<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773</id><updated>2012-02-16T17:26:42.906-08:00</updated><title type='text'>死者／記憶／責任</title><subtitle type='html'>このブログは私の数年前に書いた論文「死者と瞑想」と「責任論」をベースに新たに書き直したものを加えたものである。私のこれ以後の全ての論文のベースとなった考えがここにある。私たちは他者の死によって自らの生をいつか死すものとして認識し、その記憶が思考、記述、想念の全てを齎す。個におけるそれらの脳内の作用が集団レヴェルで責任を私たちに意識させるのだ。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>27</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-3423347779135461520</id><published>2009-12-03T18:02:00.000-08:00</published><updated>2009-12-03T18:49:22.554-08:00</updated><title type='text'>〔言語の進化と責任〕第一章　言語活動を成立させる基盤①</title><content type='html'>　動物の世界においてはある意思表示があり、その意思表示が自分の知らない成員であることを承知で、その意志を受け取るという事実がない。例えば本を読む時、我々はその著者と面識のない方が普通である。そういう意味では動物同士の意思表示、コミュニケーションは完全に先述したように危機的状況以外では現前する同一種個体、つまり同一環境内における成員同士に限られる。&lt;br /&gt;　その事実をまず踏まえて考えていってみよう。しかしいきなり言語行為の発生に行くのではなしに、前言語状態というものを考えてみよう。そしてその際に重要となってくるのが感情という事態である。　&lt;br /&gt;　通常哲学において感情を身体と心のデカルト的人間論から解放したとされる潮流として現象学が考えられる。しかしそれ以前にウィリアム・ジェームスが精神と肉体の不可分性について触れていた。彼は心理学者でもあった故に精神医学にも関心があったので、そういう一元論的な認識に辿り着きやすかったと言える。&lt;br /&gt;　ジェームスの文章的癖として「それは程度の問題である。」というのがあるが、これなどは明らかに西田幾多郎に影響を与えている。デカルト的二元論の克服意図がこのような物言いを可能にした、と言うことが出来る。しかしやはり体系的に感情というものを位置付けたという意味では現象学が最も貢献したと言えるだろう。その意味では現象学には当初から精神医学や生理学と同列の性質が備わっていた。&lt;br /&gt;　それともう一つ重要な事実とは、現象学においてはあまり表象という考え方が重要視されていないということである。フッサールも初期（「論理学研究」期）はこの語彙を積極的に使用していた。しかし少なくとも「イデーン」期には殆どこの語彙は使用されていない。その考えはハイデッガーと彼の影響を大きく受けたミシェル・アンリに特に引き継がれている。&lt;br /&gt;　その事実に対する言及に入る前にまずそもそも表象とは何なのかということについて考えてみよう。表象はコンディヤックという十八世紀のフランス哲学者も積極的に使用していたし、それ以前にも遡る。しかし哲学史自体に深く入ることは本論では差し控えたいので、取り敢えず表象を一般的な使用され方から考えてみよう。&lt;br /&gt;　表象とはある事物、事象、概念に対する脳内での理解である。そしてそれは現前するものに対しても、不在のものに対しても等価に得られる脳内の理解である。しかし現象学においては基本的に感情というものと表象というものが切り離されて考えられてきたことに対するアンチ・テーゼが横たわっているのである。故に表象という考え方にある種の抵抗を彼等は持っていたのだ。表象とは端的に言えば認識領域の主導による考え方である。&lt;br /&gt;　脳科学者の茂木健一郎氏は「脳と創造性」において感情というものは認識と対立するものなのではなくそれを支えるものであると現代の脳科学では理解されてきていると述べているのだが、実際現象学は早くからそのことを考えていた。端的に言えば表象とは常に感情を伴っているのだ。ただそれは激烈な感情ではないというだけのことである。そして表象を主観から出来るだけ切り離して考える時、概念というものが派生する。このことは市川浩氏も触れている。（「現代哲学辞典」より）すると表象とは自己内で感じる客観ということになる。そして意味とはこの一連の作用全体を指すと言ってよいだろう。つまり意味とは概念とか表象の一切を含む綜合的な感情であると言ってよい。綜合的認識であるからにはそれは反省的意識によって生じるものである筈だ。&lt;br /&gt;　しかし何故現象学の哲学者に表象を概念的な使用として避けようという考えがあったのだろうか？それは認識が感情を産むという考えを否定したいがためだったのである。そしてその主張は長く西欧では感情を理性で制御すべしという観念がキリスト教的に根付いていたという事実を我々に知らせる。しかし現象学ではまず基本的に感情というものが底流として存在し、然る後に認識とか判断が成立すると考えている。そしてその考え方は現代の脳科学の基本的理念と合致するものである。&lt;br /&gt;　ミシェル・アンリは代表作「現出の本質」で、極めてハイデッガー的な解釈を多く使用しているが、それ以外に彼独自の基本的な理念として感情以外に、情感（性）、感覚、感性を区別して使用している。感情は綜合的あるいは統合的な理念であり、それ以前にまず基本として情感というものがあり、これは簡単に捉えれば、現代脳科学の旗手の一人であるアントニオ・Ｒ・ダマシオの考える情動に近い。これは要するに身体的な反応や感覚全てを含むものである。それは要するに生きている実感、それは身体と精神の一体化した実存的感受である。我々が意識を持つことの前提条件である。しかしアンリが言う感性とは原初的な身体感覚のことではなく、知覚や痛みといった感覚的授受の自然傾向性のことなのだ。あるいは感覚それ自体の認識、つまり個人的な実存のことである。感覚とは彼にとっては情動的な知覚を含む瞬時の作用によって得られるものである。そして感性とは感覚の記憶化（身体的な記憶。しかしこれは三木成夫流の生命記憶とは違う。）によって得られるものである。要するに日常において我々の内部で「またあの感じか。」というように一般化されたものを彼は感覚と呼んでいる。&lt;br /&gt;　ところでハイデッガーは存在と存在者とを区分して論説し、その二つを結び付けるものとして現存在という認識を措定した。アンリはしかしそしてそのことの重要性を主張するためにもう一人の巨人であるシェーラーを、超越と啓示を区分しきれず、混同したとして批判している。そして現象学全般に言えることとは、カントの哲学を敢えて表象内容に対する理解とすることによって乗り越えようとしているのだ。サルトルはそういった現象学の理念を基本として持ちながら、同時により社会状況というものの中にそれらの理念を位置付けようとした。&lt;br /&gt;　アンリとエマニュエル・レヴィナス（仏哲学者）に共通することとは、ハイデッガーの現存在の理念をよりハイデッガー的な示唆のレヴェルから一歩前進させ、様相的な理解にまで至らしめようとしたというところにある。そしてアンリ哲学に最も重要な指針として情感が挙げられるのは何故か？それは彼にとっては身体的実存であり、同時に感覚や感性を作用させる場としても捉えられていて、その事実が彼の考える現象学に相応しいからなのだ。そしてシェーラーがなし得なかったとアンリが捉える区別とは超越と啓示能力のことなのだが、その際彼は啓示というものをある種の閃きとして捉えているようだ。これは現代脳科学ではセレンディピティーと言われている。つまり偶然の発見のことである。この観点はサルトルには希薄なことである。サルトルはある状況の中で他者の気配を感じ取るということにおいて、より知覚行為の実像を捉えているため、アンリのような閃き、つまりそれ自体が認識に応用出来るようなものとして考えられてはいないのだ。そこにある種のニヒリズムがサルトルには感じられる。つまり「生とは無益な受難」であるとする（「存在と無」より）サルトルにおいては、生そのものが「そうではあらぬものとしてそうである」ようなものなのだから、死の瞬間まで常に未完了態そのものなのだから（実はここら辺では戦後アメリカ哲学の旗手であるソール・アーロン・クリプキとも共通する哲学スタンスである。）死が全てを完成させる（ここら辺りは寺山修司的でもあるのだけれど、尤も寺山は「人間は不完全な死体として生まれ死んで完全な死体となるのだ。」と言っているためにより肉体的なフェティッシュを強調しているのだが。）、つまり真に反省を必要とする事態とは死だけであると「存在と無」では主張している。しかしその時反省し得るのは死んだ当人ではない。そこにサルトルの存在論的投企をモットーとする独自の認識に対するニヒリズムがある。では一体反省するのは誰なのか？それは他者である。ここからレヴィナスの哲学は出発する。&lt;br /&gt;　アンリに戻ろう。彼は「感情に働きかけることの原理的不可能性」と言っている（同書、９２４ページより）が、この定義は重要である。つまり感情とはそこから認識や判断、つまり意志や行動が司られているのだから必然的に感情自体へ我々が働きかけることとは背理であることになる。我々は一見自己の感情に働きかけているように見えるのはあくまで過去の自分に対してである。今現在過去の自分の意志や行動を司る感情を客観的に見つめることは可能だが、今現在の感情を客観視することは不可能である。&lt;br /&gt;　この考え方はマッハ以降の相対論と共通するものを持っている。我々がマイクロスコピックな（顕微鏡でしか確認出来ない世界での）物質を観察する時、注意しなくてはならないこととは、自分がその観察対象を観察する身体的な位置とか相対的な位置である。しかしもし宇宙全体というような広大無縁な領域に対して観察しようと試みるのなら、そのような微視的な位置といったものは意味をなさなくなる。そのことは生理学者のジェラルド・エーデルマンも「脳から心へ」で指摘している。要するにアンリの言う感情に働きかける不可能性とは客観的対自ということの不可能性のことであり、マイクロスコピックな物質を観察する我々の立ち位置というものの絶対的不動性の不可能性を主張することと相同の主張メカニズムがあると思われる。&lt;br /&gt;　そしてそのことは記憶作用の七つのエラーを指摘しているダニエル・シャクター（米心理学者）の記憶の不確実性とも関係してくるのだ。自分では正しいと思っている記憶内容とは様々な外的な要因によってエラーを生じさせる。期せずしてシャクターは記憶について考えてきた哲学者の思念と殆ど等しいような事実を指摘している。その一つは現在の自分に当て嵌めて過去の自分を理解しようとするということである。人間は考え方や感じ方の全てを過去から現在に至るまでに変遷させてきている。しかし現在というものを常に中心に位置する意識とは過去と今では変わってしまった自分の考えをも、「あの頃から本当は今のような考え方であった。」と歪曲して捉え、事実その記憶内容まで過去を現在の自分に都合のよい形で変形させてしまうのだ。つまりそのような変形を非意図的に遂行してしまう人間の脳の判断こそがアンリをして情感、感覚、感性、感情（感情は前者全ての統合されてある今の状態である。そして情感が非意図的であり、不随意的なものをも含むのに対して、今の感情とは常に意識的であり、覚醒的であり、自覚的である。）と幾つもに区別することを強いたものなのである。しかしアンリのこの厳密に区別しているようでいて彼自身が懊悩するかの如く超越と啓示を別物として認識させるものとは、端的に言えばデネットが必死に考えた記憶の先後関係の曖昧さ、シャクターが考えた記憶のエラーシステムそのものなのだ。&lt;br /&gt;　感性は感覚の統合により事後的に認識されるカテゴリーであるが、同時にそれはその感性を基準に感覚を授受するように我々を仕向ける。何らかの感覚とか触覚を嫌うというような拒否反応もそのことを表している。つまりある現出によってそれを統合したり、陶冶したりする時、その成果としての現出が過去の感覚的現出を覆い尽くしてしまい果てはそれが原因のように覚知されることそれ自体が哲学者を翻弄し続けてきているとも言えるのだ。しかしその時認識的な様相の区別を無効にするものこそ行動である。&lt;br /&gt;　行動はフランス哲学者のポール・リクールによれば可能性の断念、ためらいの払拭以外の何物でもないのだ。あらゆる可能性を無効にして可能性認識を破壊することこそ何らかの行動の選択である。その行動選択として自己内の思念を語ることをテレンス・W・ディーコン（言語学者、心理学者）はただ単なる情動の表示とレファレンスとに区別している。そして後者こそが人間固有のコミュニケーションの起原であると考えている。&lt;br /&gt;　レファレンスの獲得とはしかし実は他の動物であるなら必要のない行為を敢えて生活上の必須として獲得したわけだから心理学者のニコラス・ハンフリー的に捉えれば、明らかに何らかの能力の喪失（彼はその中でもとりわけ記憶力と考えている。（「獲得と喪失」紀伊国屋書店刊）によって喚起された獲得であるということになる。&lt;br /&gt;　人間がもし個体毎に判断して全ての行動を採ることを本論として生活する他種動物とは異なるレファレンスをモットーとして意思表示をすること（それはハンフリーが主張する抽象的思考能力と相同のものである。）でその逐一の忘却的な傾向を克服しようとしたのなら、我々は何かを最低限伝達することで、つまりそれだけは忘れずにいることで、他の一切は忘却してもよいという規約を得た人類が、その伝達という責任を設定することで、逆に内的な自由を個人毎に保障するような考えに無意識の内に赴いたのではないかというのが本論の仮説である。それはある意味では人類のサヴァイヴァルを賭けた選択だったのではないだろうか？&lt;br /&gt;　ところでアンリは行動や志向性を目的論的に捉える我々の無為無策を告発しながら、ある意味では選択された行動を採ることにおいて我々を誘引する根拠の前では無力であると捉えている。価値と現実世界における相互依存を唱えているのがリチャード・ローティーであるが、それが正しいとすると、実際アンリが言う根拠は脳内血流の検査からは立証されえ得ない（脳科学者マイケル・ガザニガが「脳の中の倫理」で述べている。）責任同様幻想的認識であるだろうが、それと行動にはある相互依存性が介在しているということになる。そしてアンリの言う根拠は別の角度から言えば情感そのものである。そして感情が行動を生むのであり、行動や志向性によって感情を左右することは出来ないと彼は考える。しかしだからこそ責任が我々には共同幻想の如く課せられるのだ。&lt;br /&gt;　感情をコントロールする当のものさえも感情以外のものではない。つまり感情を何とかするという考え自体が感情から我々は自由ではないということを指し示すのだ。例えば感情によって記憶はエラーを起こすし、記憶の不確かさこそが感情を左右する。それは現在の唯一的意識こそが至上の命令者であることから発するのだ。我々は感情から自由ではないという事態において初めて記憶からも自由ではないと言い得るのだ。&lt;br /&gt;　しかし一方自由ではないという観念はニヒリズムを生む。我々の祖先は感情と記憶から自由ではないという事態を薄々知っていたのだ。（認識論的にではなく、直感的に。）そこで記録という観念を発生させる、あるいはそういう観念を発生させながら記録していった。そして記録行為それ自体の公共性の確保という意識が我々に責任を発生させたのだ。&lt;br /&gt;　記録行為が文字であった時代には既に言語は獲得されていた。しかし記録が無意識的な行為にせよ、何らかの目的的行為であったにせよ、絵であった内は前言語状態と言ってもよい状態であったかも知れないので、記録を記録として認識していたかどうかは怪しい。しかし少なくとも絵を描く行為が心に見える姿というレファレンスを他者に告げ知らせることであるという認識は描かれた絵を見た成員によって得られていたであろう。絵の制作者は必然的に自分の目撃したシーンの説明を求められていっただろう。その時言語行為、意志伝達行為の萌芽が認められたのではないだろうか？&lt;br /&gt;　勿論それ以前から我々の祖先は発声的行為をしていたろう。しかし説明がそこでなされていたわけではないのだろう。しかし絵の作者は絵を説明する必要性が絵を見た成員の要望によって発生した。そこで説明するという責任において統語的秩序が要請された、と考えると全ての辻褄が合うのだ。&lt;br /&gt;　言語的認識は一般化された概念に対する理解と言ってよい。それはこういうことである。テレンス・W・ディーコンも指摘しているが、彼の例に倣えばスカンクを知っている者（それは人間でも犬でもよい。）がスカンクの匂いを嗅ぐという事態は、その匂いがスカンクであるということを知らない、つまり初めてその匂いを嗅いだ者とは異なった反応になるだろう。つまりスカンクの固有の匂いを経験して然る後、その匂いは他の多くの匂いと対比せられるカテゴリー的ディレクトリにストックする場合、その匂いを再び嗅いだ時に、以前の記憶を想起させるから、その匂いが初めての時より嫌悪感というものは倍増されている。例えば次のような例を考えてみよう。ある時あなたが街角を歩いている時いきなり暴漢に襲われ、足をカッターナイフで切られたとしよう。切られたという事実をあなたは咄嗟に判断し、周囲に誰も救助を求めるべき人が見当たらないので、全速力で逃げるとしよう。その時あなたは足が切られたことに対する痛みよりも、咄嗟の緊急事態に対処し、生存を確保することの本能的な行動へと向けられる意識が強烈で、逃亡している時には然程痛みという感覚には鋭敏ではないだろう。しかし思い切り走って後ろに暴漢が追手として確認出来ないほど引き離した時、我に返って自分の切られた足を見ると血が滲んでいる。その時初めてあなたは逃げている時には感じなかった痛みを痛烈に味わうこととなる。この時あなたは要するに過去に何らかの怪我をして血が出た時のことなどを想起せざるを得ない。その想起が痛みの感覚をよりクローズアップさせることとなるのだ。つまり経験的な痛みのカテゴリーがあるからこそ、想起によってその時の痛みの記憶を喚起し、よりそれを不快と感じるわけである。&lt;br /&gt;　言語はある意味ではその痛みの記憶の想起による喚起、痛み全般に対する綜合的な認識を生じさせるような想像力によってより自覚的となることに助力する。記憶内容に検索項目を設けているような言語的認識が、実際の身体的な記憶を喚起することに助力するのだ。&lt;br /&gt;　それは情動を感情へと転化させることと相同である。情動は不随意な身体的な反応であるが、それを「あっ、あの時の痛みだ。」とラヴェルを張り、より感覚的に意識させるものこそ身体的な痛みの記憶であり、それは言語的な検索項目として「針に刺さったような痛み」とか、「皮が擦り剥けた時の痛み」というような痛みの種類の分類を可能にして記憶させやすくするあなたの脳の作用なのである。&lt;br /&gt;　しかし言語の認識はそのうような具体的な知覚体験に根差した事実に対するレファレンス以外の多くの、つまりそのような具体性の欠如してはいるが、意志伝達の際により理解しやすい語彙間の連鎖というものもある。それは同じ言語のレファレンスであっても、より抽象化された相互了解事項であると言ってよいだろう。&lt;br /&gt;　しかしそのことと、人類の言語獲得の発生論的な意味での言語の役割としてそれが極初期に既に用意されていたかということになると、実は極めて謎が多いとしか言いようがないのだ。その具体的な知覚体験に根差した心像という事実と、そのような具体性の欠如した意志伝達行為それ自体を支える抽象的な心像の差を、発生論的に少し考えていってみよう。&lt;br /&gt;　人間社会が単独の行動者から社会的行動者へと移行する過程というものを考えてみると、恐らくそこには単独の個体の利害を巡る攻撃と防御から、徐々に数個体同士の利害の対立へと移行するという様子が垣間見られるに違いない。それは要するに攻撃と防御から競争意識の共有という事態への移行であろう。勿論その数個体同士の集団は他の集団を攻撃する。そしてその敵対する集団も同様である。しかしその数個体内での人間関係は統率者を決定することを巡っての競争があるだろう。ただ単なる協力体制だけではない筈だ。その集団内でチームリーダーを決定するための競争ではウィナーテークスオール式の報奨（例えば負けた者の配偶者を横取りするとかの）もあったかも知れない。そしてリーダーが決定した集団は他の集団と争いを持ったであろう。その争いが狩猟の縄張りを巡るものなのか、採集生活の拠点を巡るものなのかは様々であっただろう。そして最初の内は勝った集団は負けた集団成員全員を殺したりしていただろうが、じきにその負けたチームにも頭のよい者がいて、それを捕虜として徴用することもあるようになっただろう。&lt;br /&gt;　世界の学問を見渡してみると、多くの意見の対立、学派の争いがある。もしどの学者からも一定の評価を得、敵が一人もいないような学者がいるとしたら、その学者は一流ではない。一流というレヴェルがどの辺にあるかはともかく少なくとも歴史に残るような学者ではないことだけは確かだ。デュルケム対タルド、サピア対イエスペルセン、クワイン対ストローソン、ドーキンス対グールド、クリプキ対マッギンという風に昔から学者間の論争はずっと続いてきた。そのような意味で人間社会の曙からそのような争いはずっと続いてきただろう。例えば勝った集団は負けた集団の成員を全員殺していた頃は、ある意味ではリスクも大きかっただろう。と言うのも常に勝った集団だけで争うのなら人員にも限りがあるし、疲労もする。そこで負けた集団の中の威勢のよい部下を捕虜として利用することで戦争に費やされる労働力は軽減されたという経験を持ってからは、集団間の争いでは負けた側は少なくとも首領だけは殺されただろうが、部下たちは威勢のいい者から勝った集団の戦争要員として利用されて、その中でも秀でた者は重用されたであろう。二つの集団内での勝敗は首領が殺されるという事態が相互にない限り、残った成員の数に応じて戦う意欲に差が出て、結局最後まで戦い続ける意志と意欲から自然に決定していったのだろう。&lt;br /&gt;　学者の世界で競争があるということは逆に言えば、どの競争者もライヴァルを必要としているということである。それと全く同じ心理的なメカニズムが人類の曙でもあったとすれば、同一集団内でのライヴァル意識から、次第に他集団をも含めた広い領域内でのライヴァル意識が生じていったということも考えられる。例えば捕虜にした者でも働き次第では元々その集団に属していた者以上に出世する道が開けていくに連れて、今の野球の世界のように他チームからの移籍というような事態と相同の人員交換のようなこともあったかも知れない。そして最初他の集団を皆殺しにすることが勝者側の当然の仕事であった時期から次第に勝敗を建前的なものにして戦争責任者以外は全て優劣で別集団へのトレードが可能になってゆくに連れて言語的な秩序も徐々に複雑化していったということは考えられる。そのことを最も原始的な状態からかなり複雑化していった社会の変遷と共に考察していってみよう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　まず我々が考えなくてはならないこととは、当初攻撃することで自集団の領域拡大だけを狙っていた集団が、敵側の成員を生かして利用することを思いついた時、色々なパターンが可能性としては考えられるということである。例えば先述のように敵側の首領のみ敗戦集団側の戦争責任として処刑され、その他の部下たちは捕虜として利用されるということがもし最初に常習化したら、逆に敵側の首領が有能であるということに着眼し、部下たち全員は処刑するが、首領だけを捕虜として利用するという考えがあるいはメリタブルに作用したかも知れない。そしてその遣り方が徐々に拡張されていくと、今度は常套的な方法、つまり敵側首領のみを処刑し、他の成員は捕虜として活用するという遣り方が再びメリタブルに作用するようになるだろう。これは行動生物学においてとみに主張されてきていることである。そのことの証明になるかどうかは分からないが「古代ユダヤ教」においてマックス・ヴェーバーは次のように記している。&lt;br /&gt;「（前略）軍隊の神聖化の手段とならんで、聖戦において、掠奪品に関する儀礼的タブーがあらわれた。その分捕品を連合戦争に対して聖別すること、すなわちへーレムがそれである。このへーレムは、一つの平和にされた宗派的教団へと移り変わった捕囚後の時代には、教団の団体員が厳正に生活しないばあい、これを破門することを存続した。私的なタブー化のいろいろな名残りはイスラエルにおいても発見されるようにおもわれる。ところが生きた分捕物もしくは死んだ分捕物の全部あるいは一部を神に対してタブーとなし犠牲となすことは、すこぶる普遍的に普及していたし、ことにエジプトにおいて知られていた。げんにエジプトでは王が儀礼的義務によって捕虜を惨殺したのである。敵はエジプトでもイスラエルでも神なきものとみなされた。つまり例えば騎士的感情については、エジプトでもイスラエルでもその痕跡はぜんぜん発見されないのである。へーレムは戦時には相当いろいろのことをすることができた。そしていずれにせよ分捕物分配に関する通常のやり方から知りうることは、分捕物＿男、女、子供、家畜、家屋、家具＿の全部が通常タブー化されたわけではなかったかということである。一部は成人した戦士＿「壁に向って放尿するすべての者」＿だけか、あるいはおそらくまた、君主や名望家たちだけが犠牲として殺された。聖戦以外においては、イスラームと同様古代イスラエルの軍法でも、自発的に服属した敵を、敵対し続けた敵と区別し、前者を殺さなかった（申命記２０の１１）。カナンの地域の内外を問わずこの軍法によって処置された。神に約束されたこの土地〔カナン〕を特別に神聖であるとみなす、予言者に影響された理論＿この理論はエリヤ時代に最初にあらわれる＿がはじめて、偶像崇拝者のみちたこの土地の徹底的純化を要求したのである（申命記７の２・３）。そして戦争予言者の理論やさらに捕囚の理論や、そしてまたユダヤ教の宗派的発展だけが、カナンの敵は徹底的に撲滅されるべきである、という熱狂的命題へと傾斜したのであった。すべての戦争だけが聖戦とみられたのであって、しかもそれさえも、もしかするとつねにそうであったとはかぎらなかった、という事実を別とするならば、へーレムの最後的諸帰結が比較的後代のものであるということを示すのは次の事実である。すなわち伝承がサムエルの口で言わせた諸要求に対してサウルが反対の態度をとった、という事実がそれである。さてしかしこのへーレムの最後的諸帰結は、考慮する所なき峻厳さをもって、伝承の形成過程についてのほとんど肉欲的とも言えるような空想と、弱者や寄留者に対する寛大な諸命令との、あの聖書のいたるところに特徴をしるしつづけている独特な結合をうみだしたのであった。」（同書上、２３８～２４０ページ）&lt;br /&gt;　マックス・ヴェーバーのこの論文のより注目すべき箇所とは、実は歴史的な民族の行動史が、予言や霊的な戦争祈祷によって集団としての民族が統合されてゆく過程と、そこに内在する性的な統御力こそが民族を結束させたと捉えていることである。しかし今はそのことに深く触れる機会ではない。本書の結論においてそのことは詳述されることとなる。&lt;br /&gt;　さて問題なのは、言語的な進化がもし社会の行動的な目的性においてより単純なものからより複雑なものに移行する過程において統語秩序とか意思表示的な体裁が進化し、内的な意味論の世界における認識をも進化させてゆくものであるなら、言語の進化は集団内での、個的な意味（集団内秩序同化意識）でも、集団選択的な意味でも責任倫理という意識が共同幻想として大きく作用していったであろうということを証明出来るか、ということである。&lt;br /&gt;　「解明される意識」において哲学者のダニエル・デネットはベンジャミン・リベットの実験結果等から意識における過去の記憶の先後関係がしばしば逆転し得ることを指摘している。それは例えば未だ起きていない事態をも想定して意識の上ではある「構え」を作るので、それが起きたという事実が実際よりも早く起きたように錯覚することは記憶の仕業としては常習的なことなのだ。あるいは極めて印象的な出来事に対する記憶が他の些細な記憶を押し退け先後関係を撹乱させることがある。&lt;br /&gt;　例えばI’ve got to go（行かなくちゃ。）という英語は発音上はaiv gala gouとなる。二番目にくる語彙がgot toと癒着し、しかも通常これは母音の発音は閉音であるのに、次のgouがgot to以上に開音であるために、それを話者が見越して先の音まで既に開音として構えてしまう事態を表している。それは話者が脳内では既に伝達する内容を把握しており、それを発音において置換しているために、無意識の内にその意志が発音に影響を与えるからである。意識では未決定な意志も、行動する前に脳では自動的に、我々が「あの時決心した。」と我々が思う以前既に決定しているということが脳科学や心理学で既に証明されている（準備電位）。例えばそれが今例に挙げたような発話であるとしよう。その時話者が明らかに発語行為として対話者に対して責任を遂行していると言える。&lt;br /&gt;　一つ一つの発語においてそうなのだから、逆にその一つ一つの発語を可能にする社会的規約の前では我々は話者がある陳述を意味内容的にも意味作用的にも伝達可能な事実とするために同一言語通用区域におけるラングとして陳述形式においても陳述内容においても何らかの共同幻想的な意味での責任意識を生じさせながら発語していると考えることは理に適っている。&lt;br /&gt;　そのことをまずただ闇雲に他集団との抗争において他集団を打ち負かした時、生き残り全員処刑することをモットーとしている集団内の規約における言語行為というものを考えてみよう。そこで集団内での規約という事実を自我という側面から考えていってみよう。&lt;br /&gt;　アンリは「現出の本質」において最後にヘーゲルと自己との対比で「啓示の根源的な本質をヘーゲルの現出（manifestation,Erscheinung）概念との対比において明らかにすること」と銘打った補論で締め括っている。そしてその第一声「ヘーゲル哲学の中心的な主張、それは、実在は＜精神＞であるということである。」と主張する。&lt;br /&gt;　自我を概念として多用したヘーゲルはどのような心積もりだったのだろうか？&lt;br /&gt;　自我とはインド哲学にも既に見られる概念だ。自我は恐らく現在意識からも自己反省意識からも認識可能な自己として捉え得るものではない。デカルト、スピノザ、カント等はそれぞれ主観と客観、原因と結果、分析と綜合という二元論から自我の本質に肉迫した。しかしそれ以後の哲学は徐々に社会を構成する当のものという認識から自我を考え始める。その予兆は既にホッブスにも見られたし、ルソーにも見られた。カント以降はベンサム、フィヒテ、そしてヘーゲル等によって問われ続けてきている。&lt;br /&gt;　自我は超越的であり、例えば脳科学において前頭葉のここら辺が自我を構成していると特定し難い。尤も扁桃体あたりに感情を構成する機能が認識されているということから、何らかの古脳（大脳辺縁系）と大脳皮質とりわけ前頭葉、側等葉等とのネットワークから考えられる可能性があるかも知れないが。要するに自我は社会自体が生物存在によって内的に作動されるエネルギーの集積と捉える認識における内的エネルギーそのものと言ってもよく、その意味では生物学者のユクスキュル等が環世界と呼ぶものとそう遠くはないだろう。（そのことについては結論で詳述する機会を持とうと思う。）&lt;br /&gt;　ヘーゲルの自我論は基本的にはフロイトにも引き継がれていると思われる。アンリはヘーゲルについて次のように言っている。（「現出の本質」下、今までの引用は全て北村晋、阿部文彦訳、法政大学出版局刊による）&lt;br /&gt;「主観性というひとつの本質の現実的かつ自律的な現実存在を予想させる諸概念に対してヘーゲルが向けた重大な批判の意味は、ひとり自らを現出させるものだけが実在的であるということを喚起し、ただひとつの根本的な現出様態しか、つまり、対象性[客観性]という様態しか現実に存在しないと主張することにある。とはいえ、「ひとり自らを現出させるものだけが実在的である」という主張は、哲学の課題が、自らを現出させるかぎりにおいて現実存在するいっさいのものの単なる目録作りにあるのでなければならない、などということを意味しているのでは毛頭ない。ヘーゲルは、自然的意識や哲学的次元における自然的意識の反復である＜啓蒙主義（Aufklarung）のように、客観的限定態にただ単に信頼を寄せる思考からは、はるかに遠ざかったところに身を持している。彼は厳密には、「われわれがわれわれの周りに見るものが、そして現出しているという性格を伴ってわれわれが見出すものが、実在的である」と言っているのではない。ヘーゲルの思想は、もっと正確には、次のような定式において表現されよう。すなわち、「いっさいの実在的であるのものは、自らを現出させることができるのでなければならない」。現出の実在性よりも前に、もっと正確にいえば、現出化した実在性よりも前に、それに先立つ要求のごときものがある。この要求はある成就への要求である。成就されなければならないもの、それが実在性である。実在性の成就とは、実在性がひとつの現象に成るということである。たとえばキリスト教が閉じこもるような「成就されていない生」とは反対に、「成就された生」はすでに、若きヘーゲルからみると、自らを現出させる生なのであった。それにしても、成就された生は自らを現出させる生であるかぎりにおいて、それは、いまだ自らを現出させない「成就されていない生」へとわれわれを差し向ける。いっさいの成就は単に、それによって成就されるであろうものへの差し向けをもつだけではない。いっさいの成就はまた、いまだ存在しない何ものかへの成就でもある。ヘーゲル流に語るとすれば、展開された一性（Unite）は「展開されていない一性」への＜遡行的‐差し向け＞を含意しているのだ。しかるに、成就されていない生、展開されていない一性とは、まさに＜内面的なもの＞という名で理解すべきものではないだろうか？＜内面的なもの＞は、単にわれわれの成就していない可能性の偽りの表象を指し示しているのではない。それはむしろ、客観的限定態というかたちでいかなる成就にも、いかなる実現にも、ある仕方で現実に先立つところのものなのである。」（同書下、１００６～１００７ページより）&lt;br /&gt;　ここでアンリによって述べられている言述は実は、ヘーゲルという存在を借りた彼自身の時間感覚に対する覚醒の告白でもある。未完了態に対する思慕は、実は完了された実相において我々は体感するのだ。つまり何かを成し遂げた後の空しさとか、空虚感、虚脱感といったものは、ラヴェルの名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」で示されていたが、つまりその虚脱感こそが次の行為への、次の目標を定め行動するための指針となるのだ。だからポール・リクールの言うような意味での可能性の剥奪としての行動には、前段階として虚脱感と、空虚感とが伴うある終局、ある滅亡が必要であり、それは端的に言えば極めて反省的な思念に裏打ちされたものなのだ。しかしヘーゲル自身にはアンリが指摘するような意味での深い反省的思念（それをアンリは内面的と評しているが）が付き纏っていたであろう。だからこそヘーゲルは自我の本性を顕現させるものとして言葉を考えている。（「精神現象学」より）ヘーゲルはフッサールが前言語状態という概念で語る言語的基盤、モティヴェーションの所在を示したとも言えるのである。そしてそれは自我に対する覚醒である。（その自我を日常的なレヴェルから考えたのがジェームスだった。しかしジェームス当人は我々が現代から見て受ける印象以上にそれ以前までの哲学者の考えと著しく隔たっていたというわけではない。彼は端的に心理学と生理学の壁を取り除き、一体化を図ったと言ってよい。）&lt;br /&gt;　ヘーゲルが提唱した二つの概念、疎外と承認は相補的である。何故なら自我作用それ自体を我々が携えるものとして認めつつ、分析するヘーゲルのスタンスが一方で自然に対する不可知領域から疎外されていると感じつつ、その事実が他者と自己とのどうしようもない壁をも意識させる時、まさに現代心理学の言葉で言えば「心の理論」の解明の突破口として承認という概念を流用することが彼にとって最適である、と思われたからである。&lt;br /&gt;　ヘーゲルの言う承認は他者の承認であり、それ以前に存在の承認である。それは期せずしてウィリアム・ジェームスが無意識の内に提唱した自我の超越へと意識が連なってゆくことになる。西欧哲学をこのように系譜学的に見てくると、そこにはテクスト間の応報という哲学者間の思索の旅が見えてくる。例えば自我一つ考えてみても、よりその命題がクローズアップされるということは、ヘーゲル以前のテクストでは明示されていなかったという事実を如実に浮かび上がらせる。要するにテクストの意味作用の記憶がもう一つのテクストを産出する過程の中から自ずとテクスト創造者たちの記憶の意味内容が現出する。&lt;br /&gt;　私たちの記憶はテクスト創造者たちのように必要な事項を注視することで、よりそれ以外の多くの事項を無視するように作用する。人類史的に見れば、あるいは我々の祖先は記憶事項の飛躍的増大（例えば同一集団内での全成員の固有名を覚えなくてはならないというような）によって逆に他の些細な事項に対する記憶を一挙に忘却する能力を進化させてきた可能性はある（そのことはニコラス・ハンフリーが「喪失と獲得」で述べている）。そして段階論的な忘却進化が、逆に限定された事項の記憶を確かなものにするように作用するよう進化したというわけである。&lt;br /&gt;　つまり私的に記憶することだけで全てが消化されていた時期の人類が、ある一定の秩序を持った社会的動物へと進化する過程において、我々の祖先はきっと公的な事項、つまり集団としての秩序を維持するために必要な事項に対する責務的な記憶必須事項と、そうではない私的な事項とを弁別するようになっていった、ということが想定出来るのである。それは端的に言えば公的にこれだけは記憶しておけば後は自由であるという自由と権利の獲得をも意味する。そしてその時期には当然発話行為それ自体もかなり進化していたと考えた方がよい。発話行為それ自体はあくまで私的であることの思念と、集団内での隣人との間で交わされる個人的思念同士の突合せという現実からスタートしたと考えられる。同一集団内での私的会話というものの進化は当然述語的世界の進化を促したであろう。端的に言えば形容詞と副詞の進化である。勿論それ以前から既に名詞（実詞）と動詞は発明されていたろう。しかしその基本的な叙述構成要素に対して個人的な思念、世界や事物に対する感情を表しつつ、同時にその感情表出行為自体が意味伝達を構築したと考えることは理に適っている。つまり私的感情の伝達という公的集団内におけるプライヴァシーの獲得という成員間の同意という事実が、同僚とか友人という観念を生じさせることとなったのだ。&lt;br /&gt;　そして友情的感情の進化は当然のことながら、真意の表出という「賛成したいのですが。」型の発言を通り一遍の「誓います。」型の発言以外に多用することを促す。叙述内容の意味的世界、つまり私的感情と公的事実との間の連関によって生じるある種の齟齬自体が新たな意味を産出することを相互に発見し合うことの定着とはまず基本的に公的約束事としての言語定着の後になされたと仮定してみよう。するとそれは概略的に説明すると、予め決められた事項を伝え合うという行為（義務的発話を中心とした）から、伝え合うことによって新たな意味世界を発見していくという行為へと変質することそのものが、友情を育み、友情の進化が真意の表出と、建前的な会話の差を生じさせ、公的、私的の使い分けが各成員間に定着し、暗黙の了解となる。これは社会進化上極めて重要な出来事である。&lt;br /&gt;　そしてそれらは叙述内容の詳細に伝達することの進化それ自体が、私的な会話と公的な会話の弁別、そしてこれが重要であるのだが、記憶すべきことと記憶したいこと、つまり個人的感情のレヴェルで記憶しやすく関心のあることと、そうではなくても集団生活としての秩序を維持するために必要最低限としての義務として記憶しなくてはならないことの両方使い分けることを通して各成員に定着していったという事実が想定され得るということである。&lt;br /&gt;　しかし叙述内容の進化そのものは決して個人的、私的会話から発展したとも言い切れない。恐らく公的会話、私的会話の双方が相補的に発展させていった、つまり私的会話での発見が公的会話に応用され、公的会話での新たな秩序が私的会話にも適用されていったと考えた方が自然である。ともあれ言語はある意味内容的構成秩序として伝達されるように配慮されていったのだから、当然テーブルならテーブルという日常的事物とか道具に対して私的、公的を問わず発話する相手に対して相互了解伝達対象として選択されていただろうから、叙述することの伝達意味内容の詳細さへの希求が形容叙述を進化させていったと考えられる。しかしテーブルならテーブルと述べた時、そのテーブルに対する修飾事項によって我々は何らかの注釈をつけることによって状況論的にも、あるいは語順によっても指示対象を限定してゆくことが出来る。英語でmodifyと言えば修飾することと限定することを同時に意味する。例えばそれはただ単に話者同士が意思疎通するための方便であると考えることも可能だが、実はその事実が社会的認識としての言語を段階論的に進化させてきた可能性がある。つまり修飾して限定してゆく段階に応じて説明責任の詳細が決定されてゆくわけだから、我々の祖先が比較的緩い修飾行為から厳密な修飾行為へと転換してゆくプロセスそのものが言語行為における統語秩序や、意思疎通の状況判断的な進化の過程であると考えてもよいものと思われる。それは私がやや冗長的に述べてきた自我と哲学者の関わりに見られるある事項の注視と共に他の幾多の些細な事項の忘却という認識論史に見られる関心事項の焦点化という哲学者集団内での記憶と忘却という作用の連鎖にも顕著に示されているのではないだろうか？そして記憶と忘却という二つの作用は、責任の所在を限定することにどのように繋がっているかという面から考えることの意味を我々に示すのだ。&lt;br /&gt;　次にその責任の明示（責任は限定されることで明確化する。）の段階論的な進化を二つの顕著な構文例によって考えてみよう。&lt;br /&gt;　アメリカの大統領は就任式において必ず牧師によって「あなたはこの国とこの国の国民に対して誠心誠意尽くすと神に対して誓いますか？」というような質問を受け、それに対して「誓います。」と返答するのが慣わしとなっている。そのような際の返礼は儀礼的で、つまりア・プリオリに決定された慣習的なコードに随順するスタンスを明示する返答であり、責任倫理としては最も初歩的な段階にあるものである。&lt;br /&gt;　しかし例えば殆ど全ての成員がある決定事項に対して賛意を示し、その中にあってその決定事項に対して異論を抱く成員が、最終的に「あなただけですよ、未だ賛意を示しておられないのは。」と他の成員全員に詰め寄られてその返答の際に他の成員の期待に沿うように言う積もりであったのに、自分でも無意識の内に&lt;br /&gt;「賛成したいのですが。」&lt;br /&gt;　と言うことを想像してみよう。この場合我々は通常自分でも自分の言った発言が予想外のものであると感じることはあるだろう。つまり発声された陳述内容そのものが自分が他の成員の強圧的な集団の論理に押し潰されながらも、それに従おうと保守的な自己防衛心では規約的に脳内で囁いているにも関わらず、理性の内奥の叫びがそれを拒否し、まるで言葉を口から発するレールが自分が行きたいと願っている方向を無視して勝手に列車を暴走されているかのようの思われる瞬間とは、この例のように自分でも予想していなかった大胆な言辞を発声している時である。だがそれはフロイトの言い間違いほど無意識的言辞でない。もっと自然な欲求に随順したものである。&lt;br /&gt;　この二つを今後この論文で重要な概念としても使用したいので、前者を「誓います」型とし、後者を「賛成したいのですが」型と呼ぶことにしよう。まずここで言っておかなくてはならないこととは、前者の型はJ・L・オースティンの主張するような行為遂行的な発語行為ではないということである。（オースティンは「結婚式における＜誓います＞」を例証していた。）これは積極的な賛同であるよりは、集団依拠的な常套的な責任遂行の意思表示であり、建前的な言辞であり、儀礼的であるよりは挨拶的なものである。挨拶の責任というものは内発的な責任ではない。それは大統領就任の式典においてさえそうである。またそのようなものでなく個人的なものであるのなら、その政治家は逆に大統領に就任すべきではない。それはいい意味での通り一遍の責任であるべき性質のものである。