Tuesday, May 28, 2013
シリーズ 愛と法 第三章 愛と甘え
懐疑的眼差しで正しいと思える愛をも反省へと追い込む事こそが愛の倫理と言えるのではないか、という事が前回の論旨であった。知らず知らず我々が日常的に陥る「愛は言葉化出来ない」という捉え方は、愛と甘えの関係を彷彿さずにはおかない。
今回は愛と甘えに就いて、その密接な関係にある事から考えてみよう。
愛と甘えとは多分に相性のいいセクシュアリティである。モラル的、倫理的、正義論的に間違っていると思えてもそうだし、正義論的に倫理規約にもモラル規範的にも適っているとそう思えても、実はその甘え的性格に拠って愛が支えられているという意味では変わりない。
何故なら相手が唯単に直観的に相性がよいと思えて好きである場合、相手が間違っていると倫理規範的に薄々知っていてさえ、それを許せてしまう事がある。我が子が謝って人を殺してしまっても、その子が自分にとっていい子であれば母親は子を庇い警察へ突き出されぬ様に画策するかも知れない。
要するに相手に拠っては自然に倫理的規約以前的に許せてしまうという事はあり得る事である。そういう甚だ身勝手でその許せてしまう感性を容認し得ぬ他者を差別排斥する雰囲気を自然に作ってしまう様な馴れ合い的関係を愛と錯覚する、或いはそもそも愛とは規約通りに行く法と違うのだから、愛を過大視して理性論的に雁字搦めにしてしまえば、それは愛ではない(従ってカントの誠実性やニーチェの畜群といった観念も愛とは別個の形而上的価値であると心では批難さえ出来る)と言い得る事を何処か自然なものとさせてしまうのが我々ではないだろうか?
贔屓感情自体が極めて不合理な事である。それは惹かれる異性に対してセクシュアリティとして相手の存在を出会いの感性的に認知している場合、それはエロス的存在として相手を認可している事である。セクシュアリティとして相手(他者)存在を認可する事はその時点で理性より出会いの感性を優先させている証拠である。セクシュアリティ的な魅力を察知するという事は、既にそういった非理性性を全てに優先させる感知促進的、相性察知的感性の夢魔に他ならない。痘痕も笑窪とはそういう事であり、好きである事は不合理な感情である。
そしてそれは対異性、対同性、対自分より年配者、対自分より年少者全てに対して言える事である。それを一々合理的に解釈していなさこそが慰安であり、生活上の潤いとなっている事は否定し得ない。要するに惹かれるという事は好きなタイプの話し方、顔、表情の示し方、身体付き、感情的なパッションとして受け入れられるタイプである事等様々であるが、それは殆ど直観的な出会いの感性で決まる。相性は理屈で判断されていない。
性格的な好き嫌いさえ声の発し方とか微細なレヴェルでの他者への嗜好が大きく作用している。映画監督が自分の映画に主演で起用したくなる役者は同性であれ異性であれそういった様々な要素の複合的な様相で一瞬で決定されているのと同じである。
ヘテロセクシュアルな嗜好の人格(ストレート)でもバイセクシュアルな判断を精神的にしている事は間違いない事実である。ゲイ、同性愛者が特別な存在であるのではない。又ゲイも同性愛者も様々なヴァリエーションがあり得るのであり、全く個々では異なった唯一のタイプである筈だ。従って同性愛であると規定し得ないストレートとされる人格の中でも無意識に惹かれ合う同性同士は一瞬で出会いの感性に拠って決定されている事が多い。好きなタイプの同性、性的にさえ惹かれていく同性があるからこそ、ヘッセは『デミアン』をエドガー・アラン・ポーは『ウィリアム・ウィルソン』を書いたのだった。
そういった事実の前では甘えとは理性的に許容し合える他者への見方にさえ潜んでいる。それが理性的に相手の非にも関わらず許せるという判断は検事や判事さえしていると思われる。それは出会いの感性を理性へと無意識に置き換えている、摩り替えているとさえ言えるかも知れない。
そこには多分にエロス的感受性、セクシュアリティ的判断も手伝っているだろう。
現代の大半の作家はセクシュアリティ的感性を迸らせる事を出来なくなっている。それは現代社会へそういった出会いの感性を直観的にしている事実を何処かで隠蔽させようと未然に対世界へと身構えさせるストレスを我々が保持する事を社会や国家や字義通りの世界が暗黙に強制しているからだ、とも言える。ウェブサイトの情報摂取的猛威がそうであるし、マスメディアと政治や経済が結託して我々の日常的判断をメディア論的な観念性で彩ってしまっている事も否めない。
クリエイター自身がエロス的感性を摩滅させているから必然的に彼等の作る世界も無味乾燥であり、セクシュアリティを素直に描けなくなっている。これは顕著な事である。
その意味では現代はエロスとセクシュアリティ喪失の時代であり、数値化された認識至上主義的時代だ、と言ってよい。
美と倫理は理性的に考えても対立する要素はある。しかし多くの現代人は倫理的に正しいものを優先させては居ない。と言うより倫理的な正しさとは何なのかを自主的に判断為難い時代に現代社会自体がなっているとも言える。法的な事は常識、通念、前例主義的判断では従っていると自分自身では大勢の人が思っている。しかしそこに深い思索はない。そもそも思索する事を阻むビジーネスを正しいもので従うべきだと現代社会の機構自体が我々の日常へと強いている。忙しさの中に埋没せよ、とウェブサイト、日々のルティン的な規約が命じている。だから逆にマスメディアで一旦好感度を視聴率と共に獲得したタレント達は繰り返し登場させられる。しかし飽きられる速さも凄まじい。その意味では現代マスメディアが人員の顔ぶれを新陳代謝させるスピードに於いてのみ我々は現代社会を公平であると実感させられている。
あっ、いいなと瞬時に思える他者への判断の感性は熟慮された判断ではない。そういったじっくりと考える心の余裕を専門家の世界でも学術的世界でも現代社会の情報化のスピード自体は心の余裕として与えない。だから却って好感度とは出会いの感性の先程も述べた排他的で差別主義的な感性にも支えられ、何処か格好とか雰囲気とかが鈍腐い他者を排斥し、格好良さとか見てくれを重視していってしまう。だから益々美と倫理は乖離していってしまう。
美で(しかも長期的に保たれ得る美でなく瞬時で、あっ、いいなって思える美で)全てを判断している。それでいてその美の陳腐な瞬時の判断こそを理性と倫理であると似非的な正義論で正当化している。正義論とは強烈なエゴイズムでしかないとは真理であるのに。
エロスやセクシュアリティは美と重なる部分も大きい。逆に美それ自体はエロスやセクシュアリティと重ならぬ場合もある(数値的美、認識的美等にはそう言える部分もある)。
現代社会が現代人を構成しているという部分があるけれど、現代人が現代社会を今様にしているとも決定的に言える。何故なら愛の在り方や規定そのものが時代を反映するとは言えるのだし、その時代性が法全般を斯くあるべしと心へ規定させている。
愛を持続させたいと欲するのは愛する相手(他者)へのブランド化でもある。この者と共に時間を過ごす事を価値化させる眼差しは他者のブランド化以外ではない。
そこでは見栄とか虚栄心も往々にして在る。美的な異性と共に歩く事は見てくれもいいし、イケメンの同性の友人と共に居る事は見てくれも聞こえもいいと判断している。そしてその自らの直観的な美的判断を倫理とか理性へと置き換えている(摩り替えている)とも言える。
物事を価値化させる視点とはこういった摩り替えが行わていない筈がないのだ。だから時として相手から相手にされなくても、相手への日常的同伴を望めばストーカー的な振る舞いへと移行していってしまう。日常的な時間をある特定の出会いの直観で素敵であると判断してしまった他者を自らのエゴで巻き込み同伴させたいと願う心理が歪である事を中々現代人は気付き難い社会環境に住んでいると言える。
他者所有の未練が生を支配している。実は年配者が年少者へ年配者を敬えとする態度も年配者に拠る人生がやがて終える時期の到来が近づけば近づく程未練が人生へ募ってくる事への懸念が生み出した欺瞞的態度でしかない。何故なら死者とは必ず徐々に忘却されていく運命にある、と全生者は知っているからである。
結婚して同居してとっくに覚めた愛に対しても未練を抱く。相手へとっくに幻滅していても尚運命的な出会いであったとそう思いたい未練もある。だからこそ往々にして一般に人々は離婚には踏み切らないのだ。しかし既に述べた様にそもそも愛は言葉化出来ぬと神格化してきた程愛とは崇高なものなのだろうか?そう懐疑的に問う事も可能ではないだろうか?
そもそももっと現実的に言って愛とはそんなに純粋なものであり続けてきたのだろうか?
或いはそんなに純粋なもので愛があったなら、愛とはそう実現し得る事であったろうか?
例えば相手から一切見返りのない愛を我々は期待するだろうか?つまり相手から一切愛され返されぬと知っていて尚相手をずっと永遠に我々は愛せるものだろうか?最初に出会いの直観で価値ある出会いだとしたその出会われた他者への愛をずっとそういった一切の見返りのない状態を維持された侭持続し得るものだろうか?
それがし得る、いやすると断言し得るなら、そう断言する者を仮に我々が、そんな愛はマゾヒスティックだと言った時、その愛の純粋性に対して批判する現実的態度を批判する事が出来るだろうか?或いはその批判された者の方が正当だと明確に言い切れる(欺瞞的な純粋神話への信仰でなく素直に)ものだろうか?
或いはこうも言える。そういったマゾヒスティックな見返りを求める事の出来ぬ相手への献身が唯単に自虐的なナルシシズムでしかないと言った時、その言及に対して明確に論理的にも倫理的にも我々は責める(攻める)事が可能だろうか?
自虐的ナルシシズムも又一種のエゴイズムでしかないと言えないだろうか?自虐とはそれ自体一つの特殊なエゴイズムの変形でしかないとは決定的に言える事である。
してみれば、相手からの見返りを求めるという事も愛の一つの権利であり、それはたとえ自分の親であっても、認知症を伴って自分を息子とも娘とも判別が付かない状態であり、尚且つ自分に対して只管暴力を振るうとしたなら、それでも尚その親を愛せと我々は命じられるだろうか?
相手から感謝されるという見返りもあればこそ我々はその最も本来なら愛すべき他者(親族とか肉親)であっても愛せるという事は権利的に言えるのではないだろうか?
だから却って相手から一切無視され虐待さえされているのに相手へ献身を続け愛し続けるとしたなら、それはもう自虐的な意味で歪なナルシスの命じる侭愛を持続させようと欲する歪な美学的なエゴイズムではないだろうか?
だから愛を純粋なる献身へと置き換えてしまうとどうしてもこういった極度の歪な自虐的美学のエゴイズムに愛を置換させねばならなくなる、とは言い得る事である。
そこでこうも言える。愛は即ちどんなタイプのものであれ多かれ少なかれエゴイズム以外ではない。つまり愛とはニヒリスティッシュに言えば所詮、特殊なエゴイズムのパターンでしかないとも言えてしまう。
もっと簡単な例で考えてみよう。
それは愛を慰安とか生活の寛ぎを得る権利的な幸福感情の一端だとして考えてみることである。そう考えてみよう。
そもそも他者への思い遣りの善とは、正義、公平、責任とは次元が異なるのではないだろうか?
他者への思い遣りとは他者が自分へ甘えて来た時にそれを受け止めてあげる事ではないだろうか?
となると理性論的には愛は甘えと馴れ合いと区別がつかなくなっていってしまうけれど、その区別そのものを既に直観的な出会いの感性とか肉親とか親族であるなら運命的に背負わされている。何故なら他者を愛しいと思える瞬間とは、自分自身が正しい時に賛同してくれる事よりも、もっと自分自身に否がある時に、それでも尚味方をしてくれる事であるからである。
要するに完全に自分の方が誰か第三者と対立して悪い場合でさえ、自分の方に味方してくれる相手、自己の四面楚歌を少しでも軽減させてくれる様に献身してくれる相手(他者)へ我々は自己が正しく周囲から文句なくその正しさが認識されるであろう状況よりも、よりその「それでも尚味方してくれる他者」としてその者を我々は愛そう。
自分の我儘という悪さえも容認してくれる他者を我々は愛す。これは決定的な事実だ。自分自身で自己の悪を自覚すればするほど、それでも尚味方してくれる相手への感謝程大きいものはない。と言う事は感謝それ自体も又極めてエゴイズムに拠って支えられているものである、否感謝それ自体が一種の強烈なエゴイズムであるとさえ言える事になる。
自己の悪さえ受け入れてくれる相手(他者)への感謝の大きさとは、実は他者と共に居る事の慰安と寛ぎの中に、決定的に自己本位でエゴイスティックでしかない心情と愛とが密接に結びついていると言えるのである(菊池直子と高橋克也もそうだったかも知れないし、菊池直子を匿っていた男もそうだったかも知れない)。
自らの苦戦、自らの不利、自らの怠慢という悪にも関わらず味方してくれる相手(他者)への無償の愛としての認識こそが感謝であるなら、感謝に拠って支持されている愛とは相互の功利主義的な甘えだけでなく(それは契約する他者同士でも国家間の外交的な判断でもあり得るのだから)、純粋な他者への感謝(それは相互の権利的主張を越え得る心の在り方である)とは、自己本位である事を免れ得ないと言えるのだ。
感謝という心情のエゴイズム的性格は、愛がそれ自体自己本位な生存欲求に拠る甘え以外ではない相互の存在容認と密接である事を証明するのではないだろうか?(つづく)
Monday, April 22, 2013
シリーズ 愛と法 第二章 愛の倫理とは何か?
