。
愛と甘えとは多分に相性のいいセクシュアリティである。モラル的、倫理的、正義論的に間違っていると思えてもそうだし、正義論的に倫理規約にもモラル規範的にも適っているとそう思えても、実はその甘え的性格に拠って愛が支えられているという意味では変わりない。
何故なら相手が唯単に直観的に相性がよいと思えて好きである場合、相手が間違っていると倫理規範的に薄々知っていてさえ、それを許せてしまう事がある。我が子が謝って人を殺してしまっても、その子が自分にとっていい子であれば母親は子を庇い警察へ突き出されぬ様に画策するかも知れない。
要するに相手に拠っては自然に倫理的規約以前的に許せてしまうという事はあり得る事である。そういう甚だ身勝手でその許せてしまう感性を容認し得ぬ他者を差別排斥する雰囲気を自然に作ってしまう様な馴れ合い的関係を愛と錯覚する、或いはそもそも愛とは規約通りに行く法と違うのだから、愛を過大視して理性論的に雁字搦めにしてしまえば、それは愛ではない(従ってカントの誠実性やニーチェの畜群といった観念も愛とは別個の形而上的価値であると心では批難さえ出来る)と言い得る事を何処か自然なものとさせてしまうのが我々ではないだろうか?
贔屓感情自体が極めて不合理な事である。それは惹かれる異性に対してセクシュアリティとして相手の存在を出会いの感性的に認知している場合、それはエロス的存在として相手を認可している事である。セクシュアリティとして相手(他者)存在を認可する事はその時点で理性より出会いの感性を優先させている証拠である。セクシュアリティ的な魅力を察知するという事は、既にそういった非理性性を全てに優先させる感知促進的、相性察知的感性の夢魔に他ならない。痘痕も笑窪とはそういう事であり、好きである事は不合理な感情である。
そしてそれは対異性、対同性、対自分より年配者、対自分より年少者全てに対して言える事である。それを一々合理的に解釈していなさこそが慰安であり、生活上の潤いとなっている事は否定し得ない。要するに惹かれるという事は好きなタイプの話し方、顔、表情の示し方、身体付き、感情的なパッションとして受け入れられるタイプである事等様々であるが、それは殆ど直観的な出会いの感性で決まる。相性は理屈で判断されていない。
性格的な好き嫌いさえ声の発し方とか微細なレヴェルでの他者への嗜好が大きく作用している。映画監督が自分の映画に主演で起用したくなる役者は同性であれ異性であれそういった様々な要素の複合的な様相で一瞬で決定されているのと同じである。
ヘテロセクシュアルな嗜好の人格(ストレート)でもバイセクシュアルな判断を精神的にしている事は間違いない事実である。ゲイ、同性愛者が特別な存在であるのではない。又ゲイも同性愛者も様々なヴァリエーションがあり得るのであり、全く個々では異なった唯一のタイプである筈だ。従って同性愛であると規定し得ないストレートとされる人格の中でも無意識に惹かれ合う同性同士は一瞬で出会いの感性に拠って決定されている事が多い。好きなタイプの同性、性的にさえ惹かれていく同性があるからこそ、ヘッセは『デミアン』をエドガー・アラン・ポーは『ウィリアム・ウィルソン』を書いたのだった。
そういった事実の前では甘えとは理性的に許容し合える他者への見方にさえ潜んでいる。それが理性的に相手の非にも関わらず許せるという判断は検事や判事さえしていると思われる。それは出会いの感性を理性へと無意識に置き換えている、摩り替えているとさえ言えるかも知れない。
そこには多分にエロス的感受性、セクシュアリティ的判断も手伝っているだろう。
現代の大半の作家はセクシュアリティ的感性を迸らせる事を出来なくなっている。それは現代社会へそういった出会いの感性を直観的にしている事実を何処かで隠蔽させようと未然に対世界へと身構えさせるストレスを我々が保持する事を社会や国家や字義通りの世界が暗黙に強制しているからだ、とも言える。ウェブサイトの情報摂取的猛威がそうであるし、マスメディアと政治や経済が結託して我々の日常的判断をメディア論的な観念性で彩ってしまっている事も否めない。
クリエイター自身がエロス的感性を摩滅させているから必然的に彼等の作る世界も無味乾燥であり、セクシュアリティを素直に描けなくなっている。これは顕著な事である。
その意味では現代はエロスとセクシュアリティ喪失の時代であり、数値化された認識至上主義的時代だ、と言ってよい。
美と倫理は理性的に考えても対立する要素はある。しかし多くの現代人は倫理的に正しいものを優先させては居ない。と言うより倫理的な正しさとは何なのかを自主的に判断為難い時代に現代社会自体がなっているとも言える。法的な事は常識、通念、前例主義的判断では従っていると自分自身では大勢の人が思っている。しかしそこに深い思索はない。そもそも思索する事を阻むビジーネスを正しいもので従うべきだと現代社会の機構自体が我々の日常へと強いている。忙しさの中に埋没せよ、とウェブサイト、日々のルティン的な規約が命じている。だから逆にマスメディアで一旦好感度を視聴率と共に獲得したタレント達は繰り返し登場させられる。しかし飽きられる速さも凄まじい。その意味では現代マスメディアが人員の顔ぶれを新陳代謝させるスピードに於いてのみ我々は現代社会を公平であると実感させられている。
あっ、いいなと瞬時に思える他者への判断の感性は熟慮された判断ではない。そういったじっくりと考える心の余裕を専門家の世界でも学術的世界でも現代社会の情報化のスピード自体は心の余裕として与えない。だから却って好感度とは出会いの感性の先程も述べた排他的で差別主義的な感性にも支えられ、何処か格好とか雰囲気とかが鈍腐い他者を排斥し、格好良さとか見てくれを重視していってしまう。だから益々美と倫理は乖離していってしまう。
美で(しかも長期的に保たれ得る美でなく瞬時で、あっ、いいなって思える美で)全てを判断している。それでいてその美の陳腐な瞬時の判断こそを理性と倫理であると似非的な正義論で正当化している。正義論とは強烈なエゴイズムでしかないとは真理であるのに。
エロスやセクシュアリティは美と重なる部分も大きい。逆に美それ自体はエロスやセクシュアリティと重ならぬ場合もある(数値的美、認識的美等にはそう言える部分もある)。
現代社会が現代人を構成しているという部分があるけれど、現代人が現代社会を今様にしているとも決定的に言える。何故なら愛の在り方や規定そのものが時代を反映するとは言えるのだし、その時代性が法全般を斯くあるべしと心へ規定させている。
愛を持続させたいと欲するのは愛する相手(他者)へのブランド化でもある。この者と共に時間を過ごす事を価値化させる眼差しは他者のブランド化以外ではない。
そこでは見栄とか虚栄心も往々にして在る。美的な異性と共に歩く事は見てくれもいいし、イケメンの同性の友人と共に居る事は見てくれも聞こえもいいと判断している。そしてその自らの直観的な美的判断を倫理とか理性へと置き換えている(摩り替えている)とも言える。
物事を価値化させる視点とはこういった摩り替えが行わていない筈がないのだ。だから時として相手から相手にされなくても、相手への日常的同伴を望めばストーカー的な振る舞いへと移行していってしまう。日常的な時間をある特定の出会いの直観で素敵であると判断してしまった他者を自らのエゴで巻き込み同伴させたいと願う心理が歪である事を中々現代人は気付き難い社会環境に住んでいると言える。
他者所有の未練が生を支配している。実は年配者が年少者へ年配者を敬えとする態度も年配者に拠る人生がやがて終える時期の到来が近づけば近づく程未練が人生へ募ってくる事への懸念が生み出した欺瞞的態度でしかない。何故なら死者とは必ず徐々に忘却されていく運命にある、と全生者は知っているからである。
結婚して同居してとっくに覚めた愛に対しても未練を抱く。相手へとっくに幻滅していても尚運命的な出会いであったとそう思いたい未練もある。だからこそ往々にして一般に人々は離婚には踏み切らないのだ。しかし既に述べた様にそもそも愛は言葉化出来ぬと神格化してきた程愛とは崇高なものなのだろうか?そう懐疑的に問う事も可能ではないだろうか?
そもそももっと現実的に言って愛とはそんなに純粋なものであり続けてきたのだろうか?
或いはそんなに純粋なもので愛があったなら、愛とはそう実現し得る事であったろうか?
例えば相手から一切見返りのない愛を我々は期待するだろうか?つまり相手から一切愛され返されぬと知っていて尚相手をずっと永遠に我々は愛せるものだろうか?最初に出会いの直観で価値ある出会いだとしたその出会われた他者への愛をずっとそういった一切の見返りのない状態を維持された侭持続し得るものだろうか?
それがし得る、いやすると断言し得るなら、そう断言する者を仮に我々が、そんな愛はマゾヒスティックだと言った時、その愛の純粋性に対して批判する現実的態度を批判する事が出来るだろうか?或いはその批判された者の方が正当だと明確に言い切れる(欺瞞的な純粋神話への信仰でなく素直に)ものだろうか?
或いはこうも言える。そういったマゾヒスティックな見返りを求める事の出来ぬ相手への献身が唯単に自虐的なナルシシズムでしかないと言った時、その言及に対して明確に論理的にも倫理的にも我々は責める(攻める)事が可能だろうか?
自虐的ナルシシズムも又一種のエゴイズムでしかないと言えないだろうか?自虐とはそれ自体一つの特殊なエゴイズムの変形でしかないとは決定的に言える事である。
してみれば、相手からの見返りを求めるという事も愛の一つの権利であり、それはたとえ自分の親であっても、認知症を伴って自分を息子とも娘とも判別が付かない状態であり、尚且つ自分に対して只管暴力を振るうとしたなら、それでも尚その親を愛せと我々は命じられるだろうか?
相手から感謝されるという見返りもあればこそ我々はその最も本来なら愛すべき他者(親族とか肉親)であっても愛せるという事は権利的に言えるのではないだろうか?
だから却って相手から一切無視され虐待さえされているのに相手へ献身を続け愛し続けるとしたなら、それはもう自虐的な意味で歪なナルシスの命じる侭愛を持続させようと欲する歪な美学的なエゴイズムではないだろうか?
