Thursday, October 9, 2014

シリーズ 愛と法 第十一章 定言命法は誠実性を超える(前回の補足的意味合いから)

 ニーチェが言った誠実性とは、自分が思っているのに思って等いないと言い切ってしまういい子ぶり批判でもあった。それはイエスが息子二人に何かを頼んだ時快諾する息子を誹り、一度は断った息子を肯定する時にも適用されていたし、イエスは<リア王>のコーディリアスの様な誠実さを認めたのだった。
 しかしそれは前回の結論としてはイスラム国に参加する事だって自分で正しいと思えば正しいのだという決心へも繋がるし、それを否定出来ない。誠実性とはそういう危険性も実際にはある。
 にも関わらず我々はイスラム国に参加する事は良くない事である、とは哲学書や思想書に書きはしないだろう。何故なら今の所そういう活動に身を投じる事は危険分子として見做されるが、やがてそうでなくなる時期も来るからそう書いてはいけないのではない。
 どんな時代や状況が到来しようとそういう風には書けないのだ。つまりそれこそが文章化する事での誠実性と言えよう。 つまり生まれてきた国が日本だったから、それは如何様な理由があろうと処罰され得るから避けておこうと皆思う様な場合、それをいけないという風に書けないのだし、もし自分の身内にイスラム国の参加者が居て、しかもそれが民族的にもイスラム教徒であった様な場合、それをいけないとも言い切れない。イスラム国自体に問題があろうと、それを生み出したイスラム教圏自体にはそういったテロ集団を生み出す土壌自体が存在したという事だけは間違いない。
 前回の重要な議題でもあった<与える>とはつまりそういう事である。与える事の本質とは受け取る側(者)の主体と自発を促し、責任を相手へ委ねる事、つまり相手の意志(自由意志)と主体を信用する事が基本としてある、という事だ。それは愛の基本である。
 だからその愛の仕方、方法、つまり法はそれ自体その都度それを考える主体に拠っても変わり得る。イスラム国をいけないとか否定する論理自体は(そういう風に判断する自分が日本人だから)というそれ以上の是非を論じる暇は誰にもない。だが自分自身の国際正義や社会正義や人倫的正義としてはそうでない、だから敢えてその活動に身を投じるという意志自体は否定出来ないが、そうしなければいけないという何か外部からの圧が無意識に発動されているなら、それは考え直した方がいいとしか言い様がない。それらその都度の判断こそ法である。
 従ってカントの言った定言命法とは、ニーチェの言った誠実性より上位にある。何故なら誠実性とはあくまである選択肢を取る時、その選択肢が正しいと自分自身で思うからと根拠づけるだけだからだ。だが人は理性自体さえ常に正しいと言い切れないとカントを通しても知っている。つまり正しいと思えないから正しくないとか、正しいと思うから正しいのなら、自分自身が健全な判断を下せない時に、その下せなさ自体に誠実であるなら、それはそれが正しいと思っているのだから(健全な判断を下せる様になったら、それは正しくなかったのだ、と後で振り返りそう思えてしまう様な事であっても)正しくないとは思えない、それが本性だからだ。
 だからこそ誠実性とは自分自身の刹那的な誠実も含むが故に、且つ定言命法の様に一歩引き下がって、デカルトの様に自分自身のものだと思っている様な当たり前の事さえ、自分自身の判断ではないかも知れない、と疑う様なコギトを巡る真理さえ見据えているが故に、誠実性とは刹那的な自分自身への正直さという意味で、定言命法には劣ると言える。 誠実性は定言命法へ適用されて初めて意味があるのであり、定言命法なき誠実性は、イスラム国は正しいと思えば正しいという判断も正当化してしまう。
 イスラム教圏自体には恐らく問題がある。それは日本社会にも韓国社会にも問題があるのと同じ様にである。しかしそれだからと言ってイスラム国の仕方は正しいと言い切れば、当然連合赤軍もオウム真理教も正しいという事になってしまう。
 しかしイスラム国内部で生まれ育った者はそういう事さえ聞かされる事なく生き方を決めなければいけないだろう、しかし少なくとも哲学の言っている誠実性とは、その事迄語られてはいない、否聖書にさえも。
 そして定言命法はイスラム国内部で生まれ育った未来の青年の様な立場でも、日本人として生まれた未来の青年の様な立場でも、それぞれ自分自身にとってその都度一番正しいと信じられる事を、理性的に格率に従って考えて判断せよ、という定言命法だけは等し並に(与えられる)だろう。
 何故なら与えるとはあくまで真理だけを述べ、その真理にどう従うかは責任として(与えられる)者に委ねられているからである。