&lt;br /&gt;　しかし後者は本質的にそれとは対立する。と言うのも、この言辞には周囲の異なった意見を持つ大勢の成員に対する拒否の意見陳述であり、その拒否感情やら拒否意見賛同者に対して暗に共感が示されているのである。勿論表面的には自分の周囲にそのような賛同者はいない。しかしそのような真意を抱く成員の出現を暗に期待してもいるのだ。これはあの米映画の名作シドニー・ルメット監督作品「１２人の怒れる男たち」のヘンリー・フォンダ演じる少年殺人犯に対する陪審員の心境のものである。孤独な表明である。&lt;br /&gt;　しかし一見前者の「誓います」型の発言の方が責任を大きく負うように見える（特に大統領就任式の宣誓の場合など）が、それは建前上の儀礼的な措置であり、このような儀礼的措置自体を無視することは大人気ないので通常の遣り方に従うというだけのことであり、本来後者の「賛成したいのですが。」型の発言の方により主観的判断故の個人的責任を負うという姿勢は表されていると言えるのだ。しかしこの言辞には自分でも予想のつかない真意の表出なので、ある意味では素直に真意を告げることに纏わる不安が付き纏っているものである。それが最後の「が。」に表されている。　&lt;br /&gt;　しかしこのように無意識の内に自分の真意を表出しているような言辞自体に驚くという経験は他にも何か思い当たることはないだろうか？&lt;br /&gt;　例えば哲学者のダニエル・デネットはリベットの実験以外にも主観的な意志決定の瞬間が、自分であの時だと思うよりも先に脳内では決定されていることの好例としてグレイ・ウォルターの実験について言及している。そしてこの実験自体をリベットの実験と対比して語っている。引用してみよう。（つづく）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　付記　暫くこの論文の中間部の未記述部分作成のために当ブログは休暇を取らせて頂きます。また後日お会い致しましょう。（河口ミカル）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-3423347779135461520?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/3423347779135461520/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/12/blog-post_03.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/3423347779135461520'/><link rel='self' type='application/atom+xml' 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type='html'>　私たち人類が進化して他の動物にはない高度の思考能力を携えるようになったという事実は、我々自身にとっては自明のことのように思えるが、実は極めてそのこと自体を冷静に考えると奇蹟的なことでもある。しかし自然科学が奇蹟ということを認めないことがまず前提条件であるとしたら、例えばノヴァーリスという詩人が近代にいたが、彼のことをディルタイが「体験と創作」において「ノヴァーリスにとっても、一切は奇蹟である。あるいは別な言い方をすれば、われわれの情感とわれわれの人格との最高の機能たる真の信念は、神を告知する唯一の真の奇蹟である。似かよった言い方をすれば、奇蹟の中の最高の奇蹟は、自由決定の行為としての有徳の行動である。いかなる死も贖罪の死である。つまりキリスト教の歴史的要素は偏在である。」（「体験と創作」（下）小牧健夫、柴田治三郎訳、岩波文庫、６０ページより）と語った部分の主張は重要な意味を生じる。&lt;br /&gt;　確かに自然科学は端的に言えば、奇蹟の否定から始まる。というのもそもそも自然科学は全ての事象を因果系列で判断することで、ある事象を発生させることに纏わる解釈を必然の名の下に、理解しようという意志のものであるからだ。しかし逆を言えばその事実とは、そのように自然科学自体を純化させてきた人類が、一方ではそのように冷静に判断することが出来ない数々の出会いと、その出会いに翻弄された事実を多く持ったということを物語ってもいるのである。本来奇蹟というものの考え方には、その事象に関して何の関心もない者にとっては意味を持たないことでも、その事象に関心のある者にとっては肯定的にも否定的（この場合青天の霹靂ということになるのだが）にも重大な意味を生じるものである。&lt;br /&gt;　例えば人間社会にとって奇蹟である事態とは端的に言えば動物にとっては然程の意味がない場合も多い。（こうやって文を読まれる読者の姿を見る愛犬や愛猫たちにとってあなたの行為は全く意味のある行為ではない。）あるいはある者の死はその家族や友人にとっては重大な意味があったとしても、他人から見たら大した意味はないだろう。要するに奇蹟というものとは、その事象が発生することそのものが、ある者にとって自然全体に対して、自然との関わり合いにおいて、その事象を生んだ状況の全てが何らかのグッドタイミングのものであり、そのタイミング自体がセレンディップな出会い以外の何物でもないと感じられるということそのものなのだ。バッドタイミングな場合には我々はそれを古代人のように今でも天の呪いと感じるかも知れない。&lt;br /&gt;　だからある出会いが偉大な意味を人類全体にとって生じさせるものであるのなら、それは確かに人類にとっては奇蹟と呼んでいいだろう。そして我々が今こうして生きて、他者の意見に耳を澄ますことが出来るように他者の意見を文章という形で知ることが出来ることそのものが奇蹟であると言ってよい。&lt;br /&gt;　例えば私という人間のことを知らない大勢の読者が、今私がこのように書いているこの文章を目にすることが出来るという事実そのものは、人間がその事実を奇蹟と呼ぼうが、ただ単なる当たり前の日常であると捉えようが、人間固有のもの以外の事実ではなさそうだ、とは言える。&lt;br /&gt;　というのもそもそも人間にとってのコミュニケーションというものは動物と全く異なった様相のものであると言えることの第一は、意思表示とか意思疎通というものを全く実際には会うことのない人々とも可能であるということ以外の事実にはない。&lt;br /&gt;　動物でもゾウが危機的状況を遠くにいる仲間に超音波を使って知らせるという事実は確認されている。しかし彼等の意思疎通はそういう危機的状況の時に限られている。それに対して人間は四六時中自分の知らない仲間の考えを念頭に入れて思考し、行動する。ブログやバーチャルマネーゲームでは自分が男なのに女性を装うことすら自由である。しかしそういう意思疎通ということは例えばインターネットが当たり前になっている今日に限ったことではない。太古の昔から人間は他人の書いたものを読んできた。そしてその際人類は自分の知らない人、一度も逢ったことのない人が大半であった。例えば流行作家がいて、その人の講演会があって、その人に質問をして話しを交わすという事態は、実は今日的でもあるが、そういう事態が仮に太古にあったとしても尚、ある「書かれたもの」が自分の知らない人、つまり知人ではない人であることが通常である人類のコミュニケーションの採り方からすれば、寧ろ例外的な事態であったであろう。それは幸運以外の何物でもないということなのだ。&lt;br /&gt;　実はこの当たり前の事実、書物に書かれた言葉から我々が意味を受け取るという行為を当たり前にしている日常そのものが最も人類にとって特異な現象なのだ。そしてそのことを成り立たせる前哨戦としてまず我々には次の認識が必要である。&lt;br /&gt;「我々は我々が個人的に知ることが出来る成員以外の多くの成員の考えを知ることが出来る。そしてそのことに意味があるということを知る。」（この認識をＤとしよう。）&lt;br /&gt;　しかしこの認識には更にそれ以前に次の認識が必要である。&lt;br /&gt;「我々はどのような成員でも個人的な知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」（この認識をCとしよう。）&lt;br /&gt;　しかしこの認識も更にそれ以前に次の認識が必要である。&lt;br /&gt;「私はどのような成員でも個人的知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」（この認識をＢとしよう。）&lt;br /&gt;　しかし賢明なる読者諸氏は次のように反論なさるであろう。「私は」という意識を得るためにはまず他者が必要である、だから他者と意思疎通する機会に恵まれない者には「私は」という意識は持てないし、また私以外の成員を意識しようがないだろう、と。それでは次のように最後の認識を言い換えてみよう。&lt;br /&gt;「＜私＞は＜私＞以外の＜私＞のような生き物がどこかにはいる筈だと思う。」（この認識をＡとしよう。）&lt;br /&gt;　このような思惟が成立するのは生まれて間もない赤ん坊が自分以外の例えば母親の姿が確認出来ない時に持つことがあり得る、そういう認識である。敢えて私が＜＞で私を括ったのは、私とあなたという明確な意識のない状態での、ある種の身体的実存を引き受ける生活者としての人間が初歩的な認識として、肉体的な情動あるいは情感を持って他者を希求するという状態を示してみたかったからである。&lt;br /&gt;　人間には脳内にミラーニューロンと呼ばれる部位が存在し、その部位は人間が他人の行動に対して、あるいは他種の生物に関しても歩いていたり、ものを食べていたりする場面を目撃する時に、反応する仕組みになっているということは現代脳科学では解明されているし、また親愛の情を示す時脳内にプロラクチンという物質が放出されることも解明されている。例えばその最も顕著な例とは、母親が自分の子供に対して愛情を注ぐ時に、放出されると言われる。それは生物としての人間がそのような状況で無意識の内に判断しているという事実から我々がやがて一般化し得る自然科学的事実である。&lt;br /&gt;　私は恐らく人間以外のどの動物も、決して「自分たち以外の自分たちと同様の生き物が自分の知らないところでも生活している。」という認識を明確には持てないのではないか、と考えている。勿論イルカはイルカ固有の生活環境で生活し、他個体と接触するわけだから、ある個体が自分の知らない個体と相対した時には「知らない」と認識するだろう。しかしそれはあくまでその個体が自分の前に出現したから得た認識である。その個体が登場する以前に、そのような出会いがあるかも知れないとまでは恐らく彼等は認識出来るだろう。しかしではそのような事態を総括して、「つまりだから自分の預かり知らぬ場所にも自分同様の生物（つまり仲間）がいるのだ。」と明確に認識出来るか、と言うとそこまで認識することはかなり困難なのではないかと私は思っている。&lt;br /&gt;　人間に話しを戻そう。例えば私が考えた認識モデルのBは、私が想定した読者からの批判を真摯に受け止めて、認識Cを得た後に当たり前の事実として受け止めることの出来る認識であるという可能性は多いにある。例えば幼児が母親と一緒に歩いている時、それまで食べていたチョコレートを包んだ銀紙を幼児が捨てようとした時、母親が&lt;br /&gt;「いけませんよ。こんなところにものを捨てては。ちゃんと拾いなさい。」　&lt;br /&gt;　と多少威嚇的な表情で子供を教え諭すという行為が、じきに子供の心の内部で、&lt;br /&gt;「自分や自分と親しい人以外の人＜その人とは抽象的な人であるから、当然自分にとっては知らない人、要するに他人である。勿論そんなことまでは彼等は考えないが。＞が生活しているのだ。」&lt;br /&gt;　という認識が育っていく。そしてその認識が生じた時、公衆道徳という観念とほぼ同時的に子供は悟るのだ。&lt;br /&gt;「生きているのは自分たちだけではない。」&lt;br /&gt;　ということを。つまりこの時点で彼等は自己及び自己にとってかけがえのない他者（家族と家族にとって大切な親族や知人）、つまり見知らぬ人たちの存在を知る。&lt;br /&gt;　勿論両親は兄弟姉妹との関係から人間は「私」という観念を得ることは出来る。しかしその際には未だ「然程親しくはない人」というものは含まれてはいない。つまり親しい間柄以外にこの社会で生活する全ての人たちの存在をも考慮に入れた人間関係という観念の中で知る「私」という自覚こそ、真に責任ある社会成員としての自覚を伴った「私」という観念の獲得と言ってもよいのだ。そしてこの認識は認識Cの後にすぐさま認識Dを得るという認識の成長を必然のものとなすのである。&lt;br /&gt;　ここで本論の主旨を説明しよう。つまり人間が言語を進化させてきた背景には、寧ろ言語を必要とした事実があることはずっと考えられてきたのだが、その多くの論証において一番不足していた領域とは、端的に言えば責任倫理という脳内では確認されることの未だにない共同幻想に他ならない。責任倫理のない地点では決して言語的進化というものは成立し得ない。だから逆に言えば公衆道徳を守らない若者や中年、老人がいたとすれば、それは彼等が公衆道徳から発生した言語を使用しながら、その事実に対して目を見開かせないような何らかの事態が発生し、サルトル流に言えば、要するに無知を決込んでいるということ以外の何物でもない。&lt;br /&gt;　ここで少しくだけた話題から考えてみよう。&lt;br /&gt;　先日某国営放送局において先月亡くなった（２００７年６月１９日現在）シンガーソングライターであるZARDの坂井泉水氏の追悼ドキュメントが放送された。その番組に漫画家の倉田由美子氏が出演し、「彼女の音楽は＜彼女が殆どテレビに出演しなかったためにその私人としての実像がミステリアスであるために＞聴くファンが自由にその実像を付け加える、つまり自分にとっての坂井泉水、ZARD像を想像することが出来る。」というようなことを述べられていた。&lt;br /&gt;　昨今お笑いタレントを初め、流行作家たちが挙ってテレビのヴァラエティー番組に出演し、作品世界とは無縁の私人としてのパーソナリティーを披露する。芸能人の私生活に興味のある視聴者向けの内容なのだろう。しかしその際に生じるのは、あまりにもテレビで地名度のある文化人にせよ、芸能人にせよ、その本業以外での活動でのイメージが付帯してしまい、その人が書いた本を読む時にも、その人の本業の仕事を見る時にも、その本や芸の内容以上にその著者のパーソナリティーの方が前面に出てしまい、そのように付帯したイメージで作品世界の意味内容を解釈するようになる。だがこのような事態は純粋に本や芸の内容を解釈する際の難点となる。&lt;br /&gt;　例えば私たちが古典的作品に接する時、我々はテレビに出演する文化人や有名人に対するような意味では、その著者のイメージというものは知らない。勿論その著者を研究している人は別であるが、それでもテレビのない時代の著者に関してはいつまでも人格的なパーソナリティーは謎のままだ。しかしこの事実は実はその著書の意味内容、意味作用の両面から言えば、健全な事態である。余計な先入見が入り込む隙がないからである。&lt;br /&gt;　本来作品というものは、その作者の個人的な性格とか人間性とは無縁の世界である筈である。つまり作品によって示された内容やニュアンスが全てであり、その作品がどのような個人のどのような私生活から生み出されたかという事実は、その作品世界の意味に比べれば、然程重要ではない。&lt;br /&gt;　つまり意味の連鎖とか、生物学者として最も影響力を持つ一人リチャード・ドーキンス流に言って、ミーム的な価値から言えば余分なことである。しかし映画を観に行く時、我々は贔屓の役者が出演するという事実が見るべき映画選択のキーワードとなっている。しかしそのことはその映画自体の価値と関わりはない。そしてこの贔屓感情というものは端的に言えばそのパーソナリティーに対する共感作用によるものである。共感という感情は心理学者のサイモン・バロン・コーエンによると、女性の方がより優れているという。それは平均的な統計的事実である。それに対して男性はシステム化能力に秀でているという。これは要するに全体的な秩序をもって理解する能力、事象の全てを解釈する能力である。&lt;br /&gt;　この事実を踏まえて考えると、責任とは明らかに左脳的判断であり、要するにシステム化能力と関係がある。それに対して、共感という感情は明らかに良心と関係があり、友愛的な感情を起点とする。右脳的判断であると言えよう。そして記憶作用において我々は暗示にもかかりやすく（心理学者のダニエル・シャクターの「なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか」＜原題はSeven Sins Of Memory２００１年＞日経ビジネス人文庫刊に記憶の書き換え、暗示等のことは詳しい。この著者は記憶を「物忘れ」「不注意」「妨害」「混乱」「暗示」「書き換え」「つきまとい」の七つのエラーから捉えている。この本に書かれた内容に関しても本論では大きく取り上げる積もりである。）要は、我々はそういう脳記憶の作用において、先入見を持って全ての判断をしがちである。すると多くのテレビのヴァラエティー番組でレギュラーになっている人は、その人の本業の仕事に対する評価を多く映像的に視聴者に受け取られたイメージによって解釈されがちであるということになる。しかしこの事実はその人の仕事に対する評価としては決して公平な見方ではないだろう。人間的な私人としてのイメージに対する贔屓感情からのみ理解されるという事実は、実は俳優にせよ、歌手にせよ、他の芸能人にせよ、学者や芸術家同様その仕事（作品とか論文）によって解釈されるべきであるという観点に立てば、例えばお笑い芸人であれば、そのコントとか漫才とか落語とかの専門分野の力量に対する評価という面から言えば損な事実である。しかしその二つの境界そのものがあやふやになっているという事態もまた極めて現代的なことである。&lt;br /&gt;　責任は良心と常に共存して進化（つまり共進化）してきたと私は考え、以前別の論文「責任論」（本ブログにおいて掲載）でも取り上げた。そしてこの責任と良心の脳内での判断こそが言語を進化に導いてきたと私は考えるのだ。今挙げた＜くだけた内容の事実＞とは実は、要するに私人としての性格に対する評価が仕事の純粋な力量に対する評価以上に重要となっているというマスコミ誘導型の価値判断というものが、現代を支配しているとすれば由々しき事態であるという判断が、責任によって言語活動そのものを、あるいは言語の体系そのものを進化させることに貢献してきたと考える私の本論における主張と相同のメカニズムを持っていると言える。例えばカントという人間がどういう存在だったかということは、少なくとも彼の哲学の内容を理解した後においてのみある程度の意味を持ち、その哲学テクストを読んだこともない者にとっては害悪となるだけである、と言いたいのである。&lt;br /&gt;　そしてそれは言語自体の存在理由にも当て嵌まる。つまりある内容の文章とは、その書かれた内容に関する判断からのみ評価するべきであるし、その記述者の性格とか人間性は、そのテクスト内容から逆流して考えられるのでなければ公平ではないということなのだ。その意味では古典というものはおしなべて我々による公平な内容解釈に基づいていると言える。（少なくとも贔屓の役者が出ている映画を見ようという動機に纏わる不公平感はない。いい映画と売れる映画の違いもここにある。例えば北野武監督の映画はテレビで知る我々のビートたけし像をどれくらい監督である彼が裏切ってくれるかという期待感によって我々は満たされていると言ってもよいだろう。）&lt;br /&gt;　そして責任という考え方は今挙げた例から言えば、明らかに公平な判断というものを欲しているのだ。それは端的に言えば親しい者とそうではない者との間に差別をつけないという倫理に支えられ、寧ろ親しくはない者に対してより配慮するという考えが基本にある。そしてそのことと、自分にとっては親しくはない人の書く文章を読むという行為には認識Dに近い心理があるのである。だから私はまず基本的に言語活動というものは、親しくはない者同士を結び付ける作用が出発点であったしたら、知らない者、地球上の裏側にも自分のような人は生活し、自分よりも偉大な素晴らしい人がこの世にはいると知りながら、そういった人の全てと知り合うことは不可能であるというもう一つの認識を持つこととは「世界」というものを想定することが出来る能力、あるいは言語的な意思疎通のおける責任倫理的な遣り取り（思い遣りもまた責任理理的遣り取りである。）と共に発達したと考える。&lt;br /&gt;　つまり言語、とりわけエクリチュールに依拠した言語的思考というものは、地球の裏側という認識を持てなかった時代においても世界という認識によって育まれてきたと捉えることが出来、言語の進化を「自分の知らない世界市民の存在」に対する意識が促進してきたのだ、という本論の支柱となる理念を今私に宣言させずにはおかないのである。そして世界認識とは、私にとって大事なことと、私の知らない者にとって大事なこととを等価な価値として認識すること、即ち責任という考えを起点とするということである。そしてこの自己に対する認識をB以降の全ての認識をもって明確化するという事態こそ、私が考える言語の進化の謎を解くものである、ということなのである。&lt;br /&gt;　序なりに本論の内容を先に結論的に言っておくと、言語の進化は責任倫理と良心の発動が極めて重要な役割、いや寧ろそれこそが言語獲得以後の全ての言語進化史に関わってきたであろう、ということなのだ。しかしそのことをもっとたやすく言うと、人間もまた本来はただの動物である。他の動物と同様本能がある。しかし人間は言語を持ったがために他の動物とどうしても同じ穴の狢であると自分のことを考えたくはない。そこで社会倫理として責任という観念を自己の肝に銘じたのだ、とも言える。&lt;br /&gt;　本論では第一章を現象学という哲学の一分野の流れを一人のフランス哲学者ミシェル・アンリによるテクストの現代的な意義について考えながら、テクストを創造する人間の行為から言語というものの果たす役割を考えた。そして結論として第九章では人間の愛と性に対して、その営み自体を言語行為、言語活動であると捉える視点から考えてみた。そして現代の日本が抱える性意識を日常からジェンダー的な意識と絡めて考えてみたので、あまり観念的な論述が苦手という向きの読者はそこだけを集中して読んで頂いても一向に構わない。その二つの間に介在する諸問題をその間の章で書いてみた。どの章から読んでもよいようには一応心掛けたが、通して何らかの主張が読み取られるようにも心掛けた。後はどのような順序で読み進められるかは読者諸氏次第である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-1971582860992652512?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/1971582860992652512/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/12/blog-post.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' 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type='html'>　生物学者のリチャード・ドーキンスは遺伝子の作用によって（彼によれば利他的な判断を得策とする遺伝子の利己性となるが）人間が構築した文字や文化をミームと総称しているが、儒家思想（それは秦代から前漢代に道教その他に圧迫された。）やユダヤ教（ギリシャ時代にはアイデンティティーを失いかけた。）・キリスト教も、あるいは自由主義経済や自由思想もミームを通して同世代から後代へと遺伝子が人間をヴィークルとして利用して伝播させてゆく意志を持ち、殆どそのことに対して本能的に対応する、と考えているのだが、それは明らかに私たちの中に無意識に宿っている責任に誘発されることが多く、言語行為もまたその無意識の責任から誘発されている、とも捉えられるのだ。&lt;br /&gt;　この責任を行動や認識の誘発剤として捉える考え方は未だ端緒についたばかりであるが、一体このような誘発剤を動物が兼ね備えているかどうかが問題である。人間のように反省と後悔による明確な意識としてではなくても、何らかのそれに近い行動は随所で確認出来る。例の有名なミツバチのダンス（カール・フォン・フリッシュによる報告）は太陽と蜜の場所と現在位置との関係に応じてその角度にほぼ正確に尻を振りダンスをする彼らは、その尻の向きで明らかに密の場所を仲間に知らせている。しかし彼らの行動は既に遺伝子に本能的に書き込まれており、それを責任として、つまり誘発剤として認識しているかと言えば疑問であろう。意識内に意志として自覚される明示性はないと思われる。&lt;br /&gt;　しかしゾウ（歩行の覚束ない子供を助け起き上がらせる。）もアザラシにも見られる親の子に対する教育的配慮といった社会行動は責任のある行動であると言える。しかしその責任を責任として認識出来るかというと集団内の懲罰的な学習性から引き起こされる行動にしか過ぎないとも言える。　&lt;br /&gt;　本来責任というものはその在り方が複雑である。ミームを駆使する説明責任（アカウンタビリティー）、連帯責任（これなら高等哺乳類にはあるかも知れない。専門家の御意見をお伺いしたい。）、責任転嫁（これも動物にはあるかも知れない。）といった諸相によって分析可能であるからだ。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　我々の脳では扁桃体でノルアドレナリン（カテコールアミンの一種）が放出されると記憶の固定化に役立つことが知られている。そしてそれが尾状核へと投射されると記憶として固定化されるわけだ。マッガウの謂いに従えば「扁桃体におけるノルアドレナリンの記憶増強効果は、単に扁桃体への直接の影響によるものではなく、記憶の固定化に関与している他の脳部位に影響することによって生じている」らしいが、分条界と呼ばれる扁桃体と尾状核（反応学習を記憶させる）を繋ぐ経路があり、それが損傷されると反応学習に支障をきたすのだとすると、例えば上司に訓戒を受けてその言い方に棘を感じた部下がそのことに関していつまでも根に持つとしたら、その社員は職務への情熱よりも、人間関係の安定を望む心理が強いということになり、逆にそのような長期記憶へとそういった事柄を収納しないような性格の人間は職務に関する情熱の方が社員の言動よりも勝っているのであり、そういう場合ひょっとしたら、上司の厳しい言い方に対して反応する情動を抑える、要するに分条界において扁桃体から尾状核へと記憶を固定化させる作用をブロックさせる何らかの内分泌作用がなされるのかも知れない。あるいは扁桃体においてノルアドレナリンを放出させることによってなされる作用そのものをブロックするような作用が起きるのかも知れない。　&lt;br /&gt;　確かに人間は悔しいことも長期記憶に残ることがある。しかし少なくともビジネス上では上司からの訓戒は、短期記憶にとどめおくくらいの意識も必要であろう。そうする方が得策と意識的に構えている者の方に、ビジネス上では利があるだろう。また実際は厳しく言われた方も言った方も心得ているのである。その訓戒はあくまで業務上の問題点としてなされたのであって、その業務を行う人間の人間性に対してなされたのではない、ということを。&lt;br /&gt;　大屋は「法解釈の言語哲学」において、デリダをクリプキ以外では最も哲学者としては大きく取り上げている。その中でも次の記述は示唆的である。&lt;br /&gt;「デリダが「正しさ」をめぐる問題に本格的に検討を加えた作品が『法の力』（中略）である。そこでの彼の理論は導出における前提が必然的に複合的な構造物であることを帰結の不確実性の原因として指摘するものであった。例えば《「語られる言葉」パロール》と書かれた言葉」エクリチュールの関係において、本来は一回起的でありその故に現前と看做されるパロールが、しかし新たなコンテクストの下に置かれ得る「反復可能性」（iterabilite）としての原エクリチュールを内包することが、意味の不確実性の起源である。」（同書１２１ページより）とし、デリダの言葉を「（前略）何が正しいことかをめぐる導出が行われる以前に存在すると想定されるすべての正しさの根拠、すなわち「正義」は、基礎付けをめぐる議論を超越した場所にあるとされる。このことは第一に、「法/権利を基礎付け、創始し、正義にかなうことになるようにすることになる作用、つまり掟をつくる/場を支配する（中略）ことになる作用を成り立たせるのは、実力行使、つまり行為遂行的でありそれゆえ解釈をする暴力であろう」（デリダの引用＜著者注加入＞）としてその暴力性＝無根拠性が主張される一方で、それが正誤に関する判断が可能となる以前に存在し、それらの判断が可能となる条件を与えるものであるために（条件概念が重要であるとウリクトも｢説明と理解｣で主張している。＜著者注加入＞）、それ自体は基礎をもたない暴力である。これは、それら自体は判断の対象とならないということを意味している。「権威の起源、掟を基礎付ける作用または掟の基礎になるもの、掟を定立する作用（．．．．．）自体は基礎をもたない暴力である。これは、それら自体が『非合法』または『正統でない』の意味で正義にかなっていないということを意味しない。それらは、それらが基礎付けをなす瞬間には、合法的でも非合法的でもない。それらは、基礎付けられたものと基礎付けされなかったものとの対立や、基礎付け主義かそれとも反基礎付け主義かの対立を超えている」（デリダの引用＜著者注加入＞）（同書１２１～１２２ページより）&lt;br /&gt;　つまりここで大屋が示したかったのは、デリダが言う幾分バタイユ的な暴力という攻撃欲求をシステム構築（言語体系、住居群、法体系、階級性、ネット社会）へと、人間がただ単なるホモ・サピエンスから存在者として自己認識出来る地位を獲得するために、営為努力しているということである。勿論この転化は目的意図的に行われるのではない。我々は全ての行為を気が付いた時には、そのように認識し得るのみである。そして前半部の大屋のデリダ引用文章中の反復可能性こそ、アンセルメとマジストレッティーの言う「快感原則は慣性原則であるだけでなく、反復原則である。」（「脳と無意識ニューロンと可塑性」１３９ページより）ことを示している。デリダが言う本来一回性であるパロールが常套化されるような惰性判断が、ホメオスタシスに依拠しながらも、我々の言語行為において何らかの節目を付けながら、他者に説明責任を果たすべく同一の言い方、同一の意味内容、同一の意味作用をそれを聞き取る者がコラムあるいはクラスターとして選択して、その他者の脳内に同一のニューロンの発火パターンを生じさせ、他者の長期記憶に収納させるべく意志することが説明者の責任であるということを示している。&lt;br /&gt;　法も正義も責任が作る。責任が理性の助けを借りて秩序付けるのだ。理性とは責任と良心の共存と対立の全てを一括して俯瞰する認識である。&lt;br /&gt;　しかし責任とは責任を負える範囲の指定でもある故、それは長期的なことであれ、確実に想定し得る未来に関してのことである。例えば長期に渡ってローンを組むことがあっても、その間には何があるか分からない。だからこそまた保険の存在理由も発生するわけだが、もっと百年後、二百年後というスパンになると想像することも無意味という観念を人間は抱くものだ。自分の死後のことまで想定出来るか、というわけである。だがマックス・ヴェーバーは政治家ならそれくらいのスパンでものを考える必要があると考えていた。だから生の意味を長期的な展望に立って考えていたということになる。「（前略）無差別的な愛の倫理を貫いていけば「悪しき者にも力もて抵抗うな」となるが、政治家にはこれと逆に、悪しき者には力もて抵抗え、しからずんば汝は悪の責めを負うにいたらん、という命題が妥当する」（「職業としての政治」より）わけだし、「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と横暴性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。そして善から善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。」（同書より）し、「およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。」のだ。悪は幾分現世主義的であり、実際的であり、未来に対して何の展望もない。しかし実際ヴェーバー自身も百年スパンの展望を抱いてこのような言辞を吐いたのだろうが、それ以上未来のことを考えることには臆しただろう。つまり人間にはつい目先のことだけ処理出来れば、それ以上先のことを考えるのは不安だし（第一自分は死んでいるかも知れない。）、そこでどうせ人生一回なら今楽しまなくてどうする、という観念に囚われがちなものだ。だから目標設定とか願望といったものをそれほど大それたことではなく、もっと地道で地に肢を付けたものをという発想になる。そういう意味では責任感といったものさえ、長期的な未来展望であるよりは、目先のことに関して目標を定めるという意味合いでなされていることの方が多いだろう。つまり責任は死に対する生の意義において認識されるが、同時に自らの死に対する恐怖を和らげ、長期的未来への意志を猶予させる効用もあるのだ。今生きていて、自分の周囲にいる人たちを中心にしかものを考えることが出来ない人間の必然的な内的理解であるも言える。つまりこういうことである。「私も一個の小さな人間でしかありません。だから私の出来ることには限界があります。そしてその範囲内でなら何とか一生懸命やらせて頂きます。」という表明こそ責任の明示なのである。&lt;br /&gt;　例えば我々は＜いつかは人間も絶滅する＞と考えるし、＜地球もいつかは滅ぶ＞だろう。＜太陽でさえ永遠ではない＞だろう。しかしそんな先のことを考えると暗くなる。だいたいでは我々が生きて来ているのに何の意味があるのか、と考えてしまう。だから自分の想定し得る範囲に自分の存在を位置付けようとする。その時自分の使命とか責任とかは、極めて実際的であり、自分の極小さを忘れさせてくれるのに本当に都合がいいのだ。&lt;br /&gt;　ところで、カントは神を否定したわけではない。しかし彼の考えはともかく、そのテクスト内容の意味作用から言えば、神による恩寵という事態はそれほど大したことではなかった。彼にあってはもっと大切であると思われるものが確かにあったのだ。例えば「人倫の形而上学の基礎付け」において彼はこう言っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「できるだけ他人に親切を尽くすことは義務である。そしてさらに、世の中には同情心に富んだ人が多くいて、そういう人々は虚栄心や利己心などという他の動機なしに、喜びを周囲の人々に行き渡らせることに内的な楽しみを感じ、自分のせいで他人が満足をすることをこの上なく喜ぶことができる。けれども、私は言う。この場合そのような行為はいかに義務に合致した愛すべき行為であるが、しかし真の道徳的価値をもたず、他のさまざまな傾向と同類である、と。例えば名誉を求める傾向が、実際に公衆のためになり義務にしかない、したがって名誉に値するようなことがらと、うまく一致する場合、称賛と励ましを受ける値打ちはあるが、尊重を受ける値打ちはないのと同様である。というのは、こういう格率については、傾向に基づいてではなく義務にもとづいてそういう行為を行うという、道徳的内容が欠けているからである。そこで仮に上の博愛家の心が、彼自身の心によって曇らされ、その悲しみは他人の運命に対するあらゆる同情を消してしまったとしよう。彼は、彼の困っている人々に対して親切を尽くす能力は依然としてもっているが、自分自身の困窮で心が一杯であるため他人の困窮は彼の心を動かさないとしよう。このように、もはやいかなる心の傾向もただ義務のみにもとづいて親切な行為をするとした場合、その行為ははじめて真実な道徳的な価値をもつのである。さらにまた、ある人が生まれつき同情心乏しく〔ほかの点では立派な人でありながら〕気質の上では他人の苦しみに対して冷たくで無関心であるとしよう。そしてその理由は、その人が自分自身の苦しみをも辛抱強くもちこたえる生まれつき特にめぐまれていて、そのためそういう生まれつきが他のすべての人にも具わっていると思いこみ、さらにそれを当然のこととして他人にも要求するからであるとしよう。このような人を〔これは自然の生んだ最悪の産物ではけっしてない〕、自然は特に博愛家に育てあげなかったとしても、そういう人は、やさしい気質の人のもつ価値よりもはるかに高い価値をみずからに与える可能性、やはりみずからの内に見出さないであろうか。確かにそういう可能性はある。そういう人が傾向にもとづかず義務のもとづいて他人に親切を尽くすという場合、まさにそこに、性格の価値というものが、はじめて生ずるのであり、これこそ道徳的価値であり、すべてを超える最高の価値なのである。&lt;br /&gt;　みずから幸福を確保することは〔少なくとも間接的には〕義務である。というのは多くの心配につきまとわれ、満たされる数々の欲求に囲まれて、みずからの境遇に満足を欠いていることは、義務の違反への大きな誘惑になりやすいからである。しかしこの場合、義務のことなど顧みずとも、あらゆる人間はもともとすでに、幸福を求める極めて強くかつ内に根ざした傾向をもっているのである。なぜなら、まさにこの幸福の理念がすべての傾向を一つの全体にしめるものなのであり、しかもそのようにしても人間は、幸福と呼ばれるところの、あらゆる傾向の満足に総体について、はっきり確かな概念をつくりあげることができないのである。それゆえ、ただ一つの傾向でもその約束する満足が何であり満足が得られるときはいつであるかはっきりしていることがあるのは、怪しむに足りない。たとえば、通風で足の動かない人が、自分の食べたいものを食べ、せめて今できるだけ楽しもう、とするのは怪しむに足りない。なぜなら、この場合彼は、すべてを考慮した末、健康のうちにありと言われる幸福への、おそらく彼にはもう満たされぬであろう期待によって、少なくとも現在の瞬間の享楽を失うことがないようにした、のだからである。しかしながら、このように幸福を求める一般的な傾向が、彼の意志を決定せず、健康というものが少なくとも彼の考慮にはそれほど必然的に属さない場合すらも、やはり他のすべての場合におけると同様に、みずからの幸福を増すことにつとめるべきであり、しかも傾向にもとづいてではなく義務にもとづいてつとめるべきであるという法則は、依然として残っている。そして彼がこの法則に従う場合に、彼の行為は、はじめて道徳的価値をもつのである。&lt;br /&gt;　われわれの隣人を、いな敵をさえも、愛せよ、と命ずる聖書のことばもまた、明らかに同様な意味で理解すべきである。というのは、傾向としての愛は命令されることはできないからである。義務そのものから他人に親切をくつすことは、実践的愛であって、感情的愛でなく、意志のうちなる愛であって感覚の性癖のうちなる愛でなく、行為の原理のうちにある愛であって、われを忘れた同情のうちにある愛ではない。こういう実践的な愛のみが命令されうるのである。」（「人倫の形而上学の基礎付け」２４８～２５１ページより）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　カントの主張は、この箇所の発言からだけで判断するなら、彼自身は理神論者と言っているが、そうではないのではないか、という憶測さえ成り立つ。&lt;br /&gt;　例えば人間の性格とは善良であれ、懐疑的であれ、悪辣であれ神から与えられたものである、としよう。するとその恩寵如何ではなく、そういう性格的傾向性があるにもかかわらず、自分の意志で、つまり意識的な努力でそれではいけない、と悪を出来る限り抑制した善行をすることの方に、神から予め与えられた「よい性格」の人間のごく自然な善行よりも価値があるとするのなら、それは神はあってなきに等しいものである、という考えとなる。（そこまで神が介入出来ないのなら）一方いささか仏教的でもあるが、善行をして努力した人間は予め「よい性格」を与えられた者であれ、「悪い性格」を与えられた者であれ、いずれにせよよい来世が待ち構えている、として尚且つその善行に対する評定者が神であるとするなら、神とは極めて人間臭い存在となる。それでは理神論ではなくなる。しかしこうも考えられる。カントは神がいてもいなくても、自分の心の満足こそが一番大事なのだ、ということを言いたかったのだ、と。その点ではカントは孔子や仏陀にも相通じる主張をしていることになる。（カント自身は有神論者だが神からの自立を確かに主張した。）&lt;br /&gt;　カントの主張は目には見えないことの意味である。それはヴェーバーが実際的である社会における目で見えることの実践を語っていることと、対極に位置するかのように思われる。しかし政治上での社会の運営ということには、目に見えることを変えてゆくことを通して、目では見えないことを充実させてゆこうという考えがあるように私には思えるのだ。　&lt;br /&gt;　目のない状態という進化もあったかも知れない。しかし我々は電話を通してでも、意味内容を伝え合える。一方パソコンも本も新聞も目で追う。この異なったクオリア感知能力の所有こそ人間が多層的な視野を獲得したことの根拠であろう。しかしもし目が見えなかったら、見えなかったなりに、あるいは耳が聞こえなかったら、聞こえなかったなりに我々はまた別種の感知能力を付与されていたかも知れない。ただ一旦獲得した能力を喪失した状態を考えることがし難いというだけのことである。責任は能力に付帯して負わされる。人間には目が見えて耳が聞こえるという前提で、責任は負わされる。要するに責任とは能力の行使の十分さに対する評定である。だからカントが善意志を持ち、道徳的価値に則って行動することは我々に付与された意志的な能力であり、能力の行使は私たちに与えられた権利であるという考えが基本にある。彼にとって義務こそが最大の権利だったのだ。&lt;br /&gt;　ベンヤミンが「無媒介では権力を所有していない。」と言ったことを振り返ってみよう。我々は攻撃的欲求とか破壊意志というものを持っている。そしてそれは創造のエネルギーを形成するのにも多大に貢献している。しかし破壊的な意志は、実は恒常的な維持によって支えられている。慣性法則に随順した身体的な反応は、恒常的な破壊欲求を安定した状態へと導く。破壊したものを破壊したままにしたくはない、と私たちは思うのだ。&lt;br /&gt;　だから媒介を通して顕現された権力的意図とか欲求を、緩和させるものとして良心は常に攻撃的欲求の発露においてさえ常備されている。それもまた一つの能力である。&lt;br /&gt;　周囲の誰もが自分の存在を認可してくれなくても尚、世界中のどこかには自分を認可してくれる人間がいる筈だ、という思いが孔子に対して弟子たちに積年の自己理想挫折に対してその怨念を誰かに継承させることを暗に示さしめたのだし、今日も沢山、自己理想実現に程遠い人々がパソコンの前で佇み世界に何かを発信しようとしている。（デイトレーダーもそういう人々である。）つまり見知らぬ人間による恩恵と感謝が古代から現代に至るまで責任倫理の根底にある。つまりその見知らぬ者に対する配慮（あるいは時には要求）こそが、無媒介では他者に権力を誇示しはしないという最低限のルールを人間が人間に与えてきたのである。攻撃は媒介を通して緩和されているのだ。それこそ人間の無意識の内での良心と責任を一致させる試みである。媒介を通した伝達という意味では電話こそそうだし、自宅の内部と外部隔てる壁であれ、とどのつまり人間同士の衝突を回避させるために人間が進化させた方策だったのだ。ミームとは抑制的作用顕現のための道具でもあるのだ。&lt;br /&gt;　しかしそれ以上に重要なこととは、未来の不確実性にもかかわらず、人間は誰しも、それがいつかは分からないが、人間という種も絶滅し、いつかは地球も滅び、いつかは太陽さえなくなるのだ、ということに確信を持っている。クリプキの哲学の様相論理性、可能世界意味論とは、「八十歳でカントは亡くなるが、もしあと数年生きていたなら」という仮定法はどのような人生にも与え得るし、どのような事態でもそこで収束するのなら、もっと先までその事態が長引いたならという仮定法を設置することが可能であるが、そういう仮定法を許すということは、裏返せばそうはならなかったという諦念があるからである、ならば限りある個々の生において、責任を果たすことに献身せよ、という主張にさえ私には響く。つまりその与えられた能力をフルに活かして生を意義あるものにしよう、という考えを抱くのだ。その時自分に課せられた責任とは一体何なのか、ということは恐らく言語獲得期の人類も思い巡らせていたであろうし、そのことを追慕しながら自分でもそのことについて思い巡らせることにはきっと意味がある。（了）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参考文献&lt;br /&gt;（括弧内の数字は最初が原テクストの出版年、後は日本語訳出版年を指す。）