前回愛が法を逸脱する事が許される唯一の事はそれが許され得るエゴイズムであると考えられる、と言う事はそう感じられるという事だという事が一つの結論であった。
では許され得るエゴイズムとそうでなく許されざるエゴイズムとは何かという事がそこで問題となろう。
我々の前には取り敢えずこの許され得るか許されざるかを判定する基準それ自体を倫理だとする道が開かれている。
その時エゴイズムとは通常それ自体許されざる事であると考えられがちであるが、実は自己信念に忠実に行為へ赴く事、履行する事それ自体は如何にそれが責任の名に於いてでも正義として容認されている事でも、それは既にエゴイズムでしかあり得ないのだという観念にも幾分の説得力がある筈だという視点でこの事を論じている事を明記しておきたい(この事は詳しく後述する)。
すると倫理として許され得るエゴイズムとは他者全般の愛の権利を妨げぬ範囲内であれば、それは取り敢えずそうであると言えないだろうか?
要するに他者愛であれ自己愛であれ、それは究極ではそれを履行する事で他者全般が有する愛の権利を妨害するものでなければ許され得ると我々は取り敢えず言える気がする。
つまり我々は直観的に他者全般の愛の権利の侵害者として許されざるエゴイズムを認めているのではないだろうか?それが他者愛であれ自己愛であれそうであると我々は直観する。
してみると、そうでなく他者全般の愛の権利を促進していく可能性を見出し得るエゴイズムがもし仮にこれ迄の社会的な意味での法を逸脱するという形で容認されていなくても、これ迄の、そして通常通念的に我々がそうではないかと思えてしまう愛の倫理、愛の法(この二つを取り敢えず重なるものとして容認しておいてみよう)に沿っていると思えなかったものの、内実的にそうではなく履行してみれば今迄考えられていた愛の法そのものを旧態依然化するある発見があったとしたら、つまり真理的な愛の法に沿っていると思える発見をそこに見出し得るのなら、それはこれ迄の法(法それ自体は愛の為だけではないが、愛それ自体にも法があるし、それをここで一緒にして考えても取り敢えず差し支えないだろう)に背いていても、その背きの方が説得力を持ち得ると我々が容認し得たなら、法を書き換える事を示唆する力としてその愛のエゴイズム(取り敢えず法に背く事は如何なる事でも<それが愛に殉じる事でも>エゴ的であると言えるから)は許され得ると判定されて然るべきではないだろうか?
つまり許され得るエゴイズムとは愛の倫理の下では法を書き換えこそ示唆しても、それに拠って我々が直観的に正しくないとは決して思えない説得力を行為そのものが有しているという事ではないだろうか?
それは常に在ると言える事とは言えず、極めて例外的な事だと言えるだろう。例外的に我々が生の生存と維持とに於いて直観し得る真のヒューマニティを見出し得る、そういうものが先験的に備わっていると感じられる愛すべきエゴイズムだと言えるだろう。
ところで我々は愛とは言葉化し得ない、言葉化する事が出来ないという真理の様に思える事に拠って実はかなり多くの事を問う事を等閑にしてきたとも言える。つまり「愛とは言葉化出来ない」という謂いが知らず知らずの内に陳腐なエゴイズム(それはある程度許容し得るも、決して倫理的にも愛の法にも準じているとは言い難いという意味でのエゴイズムである)に陥りやすく生活してきている、とは言えないだろうか?
その点では我々は我々自身の行為を厳密に分析していく必要性もある。それがもし哲学的認識だとするなら、愛が滅私的でそれ自体エゴイズムではないと感じ(られ)る(と言う事はそう決め付ける)感性と、そうではなく自然とそう身構えてしまっても、実はそういう他者愛とか自己犠牲も又一種固有のエゴイズムでしかあり得ないとそう感じ(られ)る感性とがあり得る、とは言える。
さて前者は幾分先程述べた「愛は言葉化出来ない」という真理(と思われている事)を鵜呑みにしている感性に拠って得られる決意であるとは言えないだろうか?
その点では哲学的認識と言える後者の感性は、デカルト批判として登場しているニーチェ的流儀を一定の現代哲学的相貌で認めつつも、それをも含めデカルト的出発点を誤りではないと言い切れる感性ではあろう。
一見確かに愛は言葉化し得ない様に滅私的愛はエゴイズムではないと言い切れる様にも思えるのは、前者的感性がある程度我々の社会へ蔓延しているからであろう。だから後者的に、否その様に滅私的で自己犠牲的である事そのものも又一種固有のエゴイズムでしかないのだと断じる感性は、前者の特殊な変形であり、所詮この二つは同じ事実の二つのちょっとした認識の仕方の違いでしかないのだ、と社会的俗を受け入れれば言えない事もない。
しかしである。この二つの感性の違いは哲学的には決して小さな事ではないと言える。何故なら前者的感性は自己の対他的愛を疑うという事を知らず、信じ切っているからである。信じ切るとは行為そのものの履行には絶対的に必要である。しかしそれは我々が日常的に反省的に行為そのものを考える事の前では潔く取り除く必要もある事なのだ。
つまり後者的感性では滅私や自己犠牲も又所詮一つの固有の私利私欲でしかないと判定を下す事で信じ切る事で得てしまいやすい誤謬を避けようとしている。
それは信じ切ってしまいやすい事へさえ疑う事を導入する事を憚らぬ事実全体を如何に当然と思われる事に於いても当然ではないと思われる事と等価に行動の採り方に内在するドグマ的な事をメタ認知していこうと欲する態度であろう。つまり「それをしている自分」というハイデガー、サルトル的に言えば対自的視点での反省である。
自己に拠ってほぼ無反省的に行われる行為に迄懐疑の目を差し向けるという意味ではデカルト主義批判者であっても、デカルト的出発を否定している訳ではないのである(例えばメルロ・ポンティはその極端な懐疑への移行を経験主義と同一の誤りを犯す主知主義として批判したのだったが、これはデカルト主義批判であると同時にその正当なる修正主義の宣言でもあった訳だ)。(つづく)
Friday, April 19, 2013
シリーズ 愛と法 第一章 語義、或いは愛とエゴイズム
ミシェル・アンリの研究者に拠るとアンリとは「愛は法に優先する」「愛の法への優位は決定的だ」と考えていて、そういう論説で彼は哲学していたと言う。
これは我々に対して極めて共感を誘う主張である。何処かアンリは文学者でもあった事から、共感試験的に、つまりそう主張する事で、それに反意を抱く者とはどういう人であるかという事を知りたいが為にそういう主張をしたと捉える事も間違いではないだろう。
事実アンリの文章は哲学書であっても何故を問うている訳ではなかったし、因果律的にある事の根拠を問い詰める事が彼の哲学の目的ではなかった。その部分ではアンリを哲学を通した表現者であったと捉える事も可能である。
だが当然の事ながら本シリーズはアンリ研究が目的なのではない。あくまでこのアンリ的態度は入口にしか過ぎない。
推論、論証といった理由とか根拠とかを探る事が哲学の目的ではない(通常の哲学はそうではない)のなら、アンリは愛そのものを表現したのだ、と言い得るのではないか?
アンリの論文分析とか考察は専門の徒に任せるとして(とは言え必要とあれば、部分的には本シリーズでも取り上げるつもりだが)、取り敢えず要点を把握すれば、愛の法への優位とは次の論理で示し得るものと思われる。
☆価値が倫理を生む(倫理が価値を生むのではない)。
☆愛が法を生む(法が愛を生むのではない)。
☆愛こそが最高の価値である。
☆従って我々は愛を優先し、法をその配下に付けるべきである。法によって愛を歪曲してはならない。
よく分かる。それはヒューマニティとしても当然の事である、と我々は直観的に知っている。
しかしである。これでは余りにも曖昧過ぎて、愛自体とはどういう事なのかという事が見えてこない。勿論愛とは問う事でないとアンリなら考えただろう。しかしそれを問いたい自由を封殺する必要もないし、そうしなければいけないとアンリが言っていた訳ではないだろう。
愛を問うなと言うその態度はややもすると、それを分からぬ者は価値に就いてなど語る資格等ないと言わんばかりの上から目線的な権威主義的態度も透けて見えるという意見も極自然に見えてくる。
そこで本シリーズでは愛とは何かを情感、エロス、制度としての言語、モラルや倫理を通して考え、法全般(言語も含む)との関係から考えていきたい。
要するに愛の精神構造分析と、その価値論的論説を試みたいのである。
では最初にもし法自体が誤っているのなら、その時愛の方を優先し、愛に沿って法を変えていくべきだという考えが浮かぶ。しかしそういう風に法をその都度変えていくべきであるという愛に準じた価値を最重要視するなら、それは既に愛自体が一つの絶対的法である、と言っているのと同じではないだろうか?
言葉を換えれば愛に拠って打倒されるくらいのものを安易に法と呼んで良いのかという倫理的、或いは価値的認識も自然に迎えられる。
要するに制度的な意味で法を重たいものとするなら、法が愛を搾取する様な悪法を法と呼んで良いものかという価値評定とか倫理問題を誘発する。
確かにアンリはレジスタンスをしていた人なので、法それ自体が悪法である状況下で哲学的基礎を積んだ。従って法の悪性を知る者として愛を優先する事は自由を法より優先する様に理解出来ると言えば出来る。
しかしもっとその論議をユニヴァーサルなものとするには、愛自体も分析する必要がある。
もし法そのものが極めて愛に従っているものなら、その法を背く事は愛と呼べるだろうか?それは唯単に愛の名を語るエゴイズムではないのか?そう問える。
そこで愛とはエゴイズムとは無縁のものであるべきだ、という愛自体の価値評定、あるいは倫理命題がここに与えられる事となろう。
そうである。愛がもし法より優先されるべきであるなら、まず愛がエゴイズムとは無縁でなければならないと倫理的には言い得る。
しかし実在生活者の我々は神ではない。従って脆弱な存在者である我々はその脆さを認めつつ歩んでいかなくてはならない。そういう観点に立てば一切のエゴイズムを容認せぬ愛とは実在的に不可能ではないのか?
そう問えば当然幾分のエゴイズムも権利として愛に認めてもよいのではないかという視点も誤りではないと言い得るのではないか?
エゴイズムを悪と決め付ける視点からはそれを介入させるものは愛の名に値しないこととなろう。しかし一切の自己本位を無化させた愛を実在生活者たる我々には不可能だとするなら、法がエゴイズムの無化を絶対条件とするなら、その様な法が曰く観念的過ぎて悪法という事になるだろう。
我々は現実社会に自己を適合させてしか生活出来ない実在生活者であればこそ、適度の愛の義務と、価値倫理的な
愛の法を遵守しながらも、同時に幾分の自己本位なエゴイスティックな逸脱を寛容的に認められるべきではないのか?
つまり純粋自己犠牲的、レヴィナス的な愛を観念上では認めつつも、それは価値論としてのみ受け取っていくべき余地もあるのではないかと問う事も可能であろう。
法が「正しく」絶対であるなら、法を背く愛とはエゴイズムと不可分であるという事に少なくとも論理的にはなり得よう。しかし正しいという事はしばしば法の遵守という観点からのみ言える事でもある。その論点を採用すれば、当然正しい事とは愛に沿っているとは限らないという事となる。カントやニーチェには確かにその正しさ、つまり遵守する事の誠実性(自主道徳的な遵守、道徳的法則の遵守)という事がベースとしては語られている。
しかしそれはやはり価値観念論としての「哲学」に収めておくべきではないかという論議も呼び起こされよう。
アンリはある意味ではそれを言いたかったのかも知れない。してみれば正しい事、法の正当性とは愛に拠っているとしても、それが経験則として得られた結論であるなら、その経験則から零れ落ちる愛の形態とか様相もあり得るという事になろう。
と言うことなら、逆に愛にその都度従っているのなら、その都度法が書き換えられていって然るべきだという事になる。それは相対的な法の在り方と、愛のその都度の遵守という意味では杓子定規的な正しさではなく、極自然に正しいと言えるのではないか?しかしその正しさは権威化されるべきものではないという思想が必要なのである。
するとこうも言えるかも知れない。
この世界では事後的に許され得るエゴイズムと許されざるエゴイズムとがあり、前者に沿っているのなら法からの逸脱も許され、後者に沿っているのなら、それは許されないという事となろう。
してみれば語義として法がそんなに容易に愛からであっても覆されるべきではないという倫理からも抵触され得ない。では倫理は常に絶対であろうか?倫理もそれ自体、自主道徳や道徳的法則を蔑ろにさせぬ為の訓戒として便宜上設けられたものではなかったのかというその絶対化への懐疑が持ち出されても良い。
次回は倫理という法を愛の権利に就いて考える。(つづく)
付記 本シリーズでは法をそれ程容易に覆されざる至高価値として敢えて愛と対峙させる事で、ある程度厳密に語義規定性を重く用い、しかし最終的には語義も相対的である事を逃れ得ず、愛を至高価値とさせたいが、愛と錯覚する多くの似非的、欺瞞的な実在の行為をよく検証していくべきだと捉えているのだ。(Michael Kawaguchi)
Wednesday, July 4, 2012
〔言語の進化と責任〕第九章 あるいは結論 愛と性の言語(「触れ合い」の哲学について)
私は言語と言いながらあまり言語学者のような体裁を一切無視してここまで書いてきたのだが、実はそれには訳がある。それは言語学そのものが未だ発展途上の学問で、確たる方法論が確立してはいない、ということと、言語というものを考える時、ただ記述された文字表現とか対話とかだけに限定することもまた不自然なくらいに言語という観念自体が多様化してきている、ということも言えると思うからだ。だが言語はヒトが歩き始め、食料を確保する方法として採集とか狩猟とかを始めた頃から何らかの形で、その必要性を漠然とは意識していて、その内発的な意思疎通への熱情が、いつしか現在のような形での意思疎通へと直結する方法の獲得に繋がり今日の様になったということは言えるだろう。
しかし言語活動が日常的な言語行為へと位置付けられてゆくために最も貢献したのは、意味や指示対象だけではなかった筈だ。そしてあまり本論では触れられなかった最も重要な人間の感情、愛と、最も人間生活において恐らく他の全ての生命と同じく切実な性ということから言語の進化を考えていってみよう。そしてそこで何らかの言語進化の問題の結論としてみよう、と思う。
通常我々の社会的倫理観として人間のように一夫一婦制を採用している生物は稀であることを承知でか、承知しないでかはともかく人間は愛を一定の持続期間、少なくとも子供を儲け、育て一人前にして独立させるまでは結婚という形態で同居契約を結び、それを全うするという行為の倫理性に比べれば、一時の快楽を通じて瞬間的な喜びに打ち興じるということを劣った行為であるとするのが今までは通常だったし、つまり愛とは責任を伴うものである、という意識が我々の社会には暗黙のルールとしてあった、ということは言えるだろう。
しかし同時に現代ではインターネットで誰でも容易にポルノ動画に接することが出来るし、大人であるならそういうネット・サーフィンをすることが児童ポルノとか特殊な例外を除き、倫理的に罪悪であるとする社会人はそれほど多くはないだろう。例えば子供がそのような動画に接することがないように工夫すべきであるとか、法的な規制をするべきであると言いながら、一人で退屈凌ぎにそういう動画を検索している人は多い筈である。
人間の愛という活動には本音と建前があって、それを混同することは差し控えたいが、巧く峻別しておれば、社会の潤滑油であると考えている大人は多い。
また今の若者は、その全てではないだろうが、保守的傾向の青年も多いだろうが、昔のような意味でセックスに対する知識が皆無であるようなタイプの青年はあまり多くはいないだろう。勿論そういう好奇心は知識の希少な若者でも、かなり以前から誰しも経験があっただろう。しかし時代が現在に近づくつれ、ネットその他による溢れんばかりの情報の授受という行為それ自体は自然なものになりつつある。
そして一体言語とは発話とか記述だけであったのか、例えば性行為に関するマナーといったこともまた立派な言語だったのではないだろうか、という考えが私にはある。
現代の性科学は少なからず過去のそれとは曲がり角に来ていることは確からしい。例えば性を人間以外の全ての動物において(と言うことは人間も例外ではなく)オスによるメスの選択(性選択と生物学では言う)やメスによるオスの選択という認識だけではなく、寧ろ性行為を獲得したいと望む側と、それを避けたいと願う側の駆け引き、あるいは攻撃と防御という熾烈な葛藤であると見る見方が大勢を占めてきている。そしてその事実は性というものがただ繁殖と子孫繁栄のためにだけ供せられる行為ではない、という認識を拡大させつつある。そして重要なこととは、そのようようにオスとメスが葛藤し合いながら性行為に到達するということは人間社会でも我々は具に観察出来るのだが、実際オスとメスの違いよりも、たまたまオスに生まれたか、たまたまメスに生まれたかというような個人(動物では個体)の違いという様な意識の在り方から考えられる要素の方が性ということの実体を把握するには相応しいのではないかという思念さえ浮上するのである。
人間を含め全ての生物、そこまで言うと少々説明が困難になるので全ての動物としておくが、彼等(我々も含む)が性行為を行うことに纏わる種毎の方法とは、それ自体で種の身体に記憶された言語であるとは言えないだろうか?