だから愛を純粋なる献身へと置き換えてしまうとどうしてもこういった極度の歪な自虐的美学のエゴイズムに愛を置換させねばならなくなる、とは言い得る事である。
そこでこうも言える。愛は即ちどんなタイプのものであれ多かれ少なかれエゴイズム以外ではない。つまり愛とはニヒリスティッシュに言えば所詮、特殊なエゴイズムのパターンでしかないとも言えてしまう。
もっと簡単な例で考えてみよう。
それは愛を慰安とか生活の寛ぎを得る権利的な幸福感情の一端だとして考えてみることである。そう考えてみよう。
そもそも他者への思い遣りの善とは、正義、公平、責任とは次元が異なるのではないだろうか?
他者への思い遣りとは他者が自分へ甘えて来た時にそれを受け止めてあげる事ではないだろうか?
となると理性論的には愛は甘えと馴れ合いと区別がつかなくなっていってしまうけれど、その区別そのものを既に直観的な出会いの感性とか肉親とか親族であるなら運命的に背負わされている。何故なら他者を愛しいと思える瞬間とは、自分自身が正しい時に賛同してくれる事よりも、もっと自分自身に否がある時に、それでも尚味方をしてくれる事であるからである。
要するに完全に自分の方が誰か第三者と対立して悪い場合でさえ、自分の方に味方してくれる相手、自己の四面楚歌を少しでも軽減させてくれる様に献身してくれる相手(他者)へ我々は自己が正しく周囲から文句なくその正しさが認識されるであろう状況よりも、よりその「それでも尚味方してくれる他者」としてその者を我々は愛そう。
自分の我儘という悪さえも容認してくれる他者を我々は愛す。これは決定的な事実だ。自分自身で自己の悪を自覚すればするほど、それでも尚味方してくれる相手への感謝程大きいものはない。と言う事は感謝それ自体も又極めてエゴイズムに拠って支えられているものである、否感謝それ自体が一種の強烈なエゴイズムであるとさえ言える事になる。
自己の悪さえ受け入れてくれる相手(他者)への感謝の大きさとは、実は他者と共に居る事の慰安と寛ぎの中に、決定的に自己本位でエゴイスティックでしかない心情と愛とが密接に結びついていると言えるのである(菊池直子と高橋克也もそうだったかも知れないし、菊池直子を匿っていた男もそうだったかも知れない)。
自らの苦戦、自らの不利、自らの怠慢という悪にも関わらず味方してくれる相手(他者)への無償の愛としての認識こそが感謝であるなら、感謝に拠って支持されている愛とは相互の功利主義的な甘えだけでなく(それは契約する他者同士でも国家間の外交的な判断でもあり得るのだから)、純粋な他者への感謝(それは相互の権利的主張を越え得る心の在り方である)とは、自己本位である事を免れ得ないと言えるのだ。
感謝という心情のエゴイズム的性格は、愛がそれ自体自己本位な生存欲求に拠る甘え以外ではない相互の存在容認と密接である事を証明するのではないだろうか?(つづく)
Monday, April 22, 2013
シリーズ 愛と法 第二章 愛の倫理とは何か?
前回愛が法を逸脱する事が許される唯一の事はそれが許され得るエゴイズムであると考えられる、と言う事はそう感じられるという事だという事が一つの結論であった。
では許され得るエゴイズムとそうでなく許されざるエゴイズムとは何かという事がそこで問題となろう。
我々の前には取り敢えずこの許され得るか許されざるかを判定する基準それ自体を倫理だとする道が開かれている。
その時エゴイズムとは通常それ自体許されざる事であると考えられがちであるが、実は自己信念に忠実に行為へ赴く事、履行する事それ自体は如何にそれが責任の名に於いてでも正義として容認されている事でも、それは既にエゴイズムでしかあり得ないのだという観念にも幾分の説得力がある筈だという視点でこの事を論じている事を明記しておきたい(この事は詳しく後述する)。
すると倫理として許され得るエゴイズムとは他者全般の愛の権利を妨げぬ範囲内であれば、それは取り敢えずそうであると言えないだろうか?
要するに他者愛であれ自己愛であれ、それは究極ではそれを履行する事で他者全般が有する愛の権利を妨害するものでなければ許され得ると我々は取り敢えず言える気がする。
つまり我々は直観的に他者全般の愛の権利の侵害者として許されざるエゴイズムを認めているのではないだろうか?それが他者愛であれ自己愛であれそうであると我々は直観する。
してみると、そうでなく他者全般の愛の権利を促進していく可能性を見出し得るエゴイズムがもし仮にこれ迄の社会的な意味での法を逸脱するという形で容認されていなくても、これ迄の、そして通常通念的に我々がそうではないかと思えてしまう愛の倫理、愛の法(この二つを取り敢えず重なるものとして容認しておいてみよう)に沿っていると思えなかったものの、内実的にそうではなく履行してみれば今迄考えられていた愛の法そのものを旧態依然化するある発見があったとしたら、つまり真理的な愛の法に沿っていると思える発見をそこに見出し得るのなら、それはこれ迄の法(法それ自体は愛の為だけではないが、愛それ自体にも法があるし、それをここで一緒にして考えても取り敢えず差し支えないだろう)に背いていても、その背きの方が説得力を持ち得ると我々が容認し得たなら、法を書き換える事を示唆する力としてその愛のエゴイズム(取り敢えず法に背く事は如何なる事でも<それが愛に殉じる事でも>エゴ的であると言えるから)は許され得ると判定されて然るべきではないだろうか?
つまり許され得るエゴイズムとは愛の倫理の下では法を書き換えこそ示唆しても、それに拠って我々が直観的に正しくないとは決して思えない説得力を行為そのものが有しているという事ではないだろうか?
それは常に在ると言える事とは言えず、極めて例外的な事だと言えるだろう。例外的に我々が生の生存と維持とに於いて直観し得る真のヒューマニティを見出し得る、そういうものが先験的に備わっていると感じられる愛すべきエゴイズムだと言えるだろう。
ところで我々は愛とは言葉化し得ない、言葉化する事が出来ないという真理の様に思える事に拠って実はかなり多くの事を問う事を等閑にしてきたとも言える。つまり「愛とは言葉化出来ない」という謂いが知らず知らずの内に陳腐なエゴイズム(それはある程度許容し得るも、決して倫理的にも愛の法にも準じているとは言い難いという意味でのエゴイズムである)に陥りやすく生活してきている、とは言えないだろうか?
その点では我々は我々自身の行為を厳密に分析していく必要性もある。それがもし哲学的認識だとするなら、愛が滅私的でそれ自体エゴイズムではないと感じ(られ)る(と言う事はそう決め付ける)感性と、そうではなく自然とそう身構えてしまっても、実はそういう他者愛とか自己犠牲も又一種固有のエゴイズムでしかあり得ないとそう感じ(られ)る感性とがあり得る、とは言える。
さて前者は幾分先程述べた「愛は言葉化出来ない」という真理(と思われている事)を鵜呑みにしている感性に拠って得られる決意であるとは言えないだろうか?
その点では哲学的認識と言える後者の感性は、デカルト批判として登場しているニーチェ的流儀を一定の現代哲学的相貌で認めつつも、それをも含めデカルト的出発点を誤りではないと言い切れる感性ではあろう。
一見確かに愛は言葉化し得ない様に滅私的愛はエゴイズムではないと言い切れる様にも思えるのは、前者的感性がある程度我々の社会へ蔓延しているからであろう。だから後者的に、否その様に滅私的で自己犠牲的である事そのものも又一種固有のエゴイズムでしかないのだと断じる感性は、前者の特殊な変形であり、所詮この二つは同じ事実の二つのちょっとした認識の仕方の違いでしかないのだ、と社会的俗を受け入れれば言えない事もない。
しかしである。この二つの感性の違いは哲学的には決して小さな事ではないと言える。何故なら前者的感性は自己の対他的愛を疑うという事を知らず、信じ切っているからである。信じ切るとは行為そのものの履行には絶対的に必要である。しかしそれは我々が日常的に反省的に行為そのものを考える事の前では潔く取り除く必要もある事なのだ。
つまり後者的感性では滅私や自己犠牲も又所詮一つの固有の私利私欲でしかないと判定を下す事で信じ切る事で得てしまいやすい誤謬を避けようとしている。
それは信じ切ってしまいやすい事へさえ疑う事を導入する事を憚らぬ事実全体を如何に当然と思われる事に於いても当然ではないと思われる事と等価に行動の採り方に内在するドグマ的な事をメタ認知していこうと欲する態度であろう。つまり「それをしている自分」というハイデガー、サルトル的に言えば対自的視点での反省である。
自己に拠ってほぼ無反省的に行われる行為に迄懐疑の目を差し向けるという意味ではデカルト主義批判者であっても、デカルト的出発を否定している訳ではないのである(例えばメルロ・ポンティはその極端な懐疑への移行を経験主義と同一の誤りを犯す主知主義として批判したのだったが、これはデカルト主義批判であると同時にその正当なる修正主義の宣言でもあった訳だ)。(つづく)
Friday, April 19, 2013
シリーズ 愛と法 第一章 語義、或いは愛とエゴイズム
ミシェル・アンリの研究者に拠るとアンリとは「愛は法に優先する」「愛の法への優位は決定的だ」と考えていて、そういう論説で彼は哲学していたと言う。
これは我々に対して極めて共感を誘う主張である。何処かアンリは文学者でもあった事から、共感試験的に、つまりそう主張する事で、それに反意を抱く者とはどういう人であるかという事を知りたいが為にそういう主張をしたと捉える事も間違いではないだろう。
事実アンリの文章は哲学書であっても何故を問うている訳ではなかったし、因果律的にある事の根拠を問い詰める事が彼の哲学の目的ではなかった。その部分ではアンリを哲学を通した表現者であったと捉える事も可能である。
だが当然の事ながら本シリーズはアンリ研究が目的なのではない。あくまでこのアンリ的態度は入口にしか過ぎない。
推論、論証といった理由とか根拠とかを探る事が哲学の目的ではない(通常の哲学はそうではない)のなら、アンリは愛そのものを表現したのだ、と言い得るのではないか?