&lt;br /&gt;「養生訓」（１７１３－１９６１）貝原益軒著、岩波文庫&lt;br /&gt;「人間不平等起源論」（１７５５－２００５）｢社会契約論｣（１７６２－２００５）ジャン・ジャック・ルソー著、小林善彦、井上幸治訳、中公クラシックス&lt;br /&gt;「道徳形而上学原論」（１７８５－１９６０）インマニュエル・カント著篠田英夫訳、岩波文庫&lt;br /&gt;「人倫の形而上学の基礎づけ」（１７８５－２００５）インマニュエル・カント著、中公クラシックス&lt;br /&gt;「実践理性批判」（１７８８－１９７９）インマニュエル・カント著篠田英夫訳、岩波文庫&lt;br /&gt;「精神現象学」（１８０７－１９９８）フリードリッヒ・ヘーゲル著、長谷川宏訳、作品社刊&lt;br /&gt;「善悪の彼岸」（１８８５、１８８６－１９７０）フリードリッヒ・ニーチェ著、岩波文庫&lt;br /&gt;「権力への意志」（１９０１－１９９３）フリードリッヒ・ニーチェ著、岩波書店刊&lt;br /&gt;「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」（１９２０－１９８９）マックス・ヴェーバー著、岩波文庫&lt;br /&gt;「職業としての政治」（１９１９－１９８０）マックス・ヴェーバー著、岩波文庫&lt;br /&gt;「パサージュ論」（１９８２－２００３）ワルター・ベンヤミン著、岩波書店刊&lt;br /&gt;「言語・真理・論理」（１９４６－１９５５）Ａ・Ｊ・エイヤー著、吉田夏彦訳、岩波現代叢書刊&lt;br /&gt;「日本的霊性」（１９４４－１９７２）鈴木大拙著、岩波文庫&lt;br /&gt;「心の概念」（１９４５－１９８７）ギルバート・ライル著、みすず書房刊&lt;br /&gt;「全体性と無限」（１９６１－２００６）エマニュエル・レヴィナス著、熊野純彦訳、岩波文庫&lt;br /&gt;「現出の本質」（１９６３－２００５）ミシェル・アンリ著、法政大学出版局ウニベルシタス叢書刊&lt;br /&gt;「説明と理解」（１９７１－１９８３）Ｇ・Ｖ・フォン・ウリクト著、丸木高司＋木岡伸夫訳、産業図書刊&lt;br /&gt;「わが世界観」（１９８５－２００２）エルヴィン・シュレーディンガー著、中村量空＋早川博信＋橋本契訳、ちくま学芸文庫&lt;br /&gt;「意味の限界」（１９６６－２００５）Ｐ・Ｆ・ストローソン著、永井均訳、勁草書房刊&lt;br /&gt;「裸のサル」（１９６７－１９６９）デズモンド・モリス著、河出書房新社刊&lt;br /&gt;「コウモリであるとはどういうことか」（１９７９－１９８９）トーマス・ネーゲル著、勁草書房刊&lt;br /&gt;「名指しと必然性」（１９７２－１９８５）ソール・アーロン・クリプキ著、産業図書刊&lt;br /&gt;「ウィトゲンシュタインのパラドックス」（１９８２－１９８３）ソール・アーロン・クリプキ著、産業図書刊&lt;br /&gt;「利己的遺伝子」（１９７６－１９９１）リチャード・ドーキンス著、日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳、紀伊国屋書店刊）&lt;br /&gt;「ブラインド・ウォッチメーカー」（１９８６－１９９３）リチャード・ドーキンス著、早川書房刊&lt;br /&gt;「なぜ人を殺すのか」（１９９３－１９９５）マット・カートミル著、新曜社刊&lt;br /&gt;「自然の中に隠された数学」（１９９５－１９９６）イアン・スチュアート著、草思社サイエンスマスターズ５&lt;br /&gt;「知性はいつ生まれたか」（１９９６－１９９７）ウィリアム・カルヴィン著、草思社サイエンスマスターズ８&lt;br /&gt;Having thought　John Haurgeland　HARVERD　UNIVERSITY PRESS（１９９８）&lt;br /&gt;「記憶と情動の脳科学」（２００３－２００６）ジェームズ・Ｌ・マッガウ著、大石高生・久保田競訳、講談社ブルーバックス&lt;br /&gt;「脳と無意識ニューロンと可塑性」（２００４－２００６）フランソワ・アンセルメ＋ピエール・マジストレッティー著、長野敬＋藤野邦生訳、青土社刊&lt;br /&gt;「儒教ルサンチマンの宗教」（１９８９）浅野裕一著、平凡社新書&lt;br /&gt;「乱交の生物学」（２０００－２００３）ティム・バークヘッド著、新思索社刊&lt;br /&gt;「言語の脳科学」（２００２）酒井邦嘉著、中公新書&lt;br /&gt;「意識とは何か」（２００３）茂木健一郎著、ちくま新書&lt;br /&gt;「「脳」整理法」（２００５）茂木健一郎著、ちくま新書&lt;br /&gt;「法解釈の言語哲学クリプキから根元的規約主義へ」（２００６）大屋雄祐著、勁草書房刊&lt;br /&gt;「ユダヤ人」（１９８４）マックス・Ｉ・ディモント著、藤本和子訳、朝日選書&lt;br /&gt;「イスラムとコーラン」（１９８７）牧野信也、講談社学術文庫&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;注１　functional magnetic resonance imagingの略である。核磁気共鳴を利用して、ヒト及び動物の脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化した手法の一つで、計測原理的には酸化ヘモグロビンが脱酸化ヘモグロビンに変化する時に、磁気共鳴信号が見られることから、酸化ヘモグロビンが脱酸化ヘモグロビンへと変化する時の共鳴変化を捉えていると考えられている。一般に高磁気のもの程、高い分解能を持っている。例えば２００５年１０月現在、理化学研究所の脳科学綜合センターでは４テスラの装置を使って１㎜未満の空間分解能を実現している。ｆМＲＩでは高い分解能で脳神経活動を記録出来る一方、信号の時間変化は数秒～数十秒程度であるため、高い時間分解能は得られない欠点がある。（以上全てウィキペディア２００７年４月１９日付けによる。）検索事項「核磁気共鳴画像」に関するデータはウィキペディアに詳細が配信されているので参照されたし。&lt;br /&gt;注２　ジェームズ・ジェローム・ギブソン（James Jerome Gibson、１９０４～１９７９）とは知覚専門の認知心理学とは一線を画した直接知覚説を展開したために生態心理学の領域を切り開いたとされるが、オハイオ州生まれでノースウェスタン大学を経てプリンストン大学を卒業１９２８年よりスミス・カレッジで教育、研究に携わる。ゲシュタルト心理学の創始者クルト・コフカがナチスから逃れて彼の主催するセミナーに参加していたが、彼から多大な影響を受ける。また彼を通してクルト・レヴィンと共にコフカが提唱していた誘発特性（invitation character）ないし、誘発性（valence）を起源としてアフォーダンスという概念を提唱したと告白しているが、彼の考えたアフォーダンスの概念は、１９８８年ドナルド・ノーマンというデザイン認知心理学の研究者が人間の主観性に依存するものとしてアフォーダンスを再定義したために、アフォーダンスというと微妙に異なるこの二つの考え方によって代表される。ギブソンの方は一般に客観的アフォーダンスととされる。その二つを簡単に解説すると、客観的アフォーダンスは①客観的に計測できる②人間の持つ、可能性を認知する能力から独立している。③動作主の能力に依存する。であり、一方主観的アフォーダンスとは動作主の目的や計画、確信、興味に依存する、と分類される。しかし次のような主観的アフォーダンスへに客観的アフォーダンスの側からの批判もある。&lt;br /&gt;「部屋の椅子とボールがある。もしアフォーダンスが動作主の主観にかかわらず、客観的な能力限界によってすべての動作可能性からある動作を選択させるものであるならば、この部屋に入った男は次のような行動をとるだろう。すなわち、椅子を投げ、ボールに座るのだ。なぜならどちらも客観的にその行動が可能であるからだ。ではなぜ私たちはそういった行動をとらずに、椅子に座り、ボールを投げるのか。それは過去にそういった経験、つまり、ある物体の本質とそれが示すアフォーダンスとの関連性を経験しており、それが呼び覚まされているからだ。」　&lt;br /&gt;　物体の本質と、それが示すアフォーダンスとに乖離があった場合でも、動作主はアフォーダンスに従った行動、すなわちその物体の本質と関係のない行動をとる、とされる。以上２００７年４月１８日ウィキペディアによる。つまりアフォーダンスはギブソン説を採ると不随意な身体反応であり、主に視覚的な情報によって例えば大きさとか幅とかを瞬時に測定する悟性的判断力とも言えるが、私は例えば後ろに誰かの人の気配を感じるようなこともあり得るわけだから、そういう場合、視覚情報からのものではないし、私の提示した眼のない我々という思考実験にはそういう気配を感知する皮膚感覚のようなものとしてここに取り上げた次第である。ギブソンの妻エレノア・ギブソンも心理学者である。（ウィキペディアによる）&lt;br /&gt;注３　私は欲望＝情動としたが、欲望という概念は、特に哲学者の竹田は情動と感情の差に関してはそれほど意識的ではないが、神経学者のアントニオ・ダマシオは情動を身体不随意的な作用として、そして感情をその感覚の認知的な事項として捉える。（「感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ」田中三日子訳、ダイヤモンド社刊）ダマシオはダーウィンとフロイトを融合した視点で脳神経科学を捉えている。しかし情動もただ生得的な場合もあるが、そうではなく社会的な経験を要するものも認める。例えばサルはヘビを恐れるようになるのは、母親の嫌悪と恐怖の表情に接するという経験からであり、こういった経験を持たないサルはいつまでたってもヘビに対する警戒心は生まれないことを指摘している。だが竹田の指摘する欲望という概念は情動と感情がワンセットになっており、要するに「生きる意志」や「諸々の欲求」が複合化された生の実存を示して私には新鮮に感じられる。（竹田青嗣「意味とエロス」ちくま学芸文庫）&lt;br /&gt;尚私は動物は感情を持つと本論文中で言ったが、哲学界ではこの議論は喧しくされてきた。例えばデカルトは完全に動物には感情はないとした。ほぼ同時期のフランシス・ベーコンも同じような考えであった。デカルトよりも少し前の時代のモンテーニュには動物を人間と断絶した存在ではなく、連続した存在であるという考えが見られるのだが、彼の考えはその時代には誤解されていた。しかし１７世紀後半から１８世紀になると徐々にこのような考え方に対して修正が加えられてゆく。しかしその考え方の変更は決して人間がただ単に動物に対して同情したというヒューマニズムからではなくて、動物のする行為と人間のする行為をややもすると人間が特別な位置に存在すると思う傾向性が人間自身にあるために人間の行為だけを特権的に見てきたことに対して反省をし、逆に人間の行為においても動物と何ら変わらないこともあるという発見によって、人間を動物と等価に見る自然科学的な合理主義的視点（マット・カートミルによると「あらゆることを説明する単一のシステムを探ろうとする」）を導入しただけのことである。しかし未だそこには神の視点は濃厚に立ちはだかっていた。ジョン・ウェスリーは「唯一人間と動物の真の相違」は人間は神を知り、動物にはそれがなかった、ということだとした。だが徐々に人間は動物にも人間同様の権利を認めるようになっていった。人間が本質的に動物に対する愛護の精神を身につけたのはごく最近であり、それは人間が多くの動物を絶滅に追いやってきたという事実に対する覚醒からであり、人間の行為が地球環境に多大な影響を与えてきているという認識からである。この動物に対する認識の変化を粒差に検証し、狩猟文化を人間の攻撃欲求という側眼から考察した西欧文化逆説史的論文が解剖学者マット・カートミルの「人はなぜ殺すか狩猟仮説と動物観の文明史」である。ジョン・ウェウスリーのこともデカルトやベーコンのこともこの本に詳細に述べられている。（新曜社刊）尚私が「感情がある」と言ったのはある程度の高等知性を有する哺乳類のことであって、例えばショウジョウバエやアメフラシなどにはダマシオが言うように知性も感情もないであろう。それは行動パターンも行為選択も予め外界との接触によってプログラムされた通りの刺戟に対する反応でしかないだろう。しかし一個一個の個体にはそれぞれ反応の仕方の差は存在するだろう。しかもそれが自然選択のバロメーターになるような意味で。&lt;br /&gt;注４　孔子の死去した年、ＢＣ４７９年（春秋東周時代）より実に千二百年以上に渡る紆余曲折の末、儒家思想は遂に国家公認となった。ＡＤ７３９年唐代のことである。ここに我々は儒家思想継承者たちの執念を見ることが出来る。詳細な紆余曲折期のデータは参考文献欄に記入の浅野裕一の「儒教ルサンチマンの宗教」を参照されたし。　&lt;br /&gt;注５　女性の方が男性よりも共感感情が先天的に発達しているのは、多くの学者の主張するところである。とりわけ心理学者、精神医学者のサイモン・バロン＝コーエンによる「共感する女脳、システム化する男脳」三宅真砂子訳、ＮＨＫ出版刊では、男性がより構造的、世界把握的システム認識に優れ、女性は共感感情が発達しているために、同級生同士の子供の優劣を支配によって示す時、男の子は直接的に弱者を攻撃する傾向があるのに対し、女の子は別の成員に対して攻撃的な様相を表面的には悟られないように、コノテーションを使うことを指摘している。要するに女性の方が正々堂々ではないし、またより巧妙であるわけだ。また脳科学者で医学博士の田中冨久子は女性の方が統計的に語学能力が得意である傾向があり、男性の方が空間認知能力に長けているという統計的数値を示しているが、同時にある程度社会全体がそういう能力を男女に割り当てているので、そういう傾向になる場合もあり、必ずしも生得的であるかどうかは未だ熟考を要するというニュアンスも残している。尚女性に対するジェンダーロールの暗黙の規制という面ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーが論を展開している。田中冨久子の著作は「脳の進化学男女の脳はなぜ違うのか」中興新書ラクレであり、この面からの考察としてコーエンの著作と共に一読に値する。（８９ページ参照のこと。*）&lt;br /&gt;注６　リン・マーギュリスは細胞の共進化を証明した著名な生物学者である。彼女は自著「共生生命体の３０億年」（中村桂子訳、草思社刊）で終章（ガイア）終節で次のように述べている。&lt;br /&gt;「私たち人間も、この星に暮らす他の仲間と同じだ。私たちは自然に終始符をうつことはできない＿できるのは自分たち自身を脅かすことだけだ。人間が核燃料工場の水槽や熱水噴出孔に生息している細菌まで含めて、すべての生命を破壊させる可能性があるという意見はばかげている。私には、この星の他の仲間が忍び笑いしているのが聞こえる。彼らは「君たちに会う前は、君たちなしにやっていた。これから先は君たちなしでやっていく」と声を合わせて歌っている。細菌も鯨も昆虫も種子植物も鳥も、歌っている。熱帯林の樹木は小さくハミングしながら、私たちが不遜な伐採をするのをやめて、彼らがもとのように成長できるようになるときを待っている。そして彼らは、私たちが消え去ったあともずっと、不協和音や和音を奏でつづけるだろう。」&lt;br /&gt;　この言述は示唆的だ。私たちは私たちを時には脅かす細菌すらも消滅させることは出来ないし、また全ての細菌を消滅させる前に我々が消滅するだろう。全ての動物も植物も他の細菌の存在があって、初めて成立するからだ。しかしこの問題地球から我々がいなくなった後、更に我々のような高等知性を持つ種が進化して登場するかどうかについて脳生理学者で医師のジョン・エックルズは次のように言っている。&lt;br /&gt;「われわれの進化系列はわれわれと同じあるいはこれをこえる知性と想像力を持った存在に導くことのできる唯一のものだろうかということがしばしば問われる。たとえば、ある超知性をもつ尾なしザルがヒト科と合致するかこれをこえるような別の進化を始めることがありうるだろうか。答えは否である。ヒト科の進化は主な遺伝群から別れた非常に小さな遊離群による量子的な進歩に依存する。さらに、何十万年という途方もなく長い遊離期間が新しい種の誕生には必要である。そのような条件は現在の地球上ではけっして再現されることはありえない。事実、過去でさえヒト科の進化はただ一回おこっただけであり、その後何百万年ものあいだつねに絶滅の危険を孕んだ小さな集団に依存していた。」（「脳の進化」東大出版会）&lt;br /&gt;　もし彼の言うことが正しいとすれば我々が滅んだ後には再び別の集団が制覇することなど出来ないということとなる。しかし恐らくエックルズが言う進化とか進歩とかは我々と「似たような文明を築く種」ということであり、そうでなければ、つまり我々とは似ても似つかないタイプのものであればあり得ると私は思う。しかしそれも地球自体が存続する寿命とも関係があり、思いの他地球の今後が少ない命脈時間だとすれば、また違った意見が出されるだろう。しかしそうなると進化とか進歩とか時間とは何なのかというもう一つの問いを産出することになる。&lt;br /&gt;[補足論考]&lt;br /&gt;　カントは哲学史に乗せられた近代的人間像としてだけではなく、起源論的に善意志を捉えたのではないかと、私は直感したのだが、その理由を述べておこう。カントは彼が創出した定言命法に生涯拘り続けたのだが、このことは、彼の哲学が「論理を研ぎ澄ますこととは、論理では推し量れない、つまり説明の尽かぬことの大切さを知れ」と語る哲学であるように思われるからである。&lt;br /&gt;　私は人類が言語獲得した第一の理由は、人間がある集団で責任と良心（これもまた意識と欲望と記憶の三角形（４６ページの図参照。）の中心に位置すると思われる。）を介在させたこと（だからこそ人間は意思疎通の意味を言語によって獲得したのだ。）と、説明し切れないことがあるということそれ自体を説明したいという欲求を説明出来ることだけでも説明し尽くすことから始めようとしたからだ、と考えている。&lt;br /&gt;　カントは生涯殊更言語についてはルソーほどは語らなかった。しかしカントの哲学からは濃厚に言語起原の問題を誘発させる。というのも彼の言う定言命法というものの認識を、言語獲得に関して関心を注いだルソーが見落としていたもののように考えていたのではないかと私は思うからである。それは彼の「人倫の形而上学の基礎づけ」（中公クラシックスＷ４２の「プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ」２８６～２９０ページより）の義務の理説によって明らかだ。ここで特に自殺の禁止をキリスト教教義の言説からではなく自説論理で立証し、返済不可能な借金に手を出すことを彼の自説論理から説諭する（ここら辺り現代人に耳の痛いところではないか？）ことにそれは示されている。つまり人間は出来ることは出来ると明言してもよいが、そうではないことをも出来ないと明言する必要があるのだ。出来ないと告げることは実際出来ると明言りもするよりもある意味では勇気を要する。このカントの言説から私の責任と良心が善悪に先だつという事態から言語獲得が可能だという論理はより信憑性が増す。カントは事実「世界平和のために」を１７９５年七十一歳当時発表している（１８０４年２月１２日永眠。）が、この政治的理想発言のテクストの持つイデアが、逆にそれまで他のテクストを通して彼が語ってきたことがただ単に近代人の理性についての言明ではなく、人間の起源的な根本原理のテクストであるという主張を裏付けるのだ。カントは人間の行為選択に関して、大雑把に言えば大きく次のような観点から考えた。何か行為する時、その行為の格律（率）に則ったものであるか否か、そして他者一般に対してそれが該当するか、そして「汝の行為の格率を汝の意志によって（これが重要である。著者注加入）普遍的自然法則とならしめようとするかのように行為せよ。」（「プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ」中公クラシックスＷ４２、２８６ページより。）しかし人間はカントの言うような理想的な状態としてだけ存在し続けてきたわけではない。中には犯罪者や殺人者もいた。そしてそれら一切の現実を包み込むように自然は存在する。自然の格律と言うべきものをサー・ロナルド・Ａ・フィッシャーやハミルトンが統計的に法則化してみせたことは実はカント哲学の真骨頂を証明する行為でもあったのだが、そのことについては後日別の機会で深く掘り下げようと思う。兎に角カント哲学が我々現代人にも教えてくれることとは、人間は与えられた能力を真っ当する（人間は自分の能力の本来の発現の仕方を知る頃寿命を終える。）こと（それは身体的にも精神的にも）と、自分から主体的にアプローチすることの双方に責任があるということである。&lt;br /&gt;また私がＡ集団とＣ集団の首領同士の結託に関する思考実験の際に、Ｃ集団首領のジレンマに関して、もし部下の言う通りに選択をしていたら、その部下に対して負い目が残るとしたのは、その部下と首領の信頼関係よりもＡ集団首領との信頼関係を重視する場合のみであり、逆に部下との信頼感を最も重要視するなら、Ａ集団首領との関係はあくまで形式的、建前的である方が得策なこともあるとは言っておこう。&lt;br /&gt;　要するに我々は責任をどのように取り得るかという面から他の全てのことを考えるのだ。首領たちが何を一番に信頼するか、誰を一番に信頼するか（価値観とか人生観とかに頼った判断において）によって責任の在り方も変わってくるし、良心の発動の仕方も変わる。あるいは理想も、目標も変わる。だから善悪の判断とか倫理的な裁定とかさえ、何に対して信頼しているかという我々の判断によって、つまりその信頼対象によって支えられる独自の責任倫理（ここで言う倫理は世間一般の倫理とは酷くずれ込むだろう。）によって変わり得る。というより責任の在り方の方に善悪とか世間、社会における一般的倫理的裁定という一見ア・プリオリな基準と思われるものの方を我々が合わせる、あるいは当て嵌めるというのが我々の生存に関する実情なのだ。&lt;br /&gt;度々この論文で登場したソール・クリプキのことについて触れておこう。ソール・アーロン・クリプキは１９４０年ネブラスカ州オマハ生まれの現プリンストン名誉教授、アメリカの哲学者、論理学者である。論理学の中でも特に様相論理の分野での業績で知られ、指示の因果説等の言語哲学分野での貢献が著名である。（ウィキペディア２００７年４月１８日付けを参考にした。）本論で彼の「ウィトゲンシュタインのパラドックス」（産業図書刊）を解釈した法哲学者の大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」を大きく取り上げたため、直接クリプキのことを解釈することを控えたのは、大屋のクリプキ解釈が優れているためでもあるが、クリプキ哲学そのものが直接的なアプローチばかりではなく、間接的アプローチにも耐え得る本質論であるため、敢えて直接的アプローチを避けた。「ウィトゲンシュタインのパラドックス」中のプラスとクワスのエピソードを簡単に紹介しておくと、「６８＋５７」は幾つだと、質問者が言うと私は「１２５」と答えると、彼はそうではない、答えは「５」だと言うところから始まる。χもｙも共に５７より小さいときはプラス関数を使い、それ以外のとき、即ちχかｙかがそうではない時、つまり５７より大きい時は、クワス関数を使い、答えは全て５となるのだ、と私は意味してあなた質問をした、それに対してあなたはそんなのおかしいと感じても、ではあなたは今まで必ずプラス関数を使い、クワス関数を使ってはいなかったと証明出来るのかい、ということをクリプキは言っている。このジョークのようなエピソードは我々が日常において抱く一般論とか先入見に対して痛烈なる皮肉となって響く。このような数が小さい時にはどうということはないが、数が天文学的数字となるとこのクリプキの提示したエピソードのクワスの示す意味が大きく立ちはだかる。ということは私が最終部において示した、「もしカントがもっと長生きしていたなら」という仮定法において例証したようにどのような長さのものでもあと寸分でも長ければという仮定法が成立するような意味で、我々は常にもう一つの可能世界というものを仮想出来る。しかしそれはある意味ではどのような事態においても最後には必ず何らかの結果という「落ち」がつくものだ、ということを感慨として我々に示してもいるわけなのだ。&lt;br /&gt;　ところで私は孔子を長身であるとしたが、浅野氏の報告によると、それすらも捏造であった可能性もあると言う。しかし私は恰好のいい長身の孔子が夢に敗れるという姿の方が真実味があると思えるし、そう後代の儒家思想継承者たちが画策したとしても、そうではなく事実であったとしてもいずれも説得力があると思われる。つまりここには事実と真実のずれがあるのだ。我々が他者を説得させる一般的理解促進とは実は真実の方なのだ。その意味ではヘーゲルに対して私が本論で取り上げた部分はヘーゲルの思想の真実をよく表している。&lt;br /&gt;　ヘーゲルは民族意識というものを様々な共同体意識の中でも特殊なものと位置付けている節がある。（５１ページ中３０５～３０６ページ分引用箇所）このことは今回の論文作成を機に初めて知った一つの収穫である。またへーゲルは明らかにフロイト的無意識の萌芽的発想を抱いていたとも知れる。（５１ページ中３１０ページ分引用箇所）このことに対する認識を得たことも今回の収穫であった。それはヘーゲルの全てに関わることではないかも知れないが、その後の哲学史を備に見てゆくと真実味を帯びる。勿論そういった解釈学はほどほどにすべきなのかも知れない。とりわけ真実味という奴は、伝承や創造世界では許されるが、こと政治に関しては滅多にするべきではない。しかし政治にも大衆扇動という真実味加担主義もないことはない。しかしそれは危険な兆候である。&lt;br /&gt;　ヴェーバーが言う「悪魔と手を結ぶ」とは即ち政治とは惰性的悪（現世主義的安定志向型の）を断ち切るために「悪を持って悪を征す」の意に他ならない。それは他者に自己内の幻想を説明する際に他者にとって理解しやすい形で表現することを選ぶことと本質的には同一の心的様相である。孔子の対弟子伝承促進戦略も、カントの格率論も、ヘーゲルの共同体解釈も、クリプキの可能世界意味論も、どこか甘ったるい良心を受け付けない、それに流されまいとする決然とした意志を感じさせる。それは正に責任倫理の世界である。ヴェーバーの言う現世主義に対する克服を現世主義流の悪を持って制す仕方もまたその責任倫理である。それは要するに主体的に先験的に付与された理想という一つの型（つまり予め与えられた結果）に自己とその志向性を当て嵌めるようとすることに他ならない。しかしこの一連の繋がりに対する認識論は更に今後意図という事態に対しての考察をもって持続すべきである。又機会を改めて意図について論じる必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＊第三章、発語内行為=Ｊ・Ｌ・オースティン（日常言語学派、オックスフォード学派のイギリス人哲学者１９１１～１９６０）の提唱した概念「言語と行為」（坂本百大訳、大修館書店刊）に詳しいが、行為遂行文、つまり話者が話者の意図、意志を宣言する形の発話明示行為のこと。当然のことながら行為動詞を必ず含む。&lt;br /&gt;＊第四章、発語媒介行為=発語を通して聴者を未来においてある行為へと赴かしめる目的の発話行為、つまり行為誘導型の動詞必須文。やはり右のオースティンによる分類提唱。&lt;br /&gt;＊第八章、概念、つまり感情への認識という事態が先験的に存在していなければならない。=我々の内的な対象への感情が意味となるなら、そのこと自体への認識つまり一般的対対象感情が概念となろう。だから感情そのものへの認識こそが概念となる。&lt;br /&gt;＊第十章、我々が自由であると思っている大半=例えば我々に付与された休日、祝日といったものは全て強制的に付与されたものであり、従って余暇そのものも強制的なものである。&lt;br /&gt;＊注６、浅野裕一は次のように言っている。（「儒教ルサンチマンの宗教」２７６～２７７ページより）キリスト教や仏教、イスラム教といった世界宗教も、創始者が布教した当初から、正統性を獲得していたわけではない。出発当初においては、いずれの宗教も全くの異端と見なされ、無視・冷笑はもとより、激しい迫害や弾圧さえ蒙った。その後これらの宗教は、ある時期に政治権力と手を結んで、その庇護を受けたり、自ら政治権力を構築したりして、その世界における支配的地位、正統的権威を獲得したのである。」&lt;br /&gt;　私はこのような紆余曲折こそが宗教を権威付ける長期記憶に相応しい事項として記憶されやすい要因であると見たわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 論文中引用した著者は全て敬称略した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　付記　これで「責任論」は終了致します。次回からは「言語の責任とその進化」を掲載更新致します。暫く休暇を頂きます。（河口ミカル）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-5240253665065222276?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/5240253665065222276/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_20.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/5240253665065222276'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/5240253665065222276'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_20.html' title='〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性④'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-875677306375140507</id><published>2009-11-16T19:55:00.000-08:00</published><updated>2009-11-16T21:25:35.592-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性③</title><content type='html'>　結局孔子は野望の道半ばにして七十四でこの世を去る。そして彼の責任の取り方とは、彼の弟子たちに彼の遺恨を何らかの形で伝えることを弟子たちから率先して実行に移すことをしやすくするような日頃の言動を弟子たちに取り続けることだったのかも知れない。&lt;br /&gt;　脳科学者のマッガウは長期記憶に残ることというのは情動を刺激するものであると述べている。しかも茂木健一郎氏によると、共感回路というものが人間には発達していて（それは通常男性よりも女性により発達している。注４）、本当なら優れているのだからもっと然るべき評価を得ていい筈なのに評価さえ得ない者、最上の評価を得て然るべきであるのにそれが実現されていない者に対する共感はより長期記憶の意味内容のリストに残りやすいだろう。今日の何人かのテロリストの首領には幾分そういう意図さえ私には感じられる。それは結果的には儒教以外の全ての宗教に言えることである。ただ通常宗教の開祖は責任からではなく、あくまで良心から教えを普及するという意識があったのだろう。だがその教えを得る者を外部から見れば、その開祖の持つカリスマ性とは、共感回路への刺激であると受け止められる。だが孔子の場合その点開祖である立場をフルに活かした人生のように文献からは私には感じられ、またそのような人間臭さこそが、彼の思想が社会における人間関係の実際的な場面での教訓として後の多くの官僚たちにもバイブル視されたことの根拠のような気がするのである。&lt;br /&gt;　公的文章というものは往々にして理解し難いとされる。それは連帯責任が徹底化されている役所では必然的なものである。そもそも公的文章というものは長期記憶に残るような文学作品とは異なっている。それを作成したセクションがトップダウン的な命令からの対応として責務上こなしているということが了解されることがそれらの文章に対して望ましいのである。しかしそれは公的文章を保管する立場の成員にとっての在り方にしか過ぎない。組織というものは恐らく人類の曙からずっと、特定の個性を全体としては認めない、つまり特定の利害に対しては抑制的な役割を担ってきている。そしてそのことに対する成員全体の同意が前提されている。良心の発動はだから集団内、組織内の歯車から一歩後退した視点からしか採用され得ない。もし上司に怒鳴られている部下がいても、その上司の前でその部下の同僚がその部下に助言したり、慰めたりすることは通常控えられるであろう。そういう時はそれとなくその場以外の二人だけになれる機会を伺って密かになされることが通常である。それは社会自体が責任と良心を識別して判断するものだ、という社会成員全体の了解があるからである。ということは裏を返せば、人間社会には前に少し触れたが、仕事を離れれば責務感情からは開放されてプライヴァシーは保証されているということでもある。例えば私秘的なこと、つまり表立って個人に対して言及したり、問い詰めたりすることを公ではタブーとされることというのは、民族毎にその内容は違うだろうが存在するだろう。キリスト教圏の国々では宗派的なことに対する言及は恐らくタブーであろう。信教の自由というものが保証されているどのような国々でも、プライヴェートなことは言及してはならないとされているだろう。しかし仕事上での利害ではそういう私的なことを一旦全て忘れて業務に専心しなくてはならない。だから業務内容にかかわる命令はどんなことでも上司は部下に対して許容されているが、一歩プライヴェイトなことになれば、どのような提言もたとえ会社の経営責任者たりとも慎まなくてはならないというモラルがある。&lt;br /&gt;　ベンヤミンが「パサージュ論」で示したモードとは彼の考えでは恐らく通常個性を発揮するべき部分なのだが、その実都市ではそれぞれの成員が自主規制することによって結局個性とは無縁の、ある階層なら階層なりに、特定の傾向性を有するという現実を反映させていると捉えることも出来る。だから住居を選ぶという行為には、社会的地位に応じた報酬という面と、終の棲家を求めたいという潜在的な欲求がどこかで巧く結びついている。そしてそれはそうすることで社会全体に奉仕するというスタンスを示しつつ、一方では社会活動とは無縁の個的生活を維持することが、権利上保証されていることをも示し、社会全体に感謝の念を表明することを意味している。それは少なくともテロリズム犯罪者として追われる生活をすることではない真っ当な生活の維持の宣言でもあるのだ。&lt;br /&gt;　｢中庸｣では「誠」が最も重要な概念として記述されている。これは意思疎通の誠実性にも通じる。繰り返しになるが、人間には本来自己本位な利害を追求する面がある。だからこそ「誠」は意味を持つということである。中国人には面子とか体面というものを重んじるところがある。これは日本でもある種のタイプの人々にだけではなく、一般的な国民にも日常的場面で見られることである。しかしビジネスシーンではそういう部分を包み隠そうと成員全員が心掛けている。それは民族的な羞恥感情とも無縁ではないのだろう。つまり私たちは誰しも、民族的なルサンチマンに触れられたくはないという欲求をごく自然に無意識の内に抱えている。ということは面子を意識しなくてもいいように計らうというところに責任というものが集団では求められているのかも知れない。つまり他者攻撃欲求それ自体を発動しなくても済むように常に考え行動することが原羞恥的感情を発動させないようにすることに繋がるというわけだ。もしそのような箇所に触れられれば、宗教差別と同様のルサンチマンを持つことになるだろう。&lt;br /&gt;　民族と宗教のルサンチマンとは民族が経験してきた長期記憶に他ならない。例えばどの動物を食すことが不浄で、どの動物を食すことはそうではないかという判断そのものにおいてさえ民族的な差異が歴然としている。それは家族所帯の在り方から住居形態に至るまで民族、国家毎に異なっているのだ。つまりある特定の文化形態が、食習慣そのものを規定して、尤も食習慣というものは外的な要因、その民族が居住することになった環境に最初は左右されていた部分が大きかっただろうが、ともあれその食習慣に応じた居住空間が建築にも影響を与える。そしてそういった各個別の住居が全体として寄り集まったものが社会である以上、我々にはどの成員にも共通した居住、食文化に伴ったモラルが発生するのだ。だから責任という事態には、先験的に人類が言語獲得することとなった根拠と共に、それとは異なり後発的な文化形態そのものが強制的に我々に要求する共同体毎に固有のモラルとして発生するものとが一個の人格の中で共存しているということでもあるのだ。&lt;br /&gt;　しかし良心にはどこか言語獲得起源的なそれと、個的なそれとでそれほどの相違がないということは言えるかも知れない。つまり良心は社会的な規制から発するものではないために、同一の判断を合理化する時に、その内的な根拠を分析した場合、異なった理由が複合化されているという事態は責任に比べれば少ないであろう。例えば一個の成員は国民、市民、職業人といったさまざまな肩書きによって位置付けられる。それは社会内存在としての成員に対する評定基準である。しかし良心とはそもそも個人の社会内的責務からではなく、寧ろ社会内の社会外的な権利の領域から発せられるので、責任に付帯する分裂的傾向、つまり多層的な面とは自ずと異なった面があると思われるからである。&lt;br /&gt;　つまり責任の持つ分裂性と、良心の持つ非建前的な性質とが常にどちらを優先させ、どちらを発動させるかという判断が、その人間の行動を誘発し、同時にその人間の言動となり、またその積み重ねそのものはその人間の内部においても、他者からの評定においても人格（あるいはその発動という意味では個性）となって立ち現れるのだ。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　アンセルメとマジストレッティーは、フロイトの概念である快感原則を慣性原則として、それと恒常原則を現代神経科学の法則と合致するものとして現代的視座において適用している。慣性原則は興奮性（痛みにおける神経伝達物質で言えばグルタミン酸を活性化させるし、情動的記憶促進においてはアドレナリンを活性化させる）を喚起させるべく常に興奮システムを温存させておく恒常原則を抑制して、興奮性を鎮める役割として考えられている。ある意味では惰性的、鈍磨的な慣性原則のお陰で我々は全ての外界の刺激に対して抵抗力を維持し得るが、同時に恒常原則があるからこそ非常の場合に備えることが出来るのである。精神的な緊急状態においては我々は不快感を発動させられ、それを和らげるのは欲動の軽減である。つまり「ホメオスタシスの混乱が不快状態の原因となり、不快状態は欲動の軽減によって解消される」（「脳と無意識ニューロンと可塑性」１３５ページより）わけだから、「不快状態中和にいたるこの軽減は、じっさいに快感に到達する一つのメカニズムと見ることができる」（同書、同ページより）わけである。要するに人間は不快感を得ることを知らなければ快感を得ることも出来ないということである。これは醜悪なものを知らない人間に真に美しいものを知ることが出来ないということと原理的には相同である。&lt;br /&gt;　例えばある嫌な性格な奴だと思う人間と相対している時に、ふと見せる彼の人間的な言動は日々常にいい性格な奴だと思う人間と相対している時よりも印象度は濃い。それはある人間に対して構えを抱く（それはただ単に偏見に基づく場合も多いのだが）ことそれ自体を、解除させてくれる言動を示されることがよりその人間の性格に関するデータ記憶として長期記憶に残りやすいということである。あるいは見知らぬ他者に対して構えを抱き、真意の表出を差し控えている時に、相手が予想に反して真意を表出させてきた場合に、我々はそれまでその他者に対して抱いていた懐疑的な態度、訝しさを一挙に解除する気持ちになれることもある。記憶の仕方そのもの、あるいは長期記憶内容の選択そのものがその人間の人格であり個性であるなら、良心の発動のさせ方と責任の取り方もまたその人間の人格であり個性であると言った。その責任と良心の相関性に絞って残りの紙面を論じてみたいと思う。その手始めに幾つかの先述例を取っ掛かりとしてみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　慣性原則も恒常原則も、ホメオスタシスの機能と存在が重要な役割を果たしているらしいということははっきりしている。さて良心は興奮性に対する抑制性であるとも言えるが、そもそも興奮鎮静化のシステムとしてだけではなく、興奮を発動する以前に発動させる必要を感じない良心というものは、他者に対して信頼を寄せていることである。例えばそういう他者から期待を裏切られた場合、その他者にはある程度きつく要求する権利があると思うだろう。例えばＣ集団首領がＢ集団首領を信じて追随したばかりにＢ首領が悪どい仕方でＣ首領を裏切った場合、進言したＣ首領の部下はＣ首領を更迭する要求をするだろう。&lt;br /&gt;　上司が部下を他の部下のいないところで訓戒をしたり、叱責することはある意味では他の成員に対する配慮という意味では順当な判断であると言えるだろう。それは職務上における、あるいは職務規定上における良心の採用である。しかし特定の部下に対して訓戒することが、他の部下全員に対する影響力を持ち得ると思われる場合（その部下が他の部下から絶大な信頼がある場合）は、彼はその部下を他の部下の面前で訓戒することは、ある意味では企業や法人組織上の秩序維持の観点からは責任倫理に沿った行為選択であると言えるだろう。こういう場合その上司は明らかに良心を法人組織全体の利益に対して向けているのだ。だがそういう風に公衆の面前で訓戒された部下に対してその部下や同僚たちが慰める、励ますという行為は、その個人に対して向けられている。しかしそれは全体的な責任を負わない部内者の個人主義であるだけで、部外者から見れば公的には何の意味もないことになる。ある判断が個人に対して良心を発動し、全体の責任に対しては無頓着になることと、そうではなく、日常的には信頼している部下に対して敢えて先述のように公衆の面前で訓戒するような場面でも該当する組織全体の利益に対して良心と責任を抱いて、個人に対する良心を抑制した判断のどちらを選択するかが、我々の日常の行動の全てに対して該当する行為選択の意志決定の合理化をなす基準である。つまりその場その時に何を優先するかということが全ての決定に貢献するのだ。&lt;br /&gt;　全体の利益を考えない良心というものは幾分個人的なエゴイズムを内包している。そこには責任というものはない。しかし同時に全体の利益を考えている良心には責任を伴う。私は責任には多少冷たさが付き纏うと言った。しかしそれはその時にはそうであるだけであり、長い目で見れば、その冷然とした判断が一番正しいということも多々あるのだ。つまり小さな利益を捨てて、大きな利益を取ることが良心で、大きな利益に目を瞑り、小さな利益に対して執心することは長い目で見れば良心ではない。例えば孔子を採用しなかった当時の王朝の判断はその時点では正しかったのかも知れない。もし彼が意外とすんなり採用されていれば、今日我々が目にする孔子の考えの大半は生まれなかったかも知れない。だから結果的には後世の我々には彼がルサンチマンを抱えたまま死に、後世に弟子たちがそのルサンチマンを引き継いだことそのものが正解だった、と考えることが出来る。&lt;br /&gt;　ベンヤミンは最後にスイスの山荘で自害する。ナチに追い詰められての決断だった。彼の残した膨大なテクストは、色々な意味で今日の我々に深い洞察を与えてくれる。例えば引用するとはどういうことであるか、引用されたものを整理して再定義することとはどういうことであるか、独創性とは何なのか、そのようなことを深く考えさせる今日的な発想の持ち主としてベンヤミンは我々に語りかけてくれる。しかし当時彼がしたことは一部の理解者以外には理解し難いことだっただろう。だが彼の責任は後世の人々に対して向けられていたのである。そして後世に向けられることそのものが現在を生きる者に対する良心であると考えることも出来るのだ。孔子のような挫折は、挫折を直に目撃する大勢の弟子たちにとって彼の思想を伝承させてゆこうと決意させるに値する事実だったのだ。そのことを孔子はある程度自覚的だったと思うと私は言った。（弟子の良心を擽るような意図もあったかも知れない。）&lt;br /&gt;　しかし彼を採用しなかった側の人間には彼らなりの理があり、それは責任倫理だったのだろう。