ある米国の有名ポルノ女優は「マスターベーションをした経験のない人は恋人と交際する資格はないわ。」と言っていたが、私はその意見に対しては賛成である。
日本人は性的なモラルに関しては色々最近の若者は昔とは違うように言われているが、未だ欧米先進国のようには自由でも解放されてもいない。また彼等と同じような性的なモラルを持つべきとも言い切れない。正高信夫氏の著作「ケータイをもったサル」の主張のように、昨今の若者を「ひきこもり系」と「ルーズソックス系」(今はすっかり居なくなったが、その代わりに外を歩く時さえ携帯画面釘付け系とでもしてもよい)と名付けて考察してみると、日米の若者像の違いが鮮明になるが、日米での違い、特に周囲の人間と協調するように、溶け込むように母親が赤ん坊の頃からそれとなく強いていく姿(統計的にも日本人の母親はスキンシップを赤ん坊に話しかけること以上に大切にするが、アメリカの母親は赤ん坊が未だ言語習得する以前から赤ん坊に語りかけることをスキンシップ以上に大切にする、と言う)が、アメリカの母親は最初から子供を独立精神旺盛な少年に育てようとする、という面での相違は、アメリカはただ独立心という建国精神からだけではなく、キリスト教倫理的なモラルの面からも日本人の宗教観の希薄さと関係があるように私には思われる。それは第一章のフランス哲学者のミシェル・アンリのテクストを読み込む為に彼のテクストとヘーゲルのテクストを平行して読んだ時に、特に感じたことだった。彼等は両方ともアメリカ人ではないが、日本人よりは一段と個人の独立心は旺盛である。アメリカ人は西欧型の独立心に加えてアメリカ独自の独立心が備わっているのである。ブログに投稿する時にも日本人は無記名(匿名)で書くことが多いのに、アメリカ人は記名することが常識であるという事実にもその個人的な独立精神の旺盛さが伺える。
日本人は要するに本音をずばりと言い切ることに抵抗を感じる国民性の民族なのである。例えばフランス人にとってワインと対話というものは生活上不可欠な要素である。そして対話も時として論争にまで発展する。しかし日本人は大分政治の舞台などで論争することが定着してきている様に思われるが、依然それほど欧米人のように論争することを精神的なモラルとしては潔しとはしていない。不言実行とか黙して語らずとか、要するに黙って寡黙に作業する姿に対して凛々しいと感じることが性質として定着している民族である。だから性意識に関しても保守的な感情と、それでいて現代のように性情報が氾濫した状況において何らかの分裂を精神的に感じ取っているということは考えられる。つまり急に生活もモラルも欧米化した、ということに対して内心では戸惑っているのに、それを他者には悟られまいとして取り澄ましているというのが実情ではないだろうか?
話は元に戻るがマスターベーションその他の教則本さえ80年代以降は盛んに出版されるようになった。一頃に比べあまりにも過激なものは大分少なくなったが、それでも今でも時折見かけられるそのような内容の記事は、最早昔(例えば私の幼少時代の昭和三十年代)に比べればタブーでは決してない。つまりそれらは影でこそこそ読むような性質の本ではなしに、若い会社員たちが喜んで買うようなタイプの雑誌に堂々とそういう記事が掲載されているのだ。このような状況下現代の若者の性知識は、実質的なものであるかどうかはともかく、トレンディードラマやテレビタレントや文化人までもが自身の性体験等についてあけすけに語る対談番組等で見られる様に極めて詳細なものになっている、という意味では昔以上であろう。だがそんな彼等とてそれ以前の日本人の資質も引き摺っているのだから、内心では「日米、あるいは日本とヨーロッパどちらが正しいか」ということに関して悩んでいる者も少なくないのではないだろうか?
しかしそれはそうおいそれとは他人に公言することが憚られる内容の事実なので、例えば愛情(恋人同士のことでも、夫婦間のことでも)とか性について語るのは、例えばフラメンコなど恋の情熱と炎の民族スペイン人のようにはいかないだろう。日本人にとって恋とは未だに彼等に比べれば秘められた思いの、公言することを控える感情である。
そこで最後の章である本章では、これまでの難解な観念論を一切差し控え、性愛のことについて日本人である私の実体験と、それによって培われた性愛についての考えを述べてみたい。そして男性が女性に言ってはならない言葉、女性が男性に言ってはならない言葉を中心に男女の日常生活上でのトラブル回避術に関して考えていってみよう。この考察はある意味では日本人固有の問題かも知れないが、ある意味ではそれほどどこの国でも変わりないことでもあるように私には思えるのである。
例えばこれは日本に特有の現象なのか、スポーツ選手や芸能人の結婚話がワイドショーの話題として取り上げられ、盛大な披露宴をすることもまた復活しだした。以前は地味婚というのが流行ったが、再び派手婚時代らしい。またそういうカップルでもずっと仲睦まじい夫婦もいるのだろうが、結構大勢のカップルは数年以内に離婚したり、別の相手と再びあまり間をおかずに再婚したりすることも多くなった。そしてこれは言えることだが、離婚や再婚が自由になったということは、精神衛生上現代人とはストレスフルな生き物なので、いい傾向ではないだろうか?戦前には出戻りなどという嫌な言葉があったが、今そういう言葉を誰か特定の女性に対して使用すると差別用語であると即座に訴えられるだろう。本来生物学的には一夫一婦制というものはある特殊な例外と言ってよく、また人間のようにあるパートナーと添い遂げたら、一生一緒に暮らすというようなタイプの婚姻形式は生物の中での異例中の異例であるらしく、そういう意味では人間はかなり社会秩序を全うする為に精神的には無理をしている生き物なようだ。だから華やかな話題の割には大勢のカップルが離婚しているということは本来の人間の動物としての精神安定にとっては自然なことなのかも知れない。
そして私的なことになるが、私の父は十六年前に肝臓癌で死去し、私の母と三十年以上添い遂げたが、それでも何度かは離婚を考えたこともある、と私の母は父の十七回忌に実家で私に語った。どんなに仲のよい夫婦でも一度や二度は離婚を考えたことがあるというのは未だ微笑ましいことであり、倦怠期(これも又嫌な言葉だ)というものもどのような熟年カップルでも経験していることであろう。もしそういう気持ちに一度もなったことがなかったとしたら、そういうカップルは希少な例外ではないだろうか?熟年離婚は今年(2007年現在)民法の改正によって離婚後の年金が授受出来るようになったことで、増加しているというデータもある。
つまり男女の仲というものはある一線を越えた発言をすることによって一挙に崩壊へと雪崩れ込んでいくというケースが最も多いような気が私はする。勿論浮気とかそういう理由のケースもそれなりにあるのだろうが、それ以上に「最早この異性と一緒に同じ家で句暮らすのは懲り懲りだ。」と思うことの第一の理由はほんの些細な心無い一言に対する執念深い恨みに起因することが意外と多いのではないか、と私は思っている。と言うのも人間は動物と違って言語行為を主とした意思疎通を行うので、恋人や配偶者に対する攻撃もまた言葉による応報ということが一番多い気がするのである。そこで異性同士で男が女に決して言ってはいけないこととは何なのか?あるいは女が男に言ってはいけないことは何なのか、ということについて同居したり、長く交際しようと思っているカップルに対して多少の参考になりはしまいかと思い、それをここに挙げてみようと思う。
まず私は男性なので、男性の側から女性に最も言って欲しくない一言を幾つか挙げてみよう。(この中には私が言われて酷く気分を害したことのある言葉もある。)
① 「あなたには何か夢はないの?」
② 「あなたは子供なのよ。」
③ 「他の人<男性のこと>を見てみなさいよ。」
私は実はこの一言の内最初のと、二つ目の言葉を若い頃それぞれ別の女性から言われたことがあるのだ。そして最後の言葉は死んだ父親に言われた一言である。
特に最初の奴は、最近ある事件で兄に殺された妹が兄に対して放った言葉でもある。
本来そう自分の日常において親しくしてはなくても、いいと思えるようなタイプの知人から似たようなことを言われた場合(そのような不用意な一言を言うからこそそういう人に対しては親しい人に対する様には接したくはないと思う様になるのだが)、むかっときても尚我慢すればよい(そう始終顔を合わす人ではない限り)のだが、その同じ一言を普段一番親しくしている恋人とか配偶者から言われると「可愛さ余って憎さ百倍」になる場合もあるのだ。つまりそういう一言を浴びせかけられて、それに対して「もう我慢出来ない」と思うのは、そう思って別れた方が自分の人生にとってはメリットがある、と思えるからであり、そのような不用意な一言を聞いてさえ我慢するだけの価値がその言葉を吐いた人にあるかどうかという自分の中での価値基準によって自ずとその言葉を吐いた人に対する固定的な感情が定まってくるのである。
本来男性は夢を一生追い続けるという傾向の感情の生き物であるという意味では女性のような現実主義者以上のものがある場合が多い。そこで特にそのような典型である様な私には①の一言は極めてきつい侮辱に受け取れたのだ。それを言われて私はある女性とはそれ以上親しくはなれないと思ったのだった。②もかなり男性にとってはきつい一言ではないだろうか?男性は社会的な動物であると言ってもよいからだ。そしてその極めつけが③の一言であろう。これは尤も私は父と多少心の行き違いのあった時に言われたので、売り言葉に買い言葉であるようなニュアンスもあって、女性から言われたほどには傷つかずに済んだ記憶がある。しかし①にはそれにかなり近いニュアンスが私には感じられたのである。
つまり同じ一言をある特定の人から言われることというのは、ある意味では特別の意味を持つ。それは特に親しい人、信頼している人から言われるとずきんとくるということがあることからも読者も了解されるだろう。だから同じ一言を誰から言われるかに応じて人間はその都度異なった対応的な感情を抱くものなのだ。そしてそれは人によって(それは同じ一言を父親から言われた方が頭がくるか、母親から言われた方が頭がくるか、とか、同じ一言を家族から言われた方が傷つくか、逆に他人から言われた方が傷つくかということである)違うだろう。しかし少なくとも同じ一言でも信頼しきっている人から言われるとショックであるという面の方が、それが家族であれ、他人であれ変わりはないのではないだろうか?