アンリの論文分析とか考察は専門の徒に任せるとして(とは言え必要とあれば、部分的には本シリーズでも取り上げるつもりだが)、取り敢えず要点を把握すれば、愛の法への優位とは次の論理で示し得るものと思われる。
☆価値が倫理を生む(倫理が価値を生むのではない)。
☆愛が法を生む(法が愛を生むのではない)。
☆愛こそが最高の価値である。
☆従って我々は愛を優先し、法をその配下に付けるべきである。法によって愛を歪曲してはならない。
よく分かる。それはヒューマニティとしても当然の事である、と我々は直観的に知っている。
しかしである。これでは余りにも曖昧過ぎて、愛自体とはどういう事なのかという事が見えてこない。勿論愛とは問う事でないとアンリなら考えただろう。しかしそれを問いたい自由を封殺する必要もないし、そうしなければいけないとアンリが言っていた訳ではないだろう。
愛を問うなと言うその態度はややもすると、それを分からぬ者は価値に就いてなど語る資格等ないと言わんばかりの上から目線的な権威主義的態度も透けて見えるという意見も極自然に見えてくる。
そこで本シリーズでは愛とは何かを情感、エロス、制度としての言語、モラルや倫理を通して考え、法全般(言語も含む)との関係から考えていきたい。
要するに愛の精神構造分析と、その価値論的論説を試みたいのである。
では最初にもし法自体が誤っているのなら、その時愛の方を優先し、愛に沿って法を変えていくべきだという考えが浮かぶ。しかしそういう風に法をその都度変えていくべきであるという愛に準じた価値を最重要視するなら、それは既に愛自体が一つの絶対的法である、と言っているのと同じではないだろうか?
言葉を換えれば愛に拠って打倒されるくらいのものを安易に法と呼んで良いのかという倫理的、或いは価値的認識も自然に迎えられる。
要するに制度的な意味で法を重たいものとするなら、法が愛を搾取する様な悪法を法と呼んで良いものかという価値評定とか倫理問題を誘発する。
確かにアンリはレジスタンスをしていた人なので、法それ自体が悪法である状況下で哲学的基礎を積んだ。従って法の悪性を知る者として愛を優先する事は自由を法より優先する様に理解出来ると言えば出来る。
しかしもっとその論議をユニヴァーサルなものとするには、愛自体も分析する必要がある。
もし法そのものが極めて愛に従っているものなら、その法を背く事は愛と呼べるだろうか?それは唯単に愛の名を語るエゴイズムではないのか?そう問える。
そこで愛とはエゴイズムとは無縁のものであるべきだ、という愛自体の価値評定、あるいは倫理命題がここに与えられる事となろう。
そうである。愛がもし法より優先されるべきであるなら、まず愛がエゴイズムとは無縁でなければならないと倫理的には言い得る。
しかし実在生活者の我々は神ではない。従って脆弱な存在者である我々はその脆さを認めつつ歩んでいかなくてはならない。そういう観点に立てば一切のエゴイズムを容認せぬ愛とは実在的に不可能ではないのか?
そう問えば当然幾分のエゴイズムも権利として愛に認めてもよいのではないかという視点も誤りではないと言い得るのではないか?
エゴイズムを悪と決め付ける視点からはそれを介入させるものは愛の名に値しないこととなろう。しかし一切の自己本位を無化させた愛を実在生活者たる我々には不可能だとするなら、法がエゴイズムの無化を絶対条件とするなら、その様な法が曰く観念的過ぎて悪法という事になるだろう。
我々は現実社会に自己を適合させてしか生活出来ない実在生活者であればこそ、適度の愛の義務と、価値倫理的な
愛の法を遵守しながらも、同時に幾分の自己本位なエゴイスティックな逸脱を寛容的に認められるべきではないのか?
つまり純粋自己犠牲的、レヴィナス的な愛を観念上では認めつつも、それは価値論としてのみ受け取っていくべき余地もあるのではないかと問う事も可能であろう。
法が「正しく」絶対であるなら、法を背く愛とはエゴイズムと不可分であるという事に少なくとも論理的にはなり得よう。しかし正しいという事はしばしば法の遵守という観点からのみ言える事でもある。その論点を採用すれば、当然正しい事とは愛に沿っているとは限らないという事となる。カントやニーチェには確かにその正しさ、つまり遵守する事の誠実性(自主道徳的な遵守、道徳的法則の遵守)という事がベースとしては語られている。
しかしそれはやはり価値観念論としての「哲学」に収めておくべきではないかという論議も呼び起こされよう。
アンリはある意味ではそれを言いたかったのかも知れない。してみれば正しい事、法の正当性とは愛に拠っているとしても、それが経験則として得られた結論であるなら、その経験則から零れ落ちる愛の形態とか様相もあり得るという事になろう。
と言うことなら、逆に愛にその都度従っているのなら、その都度法が書き換えられていって然るべきだという事になる。それは相対的な法の在り方と、愛のその都度の遵守という意味では杓子定規的な正しさではなく、極自然に正しいと言えるのではないか?しかしその正しさは権威化されるべきものではないという思想が必要なのである。
するとこうも言えるかも知れない。
この世界では事後的に許され得るエゴイズムと許されざるエゴイズムとがあり、前者に沿っているのなら法からの逸脱も許され、後者に沿っているのなら、それは許されないという事となろう。
してみれば語義として法がそんなに容易に愛からであっても覆されるべきではないという倫理からも抵触され得ない。では倫理は常に絶対であろうか?倫理もそれ自体、自主道徳や道徳的法則を蔑ろにさせぬ為の訓戒として便宜上設けられたものではなかったのかというその絶対化への懐疑が持ち出されても良い。
次回は倫理という法を愛の権利に就いて考える。(つづく)
付記 本シリーズでは法をそれ程容易に覆されざる至高価値として敢えて愛と対峙させる事で、ある程度厳密に語義規定性を重く用い、しかし最終的には語義も相対的である事を逃れ得ず、愛を至高価値とさせたいが、愛と錯覚する多くの似非的、欺瞞的な実在の行為をよく検証していくべきだと捉えているのだ。(Michael Kawaguchi)
Wednesday, July 4, 2012
〔言語の進化と責任〕第九章 あるいは結論 愛と性の言語(「触れ合い」の哲学について)
私は言語と言いながらあまり言語学者のような体裁を一切無視してここまで書いてきたのだが、実はそれには訳がある。それは言語学そのものが未だ発展途上の学問で、確たる方法論が確立してはいない、ということと、言語というものを考える時、ただ記述された文字表現とか対話とかだけに限定することもまた不自然なくらいに言語という観念自体が多様化してきている、ということも言えると思うからだ。だが言語はヒトが歩き始め、食料を確保する方法として採集とか狩猟とかを始めた頃から何らかの形で、その必要性を漠然とは意識していて、その内発的な意思疎通への熱情が、いつしか現在のような形での意思疎通へと直結する方法の獲得に繋がり今日の様になったということは言えるだろう。
しかし言語活動が日常的な言語行為へと位置付けられてゆくために最も貢献したのは、意味や指示対象だけではなかった筈だ。そしてあまり本論では触れられなかった最も重要な人間の感情、愛と、最も人間生活において恐らく他の全ての生命と同じく切実な性ということから言語の進化を考えていってみよう。そしてそこで何らかの言語進化の問題の結論としてみよう、と思う。
通常我々の社会的倫理観として人間のように一夫一婦制を採用している生物は稀であることを承知でか、承知しないでかはともかく人間は愛を一定の持続期間、少なくとも子供を儲け、育て一人前にして独立させるまでは結婚という形態で同居契約を結び、それを全うするという行為の倫理性に比べれば、一時の快楽を通じて瞬間的な喜びに打ち興じるということを劣った行為であるとするのが今までは通常だったし、つまり愛とは責任を伴うものである、という意識が我々の社会には暗黙のルールとしてあった、ということは言えるだろう。
しかし同時に現代ではインターネットで誰でも容易にポルノ動画に接することが出来るし、大人であるならそういうネット・サーフィンをすることが児童ポルノとか特殊な例外を除き、倫理的に罪悪であるとする社会人はそれほど多くはないだろう。例えば子供がそのような動画に接することがないように工夫すべきであるとか、法的な規制をするべきであると言いながら、一人で退屈凌ぎにそういう動画を検索している人は多い筈である。
人間の愛という活動には本音と建前があって、それを混同することは差し控えたいが、巧く峻別しておれば、社会の潤滑油であると考えている大人は多い。
また今の若者は、その全てではないだろうが、保守的傾向の青年も多いだろうが、昔のような意味でセックスに対する知識が皆無であるようなタイプの青年はあまり多くはいないだろう。勿論そういう好奇心は知識の希少な若者でも、かなり以前から誰しも経験があっただろう。しかし時代が現在に近づくつれ、ネットその他による溢れんばかりの情報の授受という行為それ自体は自然なものになりつつある。
そして一体言語とは発話とか記述だけであったのか、例えば性行為に関するマナーといったこともまた立派な言語だったのではないだろうか、という考えが私にはある。
現代の性科学は少なからず過去のそれとは曲がり角に来ていることは確からしい。例えば性を人間以外の全ての動物において(と言うことは人間も例外ではなく)オスによるメスの選択(性選択と生物学では言う)やメスによるオスの選択という認識だけではなく、寧ろ性行為を獲得したいと望む側と、それを避けたいと願う側の駆け引き、あるいは攻撃と防御という熾烈な葛藤であると見る見方が大勢を占めてきている。そしてその事実は性というものがただ繁殖と子孫繁栄のためにだけ供せられる行為ではない、という認識を拡大させつつある。そして重要なこととは、そのようようにオスとメスが葛藤し合いながら性行為に到達するということは人間社会でも我々は具に観察出来るのだが、実際オスとメスの違いよりも、たまたまオスに生まれたか、たまたまメスに生まれたかというような個人(動物では個体)の違いという様な意識の在り方から考えられる要素の方が性ということの実体を把握するには相応しいのではないかという思念さえ浮上するのである。
人間を含め全ての生物、そこまで言うと少々説明が困難になるので全ての動物としておくが、彼等(我々も含む)が性行為を行うことに纏わる種毎の方法とは、それ自体で種の身体に記憶された言語であるとは言えないだろうか?