つまり責任倫理は相互には対立することも多く、良心の発動も常に対立する。しかし歴史はそういうその時代の状況を一切無視して公平な目で見ることが出来る。そして幾分こうも思う。孔子がその時代において天下を取れなくてよかった、と。それはゴッホがあと十年長く生きていたら、ずっと彼自身は幸福になれたと思いながら、どこかそんなゴッホの人生でなくてよかったとも勝手に思う心理に似ている。&lt;br /&gt;　最後に責任と良心とそのことに対する理解と説明判断について考えてみようと思う。まず記憶に関して責任のあるなしについて少し考えよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　貝原益軒の「養生訓」の教えてくれるところは抑制性のエネルギー温存という原理だけではなく、実はそのように有益に身体のエネルギーを浪費せずに大切に使うことで、精神的に充実した生活を送ることが結局生を悔いなく全うすることに繋がるという倫理的な意味での指針に他ならない。それは例えば先述の例で言えば、上司が部下を訓戒する時、彼は自己内の私情によってそれを行ってはならない。（とえ言え、百％そのように自覚的にすることはかなり難しいのだが）だから逆に贔屓な部下に対して敢えて親心で厳しく訓戒する必要もあれば、なかなか私情的な意味では応対の難しい部下に対しても、私情を差し挟まずに応対するということはそれ自体で良心の発動であると言えるだろう。また人間は自分にとって日頃から関心のあることは容易に記憶に残るし、またそのように意識していなくても尚自然と記憶に残ることもある。しかし同時に自覚的に自己内の関心を喚起させるように心掛けることもまた重要である。最初から自分の中に飛び込んでくるものよりも、最初は苦痛なものの方が一旦そのことに対する摂取において慣れてくれば、そちらの方がより魅力的に感じられるという事態も稀ではない。また責任あるセクションを担当する人員はよりそのような心掛けを日常的に身に着けておくことも必要であろう。良心とは他者に対しては適用し、自己に対しては責任以上には適用しないように心掛けることが重要であるかも知れない。良心は説明不能であり、責任はある程度説明可能なものとそうではないものとがあると先に述べた。そのことは次のように説明出来る。&lt;br /&gt;　アンセルメとマジストレッティーは慣性原則が快感原則であり、同時に反復原則であるとする。その意味はホメオスタシスの回復機能であり、再確立の機能であるからだ。つまり外的な衝撃、例えばアメリカ人にとっての９．１１の体験のようなイヴェントは、そのイヴェントの遭遇自体には彼らに直接の責任はない。そして不可避的に長期記憶に残り得る。だが長期記憶に残るものは、そのように受動的なイヴェントに遭遇すること以外にも、自己内の訓練によって関心を生じさせ、次第に大きくなるようなものにも適用される。そしてこの自己決意によって関心を引き起こしたものにはいいものも悪いものも含めていずれも責任が付き纏う。だからある学説を主張するのなら、それに対する反駁を想定して、それを跳ね除けるくらいの理解を自説に対して持っていないと、揚げ足を取られることも多いだろう。あるいは中途半端な学習ならしない方がよいし、中途半端なままで何かを発表することは差し控えた方が賢明であるというのは意識的、意図的に育んだ長期記憶は明らかに自己責任の領域であるからだ。そしてそれはある程度他者に対して説明可能な論理的領域である。（その内容が非論理的であってもその関心事について論理的には語れるという意味において。）&lt;br /&gt;　我々は一冊の良書に対する出会いが人生を変えることもある。その意味ではそういう良書に巡り合うという事態もまた、その人間の日々の心掛けと努力という意志レヴェルの問題に関わってくるであろう。つまり偶然的であるような出会いをも含めて遭遇自体も幾分かは自己責任の領域であると言えるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今日の社会は、家庭電化製品一つとっても、一個の家電製品を恒久的な使用に耐え得るようには製造してはいない。もっと便利なアップグレードされた商品を一定期間が過ぎたら買い換えた方が得なように、予めメーカーが計画立案している。だから一個の商品を長く大切にしたいという消費者の欲求には答えてはいない。つまり物を大切にという倫理観は、少なくとも消費サイクルにおいては捨象しなければ生きていけない、修理に出したら余計に金がかかってしまうという事態に陥っている。&lt;br /&gt;　またネット通信の会社が表示エラーをした場合、そのトラブルに巻き込まれて重複注文した場合、その商品に関して逆発送することは手間がかかるから出品者は通販ネット会社に請求するというシステムになっているので、売買という行為においては相互の顔を見なくてもよいという現実に我々は慣れっこになっている。言わば現代社会とは、古典的な倫理観を無視しなくては生きていけないような具合になっていることも確かである。そういう現実の中で自己責任とはどのように成立し得るのかを問うことはなかなか熾烈である。システム維持に貢献しながら（消費者として）、最低限のマナーを持つことも要求されるだろう。例えば昔風に古本屋に直に出向き、本棚に手をやって現物を見る行為を私もしなくなった。新品の本を一般の書店で見て確かめてから、同じ本をネット通信で買うという行為が当たり前になっている。しかしそこには通信であれ、相互のマナーは必要である。私の経験ではそういうマナーのあるバイヤーも、セラーもいるということである。システム社会とはややもすると責任転嫁をすることが日常化しやすい。しかしエラーミスを一回くらいしたとしてもびくともしないような通販ネット会社も、それが度重なれば、経営も立ち行かなくなるだろう。だから一回のミスでももしそういうことがあったならば、メールで詫び状を送るだけでは済まないのではないだろうか？（私は重複注文することになったお陰で、出品者に電話する羽目になった。）しかしトラブルに陥った時ほど冷静に対処することを考えさえすれば、我々は案外この便利なシステム社会を容易に生き抜くことは出来る。その時やはり責任の所在を冷静に相互に相互の事情を説明しながら検討することが大切ではないだろうか？しかし説明がなかなか容易ではないという人もいるだろう。そこで説明によって責任の所在を鮮明にすることをここで一つ考えてみよう。そして引き続いて良心の発動に関して考えてみよう。&lt;br /&gt;　今日のネット社会のややネガティヴな面をシステム・エラーに私は見たが、しかしそのような不測な事態をも想定に入れ、そのシステムを有効活用することにしか最早我々には残された生活維持の道はない。その一つの売買を巡る顔の見えなさという事態はしかしよく考えてみると、顔の見えない相手が例えば私が買う本やＣＤを売るアメリカの出品者がいるということを私は承知していることでもある。恐らく人間以外の動物は地球の裏側に自分と同様の個体が生活して喜怒哀楽を感じつつ生活しているという発想は持たないだろう。そのような想定と想像力が私たちの世界では既に顔の見えない人を、面識があり顔を直に見ることの出来る人と同等の切実さを持って接するという意識を生じさせる。一度も会ったことのない大切なパートナーに囲まれて生活することが今日の人類の姿である。それは他者哲学の深遠に位置する状況なのかも知れない。そしてその意思疎通の基本とは良心である。良心の発動とは古代以前、言語獲得期までの人間にとっては同一種内でも自分の親族間だけのものだったという現実もあったであろう。そして同一種内攻撃欲求を充足するために他集団に争いを仕掛けることは日常的だったであろうが、地球全体が概念的にも実感的にも把握された今日、世界は認識上では狭くなりつつある。だからその限りある資源の中で人類が協調しようと考える時我々はどこかで、知らない人に対してこそ礼節を尽くすという観念を重要視するようになってきているのではないだろうか？そして見知っている人間同士が親愛の情を結ぶことは当然としても、責任が見知らぬ他者（我々は既に経済一つとっても見知らぬ他者たちにこそ恩を受けている。）に対して見知った者と同等に払われるという確固たる意志を持つことで良心の起源に私たちが常に回帰する運命にある。&lt;br /&gt;　良心はその都度他部族への破壊に対する反省からも呼び覚まされたのかも知れない。&lt;br /&gt;　生物学者のリン・マーギュリスも指摘している（「共生生命体の３０億年」草思社刊より）が、私たち人類が地球環境を汚染させ、破壊したとしても尚地球自体は破壊されることはない。ただ私たち自身にとって住みやすい環境が破壊されるだけのことである。人類が滅んだ後にもまた別の生命体が進化して天下を取る可能性はゼロではない。だからこそ我々はシステム社会を見知らぬ顔の見えない相手なればこそ神経を使うという処方を使用せずには未来を生き抜くことが出来ないのだ。良心の発動は我々自身が構築したシステム社会の現実に対する認識に、人類の言語獲得の起源として位置しているであろう意思疎通上の他者への信頼において発動される良心と同形のものを適用するということである。&lt;br /&gt;　今日では地球の裏側に住む人とチャットやブログで交信することも可能である。だから職場で孤立している成員でさえ、そのような手段で「きっと誰かは自分を理解してくれる。」という意識を持ち、顔の見えない他者の存在に救いを求めることは出来る。実際現代のような交信手段のなかった古代でもそのような思いに囚われていた人はいただろう。ある意味では優れた弟子に囲まれていた孔子でさえ、自分の政治的理念を実現することに手を貸す人の不在という事実は彼にとって後世には明確に理解してくれる人がいるかも知れないという思念を抱かせたのだろう。だからこそ弟子たちの良心を擽ることが彼にとっては重要だったのだ。しかしもし彼が現代に生きていたらネットを使用していただろうし、それを利用して海外に出向き後援者を見出していただろう。&lt;br /&gt;　さてこの通信と交通の張り巡らされたシステム社会の現実とは想定される社会の姿を一際原因→結果という順序ではないウリクトの言う遡及的因果関係（retroactive causation）をア・プリオリに前提している社会に生きていると言える。例えば企業は予めどれくらいの決算において収束するかを想定して事業を行っている。全ては想定された事態の上に現実が乗っかっており、その意味では結果に原因を後付しているのだ。しかしそれは言語獲得期の人類の思念にも該当する真理である。&lt;br /&gt;　大屋は普遍性を目指すことを「普遍志向」、普遍的真理は存在するという信念を「普遍信仰」と呼んでいるが、彼は井上達夫という法哲学者の考えを拡張して「我々はロゴスの外部にある普遍性に比較して自らの議論の不十分さを自覚し、それを少しでも普遍性に近付けるために対話を通じた正当化を継続するべきだとされるのだ。」（「法解釈の言語哲学」１２０ページより）と我々の意思疎通を定義付けている。もし大屋の言うようなものとして意思疎通（対話）を考えるなら、人間は彼の言う普遍志向を普遍信仰によって行為として顕現させながら、普遍という結果を先験的に設定してその普遍に全ての行為を近付けることによって、ある種の理想を永遠に追い求める存在となった、と言うことが出来る。例えば鳥を見てあのように飛べたらいいな、と思念することが鳥のような飛行を模倣した飛行機を発明するに至ったように、我々は言語獲得した時点で、最早無垢な自然との対話を失ったのかも知れない。そしてそういった諦めることを忘れた願望への実現努力が「周囲に誰も自分の理解者がいなくても尚、世界のどこかには自分の理解者がいるに違いない。」という考えを容易にする社会を築き上げたとも言える。だからシステム・エラーが起きた時に見知らぬ他者と交信して何とか窮状を切り抜けること自体もまた顔の見えない他者に対する信頼と感謝という良心に基づいて行われる。そもそもエクリチュールを人間が発明した時にも、それと似た内的理解があっただろう。&lt;br /&gt;　人間は反省と後悔という思念を記憶能力の向上という進化的な出来事に伴って、責任という観念をア・プリオリなものとして認識し始めたのだろう。それは過去の失敗を二度と繰り返すまいという決意によるものであり、最初は単純な学習的な認識からスタートしたのだろう。そして一旦責任という観念を生じさせれば、それは結果として行為に先立っているのだ。そう認識することで社会的行動というものがなされ、社会人という意識が自己に付与されたわけである。よってクリプキのような哲学者が慣用しているシステムが正当なものであるかを主張することが誰しも出来ないのではないか、という問いを提出した事実は逆にシステムそれ自体を認めていることに他ならない。例えば現代の人類にとってネット社会にシステムは前提となっている。それは言語活動が社会の基本的な前提であるのと同じである。次は我々の生活において責任が果たされるという事態がシステムを前提とした遡及因果関係によるものであることにおいてどのような責任を考えればよいのかを論証してみようと思う。&lt;br /&gt;　ここで言うシステムとは高次の意識から言えば近代国家以降の全てのシステム（官僚制、交通システム、ネット・システム等）のことであり、低次の意識から言えば人間集団の全てに該当する。そして私は遡及的因果関係の礎として責任を考えたいのである。それは最初から与えられた結果であり、成果が出た時に報奨の対象とされるものでもある。だからこそシステムの維持が人間生活では最優先されるし、それは責任であり報奨の対象となる。&lt;br /&gt;　カントが言う善意志とは社会人としての自覚論的なものであると同時に、存在者として哲学的に論じられており、高次であると同時にどこか起源的でもある。「道徳形而上学原論」において実践的理性原理〔客観的原理〕（これは大屋の言う普遍信仰に近いと思われる。）と格率（律）〔主観的原理〕とを類別している。これは前者がイデアであり、後者が個人的な対処法と考えても間違いではない。カントが高次な意識であると同時に起源的であるように感じさせるのは彼の論理からではなく、彼の哲学論全体から醸し出される彼の主張の独自性からである。しかし私が良心と呼ぶものは、カントの言う善意志とは幾分異なっており、それは社会正義そのものを成立させ、つまり自己と他者を認識させる意識である。それは全ての前提条件なのだ。例えば部下を訓戒する上司の前で訓戒される部下を慰め、励ますことを同僚たちが憚るのは、明らかにその訓戒を垂れる上司の部下全員に対する面子を誰しも潰したくはないと考えるからである。面子とは原羞恥であり、要するに他者の視線に対する意識である。もしこれが一切なければ、我々はそもそも他者と言語行為へと赴くことはない。だから良心も又他者に対して潜在的に誰しも抱く心理であると同時に他者認識を支えるものである。しかし良心は表立って発動されることを控えられる場合も多いものだ。例えば今の例で言えば、明らかに誰しも全ての部下の面前で訓戒される部下に対して同情するのだが、その言い方がどんなに厳しいものであっても通常他の部下はその上司に苦言を呈するべきではないだろう。それが職務上の責任だからだ。&lt;br /&gt;　責任は全ての善悪に先行する。そして良心もまた善悪に先行する。何故良心だけではなく責任もア・プリオリに存在するかと言えば、人間には悪もア・プリオリに存在するからである。しかし善悪とは制度・法意識獲得の後に我々が認識するものである。だから私の言う良心とはカントの善意志とも少し違うのである。何故ならカントが言うところの善意志とは私が言う良心に善悪判断や法意識を認識して然る後に獲得する倫理だからだ。（しかし今述べたようにカントは直観的には善意志を起源的に考えたいかのように私には感じられるのだ。）そして責任と良心、この二つは重なることもあるがずれることもあるのだ。&lt;br /&gt;　マックス・ヴェーバーはカントからも多大な資質論的なエキス（懐疑的姿勢、本質洞察的姿勢）を得ている。そして責任に関する彼の記述でも「職業としての政治」の次の箇所は出色である。&lt;br /&gt;「（前略）ある男性の愛情がＡ女からＢ女に移った時、件の男性が、Ａ女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がＡ女を愛していず、Ａ女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑劣にもこれを「正当化」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけではなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合はもちろん同じである。あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。同じことは戦敗者の場合でもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら＿戦争が社会構造によって起ったというのに＿戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任＿これが肝心な点＿にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利害の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度と騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」〔自己弁護の「倫理」〕によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実は双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切な将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは＿もしそんなものがあるとすれば＿こういう態度のことである。しかしその際、勝者は＿道義的にも物質的にも＿最大の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑属」とはまさにこういう態度を指す言葉で、それは「倫理」が「利害」の手段として利用されたことの結果である。」（「職業としての政治」岩波文庫、８３～８５ページより）&lt;br /&gt;　このヴェーバーの倫理を無効にする責任の重さに対する着目は幾分ニーチェを想起させる。カントの論理を見ていると、実践的理性原理を提唱していることの背景には悪が横行することも珍しくなく（彼の言い方に習えば他率（律）的行為の横行）、要するに人間は性悪的であるという考え（これはマット・カートミル＜解剖学者＞によると西欧社会に根深く定着してきていると言う。）、要するにカートミルの視点を採用すると狩猟文化と習慣が社会の深層心理で攻撃的欲求の発露となる傾向性が横たわっているということになる。&lt;br /&gt;　カントの性悪説的な前提条件の付与は、ルソーに既に特殊意志という形で表明されていた。そのルソーをニーチェは大きく取り上げている。ニーチェの良心に対する攻撃は専らキリスト教的教条主義に対して向けられており、その限りで、彼の考えは宗教本体を支える地点に着眼していると言える。彼の言葉「「主観」は一つの虚構にすぎない。利己主義が非難されるとき問題となる自己など、全然ないのである。」（「権力への意志」より）（３７０）や、「「自我」＿このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない！＿まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない。＿それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。」（同）（３７１）等によってそれは明らかであろう。&lt;br /&gt;　宗教本体を支える連帯感には特権意識が介在しているが、同時に彼ら信徒もまた市民であり、その限りで責任と信仰とは別地点に据え付けられている。それは勿論信徒たちだけではなく人間の宗教的感情とは責任とは常に別地点である。それは幾分良心にも近い感情かも知れない。そして当然のことながら私が言う良心とはニーチェの言う良心とは異質のものである。ニーチェは「ルソーは、規則を感情の上に基礎付ける。公正の源泉としての自然。人間は、自然に近づく程度に応じて完全となる（＿ヴォルテールにしたがえば、自然から遠ざかる程度に応じて）同一の時期も、一方にとってはヒューマニティーの進歩の時期であり、他方にとっては不正や不平等による悪化の時代である。（後略）」（同）（１００）と言いつつルソーを精神錯乱であると同章で断じる。（事実彼には性的錯綜的な一面もあった。）彼は責任の先験性と感情抑制（良心）をルソーが着目していたと考えている。&lt;br /&gt;　責任がある集団内で徹底化することに応じて他集団からは利害が対立して、同一地域の成員全員の利害は不一致となり、不平等と差別が横行するから、責任はどのクラスに対して適用されるかに応じて社会全体の調和はその都度変化する。要するにヴェーバーの言うように倫理とは利用される。それは責任からもである。しかし責任は利用するのだ。あるいは利用されまいとするし、我々は責任を負うのだ。理性が自ら率先して責任に縋るのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-875677306375140507?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/875677306375140507/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_16.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/875677306375140507'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/875677306375140507'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_16.html' title='〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性③'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-4669718352586259095</id><published>2009-11-15T00:37:00.000-08:00</published><updated>2009-11-15T01:11:19.810-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性②</title><content type='html'>　孔子の考えを弟子たちが纏めた「論語」以外に「大学」、「孟子」、「中庸」が四大書として知られているが、「中庸」（「礼記」＜周から漢にかけて儒学者が纏めた礼に関するテクストで、載聖が編纂したとされ、４９篇。＞の一篇である文章であるとされる。子思作とされる。）では孔子が政治的野望の挫折者であるにもかかわらず、弟子によって孔子こそが真に王に相応しい人物であったと説くのだ。浅野裕一氏は「儒教ルサンチマンの宗教」（平凡社新書）で「（前略）編述者は、無冠の王者としての孔子の統治形態を説明する。君子は号令や賞罰といった外面的統治手段に頼らず、己の内面的徳が自ずと外界に発露・顕現して「動かずして敬せられ、言わずして信ぜられる」無為・無言の統治形態を取る。（中略）孔子が実質的には無冠の帝王として君臨していたことを黙示しようとしたのである。（中略）子思学派は『中庸』の全篇を費して、孔子は沈黙の徳治により天下に君臨する王者であったと主張した。」と記している。&lt;br /&gt;｢天を怨まず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か｣（憲門篇）、「子曰く、予は言うこと無からんと欲す。（中略）子曰く、天何をか言わんや。四時行り、百物生ず。天何をか言わんや」（陽貨篇）&lt;br /&gt;もし誰も彼を目にとめなくても尚、真理は彼に味方して、天は彼を称賛するであろうという意味では、どこかソクラテス、ガリレイといった西欧の先達を想起させずにはおかない。そして重要なこととは、そのように孔子が彼固有の挫折感と無念を後世に怨念として伝えさせたその人間的な弟子に対するカリスマ性であり、そのようなプライドが後世韓国人の中に自尊心（チャジョンシム）という形で継承され、日本武士に対して「武士は食わねど高楊枝」と言った気風を生じさせ貝原益軒の「養生訓」における中庸な摂取といった考えにも歴然と結びついているということである。その事実と対極のように思われる１９世紀パリの退廃文化はベンヤミンをして次のように言わせしめる。&lt;br /&gt;「さまざまな様式の仮装行列が十九世紀全体を貫いているということは、支配関係が見えにくくなっていることの一つの帰結である。ブルジョアの権力者たちは、（金利生活者である）彼らが暮らしているその場では、多くの場合もはや、直接的かつ無媒介な形態では権力を所有してはいない。彼らの住居の様式は、彼らの偽りの直接性なのである。空間における経済的アリバイ。時間における室内的アリバイ。」〔１３，４〕&lt;br /&gt;　ベンヤミンは彼の知識欲、文化的香りをゲーテから、真摯さをカントから、そしてアイロニーとブラック・ユーモアをニーチェから引き継いでいる。つまり孔子の時代には、中国ばかりではなく、全ての国家において優劣ははっきりしていた。外面的に既に勝者と敗者の差が歴然としていた。しかしそれが産業革命期以降は極端な敗者であるホームレス等は例外として、一見敗者ではない風の大勢の市民は、実は見えない権力に支配されている（今日の社会で言えば、マスコミ、マスメディアに多くの国民が支配されているように）状況下で、全ての支配は間接的となっているということだ。そしてそのことは当然のことながら、責任の所在を見えにくくしている。その事実が同一状況における共辞（共時）的な相関性で語られ得るのなら、孔子と弟子たち、そして末裔の思想継承者たちの関係は、間接的な伝承性という通辞（通時）的なエネルギーとして顕現されている、ということだ。&lt;br /&gt;　ベンヤミンが訴えた市民生活は、ある意味ではラングからの支配である。しかし中国四千年の歴史において彼らの育んだ論理＝倫理は共時的モードを無効にするような霊力を備えてもいる。それは今日のような資本主義経済導入に至っても変わるところはない。&lt;br /&gt;　ただ宗教文化というものは、それが発生してから隆盛を極めた時代や後世に齎した影響力と、その影響力を勝ち取るまでの間の宗教布教者たちの間であった歴史的事実とは明らかに全く関係のないものとして捉えなくてはならない。例えば宗教信者はどのような歴史的な汚点等の同一の宗教史においてあった事実も美化するような傾向はあるし、またその宗教信者が唱えるその宗教文化の素晴らしさは的を得ていることは確かだし、要するにその二つの事柄ははっきりと峻別する必要があるのである。&lt;br /&gt;　宗教信者や信奉者による布教にはしかし同時に他の宗教は相容れないという面もある。だからどの宗教にも属していない者がどの宗教に対しても、公平な目で見れるということはあるが、そういうケースというのは日本ではあり得ても、別の国ではあり得ない場合の方が多い。ただ一つ言えることは宗教にはどのような宗派であろうとも、共通して言えることというのは、宗教においてはその信条に対する解釈においては個人主義は成り立たないということである。総じて宗教的心理というものは集団依拠的であるし、神対個の契約も、それを信じる者同士の連帯を旨としていることが多い。そしてその宗教的な連帯という意識は、官僚同士の連帯やピア・プレッシャーといったものとも共通点が多い。それは一言で言い表せば、責任転嫁を容易にするシステムであると言える。連帯責任という事態は、そうすることで特定の個人に対して独裁を未然に防止する意図と、特定の個人に対して責任を負わせることを相互に防止し、互助的な人間関係を構築することを容易にするのである。&lt;br /&gt;　だから孔子の場合は、彼がかつて隆盛を極めた一族の出であり、そのこととは関係なく、官僚として登用されることで、政治的リーダーになる野望に打ち破れて、その失墜を後世へと弟子たちが綿々とその思想的、理念的（政権転覆的な破壊によってではなく徳として治める考え）理想の正当性を主張することを旨とした。そしてその過程においては極めて詐称的な行為も横行していたことも報告されている。しかし徳を説くという事態そのものは、不徳な行為が罷り通っていたからであり、その布教が長く続くという事態もまた、そういった不徳の横行の隠滅がなかなかなされ得なかったということを意味する。その意味では彼らの責任倫理はあくまで布教することでせめて自分たちだけでも理想を念頭に行動しようという意識に裏打ちされている。その意味では宗教のみならず、近代以降のダーウィンやその他の科学者や哲学者、思想家の考えを布教しようとする全ての学究の徒、あるいは思想活動家と全く共通する。しかしここで西欧哲学に堪能な者に想起されることはカントの存在である。彼は善意志というものを提唱したが、それはライルの哲学にも直結することであるが、行動と心的内容とは明らかに異なるという考えを機軸として展開された哲学上の形而上学の弱点とは、要するにどんなにその二つが分離していても、その分離はほんの些細なことでしかなく、本来心的内容というものは行動に反映されるものだし、また行動というものは心的内容にも影響を与えるということをややもすると見過ごしがちであったということに尽きる。だからカントが善意志をことほどさように主張したということには西欧哲学史上に、そのような考えを自然なものとすることを阻む学問の傾向的な性質が根強くあったということを意味する。その点では時代が変遷しても脈々と受け継がれた「論語」や「中庸」、「孟子」といった存在の儒教的精神とは、時代状況の打破と哲学者個人の主張を越えたもっと根深い民族的なルサンチマンが控えていると考えてもよいだろう。浅野裕一氏が「儒教ルサンチマンの宗教」を世に問うたこともそこに起因する。注４&lt;br /&gt;　だから宗教的な責任転嫁とは、連帯的意識の持続をモットーとするから、カント派がカントを変形し、カントを否定する哲学者の多くがカントに負っているという事態ともいささか異なる面がある。勿論儒教それ自体も幾多の変遷を経てきてもいるのだろうが、どこかで元祖教祖を踏みにじることだけは決してない、どのような策謀がなされようが、原点回帰だけはなすという考えが彼らには通底している。だから彼らの責任転嫁は、その考えに共鳴し得ない者に対する軽蔑心によって保たれていると考えても間違いではないだろう。&lt;br /&gt;　それ以外の一切の信条を認めることが出来ないという一点である宗教的信条を信奉するという心的様相である信者にとって責任とはその一点を守り抜くということ以外にはない。&lt;br /&gt;　哲学ならもっと自由に尊崇者に対して批判を加えられるだろう。そもそも哲学は集団で行う行為ではない。科学界ではそういう意味では法則的なディタッチメントにおいて有用であるものだけを採用しようとするから、そもそも法則そのものの真理はそれ自体で無名性のものである。だから個人に対する崇拝という事態そのものが科学の世界では客観的真理の前では無効である。だから哲学はその二つの境界に位置しているとも言える。何故なら哲学の場合は、その哲学者の考えとその考えを述べた哲学者の人生や生活的信条を切り離しては考えられないような主観的な接し方を別段禁じているわけではないからである。&lt;br /&gt;　科学の責任とは客観的合理性と実（応）用理解促進性である。それは責任の全人類的な共有の意識によって成立している。ここで定義しておこう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;宗教的責任→同一信条の布教と布教者間の連帯&lt;br /&gt;科学的責任→客観合理性と実（応）用理解促進&lt;br /&gt;哲学的責任→客観と個人毎の主観を許す自由性&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アメリカ人にとっての９．１１であるとか、日本人にとっての終戦体験とか、原爆体験（その当事者は勿論のこと、そのことをルサンチマンとして記憶している全ての国民にとっての）といったことは他のどの国に人々にも共通して存在する。そしてそれらは長期記憶に厳然と残る不可抗力のようなもので、自発的な関心事ではない。悲惨な事故や辛い親族との別れといった出来事は長期記憶に巣食うこととなるが、それ以外にも自己内の関心事においては長期記憶に残るものもあり、それは個人毎に異なるだろう。勿論こういった個人毎に異なる関心事も、実際自発的であるとも言い切れない部分はあるのだが、取り敢えず関心を持つことを主体的に行うという意味ではそうである。そういう意味では前記の宗教的責任、科学的責任、哲学的責任とは相互に交換可能ではないが、幾つかを同時に一人の個人が抱くということは稀ではないだろう。&lt;br /&gt;　孔子に話を戻すと、中国では絶対王政という絶対君主制が長く続き、清王朝が滅ぶまで思想とは政治的思想のことを指していたと言っても過言ではないだろう。その意味では仏陀の仏教とはいささか宗教思想においてさえ事情が異なる。また西欧哲学とも勿論事情が異なる。尤も西欧思想にも政治的な思想も古くからあった。だが少なくともそういう社会学的哲学以外にも、論理学、天文学、数学、倫理学、形而上学といったものが同時に極めて盛んだったという意味では、思想それ自体も政治志向的一辺倒ではない歴史がそこにある。しかし中国思想には、直接政治的な発言へと直結し得る思想の在り方に、独自の民族性を私たち日本人には感じさせる。&lt;br /&gt;　日本人は職業倫理以前に自然人的な善良さを尊ぶところがある。しかし中国人は商売上の鉄則としては一切私情を挟まないし、政治は協調ではない。そういう意味では日本人は責任以前に善があり（価値規範として）、中国人は善以前に責任があると言っても過言ではない。しかし本来責任とは私情的な判断のものではない。法治国家というものが、法体系の価値規範と法秩序と、その施行によって成立している以上、適用されるものに不平等があってはならず、それはどの国の人々にも共通した倫理だろう。しかしそのことと、心理的な優先順位というものは異なる。&lt;br /&gt;　孔子の弟子たちがおよそ百年後の孟子に至るまで孔子の王朝を捏造して普及しようとしたりして、野心が挫折したことへの積年の恨みが弟子たちをして更に正当化に拍車をかけている。彼らにとって心理的優先順位という観点から言えば、自ら抱く信条こそが正当であるという主張は、別に違う考え方の人がいてもそれはそれでよい、干渉すべきではない、という日本人的な観念とは真っ向から対立する。その点ディベート自体を結論へと導くアメリカではたとえその考え方とは個人の内面では齟齬をきたしていても尚、役割分担において、左派の考え方でディベートするのなら、その責務を全うすべしという観念が定着している。しかし結論が出て一先ずその役割を終え、自分の立場が変われば、また別の行動を取ることは一生の内にいい条件を求めて国中を放浪するような生活形態が珍しくはないアメリカ人が最も中国人と対極な部分である。&lt;br /&gt;　住居を定め終の棲家とするという決意には、社会的地位誇示ともまた異なった考え方がある。ベンヤミンは都市文明に着目した思想家であるが、都市文明そのものが人間の欲望を反映した生き物であり、人間の深層心理を洞察するのにもってこいの対象物だったからである。住居そのものには、社会的地位に左右されない自由を確保するという意識も人間にはある。しかし同時に地方自治体に税金を納め、生活を確保するという意味では住居を定めることは責任行為の一環として位置付けられるであろう。そしてよりよい自分を取り巻く社会環境に対する考えがあれば、それは政治的発言にならざるを得ない。だが税金を納め、市民としての権利を要求することは一面では「それさえやっていれば後は何をしても自由である。」ということの表明であり、それは全ての責任を負うことを免除されることと引き換えになさねばならない義務である。そのことについては第一章で既に述べた。&lt;br /&gt;　マックス・Ｉ・ディモントはその著書「ユダヤ人」の中でユダヤ教とは、戒律さえ守っていれば、後は何をしてもよい、という意味もあると述べているが、そういう部分ではキリスト教ともまた異なった考えがある。事実キリスト教では反ユダヤ主義的考えも多分にある。つまり同一宗教内で、親ユダヤと反ユダヤが共存しているわけだ。だが、そういう対立軸も例えば私のように外側にいる人間から見れば理解し難い。一枚岩でことにあたればもっと巧くゆくとそう考えてしまうのは部外者のおめでたさかも知れない。つまり内部に入らなければ分からないこととは、外部に対しては繕うという傾向が誰しもある。それが責任という事態の発生する場所である。関係者以外立ち入り禁止という立て看板、表示の全ては同一利害保持者の他者一般に対する権利要求である。そしてその権利は説明責任という形で私たちが、他者に対してしていることの見返りとして受け取る報酬である。&lt;br /&gt;　孔子は百八十八センチくらいの長身であったという。その雄姿に弟子たちが惹き付けられたという面もあっただろう。しかしそれだけの人望と器があっても、彼の政治的野望は遂げられなかった。だが孔子自身に全くそういった事態が想定不能だったとも私には思えない。何故ならそれだけ強く為政を望んだのなら、却って大勢の弟子たちを抱えているという現実そのものを見直す必要があったのではないかと想像されるからだ。しかし存外彼はもし自分の野望が遂げられない時のための保険として弟子に日頃の考えを伝えて自分の死後伝承させるという目論見もあったであろう。そしてその野望の遂げられなさそれ自体が遺恨として残るものであればあるほど彼の中では自己のアンチ的なカリスマ性は高められる。あるいはもし自分の野望を遂げられるのであれば、それが一番いいことは分かりきっているのだが、そうではない可能性の中にこそ彼の宗教倫理思想の伝承され得る可能性を見ていたからこそ、弟子を大勢取ることを厭わなかったということはあくまで私の考えである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-4669718352586259095?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/4669718352586259095/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_15.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/4669718352586259095'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/4669718352586259095'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_15.html' title='〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性②'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-58255474807411121</id><published>2009-11-12T16:16:00.000-08:00</published><updated>2009-11-12T17:15:25.239-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性①</title><content type='html'>　ヘーゲルが言うような死者の如き共同体成員のあるべき姿は、ある意味ではそれだけ他率的な特殊意志に忠実に横暴をする傾向性のある存在者であるということを示している。ヘーゲルの言うような理想的精神の設定に纏わるストレスは、実はそういったストレスを引き起こす背景に背徳的行為へと赴く我々自身の内的惰性性を描出しているのだ。その意味では功利主義も、平等主義も、権利問題も全てこのどうしようもない人間の他率的傾向性に対する処方としての法実践問題であるとさえ言える。トーマス・ネーゲルは平等主義を功利主義と権利の理論の狭間に位置していると考えている。しかし平等にも責任は付き纏う。ある意味では平等に与えられた権利や機会は、それを有効に活用する成員とそうでなく無駄にする成員との間に格差を生じさせることになる。&lt;br /&gt;　ヘーゲルが神の領域として無意識を設定し、人間の意識的意志のレヴェルを人間の領域としたことは無意識に全てことを運べば人間は神に操られるということを主張していることになるし、それは一面では人間の神からの自立を促すような主張であるとも言える。それは神に対しては対峙し、自己という存在を自己責任で全うする時初めて神から操られることはない、という意味では明らかに神を理神論としてではなく、裁定者として有神論としてもとりわけ人性と神性を一致させるような趣がある。汎神論者としてのヘーゲルのキリスト教的ラングに対する恭順を感じさせる一面ではないだろうか？&lt;br /&gt;　しかしネーゲルが指摘しているように結果論的な格差を生じた場合、我々は平等主義を持ち上げる。そして平等主義は結果的に恩恵に預からない者を優先することとなる。しかしそれほど困窮していない者の権利よりも酷く困窮している者の権利を常に最優先し過ぎると、今度は切迫していない者の権利は益々縮小され、逆に切迫している者の権利は益々拡張してゆくことになろう。だからヘーゲルの意識としての男性性は、実は責任の所在を明確にするという意志のことを言っているのであり、それが先述のように良心の発動をなす愛情の持つある赦免という意識（しばしばヘーゲルの言う女性性と一致する。）と対抗し得る可能性があるのだ。つまり人間が自然状態で生きることにおいて我々は時として法体系とは一致しないカントの言う他率に恭順な生き方の選択をせざるを得ない。だから逆に社会共同体で法的実効性を持つような秩序ある生活を全うする観点からは、我々は不自然な生き方を選択せざるを得ないのだ。そして人間が人間の権利を第一に考えれば、動植物や地球環境に対する配慮を疎かにすることとなり、また地球環境保全と動植物に対する保護を第一課題とすると、人間間の平等の配分は疎かになる。かつてミヒャエル・エンデは人間は社会の平和と、地球環境の保全を両立し得ない、つまりどちらかを選択せざるを得ない状況に立たされていると言っていた。かつて地球上では戦争が人間成員の数を制御していたという側面があったが、今日それをしたら、地球環境全体が汚染される（第一人間の数が多くなり過ぎて戦争を許容する余裕はなくなった。）ばかりではなく、経済社会の秩序も大幅に後退することとなる。また経済効率のみを優先すると、格差や悲惨な交通事故、あるいは公害が頻発することになるが、一方経済社会を疎かにしても社会は機能不全に陥ることとなる。つまり我々が社会秩序を構成してきた歴史とは人間の同一種内攻撃欲求に対する処方における合理主義のその都度の顕現によるものなのだ。我々がもし行為にのみ大きく依存すれば、権利の問題は拡張し過ぎ、逆に結果にのみ大きく依存すれば責任の範囲が拡大し過ぎることとなろう。行為そのものが結果に繋がる実効性を備えたものであるかどうかという判定は全てが結果に依存している以上なかなか難しい。というのもあるよい結果を生んだ際の手法が再度採用すべきものであり、それを忠実に実践しても尚我々はその手法が再び功を奏するとは限らないことを知っているが、組織にあっては、その都度の実践にその場限りに気まぐれを採用することを許すことも出来ない。そこである成功例をそのことで甚大な被害が出るまでは採用し続けるのだ。&lt;br /&gt;　例えばよい結果さえ出せば何をしてもよいという考えにおいては、倫理的査定というものの必要性が著しく狭められる。だから結果主義オンリーでやっていると、いつかは結果そのものの破綻を招くことも確かなのだ。責任はだから結果においても重視されるが、同時にプロセスにおいても重視されるものなのだ。しかし同時にプロセスさえ踏めばどういう結果になってもよいということにはならない。人間は洞窟で生活した頃も、高層ビルに生活する現在の社会でもその基本的な責任倫理においては何ら変わるところはない。よかれと考えられて実践されてきた合理主義が破綻する場合もあれば、逆に人材資質優先主義が破綻して、経営合理化をすることで活路が開かれる場合もある。そして人間が狩猟を生活手段にしていた頃の身体記憶が、どこかで競争社会の現実やスポーツや格闘技に熱中するようなカタルシスを付与しているとしたら、我々はどのようにして秩序と合理化と、それとは相反する無秩序志向的な傾向性と、非合理的な決心の折り合いをつけてゆかねばならないのだろうか？&lt;br /&gt;　部分的には我々が他者のエゴイズムを容認することを相互に理解し合うということである。