ここ数年日本では親が子供を、子供が親を、あるいは生徒が先生を、先生が生徒を殺すというような事件が類発している。しかしそれらのケースの幾つかはいつの時代にもある親子や、異性同士の生徒と先生の関係に端を発し、その殺し方とか幾つかの事例において現代固有の問題が潜んでいるのではないか?例えば男女の諍い事というのは昔からあった。しかし昔はマスコミ包囲網それ自体が現在のような形でネット化されていなかった。現代という時代の特殊性を一言で言い表すと、実際は大して無関係な事件同士をマスコミが現代固有の問題として扱い、各界の文化人や精神分析医とか弁護士や元警察庁勤務の監察医とかを挙って出演させ、彼等に全ての猟奇的殺人事件を何らかの現代社会固有のものとして各ケースは本来何の関係もない筈なのに巧みに現代的現象として関連付けることでワイドショーの視聴率を稼ごうとしているマスメディア全体の姿勢に象徴されていると言ってもよい。つまり一個一個のケースはかなりそれぞれ固有の事件であり、その中にはよくあるケースも多々あるということだ。しかし殺し方とかの異常さ、遺体の処理の仕方の異常さとかはある程度現代の情報化社会による連鎖反応という様なこともあるかも知れない。
男女の恋愛関係の縺れ(痴情の縺れ)という様な事態それ自体はかなり古典的な犯罪ケースである。親子や親族間の愛憎という事態も特に現代的なことの様にも思われない。だから殺し方とかその後の異常な行動といったことを取り上げ、それをもって現代に固有の現象であると考えることはある意味では危険である。ただマスメディア自体が加熱報道することで犯罪者の心理を逆上させるということはある程度あるかも知れない。しかし仮にマスメディアの報道の仕方それ自体が加熱していなくても尚、犯罪者、とりわけ殺人犯という存在は、それ自体で精神的に異常な状態にあることは間違いないのだから、私たちが現代を異常な時代であると感じるとすれば、政治家の不用意な発言が失言として受け取られ、即日退任を迫られるようなことと同じように情報化社会という現実が、些細な好奇心を掻き立てる特異な事実がよりクローズアップされ、その方が一番重要なその事件の本質よりも我々の印象に残り、記憶内容と化してしまうという現実の方に寧ろ現代社会の特異な状況が垣間見られると言ってよい。
だがそういう犯罪を犯罪者をして駆り立てる状況というものはある程度想像はつく。それは言語的な鬱憤を行動で埋め合わせているということである。例の兄妹間の殺人事件では妹の兄に対する説教的な言辞に対して兄が腹を立てたということであるが、これなどは制度的な男性に対するこれも嫌な言葉であるが、勝ち組と負け組のはっきり分かれた世間的な人物に対する評定そのものが、あのケースでは妹の発言には見られた。その様に負け組的なレッテルを貼られた兄は妹に対して一線を越えた発言と受け取り(と言うことはそういう発言を身内からだけは言って欲しくはなかったということになる)、だったら体力だけはお前には負けないのだ、という主張が彼女に対して兄の側からなされたのだ。
これは言語的な行為、発言自体がその気軽に慣用しやすさの割には意外とそう言われた側のトラウマを容易には解消させてはくれないという恐らく古代から人間にあったとも思われる言語行為の恐ろしさを物語っている。
男が女に対して言ってはいけないことというのもあるだろう。しかし男性が女性に言葉で侮辱することは意外と少ないということは言えるかも知れない。もしあったとしたら愛情の欠けた発言ということになるだろう。愛情の示し方も、示されたい仕方も男女では微妙に異なる。例えば女性に対してブスと言うのは確かに禁句であるが、それで本当に愛し合っている男女間ではそういう揶揄を言っても許されるということもあるかも知れない。
例えば妻が突然中年以降に年齢になってから美人コンテストに出ようとした時、「この街には君より美人は大勢いるのだから止めておいたら」とか夫が忠告するということはあり得ることである。だからそれも小さな侮辱ではあるが、そういうことよりも恐らく女性は、相手に対する配慮、例えば新しい服を着たり、化粧の仕方を変えたりすることに無頓着な男性とか、何らか日常おける努力に対してきちんと理解してあげられるだけの「心のゆとり」のない男性の心遣いに対して、我慢がならないということはあるかも知れない。男性の場合社会的な評定自体をパートナーに下されるような発言に対しては憤りを持つことが多いが、女性が男性に対して揶揄的な発言、例えば「父さんも腹が出てきたね。」とか娘と一緒に言われても、それほど腹は立たないだろう。ある意味では長く一緒に暮らす夫婦の間柄では寧ろ歯の浮く様なお世辞とか美辞麗句は他人に対してなされる社交辞令と違って、逆効果である。彼等の間では親しい友人間でもそうなのだが、その言葉を聞く側にとって発する本人の本音を理解しやすい発言の方がずっと愛情が篭っており、また責任ある発言だと見做されるし、彼等もそのことに関しては了解し合っていることが多い。だから配慮的な意味でもあまり他人の前で夫を見下すような言葉を発言する様なことでもない限り直接揶揄されるようなことはあったとしても尚男性が女性に対してそのことで極度に恨みを抱くということはあまりないだろう。 或いは食事の際のマナーや裸で室内を歩き回る様なことは特に伴侶である女性や娘から見たら耐えられないということもあるかも知れない。しかしそれも恐らく個人差のあることである。しかし男性にはいつまでも子供のままでいるという様なところがある。それに対して女性は男性よりも早く大人になろうとするところもある。そこで勢い余って女性は男性のことを母親でもないのに、母親が息子とか姉が弟に対して接するようになる。それは妹が兄に対して採ることもよくある態度である。だから女性は社会が男性に対して好むと好まざるとにかかわらず規定してくるようなジェンダーロールに対する自分なりの意識に対して「何もしていないじゃないの」的な発言だけは控えるようにしなければならない、と私は思う。せめてそれくらいなら男性に対して採ることの出来る配慮ではないだろうか?今度は女性から見た男性の我慢のならない一言に関して考えてみよう。しかし私は男性なのでここは一つ私の知る女性から発言して貰おうと思う。 私の知人のある壮年女性は、やはり身体的なことや顔のことで文句を言われるのと女性は一番嫌がるのではないかと彼女はそう言ったが、やはり女性も「あなた<君>は何か夢でもないのか」と言われることもかなりきつい一言であると言っていた。 ある意味では私は彼女から仕入れたことを基準に言えば、案外男性が女性に対して思う以上に女性が男性から言われて傷つく一言とはそう変わらないということであった。 だが最も難しいこととは、人間は婚姻関係にある者同士をただ単に人生のパートナーとして理解し合えるということであるなら(つまり生物学的に言って繁殖目的だけではないのなら)そういうレヴェルではそのような発言を差し控えるという意志的な努力が、もしキリスト教的倫理に基づいて「死が二人を分かつまで」生涯添い遂げようとしているのなら、円満な夫婦関係によく作用するということはあるだろうが、そのような言語行為的な倫理と、性をもっと単純に繁殖目的の行為と見做す(尤も生物学者たちは性を繁殖だけのためのものとはとっくに見做していないのだが)なら寧ろ言語行為を発話と捉えるなら邪魔なものとして作用するという場合もあるのだ。愛を性愛として捉えるなら確かに言葉は要らない。しかし夫婦とか男女間の人生のパートナーシップの前では性愛だけが愛情ではない。互いに病気になった時には助け合い、あるいは社会生活それ自体を維持するために協力し合うという意志的努力の方がずっと重要な場合もある。とりわけ子供を育て終えた中年以降の夫婦にとってはそうだろう。だから言語行為において「心に残る言葉」も、先にくどくどと説明してきた「許せない言葉」も、共に社会生活上での最も重要なパートナーでもある性的パートナーとの間では人間の場合非言語的な相性の問題だけでは済まされない(勿論非言語的な相性が、性愛行為の際の身体的な言語に直結するから、それはそれで重要だけれども)、要するに社会人同士の相互理解が重要になってくる。それはある意味ではジェンダー的な男女の差を相互に理解し合い、その前提に立ってそれを克服することが理想であるような心と心の交流である。 本論では「心に残る言葉」と「思い遣りのある言葉」について最後に考えていってみようと思う。 私は本論において第一章で哲学者の考えを現象学の歴史的要請、時代的使命に関してアンリを中心に考えてみたのは、フランス人という民族性が現象学発祥の本場ドイツ人とも日本人とも全く異なった言語行為に対する文化的伝統があるということに関して関心があったからでもある。現代では現象学はアメリカの哲学者であるヒューバート・ドレイファス等によってもまた引き継がれているが、発祥当時はドイツとフランスが中心だった。そしてフランスは現象学以外にも実存主義(現象学とも密接な歴史がある)もあったし、構造主義もあったし、ポスト構造主義という思潮も輩出した。要するにフランス人はアメリカ人が得意とするようなタイプの民主主義的ディベートの好きな国民性とも、また微妙に異なったタイプの詩的修辞性の濃厚なタイプの、シャンソンの国民性の語り好きである。論争も、芸術論も好きな彼等にとって語ることは人生であり、書く行為も民族的資質としては他の国民ともまた異なった信仰性がある。 それに対して日本人は論議そのものを元来得意とする民族ではない。だからと言って日本人にはロジックがないというとそれは間違いだと私は思うが、少なくとも一般的な日常生活において論議とか議論とかが定着しているとは民族資質的には言い難い。そこに私たち日本人にとっての(実はドイツ人もまたフランス人の議論好きとは全く異なった資質があり、それは日本人とも共通したところがあると言われている)言語に対する独自の美学とか、言語観とか言語生活観とかが潜んでいる様な気がする。そしてそれは日本人の作茶道とか華道とかの文化的な伝統とも関係があるよう思われる。 それは文化的な問題である。言語行為に対する民族的な認識の傾向のことである。しかしそのような認識が生じるということは、逆に言えばそういう認識を成り立たせる生活世界というものが一方にあり、その生活があるとい事実は日本人であれ、フランス人であれ、イギリス人であれ、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、韓国人であれ変わりはない。ただ各自の祖国という異なった土地に根付いた歴史があるだけである。つまり文化とは、文化を成立させる生活があり、その生活は人間が生物学的な種として当然のことながら営む環境適応の行動である。 現代の生物学者たちの多くは動物の行動の殆ど全てを自らの遺伝子を拡張するために最適な行動とは何かということを本能的に選択していると考えている。勿論この考えに対して異論を唱えるタイプの学者もいる(2012年の現在ではその数は増えてきている)のだが、取り敢えずそのことに関してはそれだけに留めておくとして、大勢の現代生物学者の性と遺伝子拡張のために最適な行動とは何かということで選択された婚姻形態とか性行動に関する理論を人間にまで適用することに対して、恐らく殆どの宗教思想家や一部の哲学者たちは極度の警戒感を持って臨むだろう。 しかし本論の序で私が始めの部分で科学とは奇蹟という考え方の否定であると言ったが、その真理に従えば、我々自身が人間であるからと言って人間だけを特殊な存在として見る見方は少なくとも科学的見地から言えば正しいとは言えない。そして私は性は繁殖を目的とした性行為のことだけで性科学の生物学者たちは考えてはいないと言ったが、実はそれは例えばチンパンジーによく似た、あるいはチンパンジーの一種とも考えられているボノボたちが繁殖のためだけのセックス一辺倒ではないという現実、つまりグルーミング(毛づくろい)とかと同じような友愛的な、親愛の情を示す社交辞令的な、儀礼的な性行為を行うという意味で、人間もまた妊娠だけを目的とした性行為を行うのではない(そのことに関してキリスト教原理主義は反対するだろうけれども)ということから見れば同じであるということだけのことを言っているのではない。人間にとっての性は、実は性行為を中心とした行動以外の身体のホメオスタシス(恒常性)や内分泌作用とか様々な重要な身体的機能と密接に関わっているという意味で生物学者たちは注目しているのだ。自然はそれ自体に関して特定の目的を我々の種人間に与えているわけではない。しかし人間はまさにナイルズ・エルドリッジ(考古学者)の言の如く「生きる」目的のためにそういった身体的機能をも司る性というものに対して感謝しているのかも知れない。 生物学的には人間と他の霊長類を厳密に異なった生物であるとする様な境界はない。寧ろそのような境界は人間が人間のために設けたものでしかない。しかしそのような生物学的な事実は、逆に我々に対して「だからこそ社会倫理としての夫婦の愛情は相互に対する思い遣りと責任に端を発している」という考えを持つことを積極的に支えているとも言えるのだ。端的に言えば人間もまたただの動物である。だからこそただ単に性行為を繁殖や性的快楽だけに任せることを潔しとしない、つまり永続的な人間観の感情の交流という価値に転化させることを人間は考え、そこに社会的な共同幻想である責任という概念を基軸にしながら、言語行為、言語諸活動を進化させてきた、ということなのだ。そして言語の進化とは恐らく長く共に暮らす夫婦の間でも各自異なった形ではあれ、必ずあるのだろう。それは恋人たちにもあるし、同性同士の友情にも、あるいは異性間での友情にもあるのかも知れない。 そういう意味では生物学という科学は、現象学が直接倫理に触れることなく、倫理を取り巻く身体的実存を具に観察することで記述する学問である、という観点とも大いに共通する倫理誘発的な学問である、と言えないだろうか? そこで我々が日本人であるという現実の前で日本人に固有の「心に残る言葉」とか「思い遣りのある言葉」とは、実は他の多くの民族にとってもそうなのだ、という観点に立って、宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等に求めていってみようと思う。 私たちが他人から言われて「心に残る」とか「思い遣りがある」と思える言葉とは、その言葉を吐く人の中でその言葉を聞く人に対する何らかの気遣いに端を発する言葉である。 その気遣いの本質を考えてみよう。まず考えられることとは、第六章において示した発話する者の心的動機の次の部分が合わさったものと考えられる。 ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する(これも又対話者に対する信頼を必要とする)。 ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないこと も発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。 ④の心の動機を自分に対してではなく、対話する相手に対して向けると次のようになる。 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞する為に発語する(これもまた対話者に対する信頼を必要とする)。 そして⑤の心的動機を、他者に対して適用するわけだが、「ほっといてあげる」型の選択をしながら、「ほっといてあげる」ことも出来るが、こういうことを「してあげる」ことも出来るよ、と語りかけるのだ。だからそう言われて、その言われたことを気にしなくてもいいんだけれど、関心があるのなら参考にしてみたら、という発言である。 つまりこの二つを兼ね備えた発言のみ、我々は親切な一言、つまり「心の残る言葉」であり、「思い遣りのある言葉」であると認識するのではないだろうか?認識という言葉がどこか左脳的なニュアンスに響くという向きには感得する、と言い換えてもよい。 そこで心に残る、思い遣りのある言葉をもう一度定義しなおそう。 ① 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これも又対話者に対する信頼を必要とする。) ② 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないことも発話される側の自由だが、発話されること(記述を読むこと)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。だが同時にそれを参考にすることも出来るよ、と語る。 「心に残る言葉」は、それを語る人の語り口、語調、他者への気遣いということなのだろう。ここで結論として、幾つかの例を挙げて、そこに漲る自己‐他者における本質論的なことについて考えてみることにしよう。そしてその際に責任を軸に考えてみよう。何故ならこれから挙げる宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等には、明らかに思い遣りというものの中の責任、心に残る箴言というものがあるからである。 