ある米国の有名ポルノ女優は「マスターベーションをした経験のない人は恋人と交際する資格はないわ。」と言っていたが、私はその意見に対しては賛成である。
日本人は性的なモラルに関しては色々最近の若者は昔とは違うように言われているが、未だ欧米先進国のようには自由でも解放されてもいない。また彼等と同じような性的なモラルを持つべきとも言い切れない。正高信夫氏の著作「ケータイをもったサル」の主張のように、昨今の若者を「ひきこもり系」と「ルーズソックス系」(今はすっかり居なくなったが、その代わりに外を歩く時さえ携帯画面釘付け系とでもしてもよい)と名付けて考察してみると、日米の若者像の違いが鮮明になるが、日米での違い、特に周囲の人間と協調するように、溶け込むように母親が赤ん坊の頃からそれとなく強いていく姿(統計的にも日本人の母親はスキンシップを赤ん坊に話しかけること以上に大切にするが、アメリカの母親は赤ん坊が未だ言語習得する以前から赤ん坊に語りかけることをスキンシップ以上に大切にする、と言う)が、アメリカの母親は最初から子供を独立精神旺盛な少年に育てようとする、という面での相違は、アメリカはただ独立心という建国精神からだけではなく、キリスト教倫理的なモラルの面からも日本人の宗教観の希薄さと関係があるように私には思われる。それは第一章のフランス哲学者のミシェル・アンリのテクストを読み込む為に彼のテクストとヘーゲルのテクストを平行して読んだ時に、特に感じたことだった。彼等は両方ともアメリカ人ではないが、日本人よりは一段と個人の独立心は旺盛である。アメリカ人は西欧型の独立心に加えてアメリカ独自の独立心が備わっているのである。ブログに投稿する時にも日本人は無記名(匿名)で書くことが多いのに、アメリカ人は記名することが常識であるという事実にもその個人的な独立精神の旺盛さが伺える。
日本人は要するに本音をずばりと言い切ることに抵抗を感じる国民性の民族なのである。例えばフランス人にとってワインと対話というものは生活上不可欠な要素である。そして対話も時として論争にまで発展する。しかし日本人は大分政治の舞台などで論争することが定着してきている様に思われるが、依然それほど欧米人のように論争することを精神的なモラルとしては潔しとはしていない。不言実行とか黙して語らずとか、要するに黙って寡黙に作業する姿に対して凛々しいと感じることが性質として定着している民族である。だから性意識に関しても保守的な感情と、それでいて現代のように性情報が氾濫した状況において何らかの分裂を精神的に感じ取っているということは考えられる。つまり急に生活もモラルも欧米化した、ということに対して内心では戸惑っているのに、それを他者には悟られまいとして取り澄ましているというのが実情ではないだろうか?
話は元に戻るがマスターベーションその他の教則本さえ80年代以降は盛んに出版されるようになった。一頃に比べあまりにも過激なものは大分少なくなったが、それでも今でも時折見かけられるそのような内容の記事は、最早昔(例えば私の幼少時代の昭和三十年代)に比べればタブーでは決してない。つまりそれらは影でこそこそ読むような性質の本ではなしに、若い会社員たちが喜んで買うようなタイプの雑誌に堂々とそういう記事が掲載されているのだ。このような状況下現代の若者の性知識は、実質的なものであるかどうかはともかく、トレンディードラマやテレビタレントや文化人までもが自身の性体験等についてあけすけに語る対談番組等で見られる様に極めて詳細なものになっている、という意味では昔以上であろう。だがそんな彼等とてそれ以前の日本人の資質も引き摺っているのだから、内心では「日米、あるいは日本とヨーロッパどちらが正しいか」ということに関して悩んでいる者も少なくないのではないだろうか?
しかしそれはそうおいそれとは他人に公言することが憚られる内容の事実なので、例えば愛情(恋人同士のことでも、夫婦間のことでも)とか性について語るのは、例えばフラメンコなど恋の情熱と炎の民族スペイン人のようにはいかないだろう。日本人にとって恋とは未だに彼等に比べれば秘められた思いの、公言することを控える感情である。
そこで最後の章である本章では、これまでの難解な観念論を一切差し控え、性愛のことについて日本人である私の実体験と、それによって培われた性愛についての考えを述べてみたい。そして男性が女性に言ってはならない言葉、女性が男性に言ってはならない言葉を中心に男女の日常生活上でのトラブル回避術に関して考えていってみよう。この考察はある意味では日本人固有の問題かも知れないが、ある意味ではそれほどどこの国でも変わりないことでもあるように私には思えるのである。
例えばこれは日本に特有の現象なのか、スポーツ選手や芸能人の結婚話がワイドショーの話題として取り上げられ、盛大な披露宴をすることもまた復活しだした。以前は地味婚というのが流行ったが、再び派手婚時代らしい。またそういうカップルでもずっと仲睦まじい夫婦もいるのだろうが、結構大勢のカップルは数年以内に離婚したり、別の相手と再びあまり間をおかずに再婚したりすることも多くなった。そしてこれは言えることだが、離婚や再婚が自由になったということは、精神衛生上現代人とはストレスフルな生き物なので、いい傾向ではないだろうか?戦前には出戻りなどという嫌な言葉があったが、今そういう言葉を誰か特定の女性に対して使用すると差別用語であると即座に訴えられるだろう。本来生物学的には一夫一婦制というものはある特殊な例外と言ってよく、また人間のようにあるパートナーと添い遂げたら、一生一緒に暮らすというようなタイプの婚姻形式は生物の中での異例中の異例であるらしく、そういう意味では人間はかなり社会秩序を全うする為に精神的には無理をしている生き物なようだ。だから華やかな話題の割には大勢のカップルが離婚しているということは本来の人間の動物としての精神安定にとっては自然なことなのかも知れない。
そして私的なことになるが、私の父は十六年前に肝臓癌で死去し、私の母と三十年以上添い遂げたが、それでも何度かは離婚を考えたこともある、と私の母は父の十七回忌に実家で私に語った。どんなに仲のよい夫婦でも一度や二度は離婚を考えたことがあるというのは未だ微笑ましいことであり、倦怠期(これも又嫌な言葉だ)というものもどのような熟年カップルでも経験していることであろう。もしそういう気持ちに一度もなったことがなかったとしたら、そういうカップルは希少な例外ではないだろうか?熟年離婚は今年(2007年現在)民法の改正によって離婚後の年金が授受出来るようになったことで、増加しているというデータもある。
つまり男女の仲というものはある一線を越えた発言をすることによって一挙に崩壊へと雪崩れ込んでいくというケースが最も多いような気が私はする。勿論浮気とかそういう理由のケースもそれなりにあるのだろうが、それ以上に「最早この異性と一緒に同じ家で句暮らすのは懲り懲りだ。」と思うことの第一の理由はほんの些細な心無い一言に対する執念深い恨みに起因することが意外と多いのではないか、と私は思っている。と言うのも人間は動物と違って言語行為を主とした意思疎通を行うので、恋人や配偶者に対する攻撃もまた言葉による応報ということが一番多い気がするのである。そこで異性同士で男が女に決して言ってはいけないこととは何なのか?あるいは女が男に言ってはいけないことは何なのか、ということについて同居したり、長く交際しようと思っているカップルに対して多少の参考になりはしまいかと思い、それをここに挙げてみようと思う。
まず私は男性なので、男性の側から女性に最も言って欲しくない一言を幾つか挙げてみよう。(この中には私が言われて酷く気分を害したことのある言葉もある。)
① 「あなたには何か夢はないの?」
② 「あなたは子供なのよ。」
③ 「他の人<男性のこと>を見てみなさいよ。」
私は実はこの一言の内最初のと、二つ目の言葉を若い頃それぞれ別の女性から言われたことがあるのだ。そして最後の言葉は死んだ父親に言われた一言である。
特に最初の奴は、最近ある事件で兄に殺された妹が兄に対して放った言葉でもある。
本来そう自分の日常において親しくしてはなくても、いいと思えるようなタイプの知人から似たようなことを言われた場合(そのような不用意な一言を言うからこそそういう人に対しては親しい人に対する様には接したくはないと思う様になるのだが)、むかっときても尚我慢すればよい(そう始終顔を合わす人ではない限り)のだが、その同じ一言を普段一番親しくしている恋人とか配偶者から言われると「可愛さ余って憎さ百倍」になる場合もあるのだ。つまりそういう一言を浴びせかけられて、それに対して「もう我慢出来ない」と思うのは、そう思って別れた方が自分の人生にとってはメリットがある、と思えるからであり、そのような不用意な一言を聞いてさえ我慢するだけの価値がその言葉を吐いた人にあるかどうかという自分の中での価値基準によって自ずとその言葉を吐いた人に対する固定的な感情が定まってくるのである。
本来男性は夢を一生追い続けるという傾向の感情の生き物であるという意味では女性のような現実主義者以上のものがある場合が多い。そこで特にそのような典型である様な私には①の一言は極めてきつい侮辱に受け取れたのだ。それを言われて私はある女性とはそれ以上親しくはなれないと思ったのだった。②もかなり男性にとってはきつい一言ではないだろうか?男性は社会的な動物であると言ってもよいからだ。そしてその極めつけが③の一言であろう。これは尤も私は父と多少心の行き違いのあった時に言われたので、売り言葉に買い言葉であるようなニュアンスもあって、女性から言われたほどには傷つかずに済んだ記憶がある。しかし①にはそれにかなり近いニュアンスが私には感じられたのである。
つまり同じ一言をある特定の人から言われることというのは、ある意味では特別の意味を持つ。それは特に親しい人、信頼している人から言われるとずきんとくるということがあることからも読者も了解されるだろう。だから同じ一言を誰から言われるかに応じて人間はその都度異なった対応的な感情を抱くものなのだ。そしてそれは人によって(それは同じ一言を父親から言われた方が頭がくるか、母親から言われた方が頭がくるか、とか、同じ一言を家族から言われた方が傷つくか、逆に他人から言われた方が傷つくかということである)違うだろう。しかし少なくとも同じ一言でも信頼しきっている人から言われるとショックであるという面の方が、それが家族であれ、他人であれ変わりはないのではないだろうか?