Wednesday, October 8, 2014

シリーズ 愛と法 第十章 根源悪(根本悪)とキリスト教

 聖書で<貧しい人は幸いである>と言う時、得ようとだけする人を悪の入り口に立ち、偽る人もそうであり、逆にそうでなく偽らず、真っ正直な気持ちで居る人(つまり与え様とする人)は神と対話し得るとそう考えている。ピーター・ミルワード神父は日本在住者で日本語に翻訳された多くの著作もあるし、原文でも本を出している。其処(<イエスとその弟子>講談社新書、別宮貞徳訳)から読み解いてみよう。
 二人の息子の父からの頼みに対する返答で<イエス>と返答した息子が前者で<ノー>と返答した息子が後者としている。シェークスピアの<リア王>の娘コーディリアこそ前者であり、ゴネリルは言葉巧みにリアを惑わしその実裏切るので後者である。シェークスピアは聖書を踏まえて書いているとも取れる。
 <貧しい人は幸いである>は甘言を弄す事もなければ、得ようと貪る事もなく、従って実直であればこそ甘言に拠って得る事は少ないかも知れないが、明らかにその実直さで他者に与え得るものがある。つまり聖書は基本的に得ようと思い欺瞞的で偽善的な取り繕いを弄す事なく、自己利益から言えば失わせてしまう誤解も恐れず、勇気を持って自らの悪を噛み締めて生きていくという事に外ならない。
 しかし我々は真っ正直に嘘偽りなく与えようとする者に現代社会で直面すると臆してしまう。怖くなってきてしまう。つまり其処に我々の生来の功利主義が控えている。カントが根源悪(或は根本悪)と呼んだものとは、功利主義的な安泰だけを願う勇気の無さが素直な他者の行為をさえ悪辣な甘言と受け取ってしまう事、それは結局自らが悪辣で功利主義であるが故に他者全体に対してその本当に素直な心もあるのだ、という事(勿論そうでない真に偽善的欺瞞的な事もある訳だが、それ等の違いを見抜けず)から、一律に他者全般へ不必要に懐疑的になり、甘言的取り繕いの応酬だけに依存して、それが心地良くなっていってしまう惰性的行状を言っているのだ。
 愛なんて信用しないという事、つまり惰性的打算的繋がりに安心を得てしまう事、それは勇気を持たず真理を見つめる事なく、曇った悪こそ救われる的な(それは親鸞に拠ると<歎異抄>では真理なのだが)悪しき開き直りで社会機能維持に貢献し得ていると錯覚する事を言っているのだ。
 愛は信用出来なくなればなる程観念性を帯びる。何故なら愛を信用しなくなった者とは素直な他者の好意を受け取れなくなるからだ。
 大人的な態度という観念程曖昧なものはない。儀礼的に失礼のない様にだけ振る舞い、一切の他者への感謝の念もなければ、協力もし合わないという選択肢が一番気楽でいいと考え生活出来るくらいに日本もそうだし、一定程度の先進諸国は社会秩序的には安定している(勿論時折凄く凄惨で残酷な犯罪も起きるが、それはかなり件数的には稀であればこそ大きく報道される。又自然災害的な悲惨さとは現代社会にだけ特徴的な事ではない。勿論地球温暖化に拠る悲惨な状況、或いは地殻変動的な地震や火山の噴火等もあるが、それさえ固有の現代の自然的傾向はあるものの、古来同じ様に勃発してきた事でもある)。
 愛が儀礼的な取り繕いへの安穏とした安心だけとなってしまった時、それはたとえセックスをしても、抱きしめ合っても或いは心は虚ろであり、素直な他者への信用、信頼、憩いはない。それは義務感であり善意であり、形式的秩序だけを維持したいエゴイズムである。これはハイデガーの言う頽落の中でも最低であるにも関わらず、経済生活的な安定からは意外とそういう悪しき現実主義だけが形として残って、その安定性の上で真理探求への向上心を失っていく。
 聖書の思弁性とは旧約聖書の<神の選択と葡萄畑>でも書かれている事で(旅に出た葡萄畑の主人は収穫をしたいが、農夫達がその収穫の報告者である召使を酷い目に合わせ、主人が息子を今度は派遣すると彼を農夫は殺してしまい、自分達で支配してしまう時)イエスは貴方達ならどうすると問うと、他の農夫に葡萄畑を与え、その悪辣な農夫達を罰すべきだと返答する者へ、神の国は貴方達から取り上げられ、もっとそれを与えられるに相応しい別の良い実りを結ぶだろう人達へ与えられると諭すのだ。
 此処には通り一遍の返答をする者への激しい侮蔑が込められていて、旅に出た主人を批判する論理が展開する。つまり此処でイエスの言っている事はマルクス主義的な観念とも共通するメッセージが発せられている。しかし重要なのは、イエスの返答とは、安易に即断をするイエスとの問答者への批判となっているという事だ。
 此処にイエスの聖書全体のメッセージでもある思弁的理性とでも呼ぶべき対話術と思弁性が漲っている。イエスの言葉は語り過ぎず、後はそれを聴く者(聖書を読む者)が自分で考えよとある部分では突っ放している。つまり与えているのだ。
 かつてのフランス映画の様な不条理な終わり方をする際に後は鑑賞者達が各々自分の心で考えて欲しいというメソッドに近い。
 イエスの言葉は確かに淡々としていて、自己責任の無い者が読めば突っ放して冷たい様にさえ思える。だがそれは自分の心に問い詰めて考えよと与えていると考えれば、愛の法なるものは存在し得るのなら、それはきっと生温い世辞や美辞麗句、或いは社交辞令的な取り繕いとは全く別種のもので、突っ放しているかも知れないが、自分自身の頭と心で考えよ、と与えてくれていると読む者、聖書の説教を聴く者は考えざるを得ない。それはある意味では法自体が重要なのではなく(法自体が重要だとする形式主義こそハイデガーの頽落であり、イエスがパリサイ人・律法学者を通して批判している処の事である)、愛を自分の頭と心でその法則を考えよと言っているという意味では哲学者、中島義道が著している<悪への自由―カント倫理学の深層文法>で言っている処のカントの定言命法とは即ち形式的に設定されている法なのでなく、その都度自分の頭と心とで考えよ、というカントなりの与えである事と極めて隣接している。
 その点では新約聖書でのイエスの言葉とカント(の定言命法と根源悪<根本悪>)とハイデガー(の頽落)とは一直線で結び付く要素を秘めている。
 それは法とはその都度自ら最も正しいと考え得る処の信念を持って設定せよ、という事以外でない。
 しかしそれではイスラム国が真に正しいと思うなら、其処に参加せよ、してもそれは罪悪ではない、という解釈も成立させてしまうだろうか?実はそうである。そしてそう解釈させてしまえる剰余を残して書かれている処に宗教書も哲学書もある種の危険性がある。そして、それはしかしウィトゲンシュタインが<論理哲学論考>で述べている様に、この書の読者は此処迄読んできて、その際に使った梯子を上り切った後で捨てよ、と命じる、つまり哲学(彼の書いたテクストの事を指して)なんかに頼るな、と言い放っている事と同じなのであるが、その同じ事、やはり此処に書かれてある事を信じても、その都度イエスの言っている事、カント、ハイデガーの言っている事は、全てではないと思って読み切る事、或いは読み進む事こそ正論である、とイエスもカントもハイデガーも言っていると受け取る事も(つまりイスラム国へ参加する事さえ自由なのであるなら)全く可能な様にそれ等のテクストが我々に与えられている、とも言えるのだ。
 つまりキリスト教で言う処の得ようとだけ思うな、与えよとは、それ自体罪な事、悪への唆しさえも含有した与える者も与えられる者も命を賭けた行為に外ならない、という一つの(やはり物静かに語り過ぎないイエスの口調の様な)語り、或いは囁きなのである。(つづき)