そしてそのエゴイズムが個人の権利内にある場合、それを咎める必要はさらさらないのだ。ということは必要なこととは権利として認定されたエゴイズムを保証するために全成員が平等に負担をすること、それは報酬に応じた税金という意味ではなく、地球環境とあらゆる生態系の秩序を保全し、かつ我々が快適な居住を全うすることの可能な範囲で、なさねばならない全人類に共通して許され得るエゴイズムの範囲と、許されざるエゴイズムの範囲の国際的な評定基準の設定であろう。&lt;br /&gt;　西欧哲学と自然科学は神と人間と動物をも含む自然という観念で発達してきた。しかし東洋哲学にはそれとは異なった社会生活と人間関係という側面が強い。仏教だけが唯一西欧哲学同様の自然と人間の関係を問うてきたが、そこには西欧流の神の観念は希薄であったために因果律的思考が、西欧的な原因と結果というよりも縁起とか輪廻といった側面から考えられてきた。しかし孔子の儒教は先述の社会生活と人間関係という側面から教えを継続させ、それは中国、朝鮮半島、日本の官僚機構に多大な精神的影響を与え続けてきている。そのようなある種の管理機構主義的な責任は同僚に対して、周囲の人間に対して払われるものとなる傾向があるが、自然全体に対する配慮という面では等閑になってゆく危険性も常に孕んでいる。しかし神と人間と自然という西欧流の考え方を推し進めてゆくと今度は自己裁量という行為決裁に際してのエゴイズムが横行する危険性がある。事実独裁政治や自然科学技術の極端な破壊行為への加担を我々は多く目撃してきた。しかし共産主義も社会主義も独裁を多く生んできた。これは事実である。それでは責任の使用の仕方はどのようにしてゆけばよいのだろうか？&lt;br /&gt;　一つには責任の分担の仕方をより個人毎の能力と適材適所に割り振るということであろう。しかしこの遣り方にはいい裁定者が必要とされる。しかも独裁ではない形での適材適所割り振り役というのは、説明能力と理解能力を要求される。それは端的に言えば、人が嫌がる仕事の中にも喜んでする人というものがどのようなケースにおいてもいて、それを有効活用するという方法によってのみ見出せる。例えばキリスト教社会では天職という概念によって社会成員のやる気を奮発し、宗教的な契約の信条と思想を有効活用して自然科学の進歩を促してきた。産業革命も彼等の内的理解としての宗教的な信条抜きには語れない。それはマックス・ヴェーバーの謂いに拠れば、「あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励むという心情＿Ｂｅｒｆ天職＿が一般的に必要となるからだ。」（「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」（岩波文庫、６７ページより）&lt;br /&gt;　社会奉仕が責任倫理に基づいている限り我々はそれを人格とか人間性からではなく、職務的な適性において判断すべきなのである。そして職務的な適性というものはなかなか自己によっては発見され難いものなのだ。しかもそれは学校の成績とかそういうレヴェルでの評定とも極めてずれ込むのである。だから社会は有能な指導者をその人間の実績をも考慮すべきだが、同時に実績とは無関係な可能性にも賭けてみるべきなのである。しかしそういう思い切った指導者の抜擢には失敗もつき物であろう。そのような場合にはその指導者の交代をスムーズにして尚且つその失敗した指導者の後のキャリアにその失敗が影響を与えないような寛容な社会システムが求められているのだ、と私は思う。例えば一回の失敗が全てを無効にするようなケースはその責任に比例して大きくなる。だからこそ最も重い職責に応じて交代をスムーズにするシステム作りには時間をかける必要がある。そしてそのシステムに関する説明に関して要求されるのが、ただ政治家のみではなく、文筆家、科学者といった豊富な人材の登場によってなされるべきなのである。しかしそのことは一旦職についた指導者に思い切ったことをさせるべきであるという可能性を摘むことに繋がってはならないだろう。自然環境も、国際的政治秩序も、対テロ対策に関しても、全てにおいて今日危機的状況にあるのが世界であるし、我が国である。そして危機的状況に求められるべき人材とはいい意味で危機的状況を楽しむ心の余裕のある成員であろう。&lt;br /&gt;　ネーゲルの言うように「もっぱら権利にのみ基づく理論は、たとえそこに含まれる利害が基本的なものであるとしても、道徳に関係のあるあまりにも多くのことを排除している。全体としての諸結果の価値をまったく重視しない道徳的見解が正しいということはありえない」のだとしたら我々は責任の行使の仕方を真剣に討議する必要がありはしないだろうか？&lt;br /&gt;　突然暴言のようなことを言うと思われる方もおられるだろうが、私はあらゆる責任を放棄するような自暴自棄だけが難局を切り抜けることが出来るかも知れないと思っている。道徳的価値とは結果がついてこなければやはり何の存在理由もないだろう。だから権利は確かに許され得るエゴイズム以外においては一切認められないのでよい。例えばどうしようもなく記憶に残ることというのは自ら選択出来るようなものではない。そこで印象に残ること、関心があってどうしてもそこから離れることの出来ない執着心のみを残し後は一切捨て去ること、責任放棄をすること、それだけをやれば後は何を言われてもよい、という潔さではないだろうか？それこそ個人性の尊重である。&lt;br /&gt;　例えば最高権力者、CEОに求められている資質は明らかにどういう角度から切り込まれても尚責任を果たしているということである。だが実際上全てに目配せをすることは不可能な場合もある。ならば「これだけはしたいと思います。」と敢えて明言出来ることのみに責任を集中させること、これしか今のところ私には思い浮かばないのである。そしてこれは何もトップ・リーダーのみに求められている条件ではないだろう。「出来ることは出来る」と言い、｢出来ないことは出来ない｣と言うような誠実性のおいてのみ責任は果たし得るのだ。過大な期待をかけられてあるプロジェクトを任された者は「いいんですか、私のような者に一任して。私はこれ以上のことは出来ませんよ。それでも。」と明言すればよいのである。&lt;br /&gt;　何度も述べたが未来とは不確実である。だからこそ押し迫る危機的状況において、未来を想定する能力を過去に対するデータ観測という観点から人間は記憶能力を向上させてきたし、それは要するに自然という神からの恩寵である。レヴィナスは「全体性と無限」で&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私の未来は私の未来であると同時に私の未来ではなく、私自身の可能性であるとともに＜他者＞の、つまり＜愛される女性＞なのであって、可能的なものが有する論理的な本質に参入することがない。このような未来との関係は、可能的なものに対する権能には還元不可能なものである。その関係を私たちは多産性と呼ぶ。」（岩波文庫下巻、１９４ページより）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と言っている。要するに私たちは未来という不確実において、長期記憶と短期記憶を交差させながら、来たるべく未来に備える。&lt;br /&gt;　人間の攻撃欲求は直に狩猟をしたり、対立する部族を殺害したりすることから、次第に有能な官僚が無能な官僚に対してコノテーションを採用して嘲笑したり、メールによる嫌がらせをしたりという風に間接的な方法において原始的な欲求を解消してきている。この巧妙化された揶揄も、実際は古典的ないじめとも原始時代の野生的な捕食者に対する攻撃的パワーと本質的にはその向かうエネルギーとその力においては何ら変わるところはない。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　多産性とレヴィナスが呼ぶものこそ、決定猶予であり、決意前の逡巡の付与である。　&lt;br /&gt;　決定しているのにもかかわらずそれに即座に取り掛からないのは、ある意味でもっとよい方策があるということを意味する。例えば私たちは常に最良の選択をしたいと願う。しかし同時に何かに差し迫っている場合、付け焼刃的でやっつけ仕事的なことでもこなさなくてはならない。そこで緊急の処方を採用するわけである。しかしもしその緊急性が解除されれば、通常私たちはもっと時間をかけて結果を引き伸ばししようとするかも知れない。しかしそういう時でも実は我々は緊急な時と同じように人生の時間は無為に過ぎていっているかも知れないのである。時間をかけて決断すべき事項と、そうではなくなるべく早く片付けたほうがよい事項というものはあり、その判別が最も難しいのである。&lt;br /&gt;　殺人でも詐欺でもそれを意図的にしたか、計画的だったのか、過失だったのかという判定がその罪状の被疑者の判決、刑期の長短に影響する。そして経済社会全体からすれば、あらゆる決裁は早期になされるべきであるが、人権という立場からはあらゆる裁判は時間的余裕を確保する必要性がある。&lt;br /&gt;　ギルバート・ライルは現代哲学者の中でもとりわけデカルト的な視座を持って、古典的な命題に挑んだ先達だったと言えるだろう。彼の行動主義哲学と呼ばれた考えも、その実人間は行動と行動外の心的な作用とを峻別し得るという知性レヴェルでの認識論から派生したものであり、私は人間が百％行動を心的な作用と切り離してし得るとは思わないし、またそのようなことを持続することは不可能であると考える。そのことはともかくとして、ライルが語っていることの多くは責任倫理への問いであるということを示してみたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ある人が何を読んでいたかということにその当人自身が気づいていないか否かということを知りたいと思うときには、われわれは、一般には、読了後間もなく彼に問い質すことによってその問題に決着をつけるということで満足する。たとえば、彼がその章の要旨や言い回しについてわれわれに何一つ話すことができなかったり、彼が最初の章と矛盾するような文章を読んでも「これは前の部分と矛盾している」と不平を漏らさなかったり、あるいはまた、最初の章においてすでに述べられていることを再度告げられたにすぎないにもかかわらずその記述内容に驚くというようなことがあったりするならば、そのときには、彼がその間に脳震盪を起こしていたとか、今心が乱れているとか、あるいはまた寝ぼけているというようなことでもない限り、われわれは彼は自分が読んでいるものに注意を払っていなかったと確信するであろう。このように、読んでいるものに注意を払っているということには、上述のような、読了後に行われる若干の「テスト」に首尾よくパスする用意ができているということが含まれているのである。同様に、われわれは、ある種の事故や事故寸前の状態が生起するならば、その運転手は用心していなかったのであると確信するであろう。したがって、用心するというようなことにはある種の緊張事態に対する備えができているということが含まれている。&lt;br /&gt;　しかし、問題はこれからである。一方において、留意動詞として分類することはできないがしかし類似の傾向性的性質を表現する過程動詞process verbsが数多く存在するという事実がある。たとえば、「彼は今死に瀕している」、「．．．．．へ来つつある」、「衰弱しつつある」、」「彼は今催眠術にかけられている」、「麻痺している」、「免疫のある」、などは一面においてすべて事象を報告してはいるが、それにもかかわらず、それらの報告が真であるためには彼の将来に関するあるテスト可能な仮言的言明が真でなければならない。他方、ある人に対して何ごとか心に傾けるように命令したり、依頼したりすることもまた可能なのである。ところが、彼に対してあることができるように命令order him to be able to doしたり、あることを行いそうであるように命令order him to be likely to doしたりすることは不可能である。われわれはまた、注意深く読書する場合の方がそうでない場合よりも疲れるという事実を知っている。このように、われわれはまた、注意深く読書する際にはたしかに一方において傾向性的な事柄を述べているのであるが、他方において挿話的な事柄を述べているということもまた明らかなのである。すなわち、われわれは、彼自身の行為をある気構えframe of mindにおいて行ったということを述べているのである。その気構えがいかなるものであったかという点に関して詳細に述べるためにはいかなる仕方で行為しうるかということなどを述べなければならないが、その気構えにおいてなされる彼の行為自体は生起の時間を示すことが可能な種類の事象なのである。」（「心の概念」みすず書房刊、１９６～１９７ページより）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ここで述べられていることは哲学が意志、欲求、信念といった、外在主義的な視点から言えば極めて曖昧な概念規定に依拠せずに、行動とそれを誘引する気構え、備え、決心といった内的理解を、結果論的になされた行為にのみ依拠して、考察すべしという主張であったと思われる。なぜそのようなことを哲学上でする必要があったかと言えば、エイヤーも必死に初期著作で示したような西欧形而上学の伝統において行動とか表出とか現出とかは、その背後に真理とか本質を隠し持っているという考えが払拭されずにきている（フッサールでさえそういうところはある。）ということに対する痛烈なるアンチ・テーゼなのであった。しかし責任ということは意志、欲求、信念といったものとも重なる部分を持ちながら、同時にそれら全てをどこかで支えてもいる。何故なら責任があるからこそ意志を持ち、欲求を生じさせ、信念を構成すると思われるからである。&lt;br /&gt;　哲学では先述のライルのようなあらゆるイズムを産出する前提条件として批判対象というものがあるが、これらに対する受け答えとはそれ自体で一つの攻撃である。攻撃欲求は形を変えて思索にも、思想にも、哲学にも人間社会に適用されてきている。哲学では懐疑主義者はとか、実際に該当する人物がいなくても、仮想敵として設定して論議を進めることがしばしばだ。それは内的理解としての攻撃欲求という感情を我々が行動で解消するためには、実際の狩猟対象ではなく、仮想の狩猟対象を設定しなければそれ以上の進展がないからである。ライルに関しても、ある程度の実在の敵をも想定していたであろうが、仮にそういった当該の人物がいなくても尚彼は仮想敵を産出していたであろう。そしてそれはライルがデカルト主義的な心と身体の二元論に対してアンチ・テーゼとして示した「心の中の幽霊」というデカルト的考えを否定するためなのであった。そして今までライルに関しては触れられてこなかった一面とは、彼が責任倫理として、「いかに内的理解としてはイノセントであれ、行動に移した結果がイノセントでなければ、それは内的理解であってもただの思念（カルヴィン流に言えば思考）でしかなく、行動に移す構えとか意志が実際は意識に浮上していたわけではないだけのことなのである。」という主張を先述の記述でなしている、と捉えることが可能である。それはライル流の哲学史的な責任の取り方なのだった。そして何故そのような責任を彼に取らせたかと言えば、それは未来は依然どのように科学技術が進歩しても尚不確実なままであり、その不確実性に立ち向かう時には、行動されたこと、意志的顕現として行為選択されたものを、その予兆として構え、備えとして理解することを通して未来へと拮抗してゆくしかないと哲学者たちが自覚していたからである。&lt;br /&gt;　構えとか備えといった心の状態は、そういう構えとか備えを常住させる傾向性の所在をも意味する。責任というものの本質には、それを巡って賠償したり、追及したりすることがあるが、要するに責任を取ることが出来る（たとえ金銭的にその時点で弁済することが出来なくても）成員に対する能力の承認がある。だから心神喪失状態での犯罪には罪責が課せられないという現実もあるのだ。そして責任能力とは即ちその成員の良心（特に共同体に対する）の認可である。もし敵対する成員であれば、戦争状態という事態もあり得る。その場合戦争対立国同士で殺しあったとしても良心を縮小してでも敵対国人を殺害することが正当化されることもあるだろう。だから責任を課せられる義務性は即ち成員としての認可に他ならない。責任を中心とした反省と後悔はそのまま共同体へと向けられた良心と、それを支える理性（あるいは理性が良心によって支えられる）によって存在意義を付与されている。そして責任を課せられる時点で、その責任を放棄した時に、その説明を強制的に求められるという事態をも引き受けることである。説明を求められるという事態には、責任を有する成員全員が共通して同意した事項、それは法体系であれ、言語であれ、要するにそれらに対する理解を前提としている。理解という心的状態とは、ある反復されて痕跡化されたカルヴィンの言葉を借りれば時空パターンとしてクローン化されたものでもあり、ニューロンの発火パターンによるクオリアかも知れない。既在性の確認である。&lt;br /&gt;　しかし主体的な理解は理解した者の関心事項から喚起されているので問題はないのだが、しばしば現実には理解することの多くが、致し方なく理解しているということである。例えば業務内容に対する理解、人間関係的な事項、とりわけ社会組織上での重要な上役をはじめとする人間の性格に対する理解とか、要するに主体的に楽しむような理解ではない理解という奴がビジネス上の場面では大半を占める。だから当然説明という行為も、説明する方も責務的な感情でしているわけだし、説明される側も職務的、義務的履行性において説明を理解しようとしているわけである。そして説明されるということは仕事でもそうであるが、師匠が弟子に何かを伝授するという場面でもしばしば見られる。これは何かを習得しようとしているわけだから、楽しいばかりではないが、そうかと言ってそういうことをして習得することとか、その後に得られる喜びのために半ば強制的に自己を縛るということを人間はする。そしてそういった説明する、される、それを理解させようとする、理解しようとするということにおいて洋の東西はない。しかし人間は一方で責務を鬱陶しいと思いながらも、それに付き従い、社会に一定の地位を確保し、安定を望みもする。その典型的な行為は「住む」である。住居の確保はそれ自体でステイタス・シンボルである。これは社会の成員としての資格を得た者である証明であると同時に、個人性（プライヴァシー）を確保することを権利上認められていることを意味する。ここに次のような図式が認められる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;責務（追随的心理）（鬱陶しさ）＜孤独確保意識＞←→　反発（冒険心）（爽快さ）＜集団同化意識＞&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　↓&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;永住（プライヴァシーの確保）　　　←→　　挑戦（転職）（パブリック＜対他的＞な意識）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ワルター・ベンヤミンは「パサージュ論」において、１９世紀ヨーロッパの退廃をより顕著に反映していたパリの都市像を、住居、ビジネスビル、家具、装飾品といった文明としての象徴的な事物に着眼して、その時代のモードを痛烈に風刺した。彼の視点は我々人間が要するに対他者攻撃欲求と、他種への狩猟欲求を沈静化するために、都市文明を構築し、その攻撃欲求の矛先を知性へと転化してきたのだが、その実代理欲求として他者への優越性、ステイタス・シンボルを渇望することにおいて他者への虚栄心を常備するという事実に対して向き合ったということである。ベンヤミンの引用のパラダイムとしてのテクストは幾分ヨーロッパ人の自嘲意識が息衝いている。それはモードという認識が、古代から中世、近代を通過しながら、何らその実相を人間の無意識では変えてこなかったという事実に対する認識でもある。そしてその実相とは何か、それはピア・プレッシャーに他ならない。集団同化意識というものは孤独確保意識と裏腹であり、一人になった時、人間は責任から一番離れているようでいて、最も未来に向けて責任を実感するのである。寧ろ集団でいる時ほど一人になりたいと思う時はない。近代におけるピア・プレッシャーが「パサージュ論」に封じ込められているとしたら、古代のピア・プレッシャーを封じ込めてきたのが「論語」世界であろうが責任倫理に目覚めた時に最も痛烈に脳内に救わせる意識こそピア・プレッシャーである。&lt;br /&gt;　孔子にとって人生における最も重要課題は立身出世であり、政治的地位確保であった。そしてそれは叶わなかった。つまり孔子の思想の根幹に横たわっているものは、野望の実現に対する挫折に他ならない。そして彼はしばしば弟子に愚痴を言った。そういった屈折した遣り取りの中からは彼は後世に残る道徳律を発見したのだ。道徳的真理の発見はセレンディピティーによるものだったのだ。&lt;br /&gt;　人間は他者への攻撃欲求を、所有欲求（そこに社会的地位も含まれる。）へ転化し、その代理物を通して暗黙の内に他者へプレッシャーをかけることで自己内に燻るストレスを解消しているのだ。偉業を成し遂げた者や、職業的知（職人とか、科学者とか、医師）をモットーとする者は住居に神経をあまり使わない場合もあるが、そうでない者は住居に神経を使う傾向があるかも知れない。せめて住むところくらいは、ということである。（尤も芸術家＜特に作家、美術家関係＞は、住居に金銭をかけるというよりは、快適で自然のよさを活かした住居を好む独特の傾向が見受けられるが。）しかし孔子の時代における官僚同士の人間関係も、ベンヤミンの時代の退廃文化を支える市民の人間関係も、他者攻撃欲求を所有によるプレッシャー（暗黙の所有誇示）によって欲求充足を図っているという点では何ら変わらない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-58255474807411121?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/58255474807411121/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_12.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/58255474807411121'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/58255474807411121'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_12.html' title='〔責任論〕　結論　責任能力と抑制性①'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-8315073335684500607</id><published>2009-11-08T02:37:00.000-08:00</published><updated>2009-11-08T02:47:39.401-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕十三章　事物に対する静観と他者への配慮</title><content type='html'>　責任という意識が固有の状況としてではなく、ある意識と記憶と感情の三角形自体を支えるシステムとして内在した時、我々は外界の事物を初めて意味あるものとして理解することが出来る。川を見れば魚やプランクトンたちが泳ぎ、森林や平原に生える植物に恵みを齎しているのだろうとか、空を仰ぎ見れば雲となって上昇する気流が再び雨を降らせることとなる循環作用や、天体を観測するのに有効な世界として認識させることとなる。つまり自分と直接関わりのあるものと、そうではないが、この世界に存在する事物があり、それは何らかの作用を持って他の事物や他者にとって恵みとなったり、脅威となったりしているのだろうな、という認識を生じさせる。だから事物が直接自分や自分を巡る周囲の他者にとって脅威とならない範囲で我々はどのような事物に対しても静観を決め込むことにする。だが今日世界の情勢を一瞬で知り得る時代になっても尚、我々は一々世界中の悲惨な出来事に対して自分のことのようには思わなくなっている。それはデズモンド・モリスが指摘しているように人間は精精百人くらいの他者さえ自己を巡る世界において介在しておれば、それで自分にとっての必要事項は満たされるものなので、その他国の悲惨が自分の周囲の、あるいは自分の住む国の経済や社会情勢に極端な脅威とならない限り静観をそこでも決め込む。それは他者に迷惑をかけないように配慮する意識と、他者には干渉しないことで自分に火の粉が降り懸からないように配慮する意識が抱き合わせになっている証拠である。しかしウリクトも言っているように本来行為とは自然に干渉することであるなら、何もしないでいてイノセントであるような自己弁護とは実は逆に善をなすことも何もないということを意味するのだ。そのことは本章で取り上げる問題と密接に関わっている。&lt;br /&gt;　先日映画「不都合な真実」を見た。デイヴィス・グッゲンハイム監督作品で２００７年３月１４日年度アカデミー賞ドキュメント映画賞を受賞した話題の映画である。この映画では元副大統領で、２０００年大統領選で敗退した政治家アル・ゴアが映写映像をバックに地球温暖化を力説するものである。京都議定書ではアメリカとオーストラリアだけが反対の意を唱えたのだが、今日急速に広がりつつある地球温暖化の実害を直に映像で示しその脅威を訴えるのが議定書で反対した同じ一アメリカ人であるという皮肉に私はある種の真実の矛盾した姿を見た。&lt;br /&gt;　日本は文化伝統的に捕鯨を除き、それほど野生動物に対する狩猟はヨーロッパやアメリカほどは盛んではない。そのことは逆に日本では動物愛護精神が根付かない理由ともなっている。例えば最も動物実験を初めとして、あらゆる狩猟の盛んな英国ではナショナル・トラスト等による動物愛護運動は日本よりもずっと盛んである。一方で肉食習慣の日本よりずっと定着した欧米では、恐らくペット動物に対する虐待は日本よりも少ないのではないだろうか？そういう意味では日本人はウリクトの言うような意味ではそれほど個人的なレヴェルでは自然に干渉してはいないようだが、それが国家レヴェルとなると、やはりディーゼル規制をしてはいるもののそれまでは実害を撒き散らすことに貢献してきたのだろう。つまりヘーゲルの言う正と否の弁証法の論理から行けば、ある行為を価値とすることは、その行為の反対の行為に対する認識によって逆に弁別を明確化するのであるなら、我々は美しいという観念を逆に醜悪な現実に対する直視によってのみ実現出来ると認識すべきなのである。鈴木大拙は平安時代の雅を本質的な意味では日本人が実存に目覚めてはいないという現象として捉え、鎌倉時代以降初めて日本人が真実に醜悪と対極にある美を進化させたのだと捉え、それは死生観が本質的に定着したのが、却って平和なだけではない動乱の鎌倉期以降だという認識を持っていたが、これなどはある意味では醜悪さを知った上での美化精神の定着という意味ではアメリカ人の手になる世界規模での地球温暖化運動への提唱という現実とオーヴァーラップして極めて興味深いものがある。&lt;br /&gt;　さて事物を静観することもまた、ある意味では事物に対する自己欲望の果てしのないエゴイスティックなまでの攻撃性と破壊性によって自覚され得るものであり、その意味では自然と共存するという観念（かつての日本人的な）では決して真に静観という姿勢は生まれ得ない。禅を哲学思想にまで高めたのはある意味では西欧人だったかも知れない、というような意味で我々は静観することの本質的な意味を静観出来ず、干渉することだけで乗り切ってきた人類史的な観点から改めて捉え直さねばならない。&lt;br /&gt;　そのための一つの方法は、我々が個の成立過程において共同体の果たす役割が甚大であったことの本質が逆に集団による烏合の衆的な意味での集団ヒステリーとか集合的無意識とか、群集心理とかのレヴェルからの脱却として秩序ある共同体という倫理の形成過程において、改めて個の意味を捉え直す必要がありはしないだろうか？その時ヘーゲルの哲学の視点が再考を迫られるのである。少し長いが「精神現象学」内の一連の記述が第八章に引用したシュレーディンガー的世界観とも重複する視点を抱いていることを示す意味で引用してみようと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「共同体のなかでの家族のありかたは自然発生的だと定義できるとしても、家族の成員がうまれながらに家族をなし、その関係が現実の個人のあるかぎりでは、家族の内部に共同の世界がなりたっているということはできない。共同体精神は個を超えるものであり、うまれながらの関係といえども、その本質からして精神的なものであって、精神的であるからこそ共同体とかかわるのである。家族という精神世界に固有の共同体精神とはどういうものか、それを見ていかねばならない。&lt;br /&gt;　第一に、共同体はもともと全体とかかわりをもつものだから、家族の成員の共同体的なものが認められるべきで、その際、成員の現実の行為は、家族の全体を目的とし、内容とするのでなければならない。しかし、行為が家族全体の際、成員の現実の行為は、家族全体にかかわるような目的を意識的に設定したとしても、目的全体はあくまで個別的である。権力と富の獲得や維持は、必要やむをえぬ行為だったり、欲望に発する行為だったりするにすぎない場合もあれば、さまざまな要素が入りこんできて、もっと高度な志がそこにこめられる場合もある。が、そこに見られる高度なる志なるものは、家族にふさわしいものではなく、真の普遍的存在たる共同体にこそふさわしい。それは家族を否定する傾きをもち、家族から個人を追放し、個人の自然な個性を抑圧し、個人を、全体のなかで全体のために生きる、有徳者にしようとするのだ。（集団内での理想的成員の設定＜著者注加入＞）&lt;br /&gt;　家族に特有の積極的な目的とは、個別的なものである。それが共同体的なものになるには、行為者も行為の受け手も、なんらかの援助行為やサービス行為の場合のように、偶然そこにかかわったというのではいけない。共同体的な行動の内容は、秩序にかない、全体と関連するものでなければならない。したがって、その行動は個人の全体とかかわるような、いいかえれば、共同存在としての個人とかかわるようなものであるほかはない。といっても、あるサービス行為が個人の幸福を全体として個人を高めると頭では思われているが、現実にそれが目の前にあらわれてみると、個人の一面にかかわりをもつにすぎない、というのでは困るし、一定の順序を踏んでなされる教育行動が、個人を全体として対象とし、それなりに成果をあげながら、しかし、それは家族を否定するという目的にこそふさわしく、それ以外の面では、現実の行動として限られた内容しかもたない、というのでも困るし、最後に、まったく偶然の緊急行動によって個人がまるごと救われたといった場合も、共同体的行動とは考えにくい。そんな行動の機会は狭い日常世界のどこにでも転がっていて、行動としてあらわれるかどうかは状況しだいなのである。&lt;br /&gt;　したがって、血縁関係の全体を包括し、血縁でつながる個々人＿家族とは別次元にある市民や、特定の個であることをやめて市民たらんとする個人＿について、感覚的で個別的な現実を脱却した共同存在としてかれらをとらえ、そうした個々人を対象ともし、内容ともする行動は、もはや生者を相手とする行動ではなく、死者を相手とする行動でなければならない。なぜなら死者は、長く続いた多面的な生活をおえて、感覚的で個別的な現実を脱却した共同存在としてかれらをとらえ、そうした個人でなければならない。なぜなら、死者は、長く続いた多面的な生活をおえて、完結した一形態におさまり、偶然に左右される不安定な生活をぬけだして、単一で安定した一般的なすがたをとるに至っているのだから。＿個人は、市民となってはじめて現実の共同体にかかわるのだから。市民ならざる家族員としての個人は、非現実の、力なき影なのである。」（長谷川宏訳、作品社刊以下同、３０３～３０４ページより）&lt;br /&gt;「共同体秩序は精神がそのままそこに真理としてあるすがただから、意識の分裂した二側面も、そのままそこにあるというかたちをとるのであって、個としての肉体は抽象的に否定され、その否定を個人は外面的な現実の行動を通して、本質的に慰めも和解もない事実として受けいれねばならない。そこで、血縁者のなすべきことは、抽象的な自然の運動を補って、それに意識の運動をつけくわえ、自然の行為に介入し、血縁の死者を破壊から救いだすこと、もっと適切にいえば、破壊されて純粋な存在となることが避けられないものとすれば、破壊の行為をみずから引きうけることである。&lt;br /&gt;　それによって、死んだ共同の存在が自分のうちに還ってきて自立した存在となり、ただ個物としてある無力な死体がみんなに認められた個人となる。死者は、その存在がその行為や否定的な統一力から切り離されるから、空虚な個物となり、他にたいして受動的に存在するものでしかなくなって、すべての低級な理性なき生物や自然の元素の力の餌食になる。理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっているのである。無意識の欲望や元素の抽象的な力にもとづくこうした死者陵辱の行為を防ぎとめるのが家族であり、家族はみずから行為を起こすことによって血縁者を大地のふところに返し、不滅の原始的な個たらしめる。それによって、死者は共同世界の仲間に引きいれられるので、この共同世界は、死者を思うさま破壊しようとする元素の力や低級な生物を配下におさめ、その力を抑制するのである。&lt;br /&gt;　この最後の義務こそ完全な神の掟であり、個人にたいする共同体の積極的な行動である。愛を超えるような共同体的広がりをもつ他のすべての行為は、人間の掟の属するものであって、自然発生的な共同体（家族）に現実にとりこまれた状態にある個人を、そこから脱出させようとするものである。ところで、すでに見たように、人間の正義の内容と力が、現実の意識的な共同体秩序＿民族全体＿にあり、神の正義と掟の内容と力が、現実の彼岸にある個人＿死者＿にあるとすれば、死者が無力なのは当然である。死者の存在は純粋に抽象的・一般的な、元素にもどった個であって、かつて元素たることを脱却して、みずから民族の現実の一員たることを意識していた個人が、その掟でもあり土台でもある純粋な元素へともどっているのだ。＿そうした死者の存在が民族のもとでどう表現されるのかを以下で見ていかねばならない。」（３０５～３０６ページより）&lt;br /&gt;「（前略）性のちがいとその共同体的な内容のちがいは、あくまで共同体秩序のうちに統一されているので、ちがいにもとづく運動が、まさに統一をたえずうみだす運動となっている、男は共同体のうちに全体を支える秩序と土台を見いだすが、逆にまた、共同体は家族こそおのれの現実を支える形式的な場であり、神の掟こそおのれの力を確証するものだと考える。どちらも一方だけでは欠ける所があるのだ。人間の掟＿地上を支配する、意識的で、間接的な掟＿は、神の掟＿地下を支配する、無意識の、直接的な掟＿に発して、生き生きとした運動を経て生じ、やがてまた、出発点へと還っていく。他方、地下の権力は地上に出て現実のものになり、意識によって存在へと活動をあたえられるのだ。」（３１０ページより）&lt;br /&gt;「こうして共同体王国は、一点のしみもない、いかなる分裂にも汚染されることのない世界として存続する。同様に、その動きも、一つの権力からもう一つの権力への安定した移行であって、両者はたがいに守りあい、うみだしあう関係にある。世界が二つの本質と二つの現実に分割されるかに見えるが、その対立は一方が他方を確証するような対立であって、両者が現実の権力として直接ふれあう中間地帯においては、二つが直接に浸透しあっている。一方の極をなす意識的な共同体精神は、反対の極をなす無意識の精神＿共同体精神に力と場を提供するもの＿と、男の個性を通じて一体化している。反対に、神の掟＿個人の無意識の精神＿は、女の個性のうちに存在をあたえられ、女を媒介にして非現実から現実へ、無知から無意識の領域へと登場してくる。男と女の統一が、全体を動かす中間項であり、神の掟と人間の掟への分裂をもう一度そのまま統一する場となるのであって、神の掟と人間の掟をめぐる三項関係も、男と女をめぐる三項関係に帰着する。そして、現実から非現実へ＿さまざまな組織にわかれる人間の掟から死の恐怖へと確認へ＿逆にまた、地下の掟から白日の下にある現実や意識された生活へ、という二つの運動＿前者が男の役割で、後者が女の役割だが＿、対立するこの運動が、そこで一つに統一されることにもなるのである。」（３１２～３１３ページより）&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　ヘーゲルの視点は、共同体を個的な特殊意志のレヴェルから言えば、個滅却的な無個性的で死んだ意志の寄り合いと捉えている。そして意識界を人間の掟として、無意識界を神の掟として前者を男性性として、後者を女性性としてと捉えているところがユニークであるが、彼にあっては共同体への奉仕はある種自己犠牲への投身であり、投企とはまさにそのことである。また３０５～３０６ページの叙述は明らかに無個性的な個として参入した社会共同体においては、死んだ個を再生させるものとして家族の愛を位置付けている。これは裏を返せば、家族の愛を受けている者であれば、逆に社会に奉仕することにおいても他者への愛を注ぐことが出来るという主張でもあり、キリスト教的な汝の隣人を愛せよという謂いとも繋がるが、つまりは個的な他率に感けた特殊意志から脱却する一つの処方としても家族の愛を、そしてもう一つは社会全体への契約（それは神への契約でもあるのだが）として奉仕しながら同時に家族の愛を権利として要求することで、社会からも賞与を獲得し、社会に幸福を還元するという思想がある。しかしその根底には家族の愛のない成員には社会に対して死者への陵辱という表現に該当するが、他の成員、つまり他者への攻撃欲求という本能を直接ぶつけてしまう可能性をどの成員も秘めている（もっと有体に言えば犯罪者に転化し得る可能性）ので、良心を他者にまで拡張するためには充実した家族を持ち、幸福の権利を追求しなくてはならない、という思想が横たわっている。つまり家族の愛情を注ぎ注がれている成員には他者に対しても良心を発動することが可能であるという暖かい合理主義がそこに垣間見える。&lt;br /&gt;　この考えはシュレーディンガーの言う自己と他者の違い、そうした精神的存在者の中にある素朴な疑問は、しかし自然界を見渡して見ると、自己の周囲のどの事物も、事物なりに充足しているが、その充足は何らかの変転の後に不動点に達し、それ以外の逸脱を潔しとしない、そして例えば一個の岩石でさえ何らかの衝突物によってその不動性を破壊されるかも知れない未来に対する不確実性こそが、現在の不変を維持している、つまり現在なりに負い目のない未来への備えとして存在しているという観念を再び想起させずにおかない。「異」性は「同」性によって異化され、無化され、同化され、一体化されるということである。そしてそれこそが責任という考え方が発生する現場であると同時に、実は責任という考え方が基本に理性発生と同時にあるからこそ、他者へ向けられた良心と愛情の眼差しの拡張が叫ばれるわけである。&lt;br /&gt;　勿論共同体とヘーゲルが言っているのは歴然とした近代国家を前提としたそれであるが、他者へ向けられた良心の発動と、そのことによる奉仕の見返りとしての個人生活の権利要求という現実は恐らく言語獲得した段階から人類は発生させていたと私は考える。なぜならそのような集団と個の論理が内的に各成員に自覚されない限り、言語行為としての能力が人類全体に波及するとはとても思えないからである。勿論発声秩序とか、所有の概念とか要するに初期的な認識は言語獲得以前的にも考えられるだろうが、語彙と品詞とシンタックスという観念は、ある程度複雑な心的様相としての内的理解なしには不可能である。そしてヘーゲルの叙述の指摘するところはあながち初期人類においても考えられないことではないと私には思えるわけである。&lt;br /&gt;　しかし今日から見るといささかヘーゲルのジェンダーロール的な認識から喚起される比喩は時代遅れな感を我々に抱かしめるものの、女性の方が男性よりも平均した大脳皮質の体積が男性よりも二割程度小さいので言語習得を主に統合する大脳左半球（左脳）を中心の体積比が大きく故に外国語語学は女性の方が習得しやすいという可能性も脳科学では考えられる（男性の方がやや左半球優位性であり、女性はその逆である。）のでヘーゲルの比喩はあながち間違いではなく一つの示唆は我々に与えてくれる。しかし男性が左脳中心の判断であることは、事実女性よりは価値論的に左脳判断をなすことがあり得るので、男性性を意識、女性性を無意識としたヘーゲル解釈はそういう現代脳科学を予感していたのではないかと思わせる面からは実に興味深い。&lt;br /&gt;　しかし問題となるのは責任倫理とは右脳的判断であるのか、それとも左脳判断であるのかということだが、それはいずれ脳科学が解明してくれることを期待して先へ進もう。&lt;br /&gt;　責任が他者への配慮となっているということは、例えばペーパーテストを採点する先生の担任する生徒の中に自分の息子がたまたまいたとしても、彼は自分の生徒に課したテストの採点で自分の息子だけ贔屓するわけにはゆかない。そういう意味ではこういう場合には文学賞の評定基準以上に主観は入り込む余地はない。そしてそれこそが責任である。だから良心というものが責任を伴って発動されるのは本来親しくはない成員、あるいは好きではない成員に対してある種の贔屓とは逆の感情で排他するような態度を採ることは許されない、そういう風に理性的に考えることが良心の起源ではないだろうか？つまり自分の親族に対する身贔屓を他者に拡張し、それだけに留まらず、自分の親族でさえ、他者と比べて劣った判断をし得るようなケースでは他者を支持し、自分の親族の方に非があると主張するような判断を正当化する内的理解であると言える。そしてそこに初めて平等という観念が発生する場が与えられる。&lt;br /&gt;　何度か登場願った理論脳神経学者のウィリアム・カルヴィンは「思考は、感覚と記憶が結びついたものだ＿あるいは別の見方をすると、思考はまだ起っていない（そして決して起らないかも知れない）行動のことだ。それはつかのまのものであり、ほとんどが短命である。これは何を物語っているのだろうか？」（「知性はいつ生まれたか」１９７ページより）と言っているが、まさにこれこそが言語発生の根拠であると言える。そして言語は言語化された途端に責任を発生させる。例えばある意見に同調したり、ある意見に反意を示したりすることはそのまま政治的発言そのものであり、責任を伴う。そして責任の基本的なスタンスが平等によって裏打ちされていることを哲学者のトーマス・ネーゲルは次のように語っている。&lt;br /&gt;「（前略）権利は、そうする代わりに行為を直接に制限するのである。各個人は、たとえ彼自身が他人の権利を少しばかり侵害することによって、間接的に権利の侵害の全体数を減少させることが可能であるような場合でも、直接的に他人の権利を侵害することを禁じられている。（ここら辺はまるで大人数によるいじめを否定しているかのようだ。＜著者注加入＞）このような行為者中心的な制限に説明を与えることはむずかしい。解釈としてそれについて言える一つのことは次のことである。すなわち、それは権利の侵害を最小にすることはどんなことでも行うように要求する原理よりも、高度な道徳的不可侵性を表現している、ということである。というのは、もしそれがその種の原理であるならば、権利の侵害は常に悪であるとは限らないからだろうからである。他のいくつかの殺人をさけるためであっても殺されない権利という道徳的権利要求は、殺人を単に大悪と見なすだけの主張よりも力強い。というのも、前者は後者ならば許すであろう殺人を禁じるだろうからである。後者の方が前者よりも多くの殺人を避けることを可能にするかもしれないとしても、やはりそうなのである。（ここら辺は東南アジア某国のような状況に対する批判にもなり得る＜著者注加入＞）しかしこのことは、行為者中心的な諸権利を説明するのにはそれほど役立たない。真の説明ならば、保護される利害だけでなく、行為者と、彼が特定の仕方では扱われないように＿たとえ非常に望ましい目的を達成するためだとしても＿強制されている人物との関係をも、考察しなければならないだろう。何が起こるかへの関心に対立するものとしての、人が誰に何をしているかへの関心は、不十分にしか理解されていない倫理学の重要な源泉なのである。」（「コウモリであるとはどのようなことであるか」中、平等１８０～１８１ページより）&lt;br /&gt;　つまりここではヘーゲルが言った死者を相手とする行動という極度に主観を排除した客観的基準が責任には付き纏うのだ。