ここ数年日本では親が子供を、子供が親を、あるいは生徒が先生を、先生が生徒を殺すというような事件が類発している。しかしそれらのケースの幾つかはいつの時代にもある親子や、異性同士の生徒と先生の関係に端を発し、その殺し方とか幾つかの事例において現代固有の問題が潜んでいるのではないか?例えば男女の諍い事というのは昔からあった。しかし昔はマスコミ包囲網それ自体が現在のような形でネット化されていなかった。現代という時代の特殊性を一言で言い表すと、実際は大して無関係な事件同士をマスコミが現代固有の問題として扱い、各界の文化人や精神分析医とか弁護士や元警察庁勤務の監察医とかを挙って出演させ、彼等に全ての猟奇的殺人事件を何らかの現代社会固有のものとして各ケースは本来何の関係もない筈なのに巧みに現代的現象として関連付けることでワイドショーの視聴率を稼ごうとしているマスメディア全体の姿勢に象徴されていると言ってもよい。つまり一個一個のケースはかなりそれぞれ固有の事件であり、その中にはよくあるケースも多々あるということだ。しかし殺し方とかの異常さ、遺体の処理の仕方の異常さとかはある程度現代の情報化社会による連鎖反応という様なこともあるかも知れない。
男女の恋愛関係の縺れ(痴情の縺れ)という様な事態それ自体はかなり古典的な犯罪ケースである。親子や親族間の愛憎という事態も特に現代的なことの様にも思われない。だから殺し方とかその後の異常な行動といったことを取り上げ、それをもって現代に固有の現象であると考えることはある意味では危険である。ただマスメディア自体が加熱報道することで犯罪者の心理を逆上させるということはある程度あるかも知れない。しかし仮にマスメディアの報道の仕方それ自体が加熱していなくても尚、犯罪者、とりわけ殺人犯という存在は、それ自体で精神的に異常な状態にあることは間違いないのだから、私たちが現代を異常な時代であると感じるとすれば、政治家の不用意な発言が失言として受け取られ、即日退任を迫られるようなことと同じように情報化社会という現実が、些細な好奇心を掻き立てる特異な事実がよりクローズアップされ、その方が一番重要なその事件の本質よりも我々の印象に残り、記憶内容と化してしまうという現実の方に寧ろ現代社会の特異な状況が垣間見られると言ってよい。
だがそういう犯罪を犯罪者をして駆り立てる状況というものはある程度想像はつく。それは言語的な鬱憤を行動で埋め合わせているということである。例の兄妹間の殺人事件では妹の兄に対する説教的な言辞に対して兄が腹を立てたということであるが、これなどは制度的な男性に対するこれも嫌な言葉であるが、勝ち組と負け組のはっきり分かれた世間的な人物に対する評定そのものが、あのケースでは妹の発言には見られた。その様に負け組的なレッテルを貼られた兄は妹に対して一線を越えた発言と受け取り(と言うことはそういう発言を身内からだけは言って欲しくはなかったということになる)、だったら体力だけはお前には負けないのだ、という主張が彼女に対して兄の側からなされたのだ。
これは言語的な行為、発言自体がその気軽に慣用しやすさの割には意外とそう言われた側のトラウマを容易には解消させてはくれないという恐らく古代から人間にあったとも思われる言語行為の恐ろしさを物語っている。
男が女に対して言ってはいけないことというのもあるだろう。しかし男性が女性に言葉で侮辱することは意外と少ないということは言えるかも知れない。もしあったとしたら愛情の欠けた発言ということになるだろう。愛情の示し方も、示されたい仕方も男女では微妙に異なる。例えば女性に対してブスと言うのは確かに禁句であるが、それで本当に愛し合っている男女間ではそういう揶揄を言っても許されるということもあるかも知れない。
例えば妻が突然中年以降に年齢になってから美人コンテストに出ようとした時、「この街には君より美人は大勢いるのだから止めておいたら」とか夫が忠告するということはあり得ることである。だからそれも小さな侮辱ではあるが、そういうことよりも恐らく女性は、相手に対する配慮、例えば新しい服を着たり、化粧の仕方を変えたりすることに無頓着な男性とか、何らか日常おける努力に対してきちんと理解してあげられるだけの「心のゆとり」のない男性の心遣いに対して、我慢がならないということはあるかも知れない。男性の場合社会的な評定自体をパートナーに下されるような発言に対しては憤りを持つことが多いが、女性が男性に対して揶揄的な発言、例えば「父さんも腹が出てきたね。」とか娘と一緒に言われても、それほど腹は立たないだろう。ある意味では長く一緒に暮らす夫婦の間柄では寧ろ歯の浮く様なお世辞とか美辞麗句は他人に対してなされる社交辞令と違って、逆効果である。彼等の間では親しい友人間でもそうなのだが、その言葉を聞く側にとって発する本人の本音を理解しやすい発言の方がずっと愛情が篭っており、また責任ある発言だと見做されるし、彼等もそのことに関しては了解し合っていることが多い。だから配慮的な意味でもあまり他人の前で夫を見下すような言葉を発言する様なことでもない限り直接揶揄されるようなことはあったとしても尚男性が女性に対してそのことで極度に恨みを抱くということはあまりないだろう。 或いは食事の際のマナーや裸で室内を歩き回る様なことは特に伴侶である女性や娘から見たら耐えられないということもあるかも知れない。しかしそれも恐らく個人差のあることである。しかし男性にはいつまでも子供のままでいるという様なところがある。それに対して女性は男性よりも早く大人になろうとするところもある。そこで勢い余って女性は男性のことを母親でもないのに、母親が息子とか姉が弟に対して接するようになる。それは妹が兄に対して採ることもよくある態度である。だから女性は社会が男性に対して好むと好まざるとにかかわらず規定してくるようなジェンダーロールに対する自分なりの意識に対して「何もしていないじゃないの」的な発言だけは控えるようにしなければならない、と私は思う。せめてそれくらいなら男性に対して採ることの出来る配慮ではないだろうか?今度は女性から見た男性の我慢のならない一言に関して考えてみよう。しかし私は男性なのでここは一つ私の知る女性から発言して貰おうと思う。 私の知人のある壮年女性は、やはり身体的なことや顔のことで文句を言われるのと女性は一番嫌がるのではないかと彼女はそう言ったが、やはり女性も「あなた<君>は何か夢でもないのか」と言われることもかなりきつい一言であると言っていた。 ある意味では私は彼女から仕入れたことを基準に言えば、案外男性が女性に対して思う以上に女性が男性から言われて傷つく一言とはそう変わらないということであった。 だが最も難しいこととは、人間は婚姻関係にある者同士をただ単に人生のパートナーとして理解し合えるということであるなら(つまり生物学的に言って繁殖目的だけではないのなら)そういうレヴェルではそのような発言を差し控えるという意志的な努力が、もしキリスト教的倫理に基づいて「死が二人を分かつまで」生涯添い遂げようとしているのなら、円満な夫婦関係によく作用するということはあるだろうが、そのような言語行為的な倫理と、性をもっと単純に繁殖目的の行為と見做す(尤も生物学者たちは性を繁殖だけのためのものとはとっくに見做していないのだが)なら寧ろ言語行為を発話と捉えるなら邪魔なものとして作用するという場合もあるのだ。愛を性愛として捉えるなら確かに言葉は要らない。しかし夫婦とか男女間の人生のパートナーシップの前では性愛だけが愛情ではない。互いに病気になった時には助け合い、あるいは社会生活それ自体を維持するために協力し合うという意志的努力の方がずっと重要な場合もある。とりわけ子供を育て終えた中年以降の夫婦にとってはそうだろう。だから言語行為において「心に残る言葉」も、先にくどくどと説明してきた「許せない言葉」も、共に社会生活上での最も重要なパートナーでもある性的パートナーとの間では人間の場合非言語的な相性の問題だけでは済まされない(勿論非言語的な相性が、性愛行為の際の身体的な言語に直結するから、それはそれで重要だけれども)、要するに社会人同士の相互理解が重要になってくる。それはある意味ではジェンダー的な男女の差を相互に理解し合い、その前提に立ってそれを克服することが理想であるような心と心の交流である。 本論では「心に残る言葉」と「思い遣りのある言葉」について最後に考えていってみようと思う。 私は本論において第一章で哲学者の考えを現象学の歴史的要請、時代的使命に関してアンリを中心に考えてみたのは、フランス人という民族性が現象学発祥の本場ドイツ人とも日本人とも全く異なった言語行為に対する文化的伝統があるということに関して関心があったからでもある。現代では現象学はアメリカの哲学者であるヒューバート・ドレイファス等によってもまた引き継がれているが、発祥当時はドイツとフランスが中心だった。そしてフランスは現象学以外にも実存主義(現象学とも密接な歴史がある)もあったし、構造主義もあったし、ポスト構造主義という思潮も輩出した。要するにフランス人はアメリカ人が得意とするようなタイプの民主主義的ディベートの好きな国民性とも、また微妙に異なったタイプの詩的修辞性の濃厚なタイプの、シャンソンの国民性の語り好きである。論争も、芸術論も好きな彼等にとって語ることは人生であり、書く行為も民族的資質としては他の国民ともまた異なった信仰性がある。 それに対して日本人は論議そのものを元来得意とする民族ではない。だからと言って日本人にはロジックがないというとそれは間違いだと私は思うが、少なくとも一般的な日常生活において論議とか議論とかが定着しているとは民族資質的には言い難い。そこに私たち日本人にとっての(実はドイツ人もまたフランス人の議論好きとは全く異なった資質があり、それは日本人とも共通したところがあると言われている)言語に対する独自の美学とか、言語観とか言語生活観とかが潜んでいる様な気がする。そしてそれは日本人の作茶道とか華道とかの文化的な伝統とも関係があるよう思われる。 それは文化的な問題である。言語行為に対する民族的な認識の傾向のことである。しかしそのような認識が生じるということは、逆に言えばそういう認識を成り立たせる生活世界というものが一方にあり、その生活があるとい事実は日本人であれ、フランス人であれ、イギリス人であれ、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、韓国人であれ変わりはない。ただ各自の祖国という異なった土地に根付いた歴史があるだけである。つまり文化とは、文化を成立させる生活があり、その生活は人間が生物学的な種として当然のことながら営む環境適応の行動である。 現代の生物学者たちの多くは動物の行動の殆ど全てを自らの遺伝子を拡張するために最適な行動とは何かということを本能的に選択していると考えている。勿論この考えに対して異論を唱えるタイプの学者もいる(2012年の現在ではその数は増えてきている)のだが、取り敢えずそのことに関してはそれだけに留めておくとして、大勢の現代生物学者の性と遺伝子拡張のために最適な行動とは何かということで選択された婚姻形態とか性行動に関する理論を人間にまで適用することに対して、恐らく殆どの宗教思想家や一部の哲学者たちは極度の警戒感を持って臨むだろう。 