思い遣りがあるとか、激励の言葉は変にウェットになり過ぎない方が心が安らぐという人もいることだろう。そういう意味では私は言語行為というものは、メタ認知的なことも必要であると考える。しかしまたそのメタ認知にも程度はあるだろう。あまりにも相手の心を深読みし過ぎることも考え物だからだ。心に残る一言も、その場その時には反感を買うものでさえ、時間がたってみると意外に心に染み入る場合もあるし、その逆もあるだろう。あるいはやはり通り一遍であるが故に心に染み入るということもある。変に気取ったり、変に工夫しないでいたりする方がずっと思い遣りがある場合もある。 やはり私たち日本人が心掛けておかなくてはならないこととは、「ほっといてあげる」型の発言は、どこまでほっといてあげるのか、どこまで相手の心を斟酌しておく必要があるのか、ということが問われるということだろう。 でもそれはある意味では文化的状況とか、個々人のその時々の感情の様相と密接だろう。あるいはシニシズムそのものが効力を発揮するのは、そのシニシズムを冷静に受け止める心の余裕が齎すものである。だからこそその時「むかっときた。」と感じた一言が将来意外と「いい一言だった。」ということにもなり得るわけである。 そういう意味では哲学者の中でもニーチェとか文学者の中でもオスカー・ワイルドはどこか虚飾を取り払ったことから生まれるシニシズムがあると思われる。例えばワイルドの次の言説は明らかに彼がニーチェ流を愛していたのではないかと思わせる。 「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかですよ。<ヴィンダミア夫人の扇>」 しかし前半はニーチェ的な要素が濃厚だが、後半の言説はやや違って、やはりワイルド流ではないか、と感じさせはしないだろうか?例えばニーチェなら魅力などという粋な言葉を考え付かないだろうと思うからだ。例えばニーチェなら次のように言うのではないか? 「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは善いと思うか、悪いと思うかその時々の立場とそれによって生じる欲望に応じて使い分けるのです。」 しかしニーチェは恐らくそんなに直接その様に語ることを選択しはしない。そこにニーチェ流があり、文学者ワイルドとの違いも横たわっている。ワイルドはニーチェより十年後に生まれ、二人は同じ年、1900年に死去している。ワイルドもニーチェもお互いの存在を知っていただろう。ワイルドは1854年に生まれ、ニーチェは1844に生まれている。その二人よりは少し若い世代にワルター・ベンヤミンがいるが、彼は1892年に生まれているから、ワイルドが38歳、ニーチェが48歳の時に生まれたことになる。この年、ワイルドは1888年に「幸福の王子」を発表、人気作家として絶頂にあり、その三年後に逮捕、有罪判決を受け、服役することとなる前の状態であった。一方ニーチェは診断の状況から鑑みて、梅毒とも脳腫瘍とも説があるが、兎に角精神的な異常を来たし、その三年前には「偶像の黄昏」を出版に漕ぎ着けているが、翌年に夫が自殺したために舞い戻ってくる妹エリザーベトが出版権やら、身の回りの世話をすることになる以前の、ぼろぼろの状態だったようである。 さてベンヤミンにとって死後公表された草稿群である「パサージュ論」は現代社会の様相から見た時、その先見の明には驚かされる。そういう風に生涯公表することなく携えていたというところなどレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を彷彿とさせるが、この論の中から幾つか秀逸と思われる記述、しかもベンヤミンが他の著作者からの引用として記していたものの合間に自分の意見をしたためていたものの中からピックアップして記載しよう。
「新しいものがどういったものであるか、そのことをもっともよく教えてくれるものは、おそらく遊歩者であろう。独自の運動をし、独自の魂を宿した群集という仮象こそは、遊歩者の新しいものへの渇望を癒すものである。実際のところ、この集団は仮象以外のなにものでもない。遊歩者が享受するこの「群集」は、70年後に民族共同体〔ナチズムを示唆している〕が流し込まれる鋳型なのである。自分が目覚めていること、そして一匹狼であることを自負している遊歩者は、その後に何百万人もの目を眩ませた虚像の最初の犠牲者であったという点でも、同時代者に先んじていた。[J66、1]」 「結婚の社会的価値は、決定的にその犠牲者による。というのも、この犠牲のうちには、配偶者相互の最終的で決定的な、しかし生涯のあいだ先送りされる「対決」の観念が潜んでいるからである。配偶者は、結婚が続いているかぎりは、この対決を免れるのである。つまり基本的には生涯にわたって免れるのである。[J67、1]」 前者は遊歩者という存在が、都市生活上、各個人は自分のことを自分自身による主体的な行動であると考えていても(事実誰しもそう思うものなのだが)、統計上全ての市民、各個人は、一定の水準で割り当てられる全体の中のある層であるということが誰しも了解出来る。例えばある社会において、ある特定の時代に於いて、その時代状況に於いて、多く犯罪者が出現する時期というのもあるだろが、ある程度の振幅が認められるにせよ、概ねそれは変わりないし、天才とか、個人主義的傾向の人とか、要するに色々なカテゴリーに属する人の割合というものはそう変わりないし、しかも各個人が、例えば私自身がどのカテゴリーに属するかということは偶然的でしかないが、それが一定の纏まりになると、途端に何らかの必然的な法則性が見えてくるという意味で、真に集団から解放された自由な個人というものはあり得ないと自然科学的現実からは言える。その意味でベンヤミンの前者の言説は科学の言葉でもあるし、後者の言説は社会学的であると同時に哲学的な言葉であり、政治の言葉でもあると言える。そしてワイルドの言葉は政治の言葉にもなり得るし、科学の言葉として認識することすら可能である。そして総体として見た時、哲学の言葉とも言えるかも知れない。 そして後者は明らかに結婚幻想を抱いている人向けの、シニシズムである。要するに結婚とは社会的対立を避けるために自然が我々に付与した妥協策であり、知恵である、という意味では生涯一人の伴侶に愛の忠誠を誓うことすらも、実は我慢の連続であり、それはそれ以上のいがみ合いを回避するためにのみさなれる人生のルティンワークにしか過ぎないとしたら、若い世代の人々は幻滅するかも知れないが、そもそも人生とはあらゆる仄かな幻想に対して幻滅することから、その醍醐味がスタートする、という意味ではこの言説は極めて説得力を持っていると言える。 前者はユダヤ・アイデンティティーとしての言説として、後者は結婚に失敗した男の言説として銘記しておくべきベンヤミンの名句であろう。 制度は性悪説的な処方箋として完備されてきたものである。その制度によって生まれた慣習に対してロマンを感じる向きに対しては、痛烈な皮肉としてこういった文学、修辞学、哲学の鬼才たちは言説として時代の安易な風潮に対して楔を打ち込んできたのだった。そういう意味では論語の次の言葉は現代に生活する我々にも心にぐさりと突き刺さる。 「子白、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁、 子曰わく、徳ある者は必らず言あり。言ある者は必らずしも徳あらず。仁者は必らず勇あり。勇者は必らずしも仁あらず。 先生がいわれた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばのある人には徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人には仁があるとは限らない。」(金谷治訳注、岩波文庫) つまり孔子の考えでは形式としての表現内容というものはまさにテクストとか、要するにその発言をした人の実像を知らなくても、普遍的な真理として読み取れるものだが、その発言が真意でなされたのかとか、人生の真実の経験から発せられたのかということに関しては定かではない。しかしだからと言ってその言葉そのものは美があり、真実を突いているのなら、そのこと自体は価値であり、また仁義を尽くす人の行動とか精神は勇気に溢れていると言えるが、勇気のある人全般に仁義があるとは限らない、つまり悪党には悪党の勇気というものもあるし、潔い人間が穏やかで優しい場合もあれば、冷淡な場合もあるように、必ずしもその精神の価値がその人間の価値には結びつかないという不条理は社会そのものと言うよりは自然の傾向として受けとめるべき事実であろう、と私はこの言説を読み取る。つまりもし仁義のない人によって発せられた言説であっても、その言説自体の価値はそれはそれとして認めるべきである、というのは、幾ら素晴らしい人格の人が洩らした一言が、その素晴らしい人によって齎されたとは言え、仮に下らない一言の内容であれば、価値として受けとめる必要など何らないし、それは何らかのアイデアでも提案でもそうだし、権威礼賛型行為選択志向の人間には耳の痛い話であるが、そういう真理として私は受け取っている。逆にただ言葉だけが美しい人、勇気だけがある人が、その事実をもってして、称賛に値するかと言えば、そうは問屋が卸さないという意味で受け取る人もおられるだろうし、それは自由であるが、それは形式より内容を取る人、あるいは情による人間関係を重んじるタイプの人の解釈かも知れない。私はそこら辺は都会派的にシビヤに、ドライに割り切って、寧ろ真意や心根が美しい人でも、形式主義的な、つまりその人間性の表現方法とか、儀礼的な技能によって随分損をすることもあるし、逆にそれほど慎ましやかで称賛に値する心根や人格ではない人でも、そのパフォーマンス次第では何とか社会を生き抜いていけるという責任論に近いものを私は受け取り、社会の現実、つまり競争社会のシビヤな事実を記述している、と受け留めている。又そう解釈する方が実力はあったが生涯高官位を得ることなく果てた孔子の言説としては身に染みるという気がするのである。これは明らかに政治の言葉であると同時に哲学の言葉でもあるし、科学の言葉(科学的態度とはこうあるべきであるという提言として)でさえあると言えよう。 要するに、どのような言葉が責任ある言葉、本音の出る言葉、思い遣りのある言葉、心に残る言葉、許せない言葉かという判断基準は、ある程度個人的な受け取り方に依存する。しかしそのような判断基準は各個人の成長過程で起きた出来事とか、遺伝的性格とか色々あって、なかなか一般的判断には結びつかない、従ってそのような個々の受け取り方に関する論述は後日の私の宿題にすることとして、本論ではは何らかの結論めいたことを提出しなくてはならない。愛と性の言語と言いながら、前半ではその種の考えを述べたものの、殆ど性愛とは別個の倫理的問題とか言語的メッセージの問題に終始してきたが、実は私の狙いはそこにあったのである。愛や性に関して生物学的、社会学的、人類学的テクストは沢山出版されている。しかしもっと私たちにとって重要なこととは、そのような曖昧な概念が私たちを社会的には支配している、ということと、その曖昧さが存在する意味を、個人的な価値判断と、公的な価値判断を峻別する癖が我々についている、ということを読み取る為のツールとして考えるべきかも知れないし、それが最も重要なこととして浮かび上がってくるのである。 例えば本音の出る言葉というのは通常親しい人の間柄同士でのみ心に残る言葉になり得るが、よく知らない人同士だと非常識というレッテルを貼られかねない。或いは行動に関してもそのことが言える。行動というのは常に責任を伴う、それだけで社会的な概念として考える必要が人間社会には求められる。すると日頃どんなにいい人であると信望が厚くても、一旦挙動不審な行動を採れば、それだけで非常識というレッテルを貼られる。常識というものは要するに責任倫理的な法的価値規範である。それ自体は確かに法的に裁かれ得ないこともあるだろうが、概してどんなにその人間の真意や、心根が美しいものであっても、この最低限の常識を遵守しない者は、それで罪を課せられ裁かれるということはないにせよ、何らかの形で社会的な信用をなくすとかの制裁を受ける。「親しき仲にも礼儀あり」と言うような使い古されたような諺にもちゃんと真理はあるのである。責任的行動倫理とは、実は情とか義理とかそういうレヴェルで判断してはならないものなのだ。もし法というものが全て明文化されている以上のその都度の人治主義的判断で執行されたとしたら、それはただの丼感情でしかない。それはある種の閉鎖的共同体に顕著な価値判断、法的性格とも言える。だからこそ六法全書的テクスト言語というものは、どこか突っ放した冷たい印象を我々に与えるが、まさにそうであってこそ、その法に従う市民層のどのクラスの人に対しても平等に適用される、という法の精神が活かされ得るのである。それはあらゆる人情的、贔屓筋的な丼感情を排斥するために寧ろ積極的に必要な措置=体裁なのである。それこそが責任倫理の真理主義と言えるだろう。 そして実は言ってはならないことというのはどんなに親しい間柄でも存在する。その一つが本章で最初部で述べた男と女の会話術的な言説によって私はある程度示し得たと思う。私は昔から人情味溢れる言説よりも、常に冷厳な現実をよく言い表した名句の方により惹かれるタイプの人間だった。そういう意味では偽善的人情句というものが大嫌いである。 と言うのも本質的に家族とか、親族とか、配偶者間の結婚とか、そういう諸々の人間関係的な社会制度というものは、実は人情主義によって命脈を保っているのではなく、相互の行動論的な責任倫理によってこそ結ばれている、と言えるからである。そしてそれは例えばどんなに親しい者同士でも庇い合うという精神は必要であろうが、一定のラインを超えたら、親しい者同士で裁くことは法的にも社会倫理的にも許されまい。 つまり愛や性といった一見生理的レヴェルの問題でさえ、言説的側面から判断すれば、明らかに社会秩序と、ある二つの行動間に横たわる二者択一の問題にしても、論理的筋道とか、倫理学的決裁方法とか、要するに責任倫理の真理主義が求められるのだ(もしセックスまでそういう言説であるとする考えに反感を感じられる向きには言いたいのだが、性行為をよりエクスタシー獲得や、非倫理的動物的欲求に還元しようとすればするほど、性交渉の相手に対する配慮とか約束事<遊びにしたって遊びのルールが厳然と存在する。>が浮上するという意味においては、私たち人間の行動は悪には悪なりの勇気があるというレヴェルにおいて称賛される場合においてさえ、その行動の形式的責任倫理の真理主義が求められるのだ)。 いや人間にとって愛や性は、契約であり、規約であり、理性的行動規範によって善悪が判断される言説的、言語行為的、言語空間依拠的な行動であると言ってよい。 人間が相手に対して憤りの感情を抱くことは日常茶飯事だ。しかしその時向こうの立場やら、相互に相手の弱点に対する配慮を持てば衝突は避けられる。そういう意味では愛や性といった個人的な感情のレヴェルから相手の立場を尊重した責任倫理の真理主義が採用されれば、昨今のような猟奇的殺人にまで至る様な悲惨な現実を招くことなどないだろうに、と常に私は思っている。そしてある程度の冷厳な法的精神と、形式主義的正当性を優先するような理性主義を持ち、つまり人情主義加担的なヒロイズムを捨て去り、ロマンよりもリアルな面からの判断を優先することによって、この過密スケジュール的な現代情報化社会のシステム内で、何とか潤いのある生活を手中に収めることが出来るのではないか、と提言したこの論を閉じようと思う。 最後に一言だけ述べさせて貰おう。 「触れ合い」とは「馴れ合い」ではない。 「触れ合い」は責任という行為と精神によって成立する。(了) 本シリーズは加筆修正をしているが、基本的に五年前のものを基本としている。敢えて引用文献は記さないが、各章毎に引用する度には示しておいた。昨年の大震災でかなり日本人の未来への考え方は変わったが、ここで触れられていいることは概ね外れていないとも思っている。次回からはその都度自由に書き込み更新していこうと考えている。格別シリーズ化する予定もない。但しより哲学的考察と人類学的考察のクロスする部分は意識し、単発的なシリーズをその都度恣意的に更新させるつもりである。(Michael Kawaguchi)
Thursday, June 21, 2012
〔言語の進化と責任〕第八章 信仰と言語
理性は責任を勇気付けるが、理性があるからこそ我々は信仰を持つことが出来るのだ。それは有神論者も無神論者も、合理的実利主義者も観念論者も唯物論者も等しく作用させている現実ではないだろうか?恐らくその事実を自ら納得するために我々は言語を利用してきたのだ。だから信仰と言語の関係を論じる時、我々は責任と理性の連携プレーに注目する必要がある。
キルケゴールは「不安の概念」において原罪、罪といった事実に対して真摯に向き合っているが、その際にヘーゲル流の弁証法では推し量れないと考えていた。しかし何故彼はヘーゲルを批判する必要があったのだろうか?