Saturday, June 21, 2014

シリーズ 愛と法 第九章 愛とエゴイズム続編Ⅱ

 愛は甘えへと転化しやすい。その典型的例が映画『それでも夜は明ける 12years a slave』で描かれていた。 アメリカ南部の奴隷制時代には北部で自由黒人として生活している人達とは無縁に依然奴隷としてしか黒人を扱わないという不文律があって、それが結局後日南北戦争の誘因となるのだが、ニューヨークで生活していた自由黒人の男性を南部に拉致して奴隷として働かせる様に仕向け、奴隷商人から報酬を貰う為に誘拐する事件等もきっと当時かなり多く在ったのだろう。それをこの映画は題材にしている。しかしこの映画で重要なのは、主人公が再度自由を取り戻す事にあるのではなく、奴隷としての生活を余儀なくされていた時期の主人公へ生きる希望を見出させる奴隷女性の存在である。
 彼女は堅い格式に縛られて育った奴隷主の白人男性の妻が夫へ提供する癒しを夫である男性自身が感じられず、精神的にも奴隷のその女性へ依存している事が映画的にも重要なテーマだった。当然異性への眼差しを持つ自らの夫の不貞相手という意味でもこの黒人奴隷女性は奴隷主の男性の妻からも虐待を受ける。思い余った黒人女性から主人公の元自由黒人として一般市民生活を営んで来ていたが拉致されて奴隷の身に甘んじている男性は自分を殺してくれと依頼される。勿論主人公は断るが、彼女がやっと自由黒人としての証明書を持って北部から現れた白人の知人に連れられニューヨークに戻るその瞬間、生きる希望の光であった奴隷同僚である主人公が去っていく前に熱く抱擁をするが、片や自由を獲得して綿花畑から去っていく男性と対照的に残された女性は映像の左隅に小さく頽れる姿が映し出されていた。彼女の未来は再度絶望の淵に立たされ続けるだろう。その意味でこの映画の結末とは、自由への日々は未だ遠いという暗示ともなっているのである。
 奴隷主の白人男性は肉体的にだけ黒人奴隷女性へ依存しているのではなく、明らかに白人に課せられていた当時の南部のノブレスオブリッジに対して逃避的気分に拠り自らが管理する奴隷へと精神的に依存していく様が描かれていた事がこの映画の本質だと思われた。
 精神的甘えとはこの様な特殊な歴史的経緯を持つアメリカ南部だけでなく、現代でも存在するだろう。つまり自らは愛と信じて疑わない多くの夫婦や親子の間でも精神的甘えが何等かの現実での葛藤や矛盾や障害からの逃避という形を取って顕在化している、という例は観られるかも知れない。 LGBTという概念規定自体がそうである。
 そもそもレズやゲイでしかあり得ない様な精神状態とかジェンダー的な自覚で生まれて来た人達(彼等彼女等はそれはそれで色々と精神的にはきつい面も現代社会にもあるだろうが)だけでなく、人生経験の途上で異性との出会いで躓く人達は大勢居て、彼等彼女等も又後発的な経験依存的な精神的な失望、つまり異性と共存する事自体の失望を味わう形で後天的にレズやゲイになっていく事は考えられる。又それだけでなくそもそも人間はヘッセの『デミアン』やエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』でも描かれていた様な意味で同性の気になる存在は思春期以降死ぬ迄誰にとっても大きな精神的な関心事である。そして生涯憧れてしまうタイプの同性とは存在する。只その事実をどれくらい深刻に受け取るか、それとも受け流せるかに拠って同性愛へ行くか、其処迄行かずに踏みとどまるかが決定されているに過ぎない。
 と言う意味では、バイセクシュアルとは異常性愛的なメンタルな状態ではない。寧ろ全人類的に持つ精神的傾向でもある。
 トランスセクシュアルは古い言葉で言えば(ふたなり)等とも言って、両性具有的な生殖器保持者は(私は生殖生理学者ではないので、どれくらいのパーセンテージで出現するか迄は知らないが)一定程度どの時代でも存在する。彼等の持つ精神的問題とバイセクシュアルの持つ精神的問題は大分異なっている。 にも関わらずLGBTという形で全てを一緒くたにしてしまう処にある種の現代社会での臭いものには蓋をせよ、という暗黙の発令を私は感じ取ってしまう。