しかしそれが法哲学的なディタッチメントである。法はいかなる矛盾を孕もうとも例外を許さない。もしあらゆるケースにおいて法を例外を認めることにおいて正当化し得るのなら平等も、公平も、正義も成立しないことになる。その都度権力による丼感情が横行し、やがてそれは人治主義となってしまう。だからもし法的執行にあまりにも例外を適用しなくてはならないとしたら、その法は改正すべきなのである。しかし本質的に社会を築きあげるという事態には自然に干渉する行為性が付き纏うので我々は事物を静観するだけの猶予は与えられてはいないのだ。つまり何らかの反応を行動で示す必要があるのだ。これはウィリアム・カルヴィンが思考の短命性として堤示した記述の根本的な主張である。責任ある行動という投企をなして初めて我々は権利を主張することが可能なのだ。しかし自然へと干渉するような人工的な意図があればこそ、我々はその自然への干渉を意義あるものにするためにも、他者と折り合いをつけ、他者存在を相互に配慮し合う必要性があるのである。&lt;br /&gt;　次章の結論では「不都合な真実」によって示されたような地球規模の環境破壊の元凶である人間の攻撃的欲求を狩猟本能と、それに対する克服過程として言語を位置付けながら、秩序というものは何なのか、調和というものとは何なのかという観点から考えてみよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-8315073335684500607?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/8315073335684500607/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_08.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/8315073335684500607'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/8315073335684500607'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_08.html' title='〔責任論〕十三章　事物に対する静観と他者への配慮'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-9208705542073612193</id><published>2009-11-05T05:57:00.000-08:00</published><updated>2009-11-05T06:17:26.384-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕十二章　記憶能力が形成するもの</title><content type='html'>　私達は未来が不確実であることを知っている。何故だろうか？それはある意味では記憶能力を発達させたから、とも言える。しかし同時に未来が不確実であることを知ったから記憶を発達させたとも言えるのだ。未来が不確実であるということを知るということは未来を想像する力があることである。未来を想像することが出来るということは現在における知覚をなしながらも、その現在性の中には過去から引き継がれたものと過去と断絶したものとの対比で現在を知ることが出来ることであるし、且つそのような過去から現在の流れを知ることを通して未来を想定することが出来るが、同時にそのあらゆる可能性、あるいは自分で想定する可能性外の出来事が不測な事態として起り得ることをも知る、つまり未来の不確実を知るということに他ならない。要するに記憶とは記憶した出来事に対する解釈を含み、そこには現在知覚時における表象とはまるで異なった出来事に対する印象、感想、解釈を通した全く別個の記憶内容（それは同じ事件に関する記憶でも人それぞれ違うということを意味する。）を持つことを意味する。&lt;br /&gt;　意識に忠実なこととは現在の知覚がクオリアを通して顕現されながら、原像としてだが、それが想起契機として有効活用されることである。記憶は哲学者の言う欲望、あるいは脳科学者の言う情動、つまり広義の感情が支配するのだ。それは全部個的なことである。&lt;br /&gt;　反省意識というものは記憶を手助けするし、同時に記憶によって形成されもする。そして反省とは後悔の念が作るとも言える。そして責任という概念は明らかに失敗が先験的に存在しているのだ。失敗のないプロセスにはプロセスという認識も生じなければ、後悔という念も生じ得ようもない。失敗があり、後悔があり、反省するからこそ責任という認識に意味が生じる。ここに次のような図式が与えられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　↓　　　→責任‐記憶←　↓&lt;br /&gt;後悔‐反省　←→　　欲望‐想定&lt;br /&gt;　　↓　　　　　　　　　　　↓&lt;br /&gt;記憶　　　　←→　　　　　願望&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　記憶はこの中でもとりわけ重要であり、これがなければ意識もあり得ない。というのも現在知覚というものはどのような動物でもあるが、その現在を、現在であると意識させるものこそ記憶だからだ。記憶は海馬が例えば場所の記憶などを司り、尾状核が行為的な手段の記憶を司ると言われる。（場所学習と反応＜てがかり＞学習）例えば会社に行こうとする。その時会社の場所とか道順は海馬が、そして切符を買ったり、横断歩道を渡ったりするそれぞれの手段の記憶は尾状核が司るわけだ。しかし不覚なことにも我々は会社に遅刻したり、切符を間違えて買って、乗り越しに気が付かなかったり、切れた定期を使おうとすることがある。そういう時我々は「しまった。」と思う。それが後悔である。そして二度とそういうことを繰り返すまいとする。これが反省である。しかし哲学で言う反省とは過去の経験的記憶全般にかかわることを言うので、哲学で言う反省ではない通常の反省である。そして後悔と反省を繋げ、二度とそういうことをすまいと誓うこと、これが責任である。責任とはある種の決意である。（先の図式の反省は狭義の反省を含む広義の反省。）&lt;br /&gt;　責任は「こういう風にするぞ。」ということであり、「そうはすまいぞ。」ということであるから、決定である。それは要するに名詞的な思念である。叙述ではない。それに対して反省と後悔は叙述しながらするものであり、想起的であり、想像的な思念である。そしてそれは動詞的思念である。「もう少しこうすればよかった。」とあれこれ想像することだ。&lt;br /&gt;　多くの神経学者、精神医学者たちが、記憶を、ある出来事（事実）に対する意味作用として刻印されると考えている。つまり事実そのものなのではなく、事実という意味内容に対する意味作用として記憶されているということである。すると先述したが、一つの事実に対する意味作用の様相が個人毎に異なり、その事実に対する解釈の仕方そのものが、その人間の性格であり、個性であることになる。そして過去の事実に対する反省と後悔の念の在り方が、独自に責任倫理をその個人に生み、その責任の行使の仕方がその人の人格であると言える。２０世紀には偉大なる他者哲学者が（例えばレヴィナス）登場したが、他者という存在は、即ち記憶能力の行使の仕方、あるいは解釈内容の「異性」によって位置付けられる。他者の「異性」とは社会的には個性となって立ち現れる。他者哲学の故郷は記憶である。&lt;br /&gt;纏めよう。記憶とは記憶される事実に対する意味付けである。それは茂木健一郎が言うクオリア（アメリカの哲学者デヴィッド・チャーマーズが提唱して、日本では信原幸弘や茂木健一郎が応用して使用した概念で感覚質、例えばベルベッドの肌触りとか餃子の味の食感とか）という知覚原像のモダリティー（様相）に対して彼が言うポインター（クオリアを位置付けること）に近いものかも知れない。そして現在知覚ではクオリアが先験的に立ち現れ、ポインターがそれを制御する。しかし記憶ではポインターが先験的に立ち現れ、そこからクオリアの記憶が呼び覚まされる。想起である。しかしそれは曖昧な部分もあって、恐らく現在知覚や経験によって日々内容の様相も、印象も塗り替えられている。過去の事実は一回きりのことだが、それに対する我々の志向はその都度異なり、記憶の様相自体も刻々と変化しつつあるのだ。例えばある友人と旅行に行った時の思い出は彼（女）と関係が良好な内は良い思い出として想起されるが、一旦個人的感情が拗れれば、途端に良い思い出は嫌な思い出に転化するというような。あるいはその逆のケースとかも考えられよう。&lt;br /&gt;　それに対して責任とは過去と未来を繋ぐ意志であり、過去と未来を支える現在の意識が責任というものの所在によって倫理の網の目を通して顕現されることを意味している。責任こそ過去と未来を繋ぐものであり、現在の意識を明確化するものである。&lt;br /&gt;　「明日こそこれをしよう」、「明日こそこれを他者に告げよう」、「明日こそあのようにはすまい」という決意が責任によって形成され、形成されたそのような思念が責任を自己に不可欠のものにするのだ。不可欠にされた責任によってまた次の決意が生まれる。&lt;br /&gt;　ミシェル・アンリの哲学テクストとして「現出の本質」があるが、現出とは哲学上では、ある現象が立ち現れることを様々な要因が複合的に絡まり合い、その結果一つの事態の発現となることを指すが、従来本質とはその背後に隠れていると考えられてきたが、現象学出現以来実存主義哲学においてもそうなのだが、現出それ自体が本質であるという考えが定着してきている。その考えに従えば、責任は一個の現出であり、人間の本質であるとも言えるだろう。そして責任はそのような意識と記憶と感情の三角形において現出するというよりはそれら三つの構図を支える理念として、あるいは生理的な発動という面から言っても、人間の意志を支えるものとして常住していると考えることも出来る。だから海馬によって場所的特定をすることで社会的には自分のテリトリーを弁え、尾状核によってあらゆる社会的行動を恙無くこなすように自分を仕向けている。それら一切は海馬と尾状核の連繋作用を責任として自覚することで我々が社会活動を行っている証拠である。また感情も記憶がなく何の後悔も反省もない事態には生じ得ようもないし、意識も記憶なしには何の現在性に対する特別な認識も生じ得ようもないので、この三角形自体を一つの記憶能力（意識維持性）の全体的な発現と見做すことすら可能である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-9208705542073612193?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/9208705542073612193/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_05.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/9208705542073612193'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/9208705542073612193'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_05.html' title='〔責任論〕十二章　記憶能力が形成するもの'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-3060957809718851000</id><published>2009-11-03T09:12:00.000-08:00</published><updated>2009-11-03T09:18:13.793-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第十一章　理解に纏わる困難さ</title><content type='html'>　理解することにおける困難さ、つまり難しい事柄というものの幾つかのカテゴリーについて考えてみたい。私たちが難しいものと言われて想像することには幾つかのパターンがあるように思われる。本章では暫く責任と離れてそのことについてだけ考えてみよう。&lt;br /&gt;　一つは化学などに纏わる物質の固有名詞が覚えにくいというものである。あるいは元素記号や分子式の持つ他と弁別を巡る困難さである。それは音楽での各種コード（和音）暗記といったものにも共通する要素理解である。固有名詞の覚えにくさは語学での単語の覚え難さと共通している。そして元素記号と分子式の難しさは綴りを暗記する難しさに共通している。これはピアノ等で音階を駆け巡るメロディーの細かい音符配列を覚えることの難しさに共通している。固有名詞の覚え難さとは数学での法則の暗記の難しさに共通しているし、要素理解の難しさは数学での代数での一定の規則を覚える難しさに共通している。あるいはそれが複雑化してゆくと文法的な解釈の難しさに共通している。&lt;br /&gt;　例えば短期記憶レヴェルではなく長期記憶レヴェルへとある記憶を固定化される時、脳内の特定の物質の受容体をオンにして活性化するか、オフにしてブロックするかというような場合、そこに登場する物質の固有名詞とか性質を理解することは困難であるが、脳内の作用そのものに関してはメカニズムは比較的理解しやすい。勿論専門的に理解するという意味ではなく大まかな意味を理解するという意味でである。このような理解内容の大まかな図式理解と、その個々の物質の作用の理解の複雑さとはまた別個の問題である。理解しやすさは大まかな作用全体の図式と、個々の性質ということで言えば、大まかな図式は理解しやすいということが言えるだろう。&lt;br /&gt;　それは音楽の楽曲も大まかな構造は比較的理解しやすいよう作られているものである。名品と言われるものほどそうである。それは絵画にしても同様である。名画と呼ばれるものほど構図とか主張とかは単純なものである場合が多い。しかしそれらのものでも個々の技術であるとか、手法的な習得といったレヴェルではそう容易いことではなく、ある長い経験を要することが多い。&lt;br /&gt;　物理学の難しさとは恐らくメカニズムの大まかな法則と、細かな法則との関連性にあるのだろう。数学は発想転換にある種の難しさがあるのだろうと思う。尤もこれらは私の専門分野とあまりにもかけ離れているので、専門家のご意見を伺いたい。&lt;br /&gt;　つまり固有名詞のように一旦覚えたらそれほど反復の難しくはないものと、単純な論理は理解出来るが、その組み合わせにはある複雑さを伴い、そのメカニズムを理解すること自体にはいつまでたっても難しいことというのはあるのだ。このように理解することにおける困難さは暗記することの困難なものほど一旦覚えたら生涯忘れないものがある一方、そういう個々のことは覚えやすいのにその複雑な組み合わせにはいつまでたっても梃子摺るものもある、というのが真相ではないだろうか？&lt;br /&gt;　理解するということはその困難に思われた内容が、ある現象であるなら、その現象自体に内在するメカニズムを把握することである。しかし現象というものはさまざまであり、一律に全てを同一のメカニズムによって理解することは不可能である。それは数々の事例に遭遇することによって理解される。そしてある程度の経験が蓄積された段階で、数々の事例に対処するあるこつを理解する。このこつこそ自己流ではあるが紛れもなく論理的思考である。&lt;br /&gt;　人間はあらゆる想定され得る可能性を考慮に入れることによって知性と論理を獲得してきた。例えば戦争自体は悪である。しかし戦争をすることが出来るだけの技術が飛行機とかあらゆる交通機関とか宇宙計画（かつてアメリカではレーガノミクスの一環としてスターウォーズ計画というものがあったことを思い出して欲しい。）といった人類の未来を切り開く偉業も生まれるのだ。例えば工場の生産ラインのような場面ではロジスティックスと言われる分野が有効活用されているが、それは兵站学という要するに軍事部門のノウハウを出発点にしている。かつて西田幾多郎は偉大な仕事は強烈なる主観に裏打ちされている、というようなことを言った。それは偉大な仕事をする能力の持ち主は偉大な善と同時に偉大な悪をもなすことが出来るということを意味する。そのことに習えば、天才的な犯罪プランを立てる能力は偉大な善行をもなす可能性を秘めているということだ。&lt;br /&gt;　例えば背徳的なこと、インモラルなことを誰しも想像することは出来る。しかしそれを実行に移すことはよくない。だから我々はそれをいけないことである、と考え行動に移すことを抑制している。しかしそういう抑制には多少のストレスも付き纏うから、時々息抜きにアクション映画を見たりする。しかし動物は恐らく自分の家族とか以外の個体に対して自己防衛以外では他人を騙すということを考えたり、あるいは自分の家族をも裏切るということは考えることがそもそも不可能なのではないか？勿論イルカとか特定の高等知性動物には人間のような想像力を想定することが不可能ではないが、大概の動物では全ての行為可能性について想定することなど不可能であろう。つまりいけないことをいけないこととして自主的に抑制するという能力を持つ人間と、予めそういう選択肢を設定されていない、つまり自主的ではなくそういう背徳を考える能力を付与されていない動物とでは善をなすことの意味が違う。動物はそれを善と認識してなすわけではない。またいけないことをしないでいるのも、それがいけないと考えてそうしているわけではない。しかし人間は善であると考えて行動し得るし、いけないことをいけないことと考えてなさないでいることが出来る。だから逆に理解し難いことで、それが尚且つ理解するに値することである場合と、そうではなくこれ以上それを理解しようと努めること自体を放棄すべきことの判断をその都度つけているのが人間である。だから理解に纏わる困難さの前には二種類の反応を我々は大概抱く。一つはそれでも尚理解しようと努めること（尤も理解してよかった、と思う場合と理解する必要がなかった、と思う両方の結果が待ち受けているが。）、そしてもう一つは理解するに足りない、あるいは理解する必要もないし、理解したくはないということ（背徳的なこと）である。理解に纏わる困難さには理解する行為自体の価値評定が常に付き纏うのだ。&lt;br /&gt;　しかし人間はそのような理解すべきことという認定をそう簡単に手中にしたわけではなさそうだ。少なくとも人類学的な見地に立てば。つまり同一種内での殺害行為の常習があったということもまた考えられている。そうであれば尚更我々は言語獲得の起源を理性的な見地、つまり良心の発動に見ることは根拠を増してくるのではないだろうか？理解する意味のありそうなものとそうではないものを峻別する知性としての理性が、少なくとも言語活動をする人間のその後の進化に単なる知性以上に貢献したのだ。そう考えることは実に自然である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-3060957809718851000?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/3060957809718851000/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_03.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/3060957809718851000'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/3060957809718851000'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post_03.html' title='〔責任論〕第十一章　理解に纏わる困難さ'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-151729317036167817</id><published>2009-11-01T14:56:00.000-08:00</published><updated>2009-11-01T15:14:22.517-08:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第十章　眼の進化から考える責任認識</title><content type='html'>　１９４４年にダニエル・ニルソンとスザンヌ・ペルガーが考案した眼の進化のコンピューター・シミュレーションというのがある。これは眼の進化のプロセスをシミュレートしたものである。ところで私はこのようなシミュレーションを見て考えていたことがある。果たして人間に眼が仮になくて、それは盲目という意味ではなく、そもそも眼がなくても尚現在のような心を持ちえたかということを考えたことがある。例えば眼が見えないである環境で生きてゆくためには触覚を利用するということが挙げられる。聴覚の利用もその一つであろう。しかし脳そのものには可塑性があるから、たとえその内の一つしかなくても尚、生きてゆくうえで支障のないように我々の脳はそういう条件なりに適応して不自由を感じないように生活するための手段を編み出してくれるだろう。しかし眼という存在が仮に視覚的に機能しないで、ただ通常の眼のように二箇所窪んでいたり、あるいは逆に出っ張っていたりしたらどのような効用というものがあるのだろうか？そのことについて考えてみよう。&lt;br /&gt;　例えば眼のある箇所に一箇所だけ眼の代わりになる何かが突起しているか、窪んでいる場合のことを考えてみよう。それは鼻のちょうど真上にあるものと考えてみよう。&lt;br /&gt;　まず窪んでいる場合、その箇所だけが空気抵抗という面から言えば、最後に空気圧に晒される。しかしそこに何もないわけだから、特に有利であるというわけでもないだろう。しかしもしその部分が突起となっていたなら、鼻がある上に更にそこに突起があるわけだから、その突起が鼻よりも更に高いとすれば、まずその突起が空気圧に晒されることになる。そしてその次に鼻に空気圧を受ける。しかしただ顔がのっぺりしているよりは空気に流れを受けることで立体的な外界の映像を想像しやすくなるという利点はあるかも知れない。しかしもし現在の我々のように眼が二箇所、それも鼻よりは少し低く突起状になっていたなら、立体的な触覚は更にスケールアップするだろう。つまり空気の流れを蝕知する器官として二つの突起があれば、真ん中に一個の突起があるよりも数段立体認識を自らの顔で得ることが出来る。　しかも移動する際に向こうからやってくる物体を蝕知するための感覚器官としてそれらを利用すれば、仮に視覚的現像を得ることが出来なくても尚、何もそこに突起がない状態よりは恐らく自己の身体にとって外部的な接近物に対する認識くらいなら容易に察知することが出来るかも知れない。&lt;br /&gt;　私は物理学者でもなければ、生物学者でも、解剖学者でもない。しかしもし私たちが何の疑問もなく利用している視覚情報というものが遮断された時のことを想像すると更にそれでも尚自己身体へと接近する物体を蝕知するためには何らかの工夫をしなくてはならないだろう。そして私が今思考実験したように仮に顔の本来眼のある部分に二箇所突起があるのとないのとでは接近対象に対する認知過程には差が出てくるであろう。ということは用途的な意味では視覚ということは、外部接近物に対する認知という目的を有しているということなのだから、逆にそれさえ把握出来れば、必要最低限レヴェルから言えば、何も視覚的な現像までは必要ないということになる。そしてこう言うことも出来る。視覚の基本的な最低限の条件というものは触覚である、と。&lt;br /&gt;　カンブリア紀の進化の実験場において眼の萌芽が認められるらしい。するともし仮に自然史の偶然によって眼が我々動物の祖先に具わらなかったとしてみよう。するとそれならそれなりに我々の祖先は眼によって視覚的情報を得ることのない別手段によって外部対象を認識する手段を進化させていたであろう。そして視覚情報を得ることで今現在我々が獲得している自己と他者との間での距離の取り方とは異なった遣り方で外部対象認識をしていたであろう。その時には脳内に具わるアフォーダンス注２と呼ばれるギブソンという心理学者が発見した能力を今現在の我々以上に研ぎ澄まし、それをフルに活用していたかも知れない。我々の祖先だけが眼を進化させずに、他の動物全てが眼を進化させるような偶然というものは殆どゼロに近いだろう。もしそうならまず我々の祖先が絶滅していたであろうし、そのようなアンバランスを一時的にでも自然選択が結果させるというようなことはまず考えられない。&lt;br /&gt;　しかしもし我々に視覚知覚能力が与えられていないとすれば、我々が現在獲得している事物に対する弁別性、クオリアの大半が視覚イメージによるものであるが、その代理として聴覚イメージ、そして触覚イメージによるものに置換され、今までにはない微妙なそれらの感覚イメージが表現され、概念化されていたであろう。&lt;br /&gt;　要するにそうなっていたらなっていたで、別段我々は困るということはなかったかも知れない。ただ我々が長い進化の過程で築き上げられてきた能力が損なわれることを我々自身が未知な感覚に置換されることに恐れをなしているだけのことであり、もし我々の「こうなっていたかも知れない」感覚を通常のものとしていたなら、今現在ある我々の感覚の方をこそ代理されているものとして認知し、そうならないで欲しい思っていたであろう。&lt;br /&gt;　再び眼の代わりにただ突起した二箇所の皮膚には、それだけ敏感な神経が通っていたかも知れない。そうなったらそうなったで、その敏感な神経は視覚的知覚には供せられないにせよ、別種の触覚器官と化していたかも知れない。&lt;br /&gt;　しかしいずれにせよ我々の外的な障害物認識、あるいは接近対象の認識が視覚によるものではなしに、そのような内触覚による認知過程であったとしても尚、例えば我々の今現在知覚が視覚に大きく依拠しているがために、映像的現像と内的理解とか要するに目には見えない世界との対比が一層印象付けられているのだが、そのような明確な差異、つまり外部世界に対する知覚、精神的思念との差異のようなものは感じられず、明確な差はないのではないか単純に想像されるが、そうではないかも知れない。つまり視覚を代理する別の触覚がそれ自体で明確であれば、それはそれで精神的思念とは全く別個の心的作用として認識される可能性も大きいからである。&lt;br /&gt;　私たちの行為の責任は外的な視覚的認識に対する明証性によって成立している。あらゆる公的文章、あらゆる外的イヴェントの発生の目撃といった風に、その際の知覚の無名性、つまりそれを見る者誰しもが同一の現象として捉え得る筈だという前提に立っている。しかし実際ピカソがあのようなキュービスム以降の形象をカンヴァスに定着させたのは、彼の視覚が通常の状態ではなかったという説も近年出されたが、もしそのようにしか彼に見えなかった（彼が描いた絵のように）としたら、彼の抽象画の意味も、実は一つのリアリズムであったということになる。しかしそのような知覚現像を我々はただ単に病理的状態と認識する。「あの人の視覚能力は常軌を逸しているのだから。」と捉える。通常の視覚現像によって我々はそれを認知し得れば、字さえ読めれば、あるいはその場に居合わせさえすれば、それを認知し得ないことはない、ということが社会全体が我々に強制する暗黙の責任発祥の場となっている。&lt;br /&gt;　マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で政治家は責任倫理と手を結ぶべきであり、心情倫理ではないとした時、彼は結果主義であるべき政治家にとって善悪の判断とは内的理解（心情としての善悪）とは別個のものとして考えている。そしてそれは同時に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムをルター派とは明確に峻別化し、前者を明確な報酬欲求を利用した厳格な結果主義として捉え、逆に後者をより心情的な純粋さを求めたしアメリカのメソジスト派はよりルター派の信条に近いとされる。さてこの厳格な結果主義は、ヴェーバーの謂いを借りれば、「市民的（信徒的なルター派とは違って＜河口注＞）・資本主義的な企業家の厳格、実直（知らないことを知らないと答え、出来ないことを出来ないと答えるような＜河口注＞）、行動的な心情に一層親和力を持っていたように思われる」のだ。&lt;br /&gt;　つまり成果主義的な資本主義の倫理をプロテスタンティズムはキリスト教精神を巧みに利用して社会秩序を職業的倫理とかもっと簡単に言えばプロとしての誇りを持たせたのだ。だから彼等プロテスタントからすれば、「純粋の感情的敬虔派は（中略）「有閑階級」のための宗教的遊戯なのだ」として回避すべき信条であり、軽蔑すべきものであったのかも知れない。そしてそのような倫理からすれば、例えば貨幣経済以外の競争社会を想定することとか、要するに哲学的な夢想は全て切り捨ててゆくべき危険思想ということになる。今日のアメリカ社会にはそういう面がヨーロッパよりは強い、と思われる。そしてそういう考え方からすれば、明らかに進化論者や科学者の考える可能世界という様相論理（私が先述した眼のない我々の生活といったような）はやはり危険なものであり、それがあのダーウィンが危険視された創造説外のホモ・サピエンスの発生論的考察を封殺するようなモラルを生むのだ。勿論ヴェーバーはそのこと自体を肯定も否定もしない。しかしヴェーバーの言う心情倫理についてはここでは取り敢えず結論を保留するにしても、少なくとも可能世界に対する認識を持つことは実際の社会に即応した認識を常住させることと共存し得ると私は考えるのだ。それは私たちが通ってきた進化の道を探ることが、実は私たちが辿らなかった道を想定しながらしか本質が見え難い面があるということでもある。&lt;br /&gt;　ところでヴェーバーの捉えたプロテスタンティズムの代理的努力を人間固有のものと捉えていいのだろうか？例えばアザラシの大人は海底に潜って餌を捕獲するが、子供と共に潜る時間も多く持つ。これは子供の成長を見守るという社会行動であると考えられている。それは目的と手段において、同一の手段で異なった目的を有すということだから、何かしら代理という観念があるとも考えられる。そうすると人間の宗教信仰心を職業的努力に代理するような社会管理面でのモラルもまた、それほど人間固有のものでもない、ということになりはしまいか？それは確かに一面では人間の動物的扱いである。しかし動物の場合何かに縛っても、それを守らない個体というものは当然考えられるが、何かに代理して行うことで億劫さを払拭するというような智慧に対してそれを跳ね除けるという意識があるかどうか、そこのところは疑問である。人間には反社会的行動へと導かれるのは、どこか反体制という意識が付き纏う。つまり管理社会と権力に対してある種のアレルギーを抱く。だが同時に自己による固い決心においてはかなりな困難も厭わないという部分もある。そのような意識、つまり強制されることと自主的なこととの境界が動物にあるのかどうかは動物にも自由意志（この言葉はどちらかと言うと私は嫌いだ。誤解を生む恐れを常に抱いている観念だ。）を認めることになる。動物が自由意志ということになると利己的行動の占める割合が大きいのではないだろうか？尤もイルカのような知的な動物には人間に近い強制と自主の相違があるのかも知れないが。&lt;br /&gt;　ところで強制と自主の相違を理解出来るということは、先述の「現実世界の進化の様相」と、＜そうではなかった場合＞の「可能世界の進化の様相」という思念を理解出来ることに繋がらないだろうか？強制されることというのはある意味では責任を伴わない。しかし自主的なことというのは責任が加重される。そしてそれを承知で履行することが自主的であることである。そしてそこに真の自由を発見するのが人間である。さて現実を直視する知覚と観察と立証には説明責任としては科学的データ主義なので、明らかにその正確さにおいて責任は問われるが、差し出されたデータ数値そのものは現実の側に責任（？）がある。しかし可能世界は実際にはそういう世界は顕現され得なかったのだから、その現像を描出することにはその可能世界（先ほどの例で言えば私が人類に眼がなかったらと仮定したような）を仮定した私の仮説並びに「ありそうなこと」の真実味の持つ私の説得力は私に責任がある。可能世界を堤示した私の比喩が適切ではないという批判が差し出される可能性も十分にある。つまり自主的であることを強制的であることと峻別し得る能力とは想像した可能世界を他者に説得することの出来る能力、つまり真実味を持たせる能力に繋がることになる。&lt;br /&gt;　するとアザラシの海底潜りはたとえ子供の成長を見守ることであれ、自主的であるよりは本能的な行為であることになる。あるいは人間もまた子供を愛することは自主的なこととは違い、やはり本能的なことなのだろう。しかし強制されて嫌だと感じることと、自主的であることなら（それは結婚とか就職とかに関してさえ）価値があると感じることは、たとえ子供を持った時には他の動物同様の本能を発現させていてさえ、生の時間の在り方そのものは質的にかなり違うものとなるのだろう。&lt;br /&gt;　そもそも動物は本能的なことを強制とは感じないだろう。強制的であるという認識は一方で自主的かつ自由なという観念を必要とするからである。例えば仮に先述の眼のない人間の、眼の代理としての二つの突起物と人間の付き合いを考えてみると、突起物にはそれ以外の鼻を除けば神経線維が集中してくるから光に対する、つまり光が発する熱に対する感受性が鋭くなるだろう。しかしそれは眼を持つ我々が視覚情報に頼るという事実そのものと同様自主的な事実ではない。しかしそれは強制でもない。強制というのは眼で確認したいのに、眼を瞑らされることである。勿論自主的な強制というものもあるし、強制的な自由というものもあるだろう。我々が自分で自由であると勝手に思っている大半が強制的な自由である場合も多いからだし、また真に自由であるということは欲求に赴くだけではないカント的な自主的な強制であるかも知れないからだ。しかし少なくとも自主的であろうとする価値倫理と、強制的であると感じるある種の諦念は人間固有のものかも知れない。&lt;br /&gt;　人間はカントが感じたような意味で本能的な衝動を強制であると考えることが可能なのだ。他率（律）と彼が呼ぶもののことである。だから人間は仮に自分の子供が犯罪をしたとして、それを知って警察に捕まることを防ぎ、子供の罪を発覚しないように画策して尚、それは倫理的にもよくないことであり、子供に罪を償わせることが正しいと判断したとしたら、それは本能的な子供に対する外部強制力を排除する大人の本能とは別個の判断を、つまり本能に拮抗するような意志決定をなしているということになる。そういうことが果たして動物に可能だろうか？&lt;br /&gt;　そして本能に拮抗し得る行動に対する価値規範こそ責任を起源にするものである。本能の赴くままに行動することはそれがたとえ攻撃欲求ではなしに、愛情に溢れ家族や仲間を守ることにおいて発揮されていてさえ責任とは無縁である。自己にとって大切なものでも、その事実が他者の迷惑になるのならそれを諦めること（それが子供に対する愛情であってさえも）が責任の基本的な性格だからである。&lt;br /&gt;　資本主義倫理においては貨幣経済外の競争社会という仮説は夢想でしかないのだろう。だからそれは眼がもしなかったならという観念を抱くことをも一面では危険思想の部類にするかも知れない。しかしアンチノミーというような思念もまた哲学や論理学では有効な手段の一つであるが、科学的思考においては資本主義倫理外の効率性というものに対する認識もまた全く無意味ではない。もしそれら一切が許されないとしたら、我々は経済活動に奉仕する仕事以外の一切を放棄するしかなくなるし、地球の百万年後というような推測も無意味ということになるだろうからである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-151729317036167817?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/151729317036167817/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/151729317036167817'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/151729317036167817'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/11/blog-post.html' title='〔責任論〕第十章　眼の進化から考える責任認識'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-4389888261353505386</id><published>2009-10-30T04:29:00.000-07:00</published><updated>2009-10-30T05:01:20.963-07:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第九章　説明の条件、理解度ということ②</title><content type='html'>　少々直観的な推論的な表現を許して貰えれば、私は人類の起源に、他の霊長類とも異なる側面として極初期状態から理性の存在を認めている。だがその実体に関して多少今まであやふやな面があったことも認めよう。そこで私が言う理性というもの、そしてその理性を根幹から支える良心とか思い遣りとかも思念をもっと具体的な形で示してみようと思う。&lt;br /&gt;　理性とはその名の通り理であるから当然責任という観念を常に介在させる。しかし理性というものはそれ自体では先述で多少示したが、説明不可能事項である。理性を論理的に統合したカントは、実は理性自体を説明することの不可能性によって理性を幾つかにカテゴライズし、再びそれらを統合しようと図った。しかし根本的にそれら理性の本質を却って見え難くした面も否めない。そこで私はもっと分かりやすい形で理性と、それを支える良心というものを考え直してみようと思う。&lt;br /&gt;　前作「死者と瞑想」で私は他者の死を体験することで人間は、自分とその他者とで過ごした時間の質、言ってみればその他者しか知らない自分との別れを告げ、自分に関して他の他者は決して知ることのない自分を知る者の死が、自分のいつか到来する死までに残された時間が急速に短縮されるような感慨そのものが、他の喪参列者たちが死者に最も身近だった者の存在を社会的地位といった事柄で参列者の優先性を決することをせずに、死者にとって一番身近だった者の喪に関する優先性を付与することが人類の他の霊長類には見られないウェットな表現を許して貰えば「思い遣り」ではないかと私は思い、それを私が仮説した人類の良心の起源であるとした。私は言語獲得の起源をそこに見た。（仮説だ。）&lt;br /&gt;　そして実はそういった他者からの思い遣りに対して感謝の念を捧げるという心的様相こそが、たとえ自分で努力した末の好結果であっても尚、天に、あるいは神に感謝を捧げるという意識を生じさせ、そのことで説明可能性と説明不可能性の双方を相補的に理解することを促したのだ、と捉えたいのである。&lt;br /&gt;　そもそも言語的説明という論理性の起源は、私は言語的説明不可能性に対する自覚と認識こそが生んだものであると考えているのである。&lt;br /&gt;　本来自然科学とは視覚的に確認し得ることを機軸に展開されてきた。そしてそれは例えば実験的な数値という統計的な真理による立証である。それは多大な文明を我々に齎した。しかし同時に我々は例えば今日の脳科学でさえ確かめようのない微細な心的様相を明快に心の内から内的理解をすることが可能だ。寧ろｆＭＲＩによる測定法注１、イメージングというものは、そういった微細な心の動き、意識の変容を後から追いかけ、必死に辿りつく、だからこそ百年以上前のウィリアム・ジェームスの考えがやっと立証されたりすることもある。しかしだからこそ現代科学そのものを無視したり否定したりすることは愚かだが、同時に自然科学では追いつけない内的理解の側からの考えもまた無視すべきではない。&lt;br /&gt;　先述した空間に意識があるかも知れないという発案は既にあのクリプキの批判者（ウィトゲンシュタイン解釈を巡る）としてつとに有名なコリン・マッギンによっても「＜意識＞の神秘は解明できるか」においてなされていた。&lt;br /&gt;　つまり心の底からそう思えるということの方が実験的データによって示されることよりも正しいこともあると私は思うのである。これは科学の否定では決してない。これからは特に自然科学と哲学や心理学は益々協力体制を築き上げてゆくことだろうと私は思っている。だからこそ自然科学分野の人々もまた哲学や芸術分野の人々の意見に耳を傾けて欲しいとそう思うだけのことである。&lt;br /&gt;　話を戻そう。言語的説明不可能性というものは喪の際の憔悴感とか、偉大な自然を前にした時の崇高の念（カントが「判断力批判」で示したところのもののような）、親しい親族、同僚の全てを含めた他者の死を体験した時の感情、それら一切が逆に同一の心理を味わう者同士の運命共同体意識を派生させたとしたら、我々はそこにこそ言語獲得の内的なモティヴェーションを見出し得るのではないだろうか？言語行為は音声起源的には恐らく意味論的な目的性はなかったであろう。しかしある時、感情の襞を進化させてきて内的理解を得るようになっていた人類は、この説明不可能な強烈で明快な感情を何とか表現したかった。しかし太陽とか川とか海とか山とかは語彙設定しやすい。しかし太陽の恵みによる感謝の念とか、親しい他者から受ける恩恵に対する感謝の念とか、あるいは死に行く者への惜別の念とかは一見表現しやすいように思えてその実説明不可能なことである。そしてそのもどかしさは恐らく例外なく全ての人類成員が持ち合わせていたであろう。だからこそその説明不可能性に対して説明し得る範囲のもののなら何でも語彙設定してみようという意欲が生じたと考えることにはどこか説得力がありはしないだろうか？&lt;br /&gt;　自然科学の方法論においてはまず知性の獲得が挙げられ、その長い進化過程においてかなり後になってやっと理性が生じたと考えることの方が多かったと思う。しかし翻って考えてみると、寧ろ知性というレヴェルでの測定可能な領域は例えば大脳の血流の状態を確認出来るとか比較的現代に近づいてくるに従って得られた方法であり、それは素朴な自然科学に対する信頼感が支えている。そしてその測定的事実そのものは信頼に足るものであろう。しかし測定可能なことと同時に測定不可能な事柄も常に横たわっていると認識しておいた方がいい面もあると思われる。ある考えが脳内でなされる時、それ以前に、あるいはその時にそのこと以外には何を考えているかという命題内容如何によって血流状態、つまりニューロンの活性化の状態は幾らでも変わり得る。しかし現代の科学を持ってしても尚、そこまでは測定不可能であろう。また人権的な問題もあってある一定以上の測定には倫理的な問題もある。それくらいに脳という作用自体は微妙で複雑であると言えるのだ。そしてもし私が考えるようにある程度高度な知性というものこそ言語活動の進化過程でなされてきたと考え、逆に一見近代的な産物であると思われがちな理性こそ、実はソクラテス以前的にもかなり長い時代に渡って人間を支配してきたと考えると途端にあるもやもやした霧が晴れて、見通しがすっきりして言語獲得の謎に迫りやすくなると言えはしまいか？&lt;br /&gt;　私は本論を責任論と位置付けてきたが、実はそれはある意味では良心論でもあったのだ。しかし私たちの生活を見ていても分かることなのだが、例えばどんなに悲惨なニュースを見てその被害者並びに家族の人たちに対して「気の毒に。」と思っても、次の瞬間には同じテレビニュースを見る我が家族の姿を見てほっとして「うちの家族のことではなくてよかった。」と思うものではないだろうか？つまり本当にその悲惨なニュースで告げられているような何らかのアクシデントに見舞われていない通常の人にとって良心というものはあくまで自分と自分の周囲の家族、親しい友人の間にのみ適用される、偽善的とまで行かなくても、多少の身内的エゴイズム（地域的エゴも含む。）に近い心理ではないだろうか？&lt;br /&gt;　しかし責任となると途端にその様相を変える。例えば職務に忠実な公務員とか、政治家とかはどこか冷たく感じられる要素というものを持っている。しかし誰か特定の人々、それは利権団体とか地方自治体とかに対してえこ贔屓をしないと決め込めば、政治家も、あるいは特定の市民に対してえこ贔屓したりしないと決め込めば必然的に公務員も彼らにとって公務というものにはそういう冷たさというものが付いて廻るものではないだろうか？