ヘーゲルにとって理性は問うべきものではなく、既に前提されていた。しかしそれは彼の主張する他性と承認を限定付ける必要性のための方便だった。しかし理性はカントが問うよりも遥か以前から問うより先に認めるべき対象だった。そして二十世紀においてある時期積極的に理性は問うことから遠ざけられた。しかし今再び我々は理性に向き合う時期に来ていると私は考えている。そしてその際に責任が行動を理性の俎板で料理することを招聘しているのだ、と考えているのだ。行動のない現実においては理性はその存在理由を失うからだ。ヘーゲルは敢えて社会哲学的視野に徹底することによってあるいは彼の後の時代のキルケゴールを待ち望んでいたという風にも捉えられる。それは恐らくカントがヘーゲルのような存在を待ち望んでいたようにである。
哲学の場合宗教的信仰と異なり、同一の心的志向性に対して結束することを潔しとしない。寧ろ共鳴することが批判することによって初めて意味を生じるような出会いを彼等はモットーとしている。この点では哲学は科学と相同のメカニズムを持つ。勿論宗教においても恐らく宗派毎の思想の差異主張が、それ自体他の宗派に対する批判として作用しているという現実は極めて大きいと言えるだろう。しかし宗教は信仰心の多大なエネルギーの解放が、ややもすると統一を宗派間の相違にもかかわらず求めるということを潔しとしてこなかった。もしそのような作用がなされたとすればそれは寧ろ政治レヴェルでの解決だったに過ぎない。(例えばカルケゴン公会議)
政治は確かに哲学においても科学においても大きな作用を思想全体に波及させてきた。しかし政治自体が哲学や科学に対しディタッチメント的な存在理由を与えてきたとも言える。私が言っている政治とはただ職業政治家による政治のことを指すのではない。それをも含み、哲学者たち自身、科学者自身の立場の主張といった事実を寧ろ主体としたものである。
キルケゴールがヘーゲルを批判したのは、統一することが可能であるような理想郷を彼がどこかで想念していたのではないか、ということに対する懐疑に他ならない。懐疑的主張もまたある意味では政治的発言である。
ところで私は最近歯科医にかかり治療して貰っているのだが、治療のために麻酔を効かせることを私のかかりつけの歯科医が試みるのだが、私は他の人よりも麻酔にかかり難いタイプだと歯科医は私に告げた。私のような思索家はある意味で懐疑主義者である。そういうタイプの性格では麻酔に対して従順に対応するということが神経レヴェルでも困難なのかも知れない。それはそうだろうと私は思った。神経と精神は密接な関係にあるからである。
さて生とは何かという問いをいざ提出されると誰しも「無意味ではないのか。」とそう容易には返答出来ない。しかしサルトル的に「人生とは無益な受難である。」と言う風に押し切れば、意外と後はすっきりする。つまり生そのものに意味を見出さずには生きられない動物として我々は人間を規定することが出来る。生とは意味的世界の拡充を目的とすることで無意味を克服しているのだ、と捉えた方がずっとよい。そして哲学はそこに付け入って存在してきたのだ。だから私が言う信仰とはある意味では哲学に対する恩返しという側面もあることは否めない。しかし信仰と位置付けることが宗教的信仰心と乖離した地点でなされ得るというところに意味があるのだ。何故ならウィリアム・ジェームスの説話している禁欲という心的様相は、実は無宗教者にも全く当て嵌まる経験だからだ。いや寧ろ無宗教、無神論であるが故に禁欲的な道徳律が必要になる、という事態も稀ではないだろう。
それは心の平衡を保つためにある意味では無謀な心理に陥らないようにするには、自己内の欲求を必要以上に発動させないように心掛けるしか手がないからだ。そしてそうするためには自己内の欲望を禁止することが最も手っ取り早いというわけである。そのように心掛けることはキリスト教徒的な道徳律で原罪を理解するということではなくても、例えば身体論的に欲望を控えめに、という心得であっても同じことである。この姿を見てキリスト者たちは「それ見たことか。彼もまた原罪を認めたのだ。」とそう言うかも知れない。しかしアンチ・キリスト者はこう言うだろう。「そもそもキリスト教が原罪なる観念を提出したのは、身体論的なメカニズムに端を発しているのだ。」と。
それは発言における責任の在り方にまで関係してくる。例えばある法案に賛成の者が殆どであと残り一人になったあなたが
「賛成します。」
と言うのが最も他の成員全員にとっては好都合である筈だ。しかしあなたはそうすることが内心では出来ない。だから「反対です。」と真っ向から言えないような状況下でも尚、無意識にプロテスト精神が浮上し、
「賛成したいのですが。」
と発語の方が勝手にあなたの優柔不断を払拭しようと試みる。しかしその次の句が問題だ。
「賛成することは出来ません。」か「賛成しかねます。」
と言うという選択もある。しかし他方
「もっと最適な法案には出来ないものでしょうか?」
と言う選択肢もあるのだ。あるいは
「もっと何とかならないものでしょうか?」
と言うことも出来る。これはある意味では否定するだけではなく建設的であり、改善意欲を促進する言い方である。
人間は誤りを犯す動物である。それを認めることをしながら、それでも改良することでその傾向性を克服することが可能だという希望の光が後者の発言には感じられはしないだろうか?そして付和雷同しようとしていた心的逡巡を吹っ切るような一言を発するという事態は、身体論的なメカニズムであり、ストレスを溜め込んで精神的に落ち込むことを未然に防止しつつ発散するように側頭葉のブローカ野が発動したのかも知れない。
ウィトゲンシュタインの哲学を通して理解出来ることとは、言語使用とは言語表現領域に自ずと限界を設ける行為であるということである。しかしそのように限界を設けるまでは私たちの存在はテレンス・W・ディーコンの言う設定された閉鎖系ではなく、開放系である、ということである。開かれつつ閉ざしていくことで言語を通してコミュニケーションしているわけである。そういう意味では言語行為とは一面では他者に対して開かれていて、共鳴することだが、一面では他者に対して決然とした態度を採ることでもある。その二面性が言語行為の本質であり、そこに責任が関わってくる。
例えば言語学では内部否定と外部否定というのがある。前者は
You must not do it.
であり、後者は
You may not do it.
である。この二つの場合最初のものは
「あなたはそれをしてはいけない<ということを肝に銘じておかなくてはなりません>。」
というニュアンスの意味で、後者は
「あなたがそれをすることは許されません。」
というニュアンスの意味である。
前者は明らかに説得型に近い説諭型である。それは対話手としての他者の自発性を尊重している発言である。それは自発的禁止の勧告である。要するに~をしないように心掛けなくてはならないということである。しかし後者は自発的であれ、外部強制的であれ、それをしたら駄目だということは有無を言わさぬということであり、禁止条例的、禁止事項無条件的である。前者にはそうしないと重大な結果を招くという警告のニュアンスがあるのに対して、後者は明らかに命令である。そこには他者に対する責任を見守るという尊重性は皆無なのだ。
私たちの日常では「賛成したいのですが。」型の発言を言い残し立ち去るということもある。それは議会のような場所では特殊なケースであるが、日常では頻繁に起り得ることである。しかしこれは責任というレヴェルから考えると責任放棄であり、無責任である。説明能力があってそうするのなら良心はない。しかし説明能力がなくてそうするのなら、それは大勢に対するささやかな抵抗ということになる。
ここで責任とはある意味で自己能力に対する自己査定と無縁ではないということにもなる。つまり責任放棄は一番手っ取り早い大勢に対する抵抗であり、責任を負うということは自己能力を他者から求められていることに対する自覚であると同時に、それを請け負うという意識の発動だ、ということになる。そしてここでもう一つ重要なこととは、他者に対して責任を負わせることに内在する信頼性を他者に託するか託さないかということ(そのどちらが良心的であり、思い遣りがあるかどうかは難しい問題であるが)がある発言に対してどのようなスタイルを選択することに直結するかということである。この問題は例えば経済社会でM&Aを徹底的に防御するか、ある程度自由にさせるかという選択、あるいは政治家はどこまで国民や市民に対する責任を負うべきかある一定以上は負うべきではないかという選択をも、決することとなる重要な問題である。
つまり他者に対して信頼することに主眼を置くか、それとも他者とはすべからく信頼すべきものではなく懐疑的対象なのだから、それを念頭に入れて他者に接するということを選ぶことの自由も含めた選択肢の問題へと繋がってゆく。もっと簡単に言えばあまりに他者に対して自主性に任せるということは放任という事態にもなるし、そうかと言ってあまりにも他者に対して規制をかけるということは自由の原則にも反することになるが、ある一定の力量や能力のある者に対して他者の能力とその責任に対して委ねるという行為は、そこまでの実力のない者には負担となるということは社会ではよくあることだからである。
つまり我々は常に自己の能力に対する自信の度合いで他者に対してどのように接するべきかという行為の際における判断をしているのだ。実はこの問題は人類は延々と繰り返してきたのだが、未だに決着はついていないのだ。そして恐らくこれからも決して解決するということはないだろう。しかしこれだけは言える。アンリのような哲学者たちが書く行為自体が信仰であったように、これからも問うこと自体が信仰であるような思念を私たち人類は捨て去ることは出来ないだろう、ということである。
Saturday, June 9, 2012
〔言語の進化と責任〕第七章 責任と真意
人間は嘘をつくこともあるし、真意を隠蔽し、偽装もする。しかし少なくとも意思疎通するということそのものに対して同意することにおいては、そのような不遜な輩でさえ真意を隠蔽することは出来ない。「今ちょっと話したい気分じゃないんだ。」ときちんと明示することで意思疎通を避けることは出来る。そしてこれが重要であるのだが、言語行為上での意思疎通の進化とは、必ず真意を表出することで遂げられてきた、ということである。何故ならば真意を隠蔽したり、偽装したり、嘘をつくことはそういう言語行為全体の進化過程における利己的成員による特殊な例外であり、彼等ですら全成員による言語行為の進化過程に対して些細ながらも貢献しているからである。(注、最近私はとどのつまり、それも表情を伴い、言葉尻だけではないと考えている。)
事実責任の消極的取り方として本論で取り沙汰されてきた「誓います。」型言辞が、メッセージとしては最も消極的であっても、そう誓うことで、他成員に対してある規約に於いてつき従う意志を表明することによって規約に則った生活レヴェルでのある共同体への同意が示されているからである。
私は「責任論」においてある時には人間は責任を良心に随順させ、ある時には良心を責任に随順させ、つまり責任と良心をある時には協力させ、ある時には敵対させつつ言語行為を進化させ意思疎通と全行動をしてきたと考えた。その考えに今でも変わりはない。しかし少なくとも良心と責任が百パーセント合致し得る地点の人間の感情と立場があり、それが愛であろう。しかしその愛を定言命法とカントのように規定する必要は我々にはあるまい。つまり愛とは概念化作用として我々に到来するものではないのだ。
本来意思疎通の進歩も進化も全成員の内発的要求によってなし得るのであり、仮に嘘つき成員がいたとしても尚、彼等のメリットは遠からず減少していっただろうということは、ウィリアム・ハミルトンからロバート・トリヴァースの血縁利己主義から、非血縁協力的利他主義(戦略的利他主義)へと移行していった論争を見れば明らかであろう。端的に進化とはサヴァイヴァル的な意図によるものであり、決してそこには偽装性は介在しない。だから言語行為を通した意思疎通の意識レヴェルの進化過程には必ず全成員の内発的要求をベースとした真意表出を前提とした言語行為の意識レヴェルの推移が見られる筈なのである。
しかし問題となるのは真意を一体誰に対して採るのか、ということなのだ。責任を負うべき対象とは通常他者である。しかし責任は山奥に一人で生活する者にも付き纏う。彼にとって自己管理すべき生活全体の調和が責任を採るべき対象として浮上するだろう。しかしまた別の採るべき責任の対象がある。それが神である。少なくとも人類は西欧社会に限らず、神という霊力を備えた観念を保持してから後は、そういう観念のなかった時代での状況下の思念とは別個の心的状態を保持してきた、と言えよう。しかしよく考えてみると、神という観念は未来に対する希望とか願望、あるいは過去に対する後悔と反省によって完全という観念、完璧に遂行する能力に対する憧れが人類に思念的に出現した時以来備わったと考えてよい。しかし神の観念はある程度の永続的な生活上での秩序を追い求め、その過程での人類全体の願望を打ち砕くような自然災害や人的災害が発生して後に出現するという事態が最も思惟上自然に感じられるので、恐らくそれ以前的には他性認識によって自己認識を得るような原始自我論的な思念に支配されていた人類は、原初的な我と汝という観念をまず抱いたということは考えられる。
そしてやがてミニマルな共同体的幻想を手中に収めた人類は、希望や願望を打ち砕く現実の過酷さの前で初めての実存認識を得ることとなる。その時神は必然的に思惟に浮上してきた筈だ。そこで責任を採るべき対象とは成員としての自己の帰属する当の共同体に対してと、我と汝の汝に対してと、我自身に対してと、そして最後に神に対してというこの四つのパターンが考えられる。そして共同体に対して持つ責任は、やがて社会一般という形で通常我々が保持する責任感、例えば社会的義務に直結してゆく。