 今から振り返ってみても、マーティン・ルーサー・キング牧師やマルコムXを登場させたアメリカ合衆国史に於いて、精神分析対象とされるべきは当時の白人達でもとりわけ精神的に黒人奴隷女性へ依存していた男性達である。そして確かにオバマ大統領の登場に拠ってアメリカは黒人奴隷制の時代の社会矛盾を解消したかに見えるが、内実的には精神的な依存とか甘えの様な収拾不能なメンタルなメカニズムを解明する迄に至っているとは言えない、という事は、巨大資本の金融企業体やウェブサイトビジネス等の世界の成功者達と、失業者達との二層構造へと分岐していく社会様相で、成功者自身が中間層(激烈に減少しつつあり、貧困層へ転化されている)以下の人達へ精神的に依存しているのかも知れない、という自由資本主義文明国の持つ必然的な精神的矛盾があり、それが益々資本主義マネーゲームプレイへと国家や社会全体を駆り立てている様に思われる現況では確かな事である様に思われるのだ。
 だが本ブログの存在理由は社会構造とか世界経済矛盾自体を摘発する事にあるのではない。あくまで問題とされるのは、人間心理の中にある迷いや矛盾への割り切れなさがどう社会倫理や社会進化過程に参与しているのか、という部分である。
 成功者とは一度社会的信用とか信頼とか他者からの尊敬心を得てしまうと、それを如何に長く持続し得るかだけが至上命題となっていく。その過程で彼等に必要となるのは、積極的に非成功者、経済力的な意味での敗者達なのである。そして彼等が何時迄も自分達の様にならずに、下層的な市民層の中で狭い範囲で旋回していてくれる事が理想となる。つまり彼等から尊敬され一目置かれる為には、自分達以上の成功者を彼等の中から出さないという事以外ではない。そういう風には絶対に示す事はないが、内心でそれ以外に自分達の外部から得るカリスマ性を維持し得る道はない。この部分では黒人奴隷制自体が撤廃されても、ビジネス成功者や経済的パワー保持者達に拠るハヴノットへの精神的深層的依存とは明らかに世界全体を支配している。
 そういう暗黙の了解においてこそ世界経済とか世界の治安の安定(それは実際には今はシリア、イラク等で実現されないという事を証明し、恐らく今後も何時迄もシリアやイラクが安定化すれば別の諸国が不安定な状態へと突き落とされるというもぐら叩き促進的な状況は変わらないだろう)を辛うじて必要である、と世界市民が同意している(その証拠にアメリカが厭戦気分となり、各地で多発するテロリズムを抑制しようと軍事的に動かぬ限り益々世界で内戦が頻発する状況は明白化している)。
 そしてそういうストイックな常に暫定的な内戦防止維持でやっと世界的安定を得られるのだと知っている現代人は、益々同性愛的精神的依存傾向を強めていくだろう。つまり最終的にレズとかゲイではないという事が実際に性行為へは赴かないという最後の一線を死守するだけで、結婚して子供が居ても、独身でも相手が結婚していようがいまいが、精神的には益々友情の延長戦である同性同士の信頼が、相互甘え実現態としての慰安を深層的には積極的に望むという傾向は強まっていくだろう。そもそも全てのチームプレイで臨む集団のスポーツ〈サッカーでも野球でもバスケットボールでも〉での同性のプレイヤー同士の信頼関係の中にもそういった同性愛的傾向は読み取れるし、銀行やメーカー等のチームプレイでも共演する役者同士でもそういったメンタルな甘えや依存は読み取れる。
 そもそもライヴァル心とか敵対者という発想の中にもバイセクシュアル的、ゲイ、レズ的側面はあるのだ。だからこそそれでも尚現代でLGBTを命題化せざるを得ないという問題意識の停滞的リアルこそが、我々の内実的なバイセクシュアル的なメンタリティが誰しもに内在しているリアルを本格的に分析する事を旧態依然的なモラルが阻止しているという事実を逆照射しているものとも思われる。
 次回は精神的甘え、今回述べた共依存関係(成功者は下層市民層へ、下層市民層は成功者をカリスマ的に偶像化する事で成立している)が言語的にどういう影響を我々の生活で与えているかを考察してみよう。
 付記 何をLGBTとするかという判断自体に、管理者側のエゴイムと、自分達は正常であると思いたい、そして彼等と括る事に拠って精神病理学的にも生殖生理学的にもアブノーマルな人達を設ける事で、自らは安心を得たいという事、つまり共依存、無意識の甘えが立ち現れている、と言う事も出来る。