私たちは例えば腕のいい医師が同時に人間的にも暖かみのある態度で接してくれるのなら最高だと思うが、職務と自分の技術に対する自惚れのないように心掛ける人というものはあらゆる名人的な職人につき物の多少無愛想で表面的には冷たさを感じさせることも多いものである。そして多少無愛想でも腕のいい医師に執刀して貰うことを、愛想がよく人好きにするタイプなのに腕はいい加減な医師に執刀して貰うよりも歓迎するのではないだろうか？つまり本来責任というものとはどこか冷たいと思われるような冷厳さが積極的に求められてもいるのである。&lt;br /&gt;　だからこそ私は良心が人間のある種の暖かさを育んできたが、同時に自分にとって親しくはない者にも自分にとって親しい者へ注ぐ、ある意味では私情を払拭した平等主義的倫理こそがもう一つの面では人間を高度な文明社会を築いて来させたとも言えると思うのだ。&lt;br /&gt;　つまり良心と責任の重複部分（それはよく言われるヒューマニズムの起源であると思われるが）と、拮抗部分との絶妙なバランスこそが我々を片や温かみある、しかし一方ただ単に情に流されはしない秩序と均衡のある社会を築き上げてきたと言えるのではないだろうか？&lt;br /&gt;　少しウェットな言い方をすれば、人類は仮に危機的状況にあっても尚生に対して感謝する心を持っていたがために今日まで絶滅することなく生存してきた、とも言える気がする。&lt;br /&gt;　例えばウィリアム・カルヴィンは次のように言っている。&lt;br /&gt;「（前略）チンパンジーは変化に富んだ食物を口にする。果実やシロアリ、葉だけでなく、たまたま捕えることができた小型のサルや子豚まで食べる。したがって、チンパンジーは脳の配線を切り替える必要があり、精神的に融通性が高いということになる。だが、何がこうした融通性をもたらしたのだろう。ヒトは生まれつき多くの行動プログラムをもっている。あるいは、学習して身につけたり、すでに存在するものを結合しなおして新しい行動を急に出現させたりできる。タコ、カラス、クマ、チンパンジーなど雑食動物は多くの「手段」をもっているが、それは彼らの祖先がさまざまな食料を前にして行動を切り替えなければならなかったからにすぎない。雑食動物はさらに、彼らが求めるイメージや音についての感覚的な鋳型も、よりたくさん必要とする。」（「知性はいかにして生まれたか」９３～９４ページより）&lt;br /&gt;　我々の祖先の脳が巨大化したことを、ある何らかの食料危機的状況の打開によって開示させられた、ともし捉えるのなら、我々はこう考えることも可能である。あるグループ（同一種としても、そうではなく近接種としても）が自分たちが食料とするものを既に独占しており、その食料以外にも食べられるものを物色し始めたとすると、その差し迫った状況がある必死な認識を必要として、別種の食べられるものを発見出来なかった個体は死んでゆく。以前の古い習慣を捨て去ることに躊躇する個体である。結局自然選択として彼等は真に融通性を持つ個体だけがその厳しい環境に適応してゆく。その際に捕食者と、そうではない安全な生物種との弁別、それらの立てる音、要するに生活必需的な情報としての様々なクオリアの弁別性の獲得が我々の祖先に事物に対する複雑な認識力を構築していった。そしてその際に今まで食べ慣れていなかった食料を発見した時に、自然に対して（あるいは神に対して）感謝の念を抱くということが出来たとしたら、あるいはそれ以上の発見をしようという意欲を生んだであろう。つまり成功した時に、自然の恵みに対して、そして自分たちをここまで何とか生存させてくれた神のような恵みに対して感謝の念を捧げるという思念、あるいは感情が発生したとしたら、彼等は更なる発見に対して邁進出来たのではなかったろうか？そしてそういう成功が意外と自分にとって日頃から親しい者との協力だけではなしに、ある時には一緒に協力するまでは見ず知らずだったような他者との共同作業によって齎されることの多いことに気付いた時我々の祖先は他人に対する責任という観念をより徹底化させ、他者の存在そのものに対して感謝の念を捧げるようになる。そして何事かの達成という事実は同僚との友情、信頼を醸成する。&lt;br /&gt;　他種、他個体グループによって独占された既在の食料外の食料の模索が、食物摂取を巡って食料それ自体の概念の多様性を獲得させる。そういった認識は必然的に食料命名へと繋がる素地が用意される。食料認識の多様性獲得と名詞的命名とその使用は意外と同時的な共進化であったかも知れない。それは同一グループ内での食料摂取と確保を巡る生存上不可欠な情報伝達の意味を持つ。&lt;br /&gt;　しかしウィリアム・カルヴィンは同時にこうも言っている。&lt;br /&gt;「進歩の代価は、しばしば、他のレベルの組織体に疎くなることだ。たいていは、自分の専門のちょっと下あるいはちょっと上のものしかわからない（化学者は生化学や量子力学なら知っているかもしれないが、神経解剖学についてはあまりわからない）。データはもっていなくても、自分の精神生活から得たものによって、壁にうつった影を幻影的に解釈するのは簡単なことだ。しかもその解釈が、考えられるもののうち最適だという場合もある。プラトンやデカルトはその時代にしてはかなりうまく解釈した。&lt;br /&gt;　だがもっと、うまく説明できるようになったとき、シャドー・ボクシングで満足できるものだろうか。あるいは、言葉遊びをつづけるだろうか。言葉そのものは、言葉をつくる神経のプロセスがいくら想像できるようになり、ものごとを意識できる＿すばやく働いて、瞬時に理解できるようにする知性を形成できる＿ようになっていただきたい。」（同書、８３～８４ページ）&lt;br /&gt;　勿論彼の言うようにある程度まで説明出来るようになっていた時、我々は概念を組み合わせ更に高次のレヴェルの認識を持つようになるだろう。しかし言語獲得期において人類にはそんな余裕などなかったに違いない。例えば気候の急激な変化にも対応してゆかねばならなかった。カルヴィンは更にこうも言う。&lt;br /&gt;「果実を消滅させる気候の急変は、さまざまな種のサルの地域的な個体数に累をおよぼしただろう。より雑食性の強い動物は、被害を受ける一方で、他の食料で「まにあわせる」ようになり、その子孫は、競争相手がほとんど残れなかった危機のあとで存分に個体数を増加させたと思われる。」（同書、１０３～１０４ページより）&lt;br /&gt;　しかしそのような急場凌ぎが比較的短期で過ぎ去り待ち時間がそれほどでもないのならば、確かにそのサルは競争相手の不在に託けて利益を貪ったことだろう。しかしそのような競争相手の不在という事情がなかなかやって来なかったり、あるいはある程度永続的であったらば、そのサルのグループは生存を賭けて必死に別の食料を永続的に摂取することを模索して、一旦それがなし得たなら、子孫に対しても永続的に多種の食料を摂取する習慣を存続させていったであろう。そうなると最早競争相手に対して遠慮する必要もないくらいに別の種として進化して行った（勿論成功者たちだけが）ということは考えられる。新しい習慣が子孫に遺伝的に継承されるくらいまで定着するまでは彼等は子供たちに説明して教え込んだ可能性がある。その時概念的な説明能力は飛躍的に進化したわけだ。&lt;br /&gt;　もし最初求めていた食料にあり付けず、それが永続的な事態となり、絶滅したグループも大勢いて、その中から生存に成功したグループがいたとすれば、彼等は明らかに、最初求めていた食料だけにそれ以降は拘り続ける必要はなくなっていただろう。勿論最初求めていた食料、それを例えば果実としよう、それがもし仮にたまたま手に入れば、それを食すことはあっただろうが、その時点では最早それだけに拘る必要はない。そして果実の代わりになり得る他の多くの食料を発見していたのなら、彼等は食料の種類の類別認識、要するにカテゴリー認識を獲得していることになるから、そのカテゴリー認識は如何様にも拡張することが出来るし、同一グループ内での性質、形状の差異を弁別することが徐々に容易になるくらいに認識能力は発達してゆくだろう。思考能力の進化である。そしてそれはその差異を他者に説明することの出来る能力ともなってゆく。&lt;br /&gt;　人類が農業を始める頃には、栽培という観念が定着していたのだから、当然栽培以外の観念との類別認識があったわけだ。狩猟、漁撈、栽取というようにである。農耕社会の出現に至るまでにはしかし非常に長期間の食料になり得る植物の観念が定着している必要があるから、植物、動物、時には鉱物といったものがその時々で食料として可能な対象として認識されていたことになる。勿論社会学的には農耕社会という大掛かりな集団である以前にはもっと小規模の栽培という現実はあったであろう。そもそも社会そのものが大集団になるという事態そのものはあくまで言語能力の飛躍的進化を必要とする。社会秩序とは年齢別、経験別、職業別のクラスを必要とする。そのためにはそれらの認識全体が既に把握されていなくてはならない。その辺りのミッシング・リンクこそ人類学の要求される場なのだろう。しかし社会が合理化されることが社会が大型化することであると考えるなら、それ以前に個的なレヴェルで自己と他者という観念が用意されていなくてならないだろう。そしてそれは基本としてやはり親族と他人という認識が基本にはあると思われる。その時責任という観念、あるいは良心という観念、あるいは本章で示した感謝という観念がそれら基本要素を巡って発生してくる余地が生まれる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-4389888261353505386?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/4389888261353505386/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_30.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/4389888261353505386'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/4389888261353505386'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_30.html' title='〔責任論〕第九章　説明の条件、理解度ということ②'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-8483274196145562969</id><published>2009-10-27T05:53:00.000-07:00</published><updated>2009-10-30T05:07:26.522-07:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第八章　良心と責任の葛藤と調和</title><content type='html'>　文学をも含めてあらゆる芸術表現とは希望である。希望の表現である。それはあらゆるシニシズムも、スケプティシズムも含めてそうである。しかし科学は時としてそのような楽観的な人間の希望を打ち砕く。例えば愛する者の家族は彼（女）の生存を願う。しかしそれに対して戦場に赴いた者の戦死を告げる広報と同様無残に病魔に蝕まれた者の近い死を医師によって宣告される。科学は説明責任を負ったものなので、希望に押し流されてはならない。しかし同時に科学に携わる者は皆家族の選択、例えば病人当人に身近に迫った死の現実を告知しないという家族の選択を尊重する。医師はこういった局面では明らかに良心に従って言動を選択している。&lt;br /&gt;　だからこそ芸術は現実はこうであるが、「こうあって欲しい。」と叫ぶし、またその権利がある。しかし責任というものは希望を叫ぶことは許されない。自分には出来ないことを正直に出来ないと告白し、報告すること、あるいは自分が知らないことは正直に知らないと告白し、報告することが業務上では求められる。それを怠ると罪に問われることさえある。だから責任と良心とは多分に重複し合うが、同時に時として遊離することもある。そしてその現実を知る人間はこの二つを時と場合に応じて巧みに使い分けることが出来る。またその能力こそが人間の社会において言語活動を齎した、あるいは言語活動それ自体が必然的に社会を齎したと言えるかも知れない。&lt;br /&gt;　少なくとも人間が認識レヴェルの数多くのパターンを獲得するという事実、例えば大勢の人間を別々の人であると認識することも含めて、そういう能力の獲得は、ただ単に生活上の必要性からだけではなく、勿論それも大いにあるのだが、責任と良心の重複と遊離というような複雑な相関関係を理解する能力に発しているとも考えられる。例えば前章において私は人間には言語的な説明の可能な事項と、そうではなく説明不可の事項があると言った。そして恐らく初期言語獲得期の人類は既にそのような弁別能力が認識レヴェルであったと思われるのだ。つまり言語説明可能事項と不可能事項の弁別、そしてその双方に対する認識能力が人間を他の動物以上の文明化を齎したと考えられる。そしてここが重要なのであるが、言語的説明可能事項も、不可能事項も、共に内的理解という観点からすれば明快である、ということである。例えば私たちの日常から考えても論理外的に正しいことというのは理屈ではないし、美しいことというのも説明不可である。人間の魅力もまたそうである。だがそれは決して不明快ではないのだ。&lt;br /&gt;　例えば愛情というものは言語による説明が不可能な事項であることは誰しも認めるところであろう。だから逆に完全犯罪をして家族を殺したりする犯罪者は知性的レヴェルでは誰よりも研ぎ澄まされているのであろうが、実際彼等の知性を育んできたものこそ彼等が放棄した理性だったのである。&lt;br /&gt;　愛情が説明不可であるという事実は、愛情というものが論理と倫理双方の出発点であることを示している。論理と倫理が唯一一致する地点が愛情であると言えるだろう。と言うより愛情のない地点からは論理も倫理も生じるということはない。&lt;br /&gt;　しかし同時に言語的説明不可であるということの確たる認識、つまり説明不可の根拠の明示の不可能性に対する認識は、責任倫理とそれを内的に生じさせる良心をも言語化しようという欲求なしにはあり得ない。結局言語的説明不可性とは概念、つまり感情への認識という事態が先験的に存在していなければならない。何故ならもし感情それ自体を認識することがなければそもそも意味という概念は存在し得ないと思われるからである。&lt;br /&gt;　意味とは事物や対象に接する知的存在者が抱く心的な作用である。ある事物が自分にとって身近なものなのか、それともそうではないのか、あるいは我々人間にとってそうなのか、そうではないのか、あるいは自分にとって大切であるのか、そうではないのか、あるいは生物にとってそうなのか、そうではないのか、という認識レヴェルでの把握能力こそが意味を産出するからだ。&lt;br /&gt;　動物にも感情はある。しかし彼等には恐らく人間ほど明確に感情それ自体を認識することは不可能であろう。もし彼等にそれが可能であるなら彼等にも彼等なりの文学や芸術というものが存在し得るであろう。そしてそれは明らかにビーヴァーのダムとかそういうレヴェルの事物‐環境的な表現型ではない。もし仮にあるとしたら、作品ではないだろうが、音楽的な喜びというものならあるかも知れない。（リズムだけの認識だろうが。）&lt;br /&gt;　もし犯罪者というものを病理的な根拠から定義付けるとしたら、私は言語的説明不可事項の存在に対する認識が内的理解という面から不明確であること、明快ではない、という一事に尽きるのではないだろうか？&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　暫く観点を変えて考えてみよう。&lt;br /&gt;　もし今私が私たちが意識を有しているようにひょっとしたら空間とか時間それ自体にも意識があるのではないか、と言ったら恐らく大半の科学者は私を発狂したと捉えるだろう。勿論人間と同じような意識というものを空間や時間に付与して考えることには無理がある。しかしもしかしたら我々が意識と呼んでいるものの起源となり得るような何らかの原始的なエネルギーがあるかも知れないと仮定することはそれほど突飛な発想であるとも思えないし、またそういうことを可能性の一つとして残しておくこともまた全く無意味であるとも思えないのである。&lt;br /&gt;　本来自然科学は二次元であれ、三次元であれ、それ以外のことであれ、視覚的に確認し得るデータ的な確証のないものは認められないというスタンスを取り続けてきたし、またそれだからこそ信頼に足るものであり続けてきたのだ。しかしそもそもその視覚的なデータというものさえも人間が拵えた機械や認識的方法に頼っているのだ。例えば数値を考えてみよう。数値というものそのものは自然界には記号としても自然自体の認識にもない。勿論向日葵の花の種に介在する数学的なシステムとかそういうことというのはあるだろうがそれを数字として表現することそれ自体は人間によるものである。そもそも数学自体はただ単に視覚的に確認出来るデータというものとも違う。尤も数学は自然科学ともまた違うという意見もあるが、それでは数学的な認識を使用している自然科学は全て虚妄ということになる。また２０世紀以降の化学や分子生物学、生化学といった分野では視覚的に求められるデータ解析が重要になってきたことは確かだが、同時にガリレイやニュートン、マッハ、マックスウェル、アインシュタインといった物理学の偉人たちはただ単に実験的なデータだけではなく、大胆な推測と予想に基づいて仮説をしたからこそ偉大な業績を築き上げたとも言える。そもそも理論物理学は視覚的な確証といったレヴェルからは存在することすらあり得なかったであろう。&lt;br /&gt;　つまりこういうことである。必ずしも自然科学的な方法による立証だけが正しいとは限らないということはあると私は思うのだ。例えばただ単に空間に意識があると言うと、どこか霊魂の存在を認可するような気配を多くの科学者は感じ取ってしまうからこそ彼等はそういう言辞を極度に警戒するのだろう。しかしプリーストリのような化学者は同時に極めて神学的な認識の優れた哲学者であったし、また理論物理学者であり、同時に生物物理学者でもあったエルヴィン・シュレーディンガーは極めて示唆的な哲学的テスクトも残している。そこにはどちらかと言うと外見的には神秘主義的傾向すら認められる思念が渦巻いている。少々長いが、彼が残した文章から引用してみることにしよう。&lt;br /&gt;「アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っているとしよう。君のまわりに一面に草の茂った斜面があり、あちらこちらに突き出た岩がいくつも見えている。（中略）そして君と向かいあって、深遠の幽谷からそそり立っているのは年雪をいただいた高く力強い山頂である。（中略）&lt;br /&gt;　君が見とれているものはすべて＿われわれの通常のものの見方によれば＿君が存在する以前から、少しの変化があったものの、数千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのうちに＿それはそう長い間ではない＿君はいなくなったのちも、数千年も変わることなくそこに存在し続けることであろう。&lt;br /&gt;　かくも突然に無から君を呼び覚まし、君になんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ君の存在ほどに古いものである。数千年もの間君たちは奮闘し、傷つき、子どもをもうけ、はぐくんできた。そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。おそらく百年まえに誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちに心を秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち誰か他の者ではなかったのか。君のその自我とはいったいなんなのだろうか。君が、すなわち誰か他の者ではなくまさに君が、この世に生を享けるために、いったいどんな条件を課す必要があったというのか。はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものなのであろうか。いまの君の母親である彼女が、父ではない誰か他の者と夫婦生活をし、彼によって息子を得、君の父親が同様のことをもししていたとしたら、いったい君は生まれていたろうか。それとも君は、君の父親のなかで、あるいは父親のそのまた父親のなかで生きていたとしたということになるのか．．．．．すでに数千年もの昔から。たとえそうであったとしても、なぜ君は君の兄ではなく、君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い＿君と誰かの違い＿をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。&lt;br /&gt;　このように観察し、また考察した結果、君は、かのヴェーダーンタ哲学の根本的確信には十分な妥当性があるということを、即座に理解することになろう。つまり、君が君自身のものと言っている認識や感覚や意志からなるこの統一体〔＝君自身〕が、さして遠い過去ではない特定のある瞬間に、無から降って湧いたなどということはありえないのである。この認識や感覚や意志は本質的に永遠かつ不変であり、すべての人間に、否感覚をもつすべての存在〔＝生命体〕において、数量的にはたった一つのものなのである。しかしそれは、君が永遠にして無限の存在〔＝最高神若しくは創造神〕の一部分であるとか、スピノーザの汎神論が説いているような、この存在のある局面、あるいはその様態的変容であるとかという、そのような意味あいにおいてではない。というのは、そこでまた同様の不可解な問題が残されるからである。すなわち、君はその存在のいったいどの部分であり、またどんな局面であるのか。さらにまた、これを他の部分や局面と客観的に区別するものはいったいなんなのであるのか、といった問題である。私の言わんとすることは、このような汎神論などではなく、通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君＿そして意識をもつ他のすべての存在＿は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味あいをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。ただこの全体だけは[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ（Tat twam asi＝其は汝なり）という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。＿それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは金世界なり」という言葉としても表現された。&lt;br /&gt;　かくして君は、大地とともにあり、大地は君とともにあるという確かな信念をもち、その身を大地に投げ出し、母なる大地に五体当地する。君は大地のように、否それにもまして幾千倍も金剛不壊である。確かにあした大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日かということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるから。&lt;br /&gt;　この永遠のいまという（人々が、自らの行いのなかでめったに自覚することのない）真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。それは気高い人に、彼自らが善きものと認め、あるいは信じている目標のために、ただ命をかけさせるのみならず、＿これはきわめてまれな場合だが＿たとえ彼自身の救われる見込みがまったくなくとも、自若としてその命を捨てさせることさえある。そしてこの真理が＿おそらくこれはさらにまれな場合だろうが＿善行者の手をとり導いてゆくこともある。すなわち彼は、見知らぬ人の苦しみを救済するために、来世における報酬を期待することもなく、自分の苦しみをもってしか分け与えられないものを、その人に捧げるのである。（「わが世界観」ちくま学芸文庫９７～１０１ページより）&lt;br /&gt;　このシュレーディンガーの最後の一節は私が提示したあのＣ集団首領の、部下の言うＢ集団首領のことを信じきっていいのかという進言に対する「いや騙されてもいいのだ。信じないで後悔するよりは信じて後悔する方がよい。」という良心の発動と、「自分で決心して失敗する方が人から薦められて決心を曲げて失敗するよりもましだ。」という価値判断にも相通じる。自己犠牲は合理的判断からすれば、不合理で説明は尽かないことなのにもかかわらず、それをしなかった時には後悔するという咄嗟の判断で行う行為である。それは生を存在させるためだけではなく、時には生をも省みないという行為が、生を意味あるものにするという決心の所在を示している。しかし我々もまた岸壁の岩や、海岸の砂浜のような存在なのかも知れないという思念はこのシュレーディンガーの言述によって容易に誰しもが一度はそういう思念に囚われたことがあるという事実を想起させる。&lt;br /&gt;　その想起事実は逆に砂浜の一部や、岩石中の粒子の一部にもまたある種私のこの思念を生じさせる身体を育む起源的なエネルギーを産み出す素地が鍛え上げられているのだ、という先述の私の仮定を正当化する。&lt;br /&gt;　我々は数値的事実をあらゆる自然から読み取ってきた。にもかかわらず私たちはその数値を与えてくれた自然そのものの崇高さをややもすると忘れ、逆にそれを発見した者の知性に感服する。しかしこれは考えてみれば極めて卑小な現実に甘んじる人間の傾向性のなせる技でしかないのかも知れないのだ。自然は私たちをも含み、その自然のシステムの一部であり、自然全体のメカニズム自体を内包した我々の身体それ自体が、驚異であり、その数値的な発見を私たちの誰かに付与させた自然こそ偉大なのである。その時後述することになる自然に対する我々の態度がどうあるべきか、という私たちの基本的な哲学に自然が実は常に一撃を与えてきてくれているのだ、ということを私たちは知るのである。&lt;br /&gt;　我々には良心がある。しかしそれは私たちが言語を獲得し、それを通して考えたからそれがあるのではない。言語を通して我々の中にア・プリオリにあった能力が言語を通して我々によって確認されているだけのことなのだ。そして数値的事実によって知らされた我々自身をも含む自然のシステムの法則は、私たちによって発見させられるように自然によって予め仕組まれた技である。それはどのような優れた名匠、名工によってもなし得ない技ならぬ技である。&lt;br /&gt;　しかしもしＣ集団の首領が自分の判断でＢ集団の首領に裏切られたとしたら、彼は即座に退官し、あるいは命を集団全体の犠牲のために供せねばならないかも知れない。実は極めて人生はこのような良心内での葛藤が我々の決心を鈍らせ、我々の決心を後押しするのだ。責任をとることとは良心を貫くことでそれが功を奏してなされることもあるし、今の例のように良心が仇となり「部下の言う通りにしておけばよかった。」と言うような先見の明のなさによって失敗の責任を取らなくてはならないこともある。しかしいずれにせよ自己判断で成功しても失敗しても、他者の誘導によって成功したことよりは後悔はないのではないか、と私は思う。もし仮に他者の誘導によって成功したとしても終生その他者に対する負い目は残るだろう。しかし自己判断で失敗したのなら、少なくとも負い目だけは残らない。シュレーディンガーが言う最終節の自己犠牲の例は明らかに、負い目のない未来という不確実に対する拮抗という行為選択が主張されている。実際あらゆる事物でさえ、事物としての充足には何らかの負い目のない未来不確実性に対する拮抗という目的をそれなりに達していると考えることさえ出来るのではないだろうか？&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-8483274196145562969?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/8483274196145562969/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_27.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/8483274196145562969'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/8483274196145562969'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_27.html' title='〔責任論〕第八章　良心と責任の葛藤と調和'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' 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/&gt;　しかし何故かは即座に答えられないが、その場その時には必ずその場その時なりに正しい判断と言うものがあったのではないか、という考えが私にはあるのだ。このことは哲学者エイヤーの「言語・真理・論理」でも適切述べられている。つまり後から別の考えが正しいと判明しても尚、その時の決断の正当性はいささかも揺らぐことはないということだ。&lt;br /&gt;　さて何度も登場願った大屋雄裕は「法解釈の言語哲学」で次のように語っている。&lt;br /&gt;「フィッシュの解釈共同体理論を検討する際にまず注目しなくてはならないのは、そこにおける「解釈共同体」が実際には何を意味しているかという点である。まず『このクラスにテクストはありますか』（中略、フィッシュの出自）の段階において、解釈共同体は以下のように明確な性質を持っている。&lt;br /&gt;　解釈共同体は解釈戦略を共有する人々から成っている。（．．．．．）テクストの特性を構成しテクストに意味を付与するための戦略は読む行為に先立って存在し、従って読まれるものの形を決定する。一般に考えられているのと違って、その逆ではない。（中略、フィッシュの出自）ここでは、解釈共同体が実体としての性格を色濃く有していると見ることができる。解釈共同体とは文学研究者の一群や特定のクラスの生徒たち、特定の雑誌の流派に属する解釈者の集団といった存在であり、その存在を外見的に想定することが可能なように語られていたのである。独我論という非難を回避するために解釈戦略が社会的に形成されるものであることを主張するフィッシュにとって、この想定は必須の条件である。「個人の仮定や意見が『彼自身』のものであることはない（．．．．．）＜彼＞は仮定や意見の起源ではない（実際、仮定や意見の方が彼の起源だというのがより正確である）」（中略、フィッシュの出自）。共同体は彼の外部に存在しなくてはならないのである。」&lt;br /&gt;　ここには集団同化意識を無意識の内に発動する人間の対社会戦略として、規則遵守という観念が浮上する。例えば犯罪者は自ら行っている行為が犯罪であると知っている。よって彼等は責任という観念も良心という観念も承知の上で敢えて実践的にそのことから逸脱しているのだ。つまり犯罪とは道徳、良心、善意志、責任という観念のない場では存在し得ないのだ。だから動物が仮に同一種の他個体を殺したとしても、それは攻撃による結果的な事実でしかなく、人間が人間を殺すのは傷害致死のような不可抗力の場合を除いて意識的、意図的な行為であり、それはあらゆる道徳的観念を熟知した上での策略となるのだ。ただこの際犯罪者の犯罪事実に対する認識に関してのみ言述しているのであり、精神病理学的なアプローチで言っているのではない。&lt;br /&gt;　規則を承知で行っているということは言語活動も同じである。だからある種の精神錯乱者が逮捕されたり、裁判にかけられたりした際に言語的説明を求められて、きちんと説明することを拒み、その場から逃れようとしたり、暴れたりすることもまた、彼には了解されているのだ、本当はこんな行為をしては規則遵守の観念からは逸脱しているということが。そしてそれにもかかわらず敢えてそのような暴挙に出る行為選択をしているのだ。&lt;br /&gt;　言語獲得という人類の事実を見据える時、我々は一個の社会成員が幼少期に言語習得する際の状況を思い浮かべてみるということは無駄ではないだろう。&lt;br /&gt;　例えば責任という観念を「責任」という概念の下で了解して言辞を、陳述内容披瀝を行うのは、語彙「責任」を使用事実として認識してから後のことであろう。それは間違いない。そして語彙「責任」を習得することを通して「自己責任」とか「連帯責任」とか「説明責任」とか様々な派生的概念を理解して認識し、使用事実としてある文脈において使用し、概念を応用してゆく、ということもまた正しい。&lt;br /&gt;　しかし同時に我々の幼少期を思い出してみても了解されることがある。それは「責任」という語を習得したから私たちは責任という概念を把握し、責任という観念を理解し、使用してきたのではない、ということである。&lt;br /&gt;　「責任」という語を他の「道徳」とか「良心」から「背徳」とか「背信」という風に段階的に習得する際に我々はただ単に音声的秩序としてそれらを教え込まれたのではなかったのだ。つまり我々は「責任」という語を学習する以前にも、内的にはおぼろげながらも、「どういうことをしたら、周囲の人＜家族、友人、学校の先生、近所の大人たち＞にどういう処遇＜扱い、評定＞を下されるか」とか「どういうことをしたら褒められ、どういうことをしたら叱られたり、咎められたりするか」という判定基準を持っていた。だからこそ我々は学校で初めて「責任」という語が黒板に書かれ、教科書に記載されていることを大切な「覚えておかなくてならないこと＜=概念＞」であるとして脳内にインプットされたのである。この事実こそ本章の内的理解ということに他ならない。&lt;br /&gt;　しかし「責任」という概念は他者に説明せよ、と言われればどうにか説明することが誰でも出来る事項であると言える。しかしそのように即座に答えられないこともまたこの世の中には沢山存在する。その一つが愛情とか友情とかそういうことであることは誰しも異論はないのではあるまいか？だからこそ画家が自分の描く絵をどこで仕上げたと言い切ってよいのか、あるいはどのような形態が完成に相応しいものであるかを説明せよと求められてもなかなか答えられないのではないだろうか？つまり画家を問わず小説家、詩人、音楽家といった人たちは皆どのような形で例えば小説をスタートさせて、どのような形でエンディングを迎えるように持っていくかに常に悩まされる。恐らくどのようなスタート（プロローグ）とどのようなエンディング（エピローグ）にするかということは、その作品を通してどの部分を最も強調し、メッセージとして伝達するかという意志決定の合理化と基準を一にしているように思われる。&lt;br /&gt;　ここで敢えて結論的なこととして言えば良心というものは説明され得ないことに属するということである。例えば責任はそれに比べれば、良心発動、社会正義の実践というレヴェルから説明可能であり、要するに説明され得る事項に属する。つまり責任が説明可能なのは、責任を支える心的様相としての良心が愛情とか友情同様説明され得ないことをどこかで我々が無意識の内に覚知していて、それを根拠に代理的に使用している、と捉えることも可能である。そのことと関係のある事柄として再び大屋に登場願おう。&lt;br /&gt;　大屋雄裕は「法解釈の言語哲学」の副題として＜クリプキから根元的規約主義へ＞と付け加えている。このクリプキに対する解釈こそ彼の論旨を決定するものであると言える。&lt;br /&gt;　クリプキのことを解説するとそれだけでかなりな紙面を必要とするので、クリプキ哲学のことをある程度知識上粗方の読者諸氏が有しているということを前提に論を進めることにする。大屋はウィトゲンシュタインに対するクリプキの認識が一般的には誤っているという事実を提示した後にそのことを正論とする小林公の論旨に苦言を呈する形で、小林の文章を引用してから自らクリプキに対する認識の結論として次のように述べている。&lt;br /&gt;「いわばウィトゲンシュタインがルール使用を内的に・理解の観点から考えているのに対して、クリプキは外的に・直接ルールに従う者ではなく使用を観察している人間の視界から描こうとしているというのである。だがこの見解は、クリプキの問題の意義が「我々が一貫してルールに正しい結果を出し、だからこそ懐疑論者に苦しめられていたことを想起せよ」、我々と異なる結果を出した他者に対してどうしたら自分たちの答えを正当化することができるかという点にあるということを見落としている。すなわち、ここで問われているのは自らと異なる意見を持つ他者に対して自分の答えの方が正しいと主張することはいかにして可能かという問題、要約すれば権力行使の正当化問題なのである。だからこそ、この問題が法哲学において問われる意味があるのだ。」（「法解釈の言語哲学」７３ページより）&lt;br /&gt;　ここで私たちが問わなければならないこととはクリプキ哲学がでは実際皆が通常答えるプラスの答えが正しくはないと言っているのか、ということである。そうではないだろう。彼はそれが歴然と正しいことを承知の上で敢えて「だがそれを認識論的に根拠を論って説明することなど出来はしないのだ。」ということを言いたかったのである。つまり我々は通常何でも言葉で説明出来るという幻想を持っている。しかし我々の日常において経済活動、政治的決断とか多くの事例を目撃して、自分が当事者ではないのに、どこかで「あの社長のあの時の決断は正しかった。」とか「あの時の総理の決断は正しかった。」とか肯定的な評価からそうではない否定的な評価に至るまで一々説明するまでもなく判断しているし、また大勢の人間がそういうことというのは往々にして間違いではない場合の方が多い。そしてそれは全体的な流れとか全体的な判断において、その場その時に立たされた個人の決断としてはその後如何様に流れが変わったとしても尚、その時の決断は正しかったとか間違っていたという風に言える。それは理屈ではない。我々はそれを言葉で説明しようとする。そしてそのことは正しい。しかし同時に言葉では説明しきれない数多くの具体的な事柄というものの存在を我々は知っている。そしてそれらの筆舌に尽くし難い事項の存在の前では説明とか根拠の堤示という行為の無力を我々は無意識の内に知っている。そのことを敢えてシニカルに「あなたはあなたが一番正しいと思う回答が正当であるという根拠を果たして示すことが出来ますか？」という問いを通して覚醒させたのがクリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」であると私は捉える。その意味ではクリプキはウィトゲンシュタインの考えていた内的理解という面での現実（私が提出した「責任」という語習得以前の責任に対する認識）を否定したわけではなかったのだ。彼がプラスをクワスとしたことはスワスでもツワスでもどれでもいいという可能世界に対して、我々の世界では明らかにプラスを自明のこととしている規則遵守は、では規則だからと言って規則だからそのメカニズムを説明せよ、と言われて答えられるのですか、という問いが彼から発せられているのである。（尤もウィトゲンシュタインの内的理解とは言語獲得後的なものである。）&lt;br /&gt;　私はこのことをもってクリプキはウィトゲンシュタインが自身の哲学を突き詰めていった時「私的言語」という観念を提出したことに象徴される規則遵守とは無縁のように思われる内的な個、あるいは内言といった事態が、一方では説明責任によって成立している社会が、同時に全ての成員間では説明不可の様々な思念によっても満たされ、それはカントが言った道徳的法則とか自由という価値論的命法が、言葉で説明出来ないほど自明であるからこそ逆にそれを何とか言語化することには意味があるという主張になっている（それは自然科学においても同様のことが言える。自然科学で知り得ることには限界がある。しかしその限界まで知ろうとすることには人間の知の偉大さがある。）ことと同一の地平を我々は確認することが出来るのである。&lt;br /&gt;　クリプキは「数学式を始めとする言語の偉大さはその説明的な無力さ故に確然的である。」（要するに言語では常に説明され得ないことが残るからこそ、言語で何とか説明しようとすることに意味があるということである。）という主張を、数式を通して示したと捉えているのだ。その意味ではクリプキはゼノンやヒュームと同様カントのチルドレンでもあったと言うことが出来る。そして本章の結論を言うと、良心というものは相手の立場に立ってそれを自分の立場に置き換えて考える配慮であるが、責任と重複する部分もあるが、責任が時として非情である場合もあることに比べれば、それが正しいか正しくないかを説明せよと求められれば、即座に返答に窮する日常的には最も経験することの多い心的な確然性である、と言えよう。&lt;br /&gt;　だから我々は幼少期に「責任」という明確なイデーを把握していて、それをその内「責任」という語（概念）に置換して高次の応用を旨として理解してきた。しかし良心はその正体が明確にもかかわらず責任ほど言語化して説明することが困難である。それはどこか深く感情的なレヴェルでの判断に基づいているからである。そして良心的な判断は時として責任遂行と衝突することもある。だが相手の立場になって考え、相手を思い遣るという意志決定は論理外の判断である。責任はその範囲内で良心を使用しようとするから、社会正義の範囲で自明な判断であるだろう。しかしもし責任に対して良心が許さない場合、我々は説明不可領域において決断しているのであり、そのどちらが正しいかというような論理整合性からではない筈だ。もし行動として決することを躊躇しているのなら、それははっきりしている、制度は良心に対して拮抗しているから、決断を鈍らせているだけのことである。そしてそれを決行することが正しいと自分では信じているが、怖気づいている場合には迷いを吹っ切るために納得出来る形で自己に説明することこそが意志決定の合理化（それは良心に対する責任の側からの決行に際してもあり得ることである。）なのだから、それが出来なくて苦しんでいるだけのことである。そしてそれをせずに済ますことは後悔と自責を我々は後日抱くことになるということもまた我々はよく承知しているのである。画家は恐らく直観的に説明不可能な良心に基づいて一個の作品をどこかで完成としているのだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-5753847208849571480?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' 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src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-5772970969195476761</id><published>2009-10-23T02:16:00.000-07:00</published><updated>2009-10-23T02:37:17.536-07:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第六章　説明の条件、理解度ということ①</title><content type='html'>　他者の存在は自己を規定するような強制力を持っている。ティム・バークヘッド（行動進化学者）は、ゲオフ・パーカーとロバート・トリヴァースの性に対する考え方を継承してそれが葛藤であり、対話とか融和とか生易しいものではないということを述べている。寧ろ宥和こそその性的な関係の本質に近いというわけだ。（「乱交の生物学」新思索社刊より）&lt;br /&gt;　だがそれは脅威としてばかりではない。自己の内部の知られざる一面を他者に共有させたい欲求を解消するための手段としても他者は有用なものとして自己に立ち現れる。だから他者が、配偶者とか同僚とかそれ以外の友として立ち現れる時、自己によって得られた真理を、あるいはその素晴らしさ、あるいは自己が納得し得る領域の意味を分かち合う可能性に賭けるということは自然なことである。勿論その自分が得た真理は思い違いである場合もあるだろう。しかしそれでも尚自己によって得られた発見を他者に披露することで、真理であるかどうかを査定することには意味がある。そして真理を他者に説得するには個的な経験の記憶やら個人的な思いを超えてある普遍的なレヴェルにまで自己が得た感動を昇華させる必要があり、そのような普遍的な真理として説明する能力は、他者に対して自己の発見の喜びを分かち合って貰いたいという意欲に応じて進化する可能性がある。