人間は責任の所在によって自我を形成するとも言える。そして自我とは積極的な自己信念にも繋がるが、同時に極めて脆弱な付和雷同にも繋がる。付和雷同という事態にまで至らなくても、社会一般に対する責任の遂行とは自己信念という確固たる心的作用と違って、概ね世間一般の常識に対する抵抗心は無頓着であり、文化コードに対する盲目の追随心や社会的コードから逸脱することを忌避したいと願う羞恥によって支えられている。
この責任を社会的に遂行することの原初的形態としての他性認識を支えるものを原羞恥と呼ぼう。そしてその実践においてなされる各行動を支えるものを原音楽と呼ぼう。
原音楽は過去において適切に「合わせられなかった」経験において学習させられ、ワーキングメモリー(遣り方記憶)としてその時々で常習化されている。
信仰とは責任が生む。信仰は対社会的には職業行為となって顕現し、対自己的には金銭的利益のためだけではない、よい仕事(自分<自己信念>にとって納得出来る)をしようという意志(的決意)となる。それは対他的にも対自的にもより真意を真摯に表出させる。
責任は言語活動を支える。責任は言語行為を社会行為に、言語ゲームを社会ゲームにする。しかし人間は社会全体に対してそう安易にノーを突付けるということをすることはない。よくよくのこと(自己信念を揺るがすような事態に遭遇するとかの)がない限りはノーの発言は差し控えようとする。人間の原羞恥と原音楽を結び付け、社会行動という原羞恥を原音楽に連繋プレーさせようとする、この二つのタイアップを実現させようとするものこそ責任である。
責任は採るべき対象に対して真摯であることにおいては真意である。しかし汝に対してにせよ、社会に対してにせよ、ただ「合わせる」ことで他に自己に対して降り懸かる災厄を回避する意味でなされるのなら真意であるよりは妥協である。しかし妥協は永続的には続かないだろう。そして嘘つきが活躍したりするのは、あるいは妥協的責任の取り方が効力を持つのは、あくまで真意の責任において社会が安定した後のことであり、そういった責任の取り方が社会形成に寄与するということはない、と言ってよい。
私はアンリの記述が同一の主張から、徐々に横滑りするような主張の反復を「書くことが信仰である」として、その信仰に従順な徒として現象学の徒を示した。しかし現象学は本質的には論理実証主義者(論理的経験主義者)たちと真っ向から対立するべき要素に満ちている。と言うのも彼等は基本的に知覚、感覚を大きく取り上げ、それを言語に先行するものとして捉えているからだ。例えばウィリアム・ジェームスは少なくとも信仰心というものを真摯に捉えたが、感覚ということに関しては醒めた目も持っていた。感覚そのものよりも感覚的生活を選択する意志決定と行為の意味を彼は捉えたのだ。しかしフッサールをはじめ、メルロ・ポンティーもそうだったし、ハイデッガーは存在の気遣いという形で意識の感覚的な授受という現象を言語以上に重要な指針として捉えていた。この点において例えばウィトゲンシュタインの言語論にはそういうスタンスに真っ向から対立する要素があるのは、次の飯田隆の言述においても顕著であろう。
「形而上学的主張に対する両者のあいだ<シュリックとウィトゲンシュタインのショーペンハウアーに対する態度の採り方を巡る解釈の相違のこと。ウィトゲンシュタインはショーペンハウアーを批判するシュリックに反対して彼を擁護する姿勢を示した。管理人注加入>の態度の相違は、そうした主張を「無意味」とする理由の違いと密接に結び付いている。実証主義者にとって、そうした主張が無意味であるのは、その正誤を感覚的経験によって判定するすべがないからである。それに対して、感覚的経験は『論考』において何ら重要な役割を果たさない。形而上学的主張が無意味であるのは、それが、「思考の限界」を画する「言語の論理」に反するからである。」(「ウィトゲンシュタイン言語の限界」飯田隆著、44ページより、講談社刊)
ウィトゲンシュタインは言語を知識、認識、理解の限界として考えていた。それは言語という理解するための手段を内側から捉えた考え方である。しかし現象学では言語行為それ自体を取り巻く生、そして生活世界の現実に中で言語を支える現象に主眼を置いた哲学的態度であったのだ。つまりウィトゲンシュタインは言語を語られた事実として意味内容的世界の現実を意味を形成する収束的な決定に重きを置き、フッサールと彼の後継者たちは特に収束する以前の前言語状態に重きを置いたと言える。この点である認識、ある理解ということに関してウィトゲンシュタインは主観主義的あるいは内在主義的であり、フッサール等は客観主義的、あるいは外在主義的であると言えよう。
アンリの言う情感性という観念に対して私は情動と等価あるいは非常に近い認識だと言ったが、彼は情動という語彙も僅かながら使用していた。その意味では情感とは情動を感知する感覚主体の受動的な意識化作用のことを言っているのだ、と私は解釈しているが、このような論説を微塵も持たない論理実証主義者、あるいはその一派に信奉厚いウィトゲンシュタインの哲学には意味という概念の現象学の取り残した徹底追求のスタンスが伺える。現象学では意味は感情とア・プリオリに一体化されているからだ。
そこでここでは感覚と責任、そして意味と責任という形での検討において言語行為とそれを取り巻く現実(実存と言ってもよい)から責任と言語の進化過程について考えていってみようと思う。
有史以来哲学者たちは理性をア・プリオリなものとして論じてきた。しかし当初人類の祖先たちにとって理性とはほんの偶然的な日常的発見であったろう。その偶然を必然化する作業が言語の進化であり、思想の確立であり、哲学の歴史であった筈だ。人間には言語化され得ない感覚がある。しかしその言語化され得ないという事実認識には、言語を必要とするのだ。それがまずあるからこそ、それでは言い表せないという感覚が生じる。しかし責任にもまた言語化され得る責任と、そうではないもっと人間の生の原初的な責任というものもあると思う。例えば欲求に対する真意というものは、意味化された真意にはない生の基本的衝動がある。しかし我々はそれを他者に説明する時、非言語的欲求を、言語的に説明することで、その欲求を正当化しようとする。正当化されたものには意味が付帯する。意味は欲求の正当化と言ってもよい。意味が言語の存在理由を開示するのだ。
だが我々は価値という観念も持っている。この価値というものと意味とはどのような関係にあるのだろうか?
例えば感覚に対して欲求が「これこそがその感覚だ」と例えば職人とか芸術家とかがある作品を完成する瞬間を査定する時、「これでいいだろう。これで行こう。」と判断する時感覚に対する責任が持たれる。しかし意味はその感覚を他の感覚との相関の中で、正当な位置付け作用を施す。そのように峻別化作用をした時、感覚には意味が生じる。それはある得体の知れぬ感覚が必然化された瞬間である。そして言語それ自体にも言語そのものの感覚があり、その事実が言語行為と名の付く全て、言語活動として捉えられる全てが、実は言語外のものに取り囲まれているという事実が意味によって初めて明らかになるのだ。つまり意味とは非言語的な無意味に対する覚醒剤の役割はあるのである。
意味が言語を言語から解放する。しかし価値は言語を再び意味に結び付けようとする。価値は意味、感覚それら全ての観念を総合化しようとするのだ。
価値は相関性の中に全てを位置付ける。だからこそ価値は制度を生み出すのである。意味と言語の関係は言語と非言語の結び付きを見出し、価値と言語の関係は言語と非言語を峻別しようとする。境界を設けようとする。価値は意味を主張しようとするのだ。そしてそれは予め備わっていた真理であると意味に宣言するのだ(それは意味に対して存在の優位を宣言することである)。意味は価値によって正当化されるが、正当化された瞬間に再び感覚にその存在理由を委ねる。それは感覚が存在の証人だからである。意味は存在者の主体にとって対象化されたものへの感情に他ならない。故に意味の責任は欲求に対する真意であり、価値の責任は欲求に対する真理の優位を欲求に言い聞かせる。
だから哲学者ウィトゲンシュタインは意味を呼びつつ、価値による意味の主張を必然化させながら、真理とは無意味であることを主張するのだ。つまり見出された瞬間意味は無意味化するという現実を見据えたのが彼だったのだ。だから理解や解釈、あるいは使用、慣用といった日常的現実をウィトゲンシュタインは言語の限界から考えたのだが、それは言語が非言語領域に取り囲まれて存在理由を持っているという事実に対して、だから感覚それ自体を問うことは無意味なのだ、と言語の側の意味的位置付け作用、つまり言語の正当化の立場から「問い得ることには限界があるのだ。それは生きること、つまり感じることの前では無力である。」という主張を感覚を論じることの無力さを感じつつ、感覚を論じることを回避することによって、つまり言語的に理解し得ることのみに着目することによって行った、と捉えることが出来る。
欲求の一人歩きを鎮めるものとは責任以外にはない。責任は全生命体の生きる意志を司っている。生命を全うすることそれ自体が責任の遂行なのだ。そして人間は責任をある時以来(恐らく言語行為を定着させた瞬間から)責任に対して意味化と価値化の両方を施し、倫理という考えを生じさせた。その日(瞬間)から人類は生命の意味と価値を、そして生きる責任を意味化し、価値化することで「感覚と意味」の一体化を図ったのだ。「感覚と意味」の一体化こそが言語を責任という柱で進化させてきたものに他ならない。
通常我々は感覚というものを意味とは対極のものと理解しがちである。しかし意味に感覚は不可避であるし、感覚は必ず経験化されることで意味化される。つまり意味における感覚の付帯という現実と、感覚の意味付けという現実が、言語活動を、言語行為を進化させながら、言語と非言語の二つの領域を密接な共存価値として見出してきたのだ。
しかし意味と価値の双方を、つまり対象に対する感情(意味)と、そのように感情を抱くこと自体を対象化すること(価値認識)を統一させるものは人間の行為に他ならない。そしてその人間の行為を人間が人間に対して宣言するものこそ信仰に他ならず、これは恐らく他のどの動物にも不可能な認識であると私は考えている。次章では私はいよいよテクストに示された事例と私が再び考える対話事例に基づいて信仰と言語について取り掛かろうと思う。
Friday, June 1, 2012
〔言語の進化と責任〕第六章 現代固有の信仰と新たな責任
抗うつ薬が開発されることによって薬物依存が増加し、うつ状態に対する意識が鮮明化し、逆にそのような認識のなかった時代には然程意識せずに済ませていた病理に対する自覚が寧ろ顕在化し、各個人で自覚されるようになるという事態それ自体は既に昔のような素朴さを取り戻すことの不可能性を多くの世界市民が感じ取っている時代のように思える現代であるが、それはマスメディアとマスコミとネット社会が助長しているし、その現実自体を変更したいという風に多くの世界市民は感じていない。
病気は常に新たに発見され作られるものだし、病気にならなくても健康そのものであるような状態の方があり得ないという真理の方に安らぎを感じるというのが現代人固有の心理であろう。
そういった状況下で我々は現代固有の信仰を語彙に対する捉え方に顕著に認識することが出来る。昨今のテレビの芸能人や芸能人化した小説家たちによる対談番組ではしきりに「そのことがトラウマになって」というフレーズが多用される。しかし本来トラウマという概念は心理学でも精神分析でもそう容易く人前でそれを抱え込む事実を紹介するようなタイプのものとは異なる深刻な状態のことを指す筈だった。しかしちょっとした事実に対して比較的安易に現代人は「トラウマになって」と言う。これは自分を病理状態にいる側の成員に同化させることによって健康さをアピールして自己顕示欲が旺盛であることをアピールすることへの羞恥が巧みに自己顕示欲を隠蔽する戦略のように思えてならない。本来「トラウマ」という言葉はその事態に切迫した張本人たちにとってはもっと深刻である筈のものであるが、我々それほど病理的状態にあることのない成員たちの些細な日常に関しても適用して使用するという事実は、明らかに病理と非病理(健康ではない)の状態の無意識の等質化作用に他ならない。あるいはこの事実は病理的状態を異常と捉えることで発生する差別意識の撤廃を暗黙の内に全ての成員が望んでいるという事実と符合するのかも知れない。
リン・マーギュリスとドリオン・セーガン親子が著した「性とは何か」(石川統訳、青土社刊)で二人は古典的熱力学を時間の対称性に、そして非平衡熱力学を時間の非対称性に依拠した考えであることを明示して、その基礎において性の在り方を捉えているのだが、我々の経過してきた時間と我々の時代は徐々に原点に戻るということはなく、私は最早人間のコミュニケーションはネット社会で変質したとしても、仮にそれ以前からあった潜在的なコミュニケーションの在り方自体が顕在化しただけのことにせよ、そうおいそれとは以前の旧態依然のコミュニケーションには戻らないという考えの人間である。その意味では質的な意味で人間社会は過去の事例を繰り返すということはあり得ない。そして語彙の使用の仕方自体も、ますますある専門分野の言説が他の多くの分野からマスコミ用語にまで常套化され、再びある専門分野の語彙へと特化されるということは決して起らないであろう。その際に我々は言語自体の在り方に対して新たな責任の在り方を模索しなくてはならないだろう。しかし本当にこのような事態というのは現代固有の状況だったのだろうか?あるいはいつの時代においても、そのような専門語彙の一般化現象自体が、現代固有の問題と思われていたというのが事実だったのではなかったろうか?