Thursday, May 1, 2014

シリーズ 愛と法 第八章 愛とエゴイズム続編

 前回取り組んだ愛と性の問題も、実は愛とエゴイズムの問題とも完全に重なる。其処でエゴイズムから歪な愛、しかしかなり日常的には起き易い疑似愛から愛を考えてみよう。その前の再度肉体的愛の形をおさらいしておこう。
 夫婦や愛人同士の性交渉で相手と性の相性がいいと思っている事は、即ち自分自身の性的嗜好を相手が理解してくれているとある意味では幻想しているから、相手の身体とその反応に愛着を持つ事を通して、相互に相互の愉悦を幻想し、相手へ性交渉で得る身体的快楽を素直に相手へ伝える事から相互に性交渉が楽しいものとなるのだ。 相手が気持ちいい表情や反応を示す事が嬉しいと思える事を相互に伝え合えるからこそ身体的律動をより加速化しようとすることで、男女(或いはストレート以外でも)が相手へ気持ち良さを伝えようとするのだ。相手を気持ち良くさせることが出来ると実感して嬉しい表情を相手に伝える事を相互に確認し合えると、心底愛し合えたと実感し得るのである。 こちらが相手を通して自分自身を気持ち良くしたいと同時に、相手へもこちらを通させて気持ちよくして(させて)あげたいという事が同時に相手もそうである、と実感し得た時良い理想的性交渉だと言える。
 しかしそう思い込んでいるだけで相手は我慢しているのかも知れない、とは全く言い切れないということはない。要するに自分自身が気持ちいいという事はある種の身勝手なのだ。勿論それが全く無い交渉は耐えがたい。しかしそれだけである、つまり相手への配慮なんて一切考慮していないのに、惰性的に身勝手に相互にいい相性であると思いこんでいる場合もあり得る。
 それは性交渉に限らず同性同士の友人関係でも、師弟関係でも何でも当て嵌まる。相手を愛おしいと思える理由が師弟関係の場合では、相手が未だ自分を追い越していないと自覚していられる内は健全に維持し得ても、相手が凄く成長して師匠である自分の立場を脅かす様に感じられるのであれば、相手へ恐怖感情を持つ事もあり得る。それでも尚相手の成長が喜べるという事であるなら、その師匠の弟子への愛は本物だと言える。
 しかしそうでないのなら、そしてそれは意外と我々の社会では多い事であるが、本物の愛ではないのに、相手の至らなさを愛しているという、所詮愛着を持てるのが、愛するペットというものが自分程頭が良い事が決してないからこそ可愛いのと同じで、出来損ないの自分の子供、出来の悪さにこそ愛着を感じ取っている様な事があり得るなら、本物の愛の様に誤解している、或いはそう思い込もうとしている疑似愛であろう。勿論知的障害を持つ子供を愛する事は可能だし、それも本物の愛であるが、そういう場合でもそうでなく健常的な子供への愛でも、相手が成長しきれない、成長をなかなかしない事自体に憩を見出しているのなら、それは疑似愛である。
 其処に多くの身勝手さ、愛着の持てる事の選択に於けるエゴイズムが差し挟まってくる。
 だから再び性交渉へ話を戻すと、まるでホストの様に相手へ献身するだけの相手への愛撫を続け、相手がこちらを楽しませてくれる工夫を一切しないでいる事でも耐えている様であり続けるなら、義理や義務感で自分を愛してくれているのだと女性は負担となっていくこともあるかも知れないだろうが、それでも尚お金を払ってホストに楽しませて貰っているのだから、オナニーをお金を払って相手を使ってしているのと同じである場合、それは疑似愛である。
 又、DVをされているのに、しばしばあり得る相手から心底頼られているのだと思い込もうとして、自分へ危害を加える男性へDVされつつ献身しているのだ、と思い込もうとする相手へ、次第にDVをする男性の方も疑似愛を感じ取りシラケてきて、相手へより憎悪を募らせる事はあり得る。そうならないのなら、DVを続けている男性は自己理性が完全に麻痺しているに過ぎなかろう。
 要するに耐える事、相手の非を我慢し続ける事も又固有の身勝手なエゴイズムでしかあり得ない。にも関わらず自己犠牲的愛で疑似倫理的充足感を得てしまっているナルシスとは、当然自分は相手へホストの様に献身しているのだ、と男性は思い込むし、相手からの暴力を受け止めてあげられる位に自分は相手へ寛容さで包み込んであげているのだ、と女性はヒロイズムに酔っているのだからなかなか始末が悪い。
 愛とエゴイズムで最もよく見られるものの一つこそ、自分自身を自己犠牲的なヒロイズムのヒーローやヒロインへ仕立てあげる疑似愛である。そして意外とこれは、相手が自分自身より劣っているから憩を見出せ、こいつを可愛がってやろうと思える疑似愛と近接している、と言う事が出来る。
 相手を使ってオナニーをする事だけ、つまり自分の身体部位の快楽を得る為だけに自分へ奉仕する自分を奴隷化する事や、相手からDVを受けているのに、それをじっと耐えて受け止めている自分を愛する事とは、相手に理性的に他者存在を受け止めるという心の余裕を与えないエゴイズムという意味で共通するからである。それは成長したいという子供や尊敬し合える友人関係や、師匠を乗り越えたいと欲する弟子の向上心を摘んで迄も、自分の優位を保っておきたいと願う身勝手と、この二つは極めて似ている。相手の理性的な他者へ接する感情、つまり相手を尊敬すればこそ乗り越えたいと欲する理性的向上心を阻害して迄自己の愛着心、つまり相手が自分より劣っているからこそ、相手を許せるという身勝手さとは、ホストの人格を無視して、オナニーマシーンとして人間を奴隷の様に使う女性や、DVという肉体的な破壊力を行使する男性の野蛮を発揮させる事を受け止めてあげる事で相手へ奉仕していると思い込みたいDVされる事を選び取る女性は(相手がシラケてきているのに、自分をもっとぶってと言うなら偏依存だし、相手も喜んで女性を甚振り、それでも尚愉悦の表情を崩さぬサディズムにあるのなら共依存関係にあると言っていい)相手の理性的成長や向上心を持たせぬ侭にしておきたい、というエゴイズムという意味では全く相同の心的メカニズムを保有している、と言える。
 しかし先程の性交渉でも相互愉悦獲得目的性で語られ得る、相手を気持ち良くさせてあげたいけれど、そうしながら自分も相手から気持ちよくして貰いたいという欲求が同時的に発生し得るのだから、それは許され得る身勝手さであろう。そして愛とは、意外とこの相手への愛着、それは先程述べた様に相互に愛し合うばかりでなく、相手の欠点や弱点さえ愛すのであれば、当然相手が自分より劣っているからこそ安心出来る、慰安を持てる、寛げる、憩を見出せるという事だから、当然身勝手な愛着というものをも必ず含む、と言い得る。
 つまり愛の公理があるとすれば、それはルール、つまり法的には相手へ奉仕する部分も必要だけれど、相手から奉仕して貰いたいという契約もあるが、同時に相手へ奉仕する事のヒロイズムに適度に酔う部分もあるから、それは献身という身勝手、つまり相手の主体性を無視する部分も当然ある、という事となるし、そういった身勝手さえ絶無であるなら、長期持続し得る愛とはならない、という意味では我々が何と言う事のない平凡だけれど、見慣れた自分の住むエリアのお気に入りの風景同様、配偶者でも愛人関係でも相手を愛し続けられる条件としては長期愛着が保てると自覚し得ているという事であり、その愛着とは適度の身勝手な相手への自分より劣っている部分への発見も手伝っているのだ、という事が言えるのではないか、という事が今回の一つの結論である、と言えよう。
 しかし献身的愛の全てが身勝手なナルシスであり、ヒロイズムに酔う疑似愛を愛だと思い込みたいナルシスである、とも確かに言い切れない場合もある。次回はその事、つまり例外的な真実の献身的愛という事に就いて考えていってみよう。(つづき)
 付記 DVされているのに、別れられぬ女性の男性のDVとの共依存関係は、ある意味ではそうまでしても別れぬ理由に、別れたら又一人ぼっちになる、という相手と出会った時から今迄の運命的出会いの崩壊への恐怖がある。それは次回伝えようと思うかつてアメリカ南部に奴隷制の存在した時代の奴隷主と奴隷との関係や、奴隷同士の関係でも言える事だ。そして当然献身的愛は奴隷同士でもあったと思われるが、その事も書こうと思う。