しかし本論の序で私が始めの部分で科学とは奇蹟という考え方の否定であると言ったが、その真理に従えば、我々自身が人間であるからと言って人間だけを特殊な存在として見る見方は少なくとも科学的見地から言えば正しいとは言えない。そして私は性は繁殖を目的とした性行為のことだけで性科学の生物学者たちは考えてはいないと言ったが、実はそれは例えばチンパンジーによく似た、あるいはチンパンジーの一種とも考えられているボノボたちが繁殖のためだけのセックス一辺倒ではないという現実、つまりグルーミング(毛づくろい)とかと同じような友愛的な、親愛の情を示す社交辞令的な、儀礼的な性行為を行うという意味で、人間もまた妊娠だけを目的とした性行為を行うのではない(そのことに関してキリスト教原理主義は反対するだろうけれども)ということから見れば同じであるということだけのことを言っているのではない。人間にとっての性は、実は性行為を中心とした行動以外の身体のホメオスタシス(恒常性)や内分泌作用とか様々な重要な身体的機能と密接に関わっているという意味で生物学者たちは注目しているのだ。自然はそれ自体に関して特定の目的を我々の種人間に与えているわけではない。しかし人間はまさにナイルズ・エルドリッジ(考古学者)の言の如く「生きる」目的のためにそういった身体的機能をも司る性というものに対して感謝しているのかも知れない。 生物学的には人間と他の霊長類を厳密に異なった生物であるとする様な境界はない。寧ろそのような境界は人間が人間のために設けたものでしかない。しかしそのような生物学的な事実は、逆に我々に対して「だからこそ社会倫理としての夫婦の愛情は相互に対する思い遣りと責任に端を発している」という考えを持つことを積極的に支えているとも言えるのだ。端的に言えば人間もまたただの動物である。だからこそただ単に性行為を繁殖や性的快楽だけに任せることを潔しとしない、つまり永続的な人間観の感情の交流という価値に転化させることを人間は考え、そこに社会的な共同幻想である責任という概念を基軸にしながら、言語行為、言語諸活動を進化させてきた、ということなのだ。そして言語の進化とは恐らく長く共に暮らす夫婦の間でも各自異なった形ではあれ、必ずあるのだろう。それは恋人たちにもあるし、同性同士の友情にも、あるいは異性間での友情にもあるのかも知れない。 そういう意味では生物学という科学は、現象学が直接倫理に触れることなく、倫理を取り巻く身体的実存を具に観察することで記述する学問である、という観点とも大いに共通する倫理誘発的な学問である、と言えないだろうか? そこで我々が日本人であるという現実の前で日本人に固有の「心に残る言葉」とか「思い遣りのある言葉」とは、実は他の多くの民族にとってもそうなのだ、という観点に立って、宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等に求めていってみようと思う。 私たちが他人から言われて「心に残る」とか「思い遣りがある」と思える言葉とは、その言葉を吐く人の中でその言葉を聞く人に対する何らかの気遣いに端を発する言葉である。 その気遣いの本質を考えてみよう。まず考えられることとは、第六章において示した発話する者の心的動機の次の部分が合わさったものと考えられる。 ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する(これも又対話者に対する信頼を必要とする)。 ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないこと も発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。 ④の心の動機を自分に対してではなく、対話する相手に対して向けると次のようになる。 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞する為に発語する(これもまた対話者に対する信頼を必要とする)。 そして⑤の心的動機を、他者に対して適用するわけだが、「ほっといてあげる」型の選択をしながら、「ほっといてあげる」ことも出来るが、こういうことを「してあげる」ことも出来るよ、と語りかけるのだ。だからそう言われて、その言われたことを気にしなくてもいいんだけれど、関心があるのなら参考にしてみたら、という発言である。 つまりこの二つを兼ね備えた発言のみ、我々は親切な一言、つまり「心の残る言葉」であり、「思い遣りのある言葉」であると認識するのではないだろうか?認識という言葉がどこか左脳的なニュアンスに響くという向きには感得する、と言い換えてもよい。 そこで心に残る、思い遣りのある言葉をもう一度定義しなおそう。 ① 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これも又対話者に対する信頼を必要とする。) ② 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないことも発話される側の自由だが、発話されること(記述を読むこと)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。だが同時にそれを参考にすることも出来るよ、と語る。 「心に残る言葉」は、それを語る人の語り口、語調、他者への気遣いということなのだろう。ここで結論として、幾つかの例を挙げて、そこに漲る自己‐他者における本質論的なことについて考えてみることにしよう。そしてその際に責任を軸に考えてみよう。何故ならこれから挙げる宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等には、明らかに思い遣りというものの中の責任、心に残る箴言というものがあるからである。 思い遣りがあるとか、激励の言葉は変にウェットになり過ぎない方が心が安らぐという人もいることだろう。そういう意味では私は言語行為というものは、メタ認知的なことも必要であると考える。しかしまたそのメタ認知にも程度はあるだろう。あまりにも相手の心を深読みし過ぎることも考え物だからだ。心に残る一言も、その場その時には反感を買うものでさえ、時間がたってみると意外に心に染み入る場合もあるし、その逆もあるだろう。あるいはやはり通り一遍であるが故に心に染み入るということもある。変に気取ったり、変に工夫しないでいたりする方がずっと思い遣りがある場合もある。 やはり私たち日本人が心掛けておかなくてはならないこととは、「ほっといてあげる」型の発言は、どこまでほっといてあげるのか、どこまで相手の心を斟酌しておく必要があるのか、ということが問われるということだろう。 でもそれはある意味では文化的状況とか、個々人のその時々の感情の様相と密接だろう。あるいはシニシズムそのものが効力を発揮するのは、そのシニシズムを冷静に受け止める心の余裕が齎すものである。だからこそその時「むかっときた。」と感じた一言が将来意外と「いい一言だった。」ということにもなり得るわけである。 そういう意味では哲学者の中でもニーチェとか文学者の中でもオスカー・ワイルドはどこか虚飾を取り払ったことから生まれるシニシズムがあると思われる。例えばワイルドの次の言説は明らかに彼がニーチェ流を愛していたのではないかと思わせる。 「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかですよ。<ヴィンダミア夫人の扇>」 しかし前半はニーチェ的な要素が濃厚だが、後半の言説はやや違って、やはりワイルド流ではないか、と感じさせはしないだろうか?例えばニーチェなら魅力などという粋な言葉を考え付かないだろうと思うからだ。例えばニーチェなら次のように言うのではないか? 「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは善いと思うか、悪いと思うかその時々の立場とそれによって生じる欲望に応じて使い分けるのです。」 しかしニーチェは恐らくそんなに直接その様に語ることを選択しはしない。そこにニーチェ流があり、文学者ワイルドとの違いも横たわっている。ワイルドはニーチェより十年後に生まれ、二人は同じ年、1900年に死去している。ワイルドもニーチェもお互いの存在を知っていただろう。ワイルドは1854年に生まれ、ニーチェは1844に生まれている。その二人よりは少し若い世代にワルター・ベンヤミンがいるが、彼は1892年に生まれているから、ワイルドが38歳、ニーチェが48歳の時に生まれたことになる。この年、ワイルドは1888年に「幸福の王子」を発表、人気作家として絶頂にあり、その三年後に逮捕、有罪判決を受け、服役することとなる前の状態であった。一方ニーチェは診断の状況から鑑みて、梅毒とも脳腫瘍とも説があるが、兎に角精神的な異常を来たし、その三年前には「偶像の黄昏」を出版に漕ぎ着けているが、翌年に夫が自殺したために舞い戻ってくる妹エリザーベトが出版権やら、身の回りの世話をすることになる以前の、ぼろぼろの状態だったようである。 さてベンヤミンにとって死後公表された草稿群である「パサージュ論」は現代社会の様相から見た時、その先見の明には驚かされる。そういう風に生涯公表することなく携えていたというところなどレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を彷彿とさせるが、この論の中から幾つか秀逸と思われる記述、しかもベンヤミンが他の著作者からの引用として記していたものの合間に自分の意見をしたためていたものの中からピックアップして記載しよう。
「新しいものがどういったものであるか、そのことをもっともよく教えてくれるものは、おそらく遊歩者であろう。独自の運動をし、独自の魂を宿した群集という仮象こそは、遊歩者の新しいものへの渇望を癒すものである。実際のところ、この集団は仮象以外のなにものでもない。遊歩者が享受するこの「群集」は、70年後に民族共同体〔ナチズムを示唆している〕が流し込まれる鋳型なのである。自分が目覚めていること、そして一匹狼であることを自負している遊歩者は、その後に何百万人もの目を眩ませた虚像の最初の犠牲者であったという点でも、同時代者に先んじていた。[J66、1]」 「結婚の社会的価値は、決定的にその犠牲者による。というのも、この犠牲のうちには、配偶者相互の最終的で決定的な、しかし生涯のあいだ先送りされる「対決」の観念が潜んでいるからである。配偶者は、結婚が続いているかぎりは、この対決を免れるのである。つまり基本的には生涯にわたって免れるのである。[J67、1]」 前者は遊歩者という存在が、都市生活上、各個人は自分のことを自分自身による主体的な行動であると考えていても(事実誰しもそう思うものなのだが)、統計上全ての市民、各個人は、一定の水準で割り当てられる全体の中のある層であるということが誰しも了解出来る。例えばある社会において、ある特定の時代に於いて、その時代状況に於いて、多く犯罪者が出現する時期というのもあるだろが、ある程度の振幅が認められるにせよ、概ねそれは変わりないし、天才とか、個人主義的傾向の人とか、要するに色々なカテゴリーに属する人の割合というものはそう変わりないし、しかも各個人が、例えば私自身がどのカテゴリーに属するかということは偶然的でしかないが、それが一定の纏まりになると、途端に何らかの必然的な法則性が見えてくるという意味で、真に集団から解放された自由な個人というものはあり得ないと自然科学的現実からは言える。