Thursday, November 27, 2014
シリーズ 愛と法 第十五章 種と愛の在り方③ 情と愛はどう違うか?Part1
韓国哲学研究者の小倉紀蔵に拠れば韓国人は法より情を重んじる、という事だが、それは韓流ドラマを観れば主人公の行動が必ず情で法に背き、其処で制裁を受け、しかし観ている鑑賞者は皆情を捨てられない生き方を是とする様に作られている事からも、彼等韓国人の深層心理には法にだけ縛られる事を潔しとしない世界観が大きく支配している事だけは分かる(その顕著な例は今放映中で佳境にある『ホ・ジュン』であろう。其処では心医という語彙が使われている)。
しかし人は確かに人事(ひとごと)であれば、責任やその履行を最優先に主張し、それを果たさぬ者を揶揄するけれど、それが自分に課せられた責務であるなら、その履行が如何に大変かを悟り、同じ立場に立たされた他者へ同情も禁じ得ない。そういう意味では当事者にしか分からない相互の情というものは存在し得る。
そしてそれでも尚責任を履行しない事へは自ら戒めを抱くだろうし、同じ様に戒めを持ち自己を律する他者のみを情で観よう。しかし仮に責任を履行し得ない他者に対して情で見ないで責任倫理だけで判断しても、相手にもそれなりの事情もあったのかも知れない、という意味では人間はかなり自らの主観で許せる相手とそうでない相手を恣意的に選別しているという事も分かる。
所詮人へ厳しいのも、情で接するのも主観であり恣意的なその都度の判断でしかないと知れる。其処でそれなら、寧ろ相手の立場を自分で理解し得る・し得ないで判断するのでなく、全て一緒くたで判断して、法を守る者は如何なる他者でも等し並に正しく、そうでない者も等し並に正しくないとして接する以外にない、という判断が一番正当であると思えてくるのだし、それは確かに理性論的に正しい。
情は法より重要であるとは確かに責任倫理的には言えないし、それは端的に謝りである。しかしにも関わらず時と場合に拠っては法だけが全てであるとは言い切れず、一切の情を注がない事の方が悪であると判断せざるを得ない事もある。
民族とか国家もその一つであり、同胞という意識自体も全く常にそれだけを最重要命題にする事も現代グローバル社会、世界的視野からは正しくはない。にも関わらず誰しも特定の国家に属し、民族を有している以上、同胞同士協力し合わないでいるだけなら、非難されて然るべきだという判断も、それはそれで正しい。
結局相手が外国人だから何があっても知らん振りという事も許されないが、同胞だからと言って一切手加減もしないという事は客観的に正義や法の前では正しくても、人は確かに法にのみ従順で、法順守だけしていれば、後はどうでもいいという事もない、という視点からは決定的に言い得るし、正しい。
相手が外国人であれ民族的な同胞であれ、妻であったり夫であったり、要するに家族としてパートナーであるなら、やはり身内同士で助け合うべきだし、そういう時に公的客観的基準を持ち出すのはやはり可笑しい。と言って一切私的な関係でだけ助け合い、それ以外何も他人とは協力し合わないという生活態度や姿勢では社会的態度として適切であるとはやはり言えない。
結局どういう場合に私的な事を優先し、どういう場合にはそうであってもいけないのか、という事に帰着する。それは結局国民の義務を果たしているのかとか、社会成員としての義務を物理的精神的に果たしているのかという判定から、それをしているなら、それ以外の事では私的な事、身内、親族も含めた血縁的関係、要するに家族を優先してもいいという事になる。とりわけ親子関係に於いてそうである。
だがその親子とか血縁関係でも同僚とか同業者とか、要するに他人であっても、何処迄私的な事を優先すべきか、何処迄公的な事を優先すべきか、という事も実際民族毎にそのケース判定は微妙に異なるだろう。集団や組織を優先すべき場面が民族や各国民に拠って異なる、という事は大いにあり得る。それは社会行動とか社会判断でどういう風にするべきかが民族や国民毎に大幅に異なるという事がある以上当然である。そして其処では大いに民族史、国家史、要するに宗教的不文律から、日々の生活感情と不可分な文化的感性が其処に大きく立ちはだかっている以上、文化差、民俗学的差異は決定的にリアルには大きい、と言える。それを前回、前々回に私はそれなりに整理して考えてみたのである。
だが民族や国家帰属性を離れても判断し得る部分も当然あり得る。しかし豚肉をイスラム教徒に強制する事も出来なければ牛肉をヒンドゥー教徒に強制する事も出来ない。或いは日本の様に法的に拳銃等の銃器を所持する事を許さない国の市民にアメリカの全米ライフル協会の理念を理解せよと強制する事も同じ様に出来はしない。
だからそうなると結局ユニヴァーサルに相互に理解し合える範囲とはかなり狭まってしまうとも言えるだろう。しかしだからと言ってユニヴァーサルな愛と法の倫理が狭く矮小化された観念しか生み出さないともやはり言えない。
それは考えていく必要がある。そして今回韓流ドラマで情が法より観念的民族思考的な正義論では優先されるという事を例証したが、では情は韓国人の特権なのだろうか?やはりそれも違うと言える。
ドラマで頻繁に描かれるか否かより、そういう内容のドラマでも凄くいいものであるなら、どの国民でも理解し合える(例えば『おしん』は日本ドラマだが、かなり広範囲に世界中で親しまれ理解された)とも言える。
其処で危機的状況(地震や津波等)に陥った時他人も家族も助ける事が出来ない場合には、やはり家族を優先してもいいのではないかという想念も沸き起こる。しかしそれを優先しても尚、他人とも協力し合うべきだし、同一の運命で共有し合わねばならぬ状況では家族同士だけで結束していればいいのではなく、やはり他人とも協働すべきだし、情報交換し合うべきだという点ではユニヴァーサルに一致する見解が持てる様に思える。少なくとも赤ん坊を抱いた母親が津波を目前にした時赤ん坊をまず助ける事を優先する様な場合以外では、極力他人も同じ臨場に居合わせたなら相互に助け合うべきであろう。
この点では許されるべき私的な咄嗟の行動と、そうでなく咄嗟でないなら極力他人とも協力し合い、助け合うべきだ、とは言えるだろう。
次回は今回最後に述べた私的であっても許され得る状況とそうではない状況をもう少し踏み込んで考えてみよう。
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