Saturday, February 15, 2014

シリーズ 愛と法 第七章 愛と性は一致するか?①

 もし愛と性とが完全に常に調和を保ち一致している、その志向性も、その願望も、その理想も、要するに全てのそれらに付帯する価値に於いて完全に一体化し合致していたなら、恐らく世界中の全ての文学、思想、哲学は完全に覆されるであろう。
 我々にとって身体と心と言う時、かなりの比重で性と愛とも言い換えられる。
 第三章で既に述べてきたことと、前章で述べた幸福感ということは常に完全分離しているとも言い切れないが、完全一体化しているともやはり言い難い。言い切れないより少しこちらの方が強い。
 エロスは自分自身で理性だと思っていることに常に従順ではない。寧ろ理性とはエロスに耽溺するか、或いはエロスに翻弄されることの内に仄浮かぶ「心とはこうであるべきである」という理念である。それが理念であるからには、全ての我々の性行動が完全に理性に拠って制御されているとは言い難いということをも意味する。恐らくそれは結婚をしていてもしていなくても同じである。
 人間は自分自身の全行動を理性に拠って制御していると思っているのなら甚だしい幻想である。それは仮に法的に一切触れない様に日頃から行動していてもそうである。
 対人感情の全ては理性に拠る統制下にあるわけではない。寧ろ全ての対人感情がかなり感情的気分、それは決して理性的に判断していると言えない性質の判断に拠ってなされている(心に持たれている、と言い換えてもいいが)と言える。人間は全行動を統制することが容易な心のロボットではない。寧ろ心とは行動や習慣や記憶や様々なものに拠ってその都度右往左往させられている。勿論全ての行動や習慣を統制しようと心がけることは出来る。しかしその統制それ自体が既に過去の記憶にかなりの度合いで支配を受けている。心のデータベースは常に現在知覚へと総動員される。しかし既に忘却してしまっていることもかなり多く、記憶違いもあれば、知覚自体も錯覚に塗れている。
 エロスはリビドー的なことも含めれば常に揺れている。好きだと思っている相手へ一挙に幻滅することもあれば、理性的にこの相手は不適切だと思っている相手に対してさえ欲情する。勿論全てのエロス的情動も何等かの形でそれが喚起される根拠は詳細に分析すればあるのかも知れない。しかしその様に全記憶、全習慣を隅から隅迄探る心の余裕は我々にはない。今抱えている全問題に取り掛からねばならないからだ。かくしてエロス的な衝動は処理されて然るべき問題へと格下げされる。
 しかしこの格下げは処理しさえすればいいという形で決定されるので、非理性的なことである。我々の身体は理性的ではない。非理性的であればこそ病気にも罹るし、努力を怠りたいとも思う。要するに理性は身体にとって身体と心との乖離を自覚する我々に拠って設定された処方であり、ほんの部分的な解決法である。身体的な苦悩、病苦やエロス的衝動の全てを身体は処方しなければいけないので、その身体の処方を手助けする為に理性が動員され病院へ行くとか、ベッドで横になって安静にしていようと我々は意志決定する。
 しかし性衝動自体は意志決定とは違う。全人類史的な婚姻制度はこのことを人間が知っていたからこそ設定されてきている。しかしその性衝動の抑制方法や、性衝動自体を過剰に喚起させまいとすることに動員される理性はその具体的処方を提供しているわけではない。従って身体の病理的な判断、免疫その他のものを含む身体自体の判断こそが病気であり、そうなった時にそれを治癒させようと画策する時にも理性は動員されるし、倫理的な社会認識に於いて性衝動を抑制しようと画策する時にも理性は動員される。そしてこの事実こそ性衝動が理性とは別個に身体的に判断するということを意味する。
 しかしエロス的衝動を喚起するものは意外と多くは文化であり習俗でもある。そしてどういう状態の観察、どういう事態の到来に拠ってそれが喚起されるのかを我々はなかなか客観的に知ることが難しい。それは恋という衝動にも示されている。
 好きな相手、好きになってしまう相手とは理性的に判断されているわけではない。そして通常は異性への好感度は性的衝動と見做される。勿論同性に対しても憧れとか羨望の様なものは同性愛的傾向の全く希薄な者へも到来する。
 愛は性愛をも含み込もうとする。しかし性衝動は愛という理性的判断、或いは理性的衝動と言ってもいいものに拠って統制されているわけではない。エロス的衝動は愛という理性へ謀反を起こすことも稀ではない。勿論愛する相手へエロス的衝動を抱くということはあり得る。そしてそれは社会的責任に於いて全うされているのなら、非難されない。にも関わらず非難されることを承知で犯す性衝動の行動化はエロスが喚起しているとすれば、エロスは背徳的な美学をも含有していることとなる。そのことを考慮に入れると、寧ろ愛と性の一致は理想である。それが理想であるからには、恐らく我々は愛と性とが甚だしく一致していない状況を日頃から多く経験している証拠である。