その意味でベンヤミンの前者の言説は科学の言葉でもあるし、後者の言説は社会学的であると同時に哲学的な言葉であり、政治の言葉でもあると言える。そしてワイルドの言葉は政治の言葉にもなり得るし、科学の言葉として認識することすら可能である。そして総体として見た時、哲学の言葉とも言えるかも知れない。 そして後者は明らかに結婚幻想を抱いている人向けの、シニシズムである。要するに結婚とは社会的対立を避けるために自然が我々に付与した妥協策であり、知恵である、という意味では生涯一人の伴侶に愛の忠誠を誓うことすらも、実は我慢の連続であり、それはそれ以上のいがみ合いを回避するためにのみさなれる人生のルティンワークにしか過ぎないとしたら、若い世代の人々は幻滅するかも知れないが、そもそも人生とはあらゆる仄かな幻想に対して幻滅することから、その醍醐味がスタートする、という意味ではこの言説は極めて説得力を持っていると言える。 前者はユダヤ・アイデンティティーとしての言説として、後者は結婚に失敗した男の言説として銘記しておくべきベンヤミンの名句であろう。 制度は性悪説的な処方箋として完備されてきたものである。その制度によって生まれた慣習に対してロマンを感じる向きに対しては、痛烈な皮肉としてこういった文学、修辞学、哲学の鬼才たちは言説として時代の安易な風潮に対して楔を打ち込んできたのだった。そういう意味では論語の次の言葉は現代に生活する我々にも心にぐさりと突き刺さる。 「子白、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁、 子曰わく、徳ある者は必らず言あり。言ある者は必らずしも徳あらず。仁者は必らず勇あり。勇者は必らずしも仁あらず。 先生がいわれた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばのある人には徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人には仁があるとは限らない。」(金谷治訳注、岩波文庫) つまり孔子の考えでは形式としての表現内容というものはまさにテクストとか、要するにその発言をした人の実像を知らなくても、普遍的な真理として読み取れるものだが、その発言が真意でなされたのかとか、人生の真実の経験から発せられたのかということに関しては定かではない。しかしだからと言ってその言葉そのものは美があり、真実を突いているのなら、そのこと自体は価値であり、また仁義を尽くす人の行動とか精神は勇気に溢れていると言えるが、勇気のある人全般に仁義があるとは限らない、つまり悪党には悪党の勇気というものもあるし、潔い人間が穏やかで優しい場合もあれば、冷淡な場合もあるように、必ずしもその精神の価値がその人間の価値には結びつかないという不条理は社会そのものと言うよりは自然の傾向として受けとめるべき事実であろう、と私はこの言説を読み取る。つまりもし仁義のない人によって発せられた言説であっても、その言説自体の価値はそれはそれとして認めるべきである、というのは、幾ら素晴らしい人格の人が洩らした一言が、その素晴らしい人によって齎されたとは言え、仮に下らない一言の内容であれば、価値として受けとめる必要など何らないし、それは何らかのアイデアでも提案でもそうだし、権威礼賛型行為選択志向の人間には耳の痛い話であるが、そういう真理として私は受け取っている。逆にただ言葉だけが美しい人、勇気だけがある人が、その事実をもってして、称賛に値するかと言えば、そうは問屋が卸さないという意味で受け取る人もおられるだろうし、それは自由であるが、それは形式より内容を取る人、あるいは情による人間関係を重んじるタイプの人の解釈かも知れない。私はそこら辺は都会派的にシビヤに、ドライに割り切って、寧ろ真意や心根が美しい人でも、形式主義的な、つまりその人間性の表現方法とか、儀礼的な技能によって随分損をすることもあるし、逆にそれほど慎ましやかで称賛に値する心根や人格ではない人でも、そのパフォーマンス次第では何とか社会を生き抜いていけるという責任論に近いものを私は受け取り、社会の現実、つまり競争社会のシビヤな事実を記述している、と受け留めている。又そう解釈する方が実力はあったが生涯高官位を得ることなく果てた孔子の言説としては身に染みるという気がするのである。これは明らかに政治の言葉であると同時に哲学の言葉でもあるし、科学の言葉(科学的態度とはこうあるべきであるという提言として)でさえあると言えよう。 要するに、どのような言葉が責任ある言葉、本音の出る言葉、思い遣りのある言葉、心に残る言葉、許せない言葉かという判断基準は、ある程度個人的な受け取り方に依存する。しかしそのような判断基準は各個人の成長過程で起きた出来事とか、遺伝的性格とか色々あって、なかなか一般的判断には結びつかない、従ってそのような個々の受け取り方に関する論述は後日の私の宿題にすることとして、本論ではは何らかの結論めいたことを提出しなくてはならない。愛と性の言語と言いながら、前半ではその種の考えを述べたものの、殆ど性愛とは別個の倫理的問題とか言語的メッセージの問題に終始してきたが、実は私の狙いはそこにあったのである。愛や性に関して生物学的、社会学的、人類学的テクストは沢山出版されている。しかしもっと私たちにとって重要なこととは、そのような曖昧な概念が私たちを社会的には支配している、ということと、その曖昧さが存在する意味を、個人的な価値判断と、公的な価値判断を峻別する癖が我々についている、ということを読み取る為のツールとして考えるべきかも知れないし、それが最も重要なこととして浮かび上がってくるのである。 例えば本音の出る言葉というのは通常親しい人の間柄同士でのみ心に残る言葉になり得るが、よく知らない人同士だと非常識というレッテルを貼られかねない。或いは行動に関してもそのことが言える。行動というのは常に責任を伴う、それだけで社会的な概念として考える必要が人間社会には求められる。すると日頃どんなにいい人であると信望が厚くても、一旦挙動不審な行動を採れば、それだけで非常識というレッテルを貼られる。常識というものは要するに責任倫理的な法的価値規範である。それ自体は確かに法的に裁かれ得ないこともあるだろうが、概してどんなにその人間の真意や、心根が美しいものであっても、この最低限の常識を遵守しない者は、それで罪を課せられ裁かれるということはないにせよ、何らかの形で社会的な信用をなくすとかの制裁を受ける。「親しき仲にも礼儀あり」と言うような使い古されたような諺にもちゃんと真理はあるのである。責任的行動倫理とは、実は情とか義理とかそういうレヴェルで判断してはならないものなのだ。もし法というものが全て明文化されている以上のその都度の人治主義的判断で執行されたとしたら、それはただの丼感情でしかない。それはある種の閉鎖的共同体に顕著な価値判断、法的性格とも言える。だからこそ六法全書的テクスト言語というものは、どこか突っ放した冷たい印象を我々に与えるが、まさにそうであってこそ、その法に従う市民層のどのクラスの人に対しても平等に適用される、という法の精神が活かされ得るのである。それはあらゆる人情的、贔屓筋的な丼感情を排斥するために寧ろ積極的に必要な措置=体裁なのである。それこそが責任倫理の真理主義と言えるだろう。 そして実は言ってはならないことというのはどんなに親しい間柄でも存在する。その一つが本章で最初部で述べた男と女の会話術的な言説によって私はある程度示し得たと思う。私は昔から人情味溢れる言説よりも、常に冷厳な現実をよく言い表した名句の方により惹かれるタイプの人間だった。そういう意味では偽善的人情句というものが大嫌いである。 と言うのも本質的に家族とか、親族とか、配偶者間の結婚とか、そういう諸々の人間関係的な社会制度というものは、実は人情主義によって命脈を保っているのではなく、相互の行動論的な責任倫理によってこそ結ばれている、と言えるからである。そしてそれは例えばどんなに親しい者同士でも庇い合うという精神は必要であろうが、一定のラインを超えたら、親しい者同士で裁くことは法的にも社会倫理的にも許されまい。 つまり愛や性といった一見生理的レヴェルの問題でさえ、言説的側面から判断すれば、明らかに社会秩序と、ある二つの行動間に横たわる二者択一の問題にしても、論理的筋道とか、倫理学的決裁方法とか、要するに責任倫理の真理主義が求められるのだ(もしセックスまでそういう言説であるとする考えに反感を感じられる向きには言いたいのだが、性行為をよりエクスタシー獲得や、非倫理的動物的欲求に還元しようとすればするほど、性交渉の相手に対する配慮とか約束事<遊びにしたって遊びのルールが厳然と存在する。>が浮上するという意味においては、私たち人間の行動は悪には悪なりの勇気があるというレヴェルにおいて称賛される場合においてさえ、その行動の形式的責任倫理の真理主義が求められるのだ)。 いや人間にとって愛や性は、契約であり、規約であり、理性的行動規範によって善悪が判断される言説的、言語行為的、言語空間依拠的な行動であると言ってよい。 人間が相手に対して憤りの感情を抱くことは日常茶飯事だ。しかしその時向こうの立場やら、相互に相手の弱点に対する配慮を持てば衝突は避けられる。そういう意味では愛や性といった個人的な感情のレヴェルから相手の立場を尊重した責任倫理の真理主義が採用されれば、昨今のような猟奇的殺人にまで至る様な悲惨な現実を招くことなどないだろうに、と常に私は思っている。そしてある程度の冷厳な法的精神と、形式主義的正当性を優先するような理性主義を持ち、つまり人情主義加担的なヒロイズムを捨て去り、ロマンよりもリアルな面からの判断を優先することによって、この過密スケジュール的な現代情報化社会のシステム内で、何とか潤いのある生活を手中に収めることが出来るのではないか、と提言したこの論を閉じようと思う。 最後に一言だけ述べさせて貰おう。 「触れ合い」とは「馴れ合い」ではない。 「触れ合い」は責任という行為と精神によって成立する。(了) 本シリーズは加筆修正をしているが、基本的に五年前のものを基本としている。敢えて引用文献は記さないが、各章毎に引用する度には示しておいた。昨年の大震災でかなり日本人の未来への考え方は変わったが、ここで触れられていいることは概ね外れていないとも思っている。次回からはその都度自由に書き込み更新していこうと考えている。格別シリーズ化する予定もない。但しより哲学的考察と人類学的考察のクロスする部分は意識し、単発的なシリーズをその都度恣意的に更新させるつもりである。(Michael Kawaguchi)
Thursday, June 21, 2012
〔言語の進化と責任〕第八章 信仰と言語
理性は責任を勇気付けるが、理性があるからこそ我々は信仰を持つことが出来るのだ。それは有神論者も無神論者も、合理的実利主義者も観念論者も唯物論者も等しく作用させている現実ではないだろうか?恐らくその事実を自ら納得するために我々は言語を利用してきたのだ。だから信仰と言語の関係を論じる時、我々は責任と理性の連携プレーに注目する必要がある。
キルケゴールは「不安の概念」において原罪、罪といった事実に対して真摯に向き合っているが、その際にヘーゲル流の弁証法では推し量れないと考えていた。しかし何故彼はヘーゲルを批判する必要があったのだろうか?