例えば既に述べたベンジャミン・リベット(脳科学者)の主張するように、脳は人間がある行動を採ろうと思った瞬間以前に既に全ての意志決定をなしていて、我々の自由意志と感じるものの方が実はその脳の決定に従っているという事実は、例えば我々が自分の意志で好きになった異性に対して交際しようと決定しているものは、実は自分の意志以前に、身体論的にも、脳神経学的見地からしても意思発動以前であり、既に脳自体に決定されているということは感覚とか感性とか、情感とか情動は脳の前発動的な「構え」に対する従順な反応であるだけのことになる。その意味では全ての語彙はそれを使用する成員の等質化作用を助長するためにのみ誕生してきているとさえ言えるのかも知れない。寧ろ自由意志とは脳の決定を円滑に進行させるための方便であるということが次第に現代科学では明らかになりつつある。そして現代人の信仰とはある専門分野に特化された語彙を一般化し、ある特殊な病理状態にある成員の状態を一般人の健康状態に等質化するような新しい形での自己真意隠蔽型の新マルキシズムであるとさえ言える。するとその現代人を根底で支える心的な根拠としての責任に対する認識は必然的に古典的な責任感とは変質せざるを得ない。つまり「他人の悩み事に対してはほっといてあげる」対友人、対同僚の配慮というものが前提されていることになる。だからたとえ抗精神的病理薬による新たな病理状態の特化に対して、その病理状態を一般化させることによって新たな等質化の層を暗黙の内に認可し合うという責任の取り方が現代人には求められているのである。と言うよりも言語獲得以降の人類の思考パターンとは意外と「他人のことはほっといてあげる」型の感情を平常なものとして考えることの上で成立してきた、とさえ言えるからである。
例えば記述という形で示される人間の言語行為とは、実は予め記述者が心的に設定した未来に対する予感と、その予感を正当化し得る仮説を他者に披露することで成立しているのだし、発話行為もまた発話する瞬間以前的に脳内で思念された未来への予感を、あるいはこれは記述に関しても言えることであるが、未来を想定することで過去を想起することをだぶらせているような心的状態での仮説を明示し、その明示によって逡巡を払拭し、新たな行動へと誘引するためになされているのだ。その意味では全ての言説は、記述であれ、発話行為であれJ・L・オースティンの言ったような意味でパフォマティヴであることは間違いない。ただオースティンは全てがパフォマティヴであると言いたかったが言わなかっただけのことである。もう一度第四章で述べた発話と記述の心的動機について明示しておこう。
① 発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。
② 発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。)
③ 発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。)
④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
しかし今、この四つの項目にもう一項目付け加えねばなるまい。それはこうであろう。
⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読む)ことも、そうしないことも発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。
私が考えている「他人のことはほっといてあげる」型の配慮とは、現代に固有の個人的な対人関係の図式ではなく、もっと言語獲得の末に記述行為が発生した地点での言語行為の発話と記述の双方向性秩序の完成(それ以前的には他者心的領域に対する侵犯的発話というものも多くあったと思われるから)以来、継続された秩序だったのだが、その意味内容は近代合理主義とその崩壊に至るまで隠蔽されており、やっと今日現在に至って意識的に認識されるようになった、と私は考えているのだ。つまり「他人のことはほっといてあげる」型の対他的配慮とは、他者の能力と他者の良心と、他者の自発性の尊重であり、承認なのだ。そしてとりわけ行動主義以降の内観法の除去が、現代に齎した福として、我々は行動も重要であるが、行動を起こすことはその行動を決する背景と、行動を起こす成員の脳内での意志決定以前の必然性を全ての成員が携えているという事実に対する相互の覚醒と、そのことに関する相互の内的領域に対する詮索を控えるという事実が社会秩序としては最優先されるという事態を招聘しているということを我々に思い至らしめるのだ。
実は私が言った等質化作用という現実は既にディルタイ、ジェームス、ニーチェにおいても示されていた。しかし彼等に共通に見られることというのは社会成員の「個」性に対する着眼が近代的合理主義に対する攻撃要員として理解されていた、ということである。その点ではフロイトもまた同様の存在として理解することが出来る。
しかし現代では言語獲得の起源的な言語行為のモティヴェーションを探ることが現代コミュニケーションの行く末を見据えることと等価なものとして意識されているという事実の前で、「個」性は何かの破壊のための方策であるよりは、新たな共同幻想を模索するための方策として浮上してきているのではないだろうか?
例えば国家とか政府とか、あるいは巨大化しつつある企業、コングロマリット、常習化するM&A(あるいはバイアウト)といった社会的事実は、仮に政府要人が暗殺されても、世界的企業が買収されて元の形が微塵もなくなっても、テロによって革命が仮に起きたとしても尚、革命以前とそう変わらない現実をネット社会自体が保持し続けるであろう。つまり「またそういうことが起きたね」型の認識を世界市民に市民感情として催すだけの反復が我々をどんなに不測の事態になっても待ち構えているということだけは何故だか我々にも容易に想像がつくのだ。
そういう意味では歴史が我々の個々の驚愕を日常化してしまった。そのことを揺るぎない事実にしているものが現代ではマスメディア、マスコミである。しかしふと冷静に考えるとそれらも全ては言語行為の連鎖による常習化した現実認識に端を発する。そこで言語行為による常習化した現実認識に至るまでの段階を次のように考えてみよう。
① 情報伝達必要性に対する認識の開示<サヴァイヴァル的状況>(自然環境の激変あるいは捕食者対策)、人類の結束。
② 情報伝達必要性を満たすような意味世界の内的構築<サヴァイヴァル的状況打破への欲求>、他者に対する信頼の定着。
③ 内的構築された意味世界の伝達方法の模索(言語行為の手段の模索)<言語行為への前夜>、この頃既に絵を人類は描いていた。社会の進化。
④ 内的構築された意味世界の伝達方法を既存のシステム(発声)によって充足することを発見<言語行為の黎明期>、やがて絵と発話内容の記録を合わせて文字表記を発明。
⑤ 情報伝達行為による社会的意味世界の充実<それ以前からあった責任の自覚>「誓います。」型メッセージの定着。文字表記の定着。
⑥ 情報伝達必要事項充足外的な伝達行為への要請<それ以前からあった良心の自覚>「賛成したいのですが。」型メッセージの出現。他者信頼(友情、同僚、同士愛の定着)
⑦ 情報伝達必要事項充足的な伝達行為としての他者承認と他者理解と対他的良心と対他者良心承認の定着<責任と良心の配分値の決定に対する要請>「賛成したいのですが。」型メッセージの定着。
⑧ 情報伝達必要事項の意味内容の拡充<責任と良心の協調>、社会制度の飛躍的進化。
⑨ 情報伝達必要事項の意味世界の再考(常習化した意味世界への反省)<責任と良心の分裂に対する覚醒>
⑩ 情報伝達必要事項と必要外事項の弁別と非伝達的以心伝心(東洋的な認識ではない)による他者に対する配慮<責任と良心の再統合>
サイモン・バロン・コーエン(「共感する女脳、システム化する男脳」より)等心理学者等が主張しているような意味で男子と女子の脳には微妙にその得意とするところが異なっている。しかしそれは茂木健一郎も指摘している(「脳の中の人生」より)ように共通性の方がずっと大きいのだが、ともあれ共感能力とシステム化能力が相補的に人間の脳の進化の過程において作用してきた、ということだけは間違いないようである。そして共感作用は良心に、システム化作用は責任に直結しているように思われる。そして言語獲得を巡る人類の旅において、我々の祖先は恐らく共感作用とシステム化作用を良心と責任の要請に伴って進化させてきたと言えるのではないか?私は仮説においては一応責任の方を社会的事実としては⑤から⑥というステップにおいて先行させたが、実際心的作用そのものにおいてはどちらが先ということはないかも知れないし、ひょっとしたらミラーニューロン(側頭葉のブローカ野付近で認められている)等の発達という観点からすれば、責任という協同幻想よりも先行していた可能性すらある。
⑧は中世以前、そして⑨は近代以降なので、この二つの間には長い暗黒があるが、その事実と言語行為の実体論的なレヴェルとはまた別である。⑩はまさに今現在我々が立たされている地点である。⑤の「誓います。」型の責任の自覚が発語行為として定着していくという事態は、その誓いの対象としての行為が規約として設定され、その規約に対する遵守が社会で要請されているということが前提される。例えば近代以降徐々に考察されてきた言語学は、言語行為それ自体に対して、内容論的な進化とは別個の、つまり形式論的なことをも含めた精神的、身体的行為としての言語使用という全生活レヴェルでの、全歴史的視点レヴェルでの認識を深める必要性が浮上してきたということである。そして⑥の段階で初めて定着した友情や同士愛といった現実は、しかし行動論的にはそれ以前、とりわけ②から既に始まっていたのだが、その事実に対して感謝するという意識は、⑥をもって初めて成されただろうと考えられる。つまり⑨で初めて言語行為自体を全生活レヴェルから(それ以前にあった哲学の一分野としてではなく)認識するという要請があった時初めて言語使用に対する感謝が持たれたわけである。それは⑤において責任が、⑥において良心が、それを有しているという事実に対する感謝によって自覚されるということは、その事実に対する認識を持つことが出来たということであると同時に、その事実に向き合うことに関して責任を持つということをも意味した筈である。つまり何かを無意識に執り行っていたレヴェルでの生活と、その行為自体の意義を自覚した後の生活とでは、自ずと異なり後者ではその行為を全生活中の必須として位置付けるという意味で、責任を生じるのである。つまり⑤において責任に対する責任が(そして文字表記することで得られる利益において表記行為自体の責任も持たれ、その当時表記し得る成員が限られていたとしても尚、文字表記という行為が人類にとってかけがえのない社会的事実であるという意味での認識はイリテラルな成員にとっても了解事項であったことだろう)、⑥において良心に対する責任が、⑦において個人的な意見の発動に対して責任が、⑧において社会成員としての自覚に責任が、そして⑨において言語使用そのものに対する感謝の念に責任が、そして⑩において再び他者存在に対する責任が社会成員の意識論的レヴェルで前提されているということになる。②において初めて人類に他者存在が認可されたとすれば、それはサヴァイヴァル的な外的要因に起因するわけだが、地球環境の保全に関して再び危機的状況下の現在、またその意識レヴェルに立ち戻っているということも出来る。そして②において私は既に行動論的なレヴェルでは良心は発動されていた、と認識しているのだ。良心の行動論的な発動という事態は、恐らく言語行為がそれほど覚束ないレヴェルであったとしても尚、人類同士での理不尽な殺人に対しては相互同意での制裁が発動されていたであろう、ということをも意味する。それは共同幻想としての埋葬、個人的埋葬と集団墓地的発想の共存も考えられるということだ。個人的埋葬に関しても、その他者の埋葬事実に対して尊重するという意識は社会進化以前にもあり得たであろう。しかしにもかかわらず良心の発動という現実自体がより客観的に認識され得るのは、恐らく責任が客観的に認識され定着するより少し遅れてなされた、と私は考えているのだ。これは社会機能の進化過程における試行錯誤とある程度の進化段階以降での社会機能維持という人類の初期的な高度成長期においては致し方ない現実だったのではないだろうか?(それは日本の戦後史を振り返ってみても、同一の段階を踏んでいると思われる)そして私がアンリにおけるヘーゲル解釈を巡って書いた箇所で私が述べた「書く行為自体が信仰である。」という考えが人類の定着したのは、一部有識者間では⑤、世界市民レヴェルでは⑨をもって初めてであったと考えていいだろう。
言語行為は発話にせよ、記述にせよ、責任、つまり概念使用を巡る対他的な説明責任、認識力保有の意思表示を旨とする意思疎通の責任において顕現されていたと考えられるが、⑤において責任概念が明示的に全成員に了解されるようになる遥か以前に既に行動論的に発動されており、それが故に言語行為は発展していったものと考えられる。しかし記述行為が特権的な成員によるものではなしに広く一般的になってゆく過程は⑨を待たねばならない。要するに責任は無自覚であるにせよ、行動論的には発話行為をなすプリミティヴな状態の頃既に発動されており、その発動された責任的行動が発語行為を秩序立て、文字表記を社会必須の行為として定着させ、やがて責任概念を全成員に明示させてゆく。だから言語活動と言語それ自体の進化の歴史はまさに責任的行動の発動と責任概念の獲得といった一連の言語活動の人類的な進化過程と不可分に構築されてきたと言えると思う。
次章では言語活動の人類的進化過程に見られる言辞、陳述の責任論的な進化について例証しながら考えていってみよう。
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