 そしてエロスそれ自体が悪いことなのではない。何故ならエロスとは愛や性を巡る全ての感情的事態を並列化させて我々に認識させる文化であり習俗であるからだ。と言ってそれは何か国家や共同体や帰属組織や職業だけに拠って支配を受けているわけではなく、あくまで想像力の産物である。寧ろ性衝動を滞りなく実行させる為にストイシズムを一時的に除去する為に設けられている身体の側の処方でもある。
 エロスは極めて社会文化的側面があるとすれば、それは官能小説やノンフィクションを読む際に喚起される性的好奇心等を育む磁場であると言えるが、それは身体的な生殖生理学的衝動でもある。その複合化されたものをエロスと我々は呼ぶと言えよう。しかし文化的側面も個々の性格遺伝子的傾向に拠ってより個人的な感受性、個人的な感性、個人的な想像力が成立する。想像力の父は好奇心である。そしてそれに拠って随伴する性衝動は愛とは別個のものである。と言うよりそれをも愛に拠って統制させ発動させないとすると、愛それ自体の意味修飾的なこと、つまり愛の定義への理性的判断に拠って性は完全にストイックに統制されてしまうからである。(つづき)

Sunday, November 17, 2013

シリーズ 愛と法 第六章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて②

 幸福とは何か最初からこれこれこういうことであると決められたことではなく、その都度何かを行うことで得られる喜びの中から自ら主体的に掴みとっていくことである、とはまず言い得ることである。そして幸福感自体も、一人の人間の中でも徐々に変化していく。自分自身が変われば幸福の在り方も変わる。
 しかし人と人との繋がりでは、どうも人は孤独であることを孤立していると捉えがちである。しかし愛自体もそこに大きな責任を伴えば孤独である筈である。寧ろ本質的には寂寥感や孤独感は積極的に幸福感と姻戚関係にある。共謀関係にあると言ってもよい。
 愛は何時か愛する他者と死別することを必ず意味する。幸福も必ず何時かそれが終わることをも意味する。
 又、幸福感という観念がなければ孤独も寂寥もあり得ない。孤独や寂寥とは人間が幸福を求めるからこそ、そこで生み出されている。他者からの無理解、幸福であると実感し辛さこそが孤独や寂寥を生み出している。従って幸福を殊更求めない生き方では孤独こそが普通である。孤独でないことなどそこではあり得ない。一人ぼっちでしかあり得ない生き方では一人ぼっちでは孤独だという想念へは向かわない。
 幸福であるとは往々にして他者と共謀して生活することで得られる一人ぼっちではないという観念に拠って多く裏打ちされがちであればこそ、そうでないことが孤独となってしまうのだ。寧ろその観念こそ打ち捨てて然るべきであろう。
 つまり孤独も寂寥も悪いことではないのだ。と言うより其処からしか幸福さえ実在し得ないと考えるべきである。
 愛がもし責任に拠って維持されるものであるなら、愛とは孤独である。それを維持しようとすること自体が孤独である。と言うより愛を持続させようと決意すること自体に孤独以外のものがそうそうあり得ない。
 だから幸福は孤独ではない、ということではない。そして幸福の価値や観念、或いは実在の仕方も全て定型も法則もあるのではない。法則化され得ないもののみを我々は幸福と呼びたがってきた。そしてかつて幸福だと思っていたことは自由と責任に於いて得ている自主的主体的なものではないと気づいた瞬間、幸福には値しないと実感されるし認識される。つまり幸福とはその幸福を得ようとする者の意志と努力と習慣的に行われること、行われるべきことの現実的変化やそれらへの認識の変化に拠って絶えず変化していくものなのだ。
 これは愛とそれを支える法も幸福の在り方への認識の変化と実在的な変化とに拠って大きくその在り方を変えていく、ということをも意味する。
 心の幸福は恐らく本質的には誰にとっても与えられるものでも、与えられる様に待っているものでもない。常に何かへ向かって挑み、その挑みに対して一切の贖罪の心理がないということが、幸福へ向けて歩んでいるか否かの里程標である。
 否そこ迄宗教的に捉えるべきでさえないかも知れない。要するに行動することの中で行動して良かったと後で思えるとか、行動しながら、それでいいと思えるということの中に幸福へと向けて歩む意志がある。愛と法もその歩みの中で絶えず定義を変更させていくべきものとして認識すべきではないだろうか?
 次回はその愛と法の変更可能性に就いて、幸福への歩みと問いかけから実際的な例に沿って考えていこう。(つづき)