ヘーゲルにとって理性は問うべきものではなく、既に前提されていた。しかしそれは彼の主張する他性と承認を限定付ける必要性のための方便だった。しかし理性はカントが問うよりも遥か以前から問うより先に認めるべき対象だった。そして二十世紀においてある時期積極的に理性は問うことから遠ざけられた。しかし今再び我々は理性に向き合う時期に来ていると私は考えている。そしてその際に責任が行動を理性の俎板で料理することを招聘しているのだ、と考えているのだ。行動のない現実においては理性はその存在理由を失うからだ。ヘーゲルは敢えて社会哲学的視野に徹底することによってあるいは彼の後の時代のキルケゴールを待ち望んでいたという風にも捉えられる。それは恐らくカントがヘーゲルのような存在を待ち望んでいたようにである。
哲学の場合宗教的信仰と異なり、同一の心的志向性に対して結束することを潔しとしない。寧ろ共鳴することが批判することによって初めて意味を生じるような出会いを彼等はモットーとしている。この点では哲学は科学と相同のメカニズムを持つ。勿論宗教においても恐らく宗派毎の思想の差異主張が、それ自体他の宗派に対する批判として作用しているという現実は極めて大きいと言えるだろう。しかし宗教は信仰心の多大なエネルギーの解放が、ややもすると統一を宗派間の相違にもかかわらず求めるということを潔しとしてこなかった。もしそのような作用がなされたとすればそれは寧ろ政治レヴェルでの解決だったに過ぎない。(例えばカルケゴン公会議)
政治は確かに哲学においても科学においても大きな作用を思想全体に波及させてきた。しかし政治自体が哲学や科学に対しディタッチメント的な存在理由を与えてきたとも言える。私が言っている政治とはただ職業政治家による政治のことを指すのではない。それをも含み、哲学者たち自身、科学者自身の立場の主張といった事実を寧ろ主体としたものである。
キルケゴールがヘーゲルを批判したのは、統一することが可能であるような理想郷を彼がどこかで想念していたのではないか、ということに対する懐疑に他ならない。懐疑的主張もまたある意味では政治的発言である。
ところで私は最近歯科医にかかり治療して貰っているのだが、治療のために麻酔を効かせることを私のかかりつけの歯科医が試みるのだが、私は他の人よりも麻酔にかかり難いタイプだと歯科医は私に告げた。私のような思索家はある意味で懐疑主義者である。そういうタイプの性格では麻酔に対して従順に対応するということが神経レヴェルでも困難なのかも知れない。それはそうだろうと私は思った。神経と精神は密接な関係にあるからである。
さて生とは何かという問いをいざ提出されると誰しも「無意味ではないのか。」とそう容易には返答出来ない。しかしサルトル的に「人生とは無益な受難である。」と言う風に押し切れば、意外と後はすっきりする。つまり生そのものに意味を見出さずには生きられない動物として我々は人間を規定することが出来る。生とは意味的世界の拡充を目的とすることで無意味を克服しているのだ、と捉えた方がずっとよい。そして哲学はそこに付け入って存在してきたのだ。だから私が言う信仰とはある意味では哲学に対する恩返しという側面もあることは否めない。しかし信仰と位置付けることが宗教的信仰心と乖離した地点でなされ得るというところに意味があるのだ。何故ならウィリアム・ジェームスの説話している禁欲という心的様相は、実は無宗教者にも全く当て嵌まる経験だからだ。いや寧ろ無宗教、無神論であるが故に禁欲的な道徳律が必要になる、という事態も稀ではないだろう。
それは心の平衡を保つためにある意味では無謀な心理に陥らないようにするには、自己内の欲求を必要以上に発動させないように心掛けるしか手がないからだ。そしてそうするためには自己内の欲望を禁止することが最も手っ取り早いというわけである。そのように心掛けることはキリスト教徒的な道徳律で原罪を理解するということではなくても、例えば身体論的に欲望を控えめに、という心得であっても同じことである。この姿を見てキリスト者たちは「それ見たことか。彼もまた原罪を認めたのだ。」とそう言うかも知れない。しかしアンチ・キリスト者はこう言うだろう。「そもそもキリスト教が原罪なる観念を提出したのは、身体論的なメカニズムに端を発しているのだ。」と。
それは発言における責任の在り方にまで関係してくる。例えばある法案に賛成の者が殆どであと残り一人になったあなたが
「賛成します。」
と言うのが最も他の成員全員にとっては好都合である筈だ。しかしあなたはそうすることが内心では出来ない。だから「反対です。」と真っ向から言えないような状況下でも尚、無意識にプロテスト精神が浮上し、
「賛成したいのですが。」
と発語の方が勝手にあなたの優柔不断を払拭しようと試みる。しかしその次の句が問題だ。
「賛成することは出来ません。」か「賛成しかねます。」
と言うという選択もある。しかし他方
「もっと最適な法案には出来ないものでしょうか?」
と言う選択肢もあるのだ。あるいは
「もっと何とかならないものでしょうか?」
と言うことも出来る。これはある意味では否定するだけではなく建設的であり、改善意欲を促進する言い方である。
人間は誤りを犯す動物である。それを認めることをしながら、それでも改良することでその傾向性を克服することが可能だという希望の光が後者の発言には感じられはしないだろうか?そして付和雷同しようとしていた心的逡巡を吹っ切るような一言を発するという事態は、身体論的なメカニズムであり、ストレスを溜め込んで精神的に落ち込むことを未然に防止しつつ発散するように側頭葉のブローカ野が発動したのかも知れない。
ウィトゲンシュタインの哲学を通して理解出来ることとは、言語使用とは言語表現領域に自ずと限界を設ける行為であるということである。しかしそのように限界を設けるまでは私たちの存在はテレンス・W・ディーコンの言う設定された閉鎖系ではなく、開放系である、ということである。開かれつつ閉ざしていくことで言語を通してコミュニケーションしているわけである。そういう意味では言語行為とは一面では他者に対して開かれていて、共鳴することだが、一面では他者に対して決然とした態度を採ることでもある。その二面性が言語行為の本質であり、そこに責任が関わってくる。
例えば言語学では内部否定と外部否定というのがある。前者は
You must not do it.
であり、後者は
You may not do it.
である。この二つの場合最初のものは
「あなたはそれをしてはいけない<ということを肝に銘じておかなくてはなりません>。」
というニュアンスの意味で、後者は
「あなたがそれをすることは許されません。」
というニュアンスの意味である。
前者は明らかに説得型に近い説諭型である。それは対話手としての他者の自発性を尊重している発言である。それは自発的禁止の勧告である。要するに~をしないように心掛けなくてはならないということである。しかし後者は自発的であれ、外部強制的であれ、それをしたら駄目だということは有無を言わさぬということであり、禁止条例的、禁止事項無条件的である。前者にはそうしないと重大な結果を招くという警告のニュアンスがあるのに対して、後者は明らかに命令である。そこには他者に対する責任を見守るという尊重性は皆無なのだ。
私たちの日常では「賛成したいのですが。」型の発言を言い残し立ち去るということもある。それは議会のような場所では特殊なケースであるが、日常では頻繁に起り得ることである。しかしこれは責任というレヴェルから考えると責任放棄であり、無責任である。説明能力があってそうするのなら良心はない。しかし説明能力がなくてそうするのなら、それは大勢に対するささやかな抵抗ということになる。
ここで責任とはある意味で自己能力に対する自己査定と無縁ではないということにもなる。つまり責任放棄は一番手っ取り早い大勢に対する抵抗であり、責任を負うということは自己能力を他者から求められていることに対する自覚であると同時に、それを請け負うという意識の発動だ、ということになる。そしてここでもう一つ重要なこととは、他者に対して責任を負わせることに内在する信頼性を他者に託するか託さないかということ(そのどちらが良心的であり、思い遣りがあるかどうかは難しい問題であるが)がある発言に対してどのようなスタイルを選択することに直結するかということである。この問題は例えば経済社会でM&Aを徹底的に防御するか、ある程度自由にさせるかという選択、あるいは政治家はどこまで国民や市民に対する責任を負うべきかある一定以上は負うべきではないかという選択をも、決することとなる重要な問題である。
つまり他者に対して信頼することに主眼を置くか、それとも他者とはすべからく信頼すべきものではなく懐疑的対象なのだから、それを念頭に入れて他者に接するということを選ぶことの自由も含めた選択肢の問題へと繋がってゆく。もっと簡単に言えばあまりに他者に対して自主性に任せるということは放任という事態にもなるし、そうかと言ってあまりにも他者に対して規制をかけるということは自由の原則にも反することになるが、ある一定の力量や能力のある者に対して他者の能力とその責任に対して委ねるという行為は、そこまでの実力のない者には負担となるということは社会ではよくあることだからである。
つまり我々は常に自己の能力に対する自信の度合いで他者に対してどのように接するべきかという行為の際における判断をしているのだ。実はこの問題は人類は延々と繰り返してきたのだが、未だに決着はついていないのだ。そして恐らくこれからも決して解決するということはないだろう。しかしこれだけは言える。アンリのような哲学者たちが書く行為自体が信仰であったように、これからも問うこと自体が信仰であるような思念を私たち人類は捨て去ることは出来ないだろう、ということである。
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