Friday, November 15, 2013

シリーズ 愛と法 第五章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて①

 我々が意外と多くの日常生活でのお仕着せ的観念を植えつけられているものとは幸福感であろう。
 しかし今この幸福という観念をもう一度再考してみると、意外とよくその意味を多くの人達が考えていないということにも気づかされる。
 つまり寧ろこの幸福感それ自体が多くの思考の可能性を塞いで来たとも言い得るのだ。そこで今回は愛と法を考える上で制限するモラル的力ともなっている(それはいい意味でも悪い意味でも)幸福感に就いて考えてみよう。
 幸福感は愛情の注ぎ方から受け取り方、家族観とも一体化されて我々は幼少時から訓育されてきている。要するにある正業へ就き安定した収入と家庭を持ち、地域社会でも一定の安心を得て、自分自身も社会へ貢献するという形で定型的な価値規範として君臨している。
 しかし現代社会ではかつての良識とかモラルに準じたそういう模範的生活を全ての人達が得られる訳ではないと多くの人達が知っている。要するにある定型へと嵌め込み巧みに社会へ反社会性を身に着けぬ様にする為の訓育的観念であるところの幸福感自体への懐疑を多くの市民が自然と持つことが当然となっている現代社会では、幸福という考え方自体が一つの盲腸的な観念のポジションであると認識することすらそれ程不自然ではなくなってきている。
 良い子として育ち、きちんと社会へ順応して税金を収めて生活していくということそれ自体は決して悪いことではないが、その定型が何か特別個々人に役立つメッセージとか強烈な感動を誘う訳でもない。
 寧ろ勤労観自体が凄く激変している今日では、これこれこういう風に真っ当に生きていれば幸福とも言い切れない状況に支配されている。
 既に性も婚姻制度の在り方さえ多様化している現代社会では、どう生きていくべきかから、どういう生活スタイルと人生の充実感をどう得るかそれ自体さえ、まず個人の選択に委ねられていて、何に対して満足するかということさえ価値的に多様化されていて、幸福という観念自体が干からびたものとなっていると言ってさえ言い過ぎではない。
 寧ろ不幸、それは病に罹ることもだし、精神的に大きな苦悩を抱え込むこともそうであるが、そういう状況だけに支配されていないということの方が、幸福という定型へ準じて実現されているか否かより重要だと言える。
 つまり明らかに不幸ではない限り、後は何れ程幸福かとかの判断はその都度個人が下していけばそれでよく、こうでなければいけないということ自体がないと言っていい。だから愛の在り方も何かこうでなければいけないということはないのだ。何か著しく反社会的に法的に社会生活が他の市民に迷惑をかけることさえなければ、どう過ごそうが人生は個人の選択に委ねられている。
 お金儲けを本論とするか、趣味の実践を本論とするか、恋愛を重ねることを本論とするかも自由であるなら、出来るだけ勤勉ではないある部分法的に罰せられぬ範囲で怠惰な生活を送りたいとさえ望んでも、それが他人に迷惑さえかけなければ、それさえ自由である、ということの方がこうでなければ幸福とは言えないと言うよりも自然である。
 この自由選択の自然さこそが、寧ろ幸福という観念の有効性を著しく弱化させてきている。幸福であるか否かを判断する暇があるなら、何か具体的に実行していった方がいいという判断の方がずっと現代社会では自然である。
 そして何が自然であると思えるかということさえその都度の恣意的な判断でしかない。ある部分どういう仕事を人生でその都度選択していくかということの方が予め価値的に幸福という観念に当て嵌めて仕事を選ぶことより自然である。つまり仕事内容に拠ってそれぞれ異なったやり甲斐というものが存在して、ある仕事とかあるコミュニティで一定の社会的地位を得ることが、何か社会全体のグローバルな価値規範に於いてどうであるという評定を無意味なものにしているのが現代社会を生きるということなのである。
 従って幸福感(観)ということ自体が既に抽象的な形而上的価値なのであり、具体的にイメージング為難いのだ。それは既に分析哲学とか倫理学の哲学用語的な抽象性の語彙なのである。そして何に基準を設定するかに拠って幸福であるか否かも、或いは幸福という観念を態々持ち出すことも自然で適切であるかも変わってくるとしか言い様がないのだ。
 だから初回の今回は著しく苦しくないこと、つまり身体健康的にも精神的充実感としても凄く不幸ではないことだけがある程度いいことなのだ、とユニヴァーサルに言い得て、それ以外はその都度何に基準を設定するかによって異なった回答がその都度用意されていて、予め幸福とはこういうことであるとは言えないということだけが取り敢えず真理である、とは言い得よう。(つづき)