つまり説明することは自己によって得られた発見を真理であると確信するプロセスと同時的であり、その真理性への可能性の発見が説明を説得力あるものにすることは間違いない。&lt;br /&gt;　そして自分の中でだけ理解し得たある種のもやもやは、他者に説明した時、どのように解説したら他者は理解しやすいかという他者の立場を忖度するような配慮が要求されるだろう。それは他者の気持ちになって、自己の現在を他者の現在に置き換えて考えるということから始まる。前章での集団の首領同士の発案もまた、首領自身の決裁に全ての彼等につき従う成員の命運がかかっているのだが、どの首領もまた他の首領の立場に自分を置き換えて他者の心理を読み取るだろう。例えば友人との間では紳士的であっても、それ以外の他者に対して攻撃的であるなら、その成員はどこかで社会的には見放されてゆくだろう。だから全ての親類の成員は親しい者とそうではない者とを等価に見ることから、例えばゴミを捨てる場所を常にきちんと考え、ここにゴミを置きっ放しにしたら、この場所を通る、あるいはこの場所の近くの住民は迷惑するだろうという想像を働かすことで、そのような行為を慎むようにする、というようなことは要するに他者一般、他者全般を常に配慮に入れた公衆道徳であり、それこそが良心の起源であり、社会全体における自己の責任の意志ということになる。そしてそれは仮に親しい者同士であっても尚、その者の発する言辞が陳述内容の真理性（命題的な、つまり内容的な説得力）よりも、友愛的な接触を示すことの方に重点が置かれているにせよ、やはり発話内容の持つ真理性という説得力は説明の条件としては不可欠である。それがなければ「あの人はいい人なんだけれど、言うことは非論理的で説得力がないね。」という定評となるのだ。それは説明責任ということの第一義として考えることが可能である。&lt;br /&gt;　要するに個人の思わぬ発見というセレンディピティーは個的で個人的であるが、その喜び、その発見の意義を他者に説明するのには、普遍的な真理へと命題内容を志向させることが要求される。その配慮こそが説明責任であると言えるだろう。自己にとって理解しやすいことを他者にも同様に理解しやすいように配慮することは、即ち理解しやすさという基準を自己のレヴェルから他者一般のレヴェルへと敷衍する必要があるのだ。だからもし仮に同僚であれ、配偶者であれ、地域住民同士であれ、その関係というものが激しい主客の応報であるような、つまり葛藤であり、融和というような生易しいものでないなら、寧ろ尚更説明の理解度の調節という行為は意味を生じると言っても過言ではない。だから理解とか理解させるように持っていく説明責任というものの発祥は寧ろ敵対する間柄でこそ進化したと考えることは理に適っている。寧ろ理解し合える間柄ではことほどさようには理解度の調節ということは必要ないとも言えるからだ。&lt;br /&gt;　法哲学者の大屋雄裕は「ドゥウォーキンは芸術的意図について、それは複雑で構造化されているものであり、そして我々の解釈はその抽象的な目的を捉えるものでなくてはならないとしている。「シャイロックという人物についてシェイクスピア自身が抱いていた、より具体的な特定の見解だけに忠実に従い、人物の性格についてシェイクスピアが有していた観方が現代の聴衆に対して与える効果を無視することは、作者のより抽象的な芸術目的に対する裏切り行為とも言えるのである。」（中略、ドゥウォーキンのテクストの出自）。だがではここでいう「作者のより抽象的な芸術的目的」とは何なのか。単にそれは、対象を良いものにしようというほとんど無内容の概念ではないのか。だとすれば、それは「何が善であるか」という解釈主体の善の構想によって補充されざるを得ない。」（「法解釈の言語哲学」５３ページより）」と述べているが、その主張はある意味ではある対象を陳述内容として選択した時点で、その対象に対する賛美であれ、批判であれ、それを選択した者がその対象に対してある関心を抱いていることの表明なのだから、その対象に対して一切触れもせず、何の関心も抱かないで、その無関心はだから当然のことながら話題にも上ることなどないであろうが、そういう事態に比べれば明らかに話題にすること自体その対象を話題構成上の必要不可欠要素として是認しているのだから、我々はその対象をよりよく利用しようとしているということになる。そしてシェイクスピアの言辞の引用は、誠に正鵠を得ている。シェイクスピアがハムレットやオフィーリア、ホーレイシオを登場させた時、彼の脳裏には誰か具体的なモデルがいたかも知れない。しかし彼内部でのその真実を突き止めたからと言って、彼等登場人物のドラマ上での抽象的役割とか象徴的な意味合いそのものはいささかの変更を齎されるものではないし、また作者であるシェイクスピア自身も決してそれを望みもしないであろう。つまり私たちは彼の戯曲で示された如何なる登場人物も私たち各個人なりの解釈を許容しこそすれ、限定するものではない。本来テクストとはそのようなものとして我々に公共的な意味合いで差し出されているものであり、またそういうものであるべきなのである。またそのことに非自覚的であるなら、それはテクスト創造者であるとは言えないだろう。しかも彼は作者の創造意図を良心が支えると主張する。&lt;br /&gt;　するとテクストの意味そのものも解釈の数だけ存在する（そのことは大屋雄裕も先述の同書内にて述べている。）ということになるし、またそれでよいのだ。これは話者が聴者にある自己の発見したことの喜びと、その発見に内在する真理を説明することで、理解度を調節し、他者に自己内の私的な事柄を真理として共有させたいと願うこととも相通じることなのだ。よって一つここで定義しておいてもいいだろう。それは理解するとは個人毎に仕方は異なるが、理解され得る対象としての発見事実というものは説明されることによって普遍化された事例となるから、その時点で発見者独自の所有という観念から開放され広く公共的な意味合いを付与される。だからその発見者の発見に纏わるどのような事情や、その発見に纏わる発見者のどのような感慨とも無縁に発見事実の持つ普遍性は独立して存在し得る、ということである。故に説明された事項というものは、説明へと至る説明者の個的事情とは無縁に価値論的にそのものとして存在し得るし、認識し得るのだ。このことを脳科学者の茂木健一郎は「「脳」整理法」その他の著作で、自然科学のディタッチメントとして大きく取り上げているが、実は説明というようなニュアンスともまた異なる芸術にも同様の、描写的、表現的説明という普遍的なメカニズムが内在しているのであり、それは自然科学の陳述内容と同様に認識することが許されている、ということである。それは法体系とか言語にも適用し得る真理なのかも知れない。&lt;br /&gt;　大屋は法学者のフィッシュを大きく取り上げ、テクストそれ自体に意味が固定化された価値として存在しているのではなく、意味とは寧ろ我々がテクストの存在自体に付与しているのだという考えを主張するため次のように言っている。&lt;br /&gt;「フィッシュによれば意味はテクストそれ自体の性質や属性といった「所有物」（property）ではなく、むしろそのテクストが位置する文脈のものとして理解されなくてはならない。テクストそれ自体が意味を持つわけではないので、「複数の意味を持つテクスト」というものも想定され得ない。その一方、意味を供給するのがあくまで解釈戦略であることから、例えば「憲法の意味が尽きることはない、何故ならそれは意味の貯蔵庫ではないからである。むしろ意味は常に（．．．．．）政治的。制度的な力によってそれに付与されているのだ」（後略、フィッシュの出自）。法の欠缺は、ドゥウォーキン同様フィッシュにおいても認められないだろう。」&lt;br /&gt;　最後に大屋が述べる一節は法哲学者としての彼の立場上重要であろう。しかしだからこそ法は常にその不備を指摘しつつ、改変されてゆくことが望ましいということが言えるだろう。しかしそれ以上にここに重要なのは、テクストの存在理由を文脈的な解釈のためであるとしていることと、テクストそれ自体が解釈の数だけの意味を持っているのではなく、テクストを読む者の解釈の数だけテクストに対する意味が存在し、それを私たちが認め合っているということにこそ真理があるのであり、それはテクスト真理の相対論ではないということである。寧ろ意味付与と意味そのものの文脈的位置づけの相対論であると言った方がよいのだ。&lt;br /&gt;　ここでテクスト創造者（それが個人であれ集団であれ）とその受け手との関係を整理しておこう。テクスト創造者にとってテクストを世に問うことは彼による何らかの発見的事実の披露である。そしてそれを自己流の感動のレヴェルから他者一般、他者全般にとっての理解度に合わせて公表するのだ。その際に彼にとって「見出される意味」とはテクスト堤示行為そのものである。彼にとってはそれを世に問うことには意味がある。しかしそれを受け取る読者にとってはその提示された状況、あるいは事態といったものはあくまで「引用された意味」である。だがそれを読み自らそこに内的なレヴェルであれ真理を付与し、意味付けることによって彼は「見出された意味」を発見するだろう。&lt;br /&gt;　テクスト創造者にとってはある想定された読者層という観念があるのだろう。その読者層の認識力を想定して理解度を調節している。それは大衆的な読み物であれ、専門家内部での論文であれ変わりない。しかし一旦差し出された以上誰がそのテクストを読むことも自由である。少なくとも丸秘の資料とか機密文書でない限り。&lt;br /&gt;　だが法律の文章はそれを享受する側と作成する側が分離してはいない。勿論法律は市民、国民から選ばれた代表者たちの専門的見識によって作成されているのだが、そのプロセスは民主主義的な手続きを踏襲している。だから送り手と受け手が一致していることこそそこに明文化された法執行の観点からも、法厳守の観点からも理想であることは言うまでもないだろう。勿論常にそういった理想とのギャップこそが政治を我々が要求する根拠ともなっているのだが。（定義しておこう。テクスト創造者にとってはテクスト自体が責任なのだ。）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-5772970969195476761?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/5772970969195476761/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_23.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' 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type='html'>　哲学的に言えば良心とは倫理の問題にかかわる。そして自然科学的には今までそういう哲学的命題性とは人間社会がある一定の水準に達した時初めて立ち現れたと考えられてきた。しかしそもそもそのような常識、あるいは理性以前にまず知性ありきという観念そのものに誤謬がなかったか、もう一度考えてみてもよい、と私には思われる。例えば知性とはそれ自体で進化してきたかのような考えが支配的であるが、理性こそが知性の発達を促したと考えた方がずっと私はすっきりする気がするのだ。そして原始理性とは意外と、我々がロゴスとかそれ以外の名前が考えるところの理性よりももっと素朴なものなのではなかったろうか？&lt;br /&gt;　エマニュエル・レヴィナスが表象と労働を区分けし、その二つが分裂していくさまを人間の実存として捉えた時、彼は表象に神、イデア、理想を、そして労働に人間の人間としてあることと、そういう我々を内包する実存、実在として捉えていたと考えてもよいと思われる。この二つの分離は当初から人間は実在するものとその背後のものという形で、あるいは実在可能性、願望、祈念、想像というあらゆる幻想性に依拠したレヴェルで実在物に接してきたことを意味する。レヴィナスの持っている観念は確かに自然科学的に証明されていたものではないのだろうが、私には極めてシンプルで自然な思考のように思われる。例えばレヴィナスと同じ名前のカント哲学において、幸福欲というものはどこか性悪的なものであり、生活と幸福の享受と真の満足とは別個のものであるという観念が、少なくとも「道徳形而上学原論」においては示されている。それはレヴィナスが分離することの必然性として捉えた二つの事項の距離感とも関係がある。幸福の追求は実在可能性の範疇でなされれば、願望の域に留まるが、一旦その枷から外れるとどこまでも特殊意志的な暴走に歯止めが利かなくなり、その想像においてはあらゆる背徳も含まれるし、理性レヴェルでのカントが言うような意味での満足には必ず責任倫理が伴うべきであるし、そのように初期人類が考えたとしても何ら不自然ではない。&lt;br /&gt;　人間は一方では表象の実現によってあらゆる文明を築いてきたが、他方その行き過ぎによって多数の死傷者を出しても来たし、それが人間の歴史である。表象は理想にもなれば、妄想にもなるものである。そのことに対する自覚そのものが初期人類にもあったればこそ、責任を軸とした良心の命題を言語化し、社会実践化し、生活していたのではないだろうか？&lt;br /&gt;　だから良心というものを支えるシステムのようなものが仮にあったとしたら、それは恐らく願望の許される範囲と、許されざる範囲の設定基準を求めるような考え、つまり理想という表象と妄想という表象の峻別的な理性であり、自己抑制することなしには、我々は自己と自己を取り巻く親しい間柄においてのみ利益となるような行為選択をすることになるが、一旦心落ち着けて考えてみれば、自己や自己の取り巻き以外の多数の他者にとって自己や自己の取り巻きの考えが弊害にはならないような範囲での、まさにその範囲こそが権利なのであるが、その権利の範囲内で願望の意味内容を考えていたであろう。その時良心というものが芽生えるが、その良心を支える当のものとはだから、他者一般、他者全般に対する責任であると言うことが出来る。つまり良心という観念とは社会の維持そのものの基準でもあったわけである。社会の維持はある一定の全成員の幸福と理想の実現であり、それは要するに福祉的整備であり、福利厚生であり、治安の維持であり、安全と平和である。それは対捕食者対策としても、同一種内での闘争回避である。&lt;br /&gt;　対自然の脅威において人間は利他的に結束することがたやすかったであろう。しかし対人間的な脅威となると結束は全人類の関係にはならなかったであろうから分裂の予兆があったと思われる。だから同じ安全と平和には二種類あったと考えることもまた理に適っている。そしてこの二つの観念は常に隣接し、共存していたのかも知れない。&lt;br /&gt;　そして一番重要なことというのは、この二つの秩序はどちらの方が先験的に把握されるというようなものでは決してない、ということである。このような対極的な観念の理解とは同時的でなければ矛盾する。というのも概念とはそもそも対となって心的には立ち現れるからである。例えば極単純な概念について考えてみよう。「大きい」、「小さい」といったもの、あるいは「長い」、「短い」といったものはその組み合わせとして立ち現れる筈である。それは前者の場合大きさ、後者の場合は長さである。大きさとか長さというものはメジャーであるので、その概念規定として言辞されているが、そもそもこの二つのものは一つの概念の二極であるに過ぎない。だから言語習得期における幼児にとって親しい者（それは大概両親であるが）とそうではない者という二分はあくまで両親による愛情ある幼児に対する接し方から引き起こされる一個の意味論的な把握であり、親しさという概念の起源である。親しい者は信用出来るし、信頼出来る。そのように心的には把握される。よって疎遠な者、見知らぬ者、あるいは物的には自分の持ち物とそうではない物という二分は一個の概念によって認識される。勿論心的にそういう人物や事物に対する感情が親しさとか信じられるというような概念を言語的に把握することに繋がる。&lt;br /&gt;　だから言語習得の起源として考えてみても、親しい者の間での心遣いというものは同時的に他人の存在と、そのことの認可を含んでいる。それらは要するに対であるというよりは相互依存的な概念形成の原子である。哲学者ホージランドは相互依存、相互作用こそ一個の要素、例えば遺伝子とかの存在の存在理由（存在する意味）であり又、一要素とは他の要素に対する存在理由であり、説明され得るという事態は、その相互作用とか相互依存の内的なメカニズムの機能論的な理解そのものであり、形態論であり、それこそが意味であると捉えている。この説明ということに関しては後で結論においてテクストとも絡めて詳述しようと思う。&lt;br /&gt;　責任に話を戻そう。責任とはだからその責任という概念の把握そのものにおいて既に親しい者、家族と他人、他人の家族といった事態の理解を含んでいるのだ。だから国家の利害とか治安という観念には同時的に他国の利害とか治安を、自分の住む地域の平和には同時的に自分の住んではいない地域の平和という観念を含んでいる。これらはどちらが先であるというような理解ではない。つまり戦争と平和はセットになっているのだ。そしてその観点から行けば、人類の結束という対自然脅威としての認識は同時的に、対自然脅威への認識の手薄な時期に発生しやすい自国的なエゴとか自分の住む地域のエゴとか、自分の知っている親しい者同士の親密さとかの観念を優先するような心的な過程を認識論的に派生させることに等しいのだ。またその逆も可である。&lt;br /&gt;　再び定義し直そう。責任とは自分とか自分の周囲に対してと同時に、価値論的には全くそれと等価に他人に、見ず知らずの人々に対して注がれる平等の、権利の平等の観念によって成立している。&lt;br /&gt;　そして良心とは親しい者同士、身内同士、家族内では当然のことを他人にも適用することで成立する正義感であると言える。親しい者同士、家族同士で結束し愛情を注ぐことは動物にも可能な心理である。しかし全く自分とは本来縁のない他人に対してどれだけの責任を持つことを価値論的に認識し得るかという観点こそ責任という道徳的観念の起源である。だから仕事の出来る人間は自分がたとえその職場から離れることになっても、自分が離れた後にその職場に来る者（その人間のことを知らなくても）の立場になってその人間が仕事をしやすい環境を整備してから職場を離れることを考えるであろう。つまり自分の知っている人間に注がれる愛情と配慮と等価のエネルギーを他者一般、他者全般、見知らぬ他人にも注ぐということにおいて責任の所在と、良心の起源があると私は考えるのだ。&lt;br /&gt;　そして意味を把握するという事態においてさえ実はこの責任と良心が介在していると考えられる。理解することというのは他者にも自己が納得したような形で理解した経緯を説明出来る（あるいは進んでそうする）ことを意味するのなら、概念の把握という一つの理解はそれ自体で責任倫理を内包している。あるいはその理解の共有という事態において他者への良心をも含んでいる。&lt;br /&gt;　しかしそういった良心を生じさせる基盤として我々には記憶というシステムが介在していることを忘れてはならない。アンセルメ（精神分析家）とマジストレッティー（神経学者）の共著「脳と無意識ニューロンと可塑性」で触れられている知覚現像と共存する思念を彼等は幻想と呼んでいるが、それを理論神経生理学者のウィリアム・カルヴィンは記憶の仕業であると断言している。そのことに関して比喩として彼は「何かがかすかに聞こえてくると、その詳細を脳に書きこみながら、われわれはいつも推測している。風にあおられたスクリーン・ドアがきしむ音だけで、もうこの世にはいない、大好きだったイヌが食べものをくれと鼻を鳴らしている声だと思ってしまう。いったんこの記憶が呼び戻されたら、あなたが聞いた本当の音を思い出すのはかなり難しくなるかもしれない＿そして、記憶から詳細に補充されたものが、知覚された現実となる。これは別に異常なことではない。ウィリアム・ジェームスが一世紀前に記したように、われわれはいつもそうしているのだ。」（「知性はいつ生まれたか」草思社刊、７７ページより）と述べている。&lt;br /&gt;　私のようにこうやって文章を書くことを仕事としていると、時々ある本を読みながら、その本に書かれたある文章の内容や述定を把握しながら、そのことに関連した思惟をすることがある。するとその文章自体に関する記憶よりも、その文章から得た私の内部でのインスピレーションの方が記憶に残り、そういうことが書いてあったと思い違いをしてしまう。そしてその読んだ本をもう一度開き、その内容をその本に探してもどこにも見当たらない。それはそうだろう。私が記憶していたのは、その本の文章なのではなく、その本のある文章を読んだ時に私が抱いた連想とか感想とか私個人の思念でしかないのだから。&lt;br /&gt;　しかしこのようなずれというものは私たちが他者と接する時に特に実感する。私たちは友人に対してある体験について告白する。私たちはある感動を他者に伝えたいという欲求を持っているから、そういうことは日常茶飯であろう。しかしそういう場合私たちは他者に自分の体験を解説するわけだから、他者にとって理解しやすいようアレンジして話す。&lt;br /&gt;　何か特定の新奇なアイデアが突然何かしている時とか、仕事の合間に別の場所に出掛けて風景を眺めていたりする時に思い浮かぶことがある。そういう体験を脳科学ではセレンディピティーと言う。（茂木健一郎著「「脳」整理法」、「脳と創造性」等を参照されたし。）こういったセレンディップな体験を他者に伝える時、私という人格の私固有の思考パターンとか私固有の経験則でそのまま語ると他者には理解し辛い。そこで私は他者にとっても私にとっても変わらないようなある普遍的な真理に当て嵌めて自己固有の体験を説明しようとするだろう。その操作は他者と自己の溝を埋めようと画策する意図であるし、意思疎通の際には極自然に行われることである。しかしこの時私たちは無意識の内に他者に対する配慮をしている。日本に来ている外国人観光客に知らず知らずの内に自分の知っている英語の単語を並べて会話しようとしている時と同じ心理である。そして友人とか外国人観光客に対してそういう時になす配慮とは良心を発動しているのだ。そしてそれは意思疎通の際に心理的には責任を履行してもいるのだ。他者にとっての理解しやすさという思い遣りはそれ自体で責任倫理の産物である。&lt;br /&gt;　しかしそれだけでは発生論的な意味では何か物足りないと感じられる向きもあるだろう。理解しやすさを他者に対して付与するような配慮は本来的な思い遣りではないのではないか、つまりもっと本質的なことがあり、その本質の高次の顕現こそがそういう他者への思い遣りではないのか、という意見が聞こえてきそうである。そうなのだ。それはある意味では結果として立ち現れた高次の良心でしかないのかも知れない。そこで一つ思考実験をしてみよう。&lt;br /&gt;　人類初期言語獲得期における人間の集団を幾つか考えてみよう。まずＡという集団はＢという集団に隣接して生活している。そしてそのＡ、Ｂ両集団ともにある大型の捕食動物に狙われている。二つの集団は普段は特に衝突することもなければ、協力することもなかったのだが、その捕食動物に対して脅威であるという意味では共通した運命を背負っている。そこである日二つの集団の首領同士が結束してその捕食動物を打ち倒すプロジェクトを立てることにする。そしてその目的を達するまでは二つの集団は協力的であり、相互に役割分担をしてその役割を担う成員たちは皆同一目的に供せられる責任を負っている。そして天敵である捕食動物を打ち倒すプロジェクトを実行する日がいよいよやってきて、計画通り成功し、その大型動物の脅威は一先ず静まった。しかしその捕食動物の脅威が退却すると今度は二つのグループが狩をしていたある小動物の狩猟範囲、狩猟量を巡る葛藤が生じるようになる。ある天敵からの脅威に対抗する意志が両グループ内に蔓延している内は結束していた協力体制が一気に崩れるのだ。そのように両グループが狩猟を巡る衝突が顕在化してきた時、もう一つの移動集団ＣがＡ、Ｂ両集団の領地を横切る。Ａ集団はどうということなくＣ集団の移動をやり過すのだが、その次にＢ集団の近くを通りかかる時、Ｂ集団の首領が何の気なしにＣ集団の首領に言葉をかける。Ｃ集団の首領はＢ集団の首領がほくそ笑みながらこう言うのを聞く。&lt;br /&gt;「俺たちに協力してＡ集団の首領とその取り巻きをやっつけるのを手伝わないか？もし協力してくれたら、君たちに僕たちの狩猟範囲の幾分かを配分してあげよう。そしてＡ集団の生き残りを奴隷にして連れてきた時、その半分を君たちに差し上げようじゃないか。考えたのはこの俺だから、後は君たちは俺の考えた通りに手をちょっと貸してくれさえすればいいのだ。どうだ、悪い話じゃないだろう？」&lt;br /&gt;　Ｂ集団の首領は天敵から平和になったばかりの人間集団間での葛藤が顕在化してきたこのシビヤな現実を克服したいがために以前の仲間を裏切ろうというわけなのだ。Ｃ集団の首領は少し考えてから決断した。そしてＢ集団の首領にこう返事をした。&lt;br /&gt;「その話に乗ろうじゃないか。でもそういう風に俺たちを巻き込んで以前の仲間だったような奴らを嵌めるのだから、ことが済んだら俺たちもどんな風に裏切られるか知れたものじゃない。だから担保が欲しい。お前の女房をお前が俺たちにした約束を守ってくれるということを俺たちが確認出来るまで俺たちの集団内で人質にしておきたい。」&lt;br /&gt;　そのＣ集団の首領の意見も尤もだ。そこでＢ集団の首領は承諾し、竪穴住居の中から首領の女房を部下に連れて来させる。&lt;br /&gt;　このストーリーは私が勝手に想像ででっちあげたものである。しかしここには幾つかの責任履行というプロセスが凝縮されている。例えば最初捕食天敵に対抗する時責任は分担されている。Ａ集団とＢ集団の間にはある信頼関係がある。しかし一旦その目的を達成すると、別の欲求が頭を擡げてくるのだ。それは平和時における競争の論理である。非常時には結束されていた絆はもろくも崩れ去る。最初の協力はあくまで純粋な良心に基づいているだろう。しかしＢ集団の首領がＡ集団そのものの存在を疎ましく思うようになるに至って、Ａ集団を打ち滅ぼす計画を立てて、その陰謀をＣ集団の首領に持ちかけた時に見せる協力者（共犯者）に対する自分の女房を差し出すＢ集団の首領の心理は同じ責任でも良心には基づいてはいない。最も悪辣な首領であれば、愛する女房を差し出す振りをして、目的を達成した時に、実はその女房をさえ日頃から別れたく思っていて、Ｃ集団に対して何の分け前もやらずに人質を見殺しにすることを予め決めている者すらいるかも知れない。&lt;br /&gt;　つまり人間集団における信頼関係はある意味では外部的な条件次第で如何様にも変化し得る、つまり利害ということにおいてのみ考えればそういうものである。つまり損得勘定で全てを割り切ればどこまでも悪辣な心理は発生する可能性がある。しかしだからこそ良心というものは人間には必要とされた、あるいは必然的に認識され得る場が与えられた、とは言えないだろうか？例えばここでＣ集団の首領が最初から気が進まないと断っておれば、彼はＢ集団の首領の陰謀に巻き込まれずに済む。しかしもしそういうことをすれば、Ｃ集団の首領を今度はＢ集団の首領がそのことを根に持ち、今度は最初やっつける積もりだったＡ集団の首領に逆に声をかけ、一緒にＣ集団を襲い、彼等の財産を根こそぎ奪おうとすらするかも知れない、そういう風に邪推する悪知恵を働かす部下にそう説明を受けるかも知れない。それでもうっちゃっておこうと決め込むか、その部下の言う通りにＢ集団の首領の言い分を一先ずは聞こうと決めるかは結局のところＣ集団の首領の性格、人格、意思決定の合理化をなす彼の裁量一つにかかっていると言えるだろう。そして彼は悩む。誰に対する責任を最も優先すべきであるか、と。&lt;br /&gt;　例えばもしその部下の言う通りにＢ集団の首領がすればＢ集団から裏切られるだけかも知れない、要するに骨折損のくたびれ儲けなだけかも知れない。しかし逆に部下の言うことを無視して、どうもＢ集団の首領は信用がおけない、向こうがまさか自分の女房を差し出すなんて、どうかしている、そんな申し出に乗ってくるとは思わなかった、予想以上の悪党かも知れないではないか、と一切を断りそれまでしてきた移動を続行させるしかないと決断したら、今度はそのＢ集団首領の悪辣さからすれば、Ａ、Ｂ集団双方から挟み撃ちされるかも知れない、それではあまりにもリスクが大き過ぎる。しかし逆に考えれば、実際Ａ集団を裏切ろうということ一つを取ってみれば、Ａ集団の首領やその部下たちが日頃Ｂ集団以上に悪辣かも知れないではないか、それなら寧ろそういう風に断っても尚、Ｂ集団の首領は陰謀を聞かされてその口止めとして自分たちが殺されるというようなこともないかも知れない。そんな心の余裕は彼にはないとも言える。しかしそれにしては一度は自分の女房さえ差し出すと言い出してきたＢ集団の首領はなかなかの太っ腹だ、人格者ではなかったのか、つまりＡ集団を襲うことにした決意へと至るプロセスにおいてもよくよくの事情があったかも知れないではないか、それならいっそ自分の集団の利害を守る責任感溢れるＢ首領の申し出を受けて立ち、逆にこちらから言い出した彼の女房を人質として確保するような姑息な申し出も辞退すべきじゃないのか、そうＣ集団の首領は考え出す。&lt;br /&gt;　要するに利害関係だけで考えればどのような邪推さえ可能である。しかし人間は仮にそのような邪推によって最低限の損失を未然に防止することが出来たとしても、今のケースから言えば、Ｂ首領がもし仮になかなかの人物であるとして、それが正しい場合、寧ろセイフティーネットを予め設定しないで、彼の申し出をすんなり受けて信用することが最も偉大な友人を得る可能性（もし人質を確保して仮に後は全て巧くいったとしても、真実の信頼関係というものは最早Ｃ集団首領にとってＢ集団首領に対しては獲得出来はしないだろう。）が大きいということから、騙されて元々という決断こそが最も正しい場合だってあるのだ。つまり他者を信頼し、信用することで真実の友情を得るこが出来るのなら、それに賭けてみることには意味がある。そう考えることが出来る。そこにある意味では良心というものの自分にとっての幸福感というものがある。それは人から言われてその通りにして失敗するくらいなら自分の考えで決断して失敗する方がずっといいという決断である。それは他人を信用することで失敗する方が他人を疑って失敗するよりましだ、という価値観である。それはある意味では良心というものの本質、つまり自己内の充足感において後悔と自責の念に駆られたくはないという思いでありはしまいか？&lt;br /&gt;　Ｃ集団首領がＢ集団首領から申し出を受けた瞬間最早彼はそれ以前のような彼等と無関係なただの通りがかりではなくなったのだ。しかし同時に彼はＣ集団全成員の利害と身の安全という面での責任も背負っている。しかし後は彼の人を見る目の確かさと決断力だけである。要するに全責任は彼の直観力にかかっていると言っても過言ではない。頭の切れる部下の言うことを聞いて、ここは一つ彼の言うようにＢ集団首領の妻を人質に取り協力するか、それとも彼の申し出を断り素通りすることにするか、そして自分が一旦言ってしまった彼の妻の人質の件を反故にして信頼して何の担保もなく協力するか、その三つの選択肢がＣ集団首領には与えられている。勿論彼の頭の切れる部下が強引に主張するようにＢ首領がかなり悪辣であるなら、やはりきちんと担保を取っておくべきかも知れない。あるいはもしもっと悪辣で最後には自分たちさえ殺されるのであれば、彼はＢ首領を信用し過ぎることで逆に部下たち一切を犠牲にしてしまうことになる。そうなった時には彼は頭の切れる部下がもし生き残っていたなら、責任を取って死ななければならないかも知れない。信頼がおける部下の言うことを聞くことの方が無難ではある。しかし同時にその部下の言う通りだった時には逆に今度はその部下が絶大な力を彼と部下以外の面子に齎してしまう。それはそれで統制の意味合いから極めてまずい。そんな結果を齎すのならいっそ、Ｂ首領を信じることに賭けてみる価値がありはしまいか。そう彼は考えるかも知れない。&lt;br /&gt;　利害関係とかある社会全体の動向を左右する流れにはある必然性がある。しかし良心というものはそういった必然性に拮抗するような決意がある。それは流れとか傾向性とかをものともしない人間の自由への希求がある。つまりあらゆる外部条件によって左右されるような現実とか実質的な傾向というものがあるからこそ、逆にそういう利害を一切省みないような決断こそが最も適切であるという意志決定の合理化が成立し得るのだ。良心とか責任といった観念とは意外とここら辺に発生する場が与えられると考えてもよいのではないだろうか？ここで一つ定義事項が増えた。つまり良心とはあらゆる外部条件に左右されまいとする意志に他ならない、ということである。するとカント的な意味での自由とかエックハルト的な信じるということの意味と良心は密接であると言える。&lt;br /&gt;　私はディノテーションとコノテーションのことについて考察した。その際に相手からコノテーションをされ、それを見抜きながらも、そのコノテーションに気が付かない振りをしたケースについて述べたが、これはやや屈折した良心かも知れないが、実際にはこういうケースは極めて少ない。人間というものは咄嗟の判断でそこまで用意周到な行為を選択することは通常は出来ないものである。しかしもしそういう判断がつくのなら、ここ一番というようなケースでは賢明な判断ということになるが、そういうことは始終であるなら人間は耐えられまい。また、もしかしたら相手を傷つけないように自分が騙された振りをするということそのものは結果論的には（つまりその真意がもし仮に騙された振りをされた側に知れた場合）最も相手に対して侮辱となるということも考えられるからだ。思い遣りとはしばしば侮辱に隣接している。そういう意味では悪い知らせを臨終の人には知らせないでおくというような非常時の場合以外では、仮に憤りの感情を示すことであれ、真意を表出することこそが最も人間にとっては結果的には良心としては正しい行為かも知れないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-3207273295706921278</id><published>2009-10-19T12:03:00.000-07:00</published><updated>2009-10-19T12:25:12.037-07:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第四章　責任と良心②</title><content type='html'>　しかし人間は前章での低次な信頼性にではなく、あくまで高次の誠実性において言語行為を履行してきたからこそ、逆に偽証という事実が成立し得るし、不誠実という心的な様相が存在し得るのであり、その逆ではない。つまり我々は脳幹だけではなく、大脳皮質において思考能力を進化させてきたように、そしてその中でも前頭前野において細かい思考をしてきたように実はこの高次なレヴェルでの発話を旨としてきたからこそ、逆に意思疎通上での策略とか戦術さえもが成り立つのであり、決してその逆ではないのだ。&lt;br /&gt;　だからその部分ではカントの捉えた善意志とか道徳的法則といったものは決して近代意識としての権利問題であるばかりではなかったのだ。カントが言う客観的原理であるとか命法といったものは近代意識によって自覚されるものではない。それは寧ろ人間という種においてなされた言語獲得の起源的な原理なのである。まずそのことを踏まえて我々は良心というものの起源について考えてみよう。&lt;br /&gt;　そこに歩いている他者が自分と同一の言語を話すであろうという目測は全て起源的には良心に遡行出来る。何故なら我々はそもそもその他者を意思疎通の相手として選択する信頼性において認識している限りにおいて、被捕食者が捕食者を殺害するような目的ではその他者に接してはいないからである。それは紛れもなく他者を同一の種、同一の意思疎通能力保持者として認識し、そして何よりも話しかけようとしているからである。その行為選択はあくまで我々がその他者の共同体内での存在を認可しつつ、その存在認可を良心に従って宣言しているからである。あるいは敵対するテロリスト同士のテロ行為でさえ、我々は究極的には敵対する者という認識で他者を見ているわけであり、敵を絶滅させることが目的ではないのだ。敵はほどほど存在することで戦略的な自己の存在理由が我々には認識し得るのであり、それが全くいなくなった時我々は闘争を中断させるばかりか自己の存在をも消滅させなくてはならない。これは比喩で言っているのであり、闘争を正当化しているわけでは決してない。その敵対者同士の内的な心理の原理、必然性として言っているのである。&lt;br /&gt;　先ほどの例から言えばもしその街角に歩く他者に対して被捕食者が捕食者に対して抱くような考えを持っているのならそもそも我々はその者に対して発話してこちらの存在を他者に知らしめるような馬鹿な真似は決してしはしない。そしてテロリストたちは彼等同士で闘争していたとしても尚、闘争することを宣言することを通して（発語内行為としても、発語媒介行為としても）相互の存在を認め合っているのである。このことはこちらの存在を他者に決して気付かれないようにする行為とは対極のものである。従って逃走に対する追跡ではなく、通常の歩行者に対する尾行ほど最も他者の人権を無視した行為はないのだ。よってストーカー行為というものは他者存在の認可過程とか宣言を完璧に抹消された他者存在否認であり、敵対的行為ですらないのだ。それは完全なる良心の不在である。&lt;br /&gt;　結局責任とは他者一般あるいは他者全般に対してなされる意識であり、それは社会に対する意識であると言える。自分たちのファミリーさえ安泰であれば、後はどうでもよいというようなエゴイスティックな精神は寧ろそのような事態を輩出させた前段階として他者一般、他者全般に対する意識が想定され、その派生態として考えることの方が適切であると考えられる。&lt;br /&gt;　生物学者のリチャード・ドーキンスは「利己的遺伝子」以来「延長された表現型」、「ブラインド・ウォッチメーカー」等次々と示唆的な大作を発表し続けてきているが、彼の視点のユニークさは遺伝子自体が身体（個体）というビークル（乗り物）を通して自らの利他的戦略を通して生存の意志を顕現させているという考えを基本に、言語、社会といったミームと彼が呼ぶ表現型の様々なタイプを通してその主張をしていると捉えている点にあるが、実際ＤＮＡそれ自体からＲＮＡをメッセンジャーＲＮＡを媒介して選択的スプライシングをさせながら発現させているわけなのだが、発生論的に言えば、ＲＮＡという存在がア・プリオリに存在したからこそ、その存続のためにＤＮＡを派生させたと考える向きが大勢となってきている今日、やや遺伝子それ自体の目的性に全てを収斂させ過ぎた嫌いはある。例えば脳、それ自体が身体各位に対して指令しているその中央司令塔的なシステムは身体という存在を前提しているし、そのシステムを代表しているに過ぎず、脳が身体を構成しているわけではない。敢えて言えば遺伝子が脳を産出させてきている。しかし同時に遺伝子はそれ自体によって自身を構成しているというよりは、遺伝子によって発現させられるＲＮＡ、蛋白質、細胞といったセントラル・ドグマを誘引させる全工程を前提して存在しているとも言える。つまり仮に遺伝子が先験的に存在し得たとしても尚、その遺伝子の存在自体にはその後の全工程を発現すべく内在的資質を持って登場したと考える方がより自然だ。勿論その進化の過程そのものは限りなく多くの偶然の集積によって現在までのような全システムと工程を築き上げたのであろう。&lt;br /&gt;　そして何でこのような持って回ったことを言ったのかと言うと、つまり責任というものの起源についての考えを整理するためなのである。私は良心を機軸とした理性こそが知性を総動員させ、進化させたと考えているが、それは要するにＲＮＡがＤＮＡを派生させたように一見知性（それはかなりの動物にも見られることである。）こそが理性を生んだように思われるが、実は人間の場合には偶然的に理性という能力を有していたがために、それに見合った形で独自の知性を派生させたと捉える方が我々の種の歴史を捉え直す時、全て自然な形で理解出来ると思われるのである。そして勿論だが理性は目的論的に持たれた能力なのではなく、それこそ偶然だった筈なのだ。そしてその偶然を必然化してゆく累積淘汰（選択）の過程で我々は高次の知性を獲得することになった。（後は「ブラインド・ウォッチメーカー」のドーキンスの主張の通りである。）&lt;br /&gt;　ドーキンスの謂いを借りれば、社会は一個の人間の遺伝子並びに身体へと発現される全システム、全工程を予兆させるものの中では自身で構成する環境であり、ミームである。だからこそ逆に社会に同化するように自身を運命付ける。そしてその環境と遺伝子の双方向的なシステムを運命付ける一つの大きな指針として表徴として存在しているのが、責任という意識である。責任意識は前社会意識的に存在し得る。それは他者一般、他者全般に対する配慮を先験的に思惟し得る能力として運命付けられている。つまりこの責任というア・プリオリがあったればこそ言語獲得を例えばマウスも有しているところのFОXP２遺伝子を通して人間独自の言語獲得を自己複製子に対して継続させてゆくことが出来るのだ。言語活動とか言語能力が理性や責任を生んだのではない。理性と責任の対となる意識が言語を獲得させ、進化させ、社会を必然的に創造させることと相成ったと私は考えるのである。勿論理性の起源とはカントが統合したような近代的な理性ともまた少々事情が異なってはいただろう。しかし近代的理性へと累積淘汰（選択）することを促し続けた当の原動力としての原始的理性と責任の意識は言語獲得以前的に資質論的に内在していたと考えればもっと全てのミッシング・リンクも理解しやくすくなると私は考える。&lt;br /&gt;　ここで理性‐責任‐良心ということの相関性をもっと理解しやすい形で整理しておく必要があるだろう。これら三つは決してどちらが先ということはなかったであろう。何故なら責任のない理性は考えられないし、良心が不在な理性というものも矛盾している。そして残り二つに関しても同様のことが言える。この三位一体は哺乳類が何らかの恐竜その他の捕食者たちから自分たちの身を守るような状況を強いられた時代から継続してその萌芽はあったかも知れない。そして人間の場合特に例えば犬とか猫たちがペットとして飼われていて、その際に飼い主からよく接して貰える時の状況の学習という能力を遥かに超え得る能力であったと考えられる。例えば犬や猫は近隣に自分と同一種が存在することを知っているが、地球の裏側（そういう知のない時代ならそれなりに「どこか」に、という意味で）にも自分と同様の生命は存在して、いつかは死ぬと知っている人間のような意味では無知であろう。またそういう想像をすることはないだろう。人間の想像力がそのような飛躍を可能にしたのなら言語獲得は言語を有した人間が哲学的思考を有することになるくらいに自然であり、必然的であったことだろう。&lt;br /&gt;　犬や猫には無理でもイルカならそれに近い観念を有している可能性はあるかも知れない。ただ人間は少なくとも他者一般、他者全般を表象することが可能であったために社会を構成することが比較的楽だったとは言えるだろう。勿論我々のように眼に見える形で構成されてはいないものの確固たる社会を構成する動物群は沢山いる。しかし他者一般、他者全般を想定した上で責任を語ることが出来る動物は全く存在しないとは言い切れないものの、人間以外にそれを発見することは困難を極めるとは言えるだろう。&lt;br /&gt;　そして敢えて理性‐責任においてそれらを特色付けることのたやすいものこそ良心であると考えることもまた理に適っている。次章では良心のシステムについて詳しく考えていってみよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-7840073336904636754</id><published>2009-10-17T08:52:00.000-07:00</published><updated>2009-10-17T09:06:00.145-07:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第三章　責任と信頼</title><content type='html'>　しかし良心というものは判断行為において、それが正しいことであるという信念に忠実に履行しようとする慣習的な行為連鎖に位置付けられでもしない限り、我々はただ単に丼感情であるとしか判断し得ないであろう。例えば法というものを考えてみよう。法がただ個別のケースを裁くための処方として、丁度一人一人の患者の体質に合わせた薬を処方するように個別の裁定を下すということにおいて方便であると捉えることは間違いではないだろうが、その法を如何様にも解釈出来るとした場合（現行の日本国憲法にはそういう性質があるがために憲法改正という題目が出てきているのだが）、裁定する者と裁定される者の都合によってどのようにも解釈出来るとしたら、これは法整備の不備であるとしか言えないだろう。だから良心というものが仮にただ単にその場凌ぎの処方であるなら、それは寧ろ良心という名に値しないと言って差し支えない。だからもしその場凌ぎの判断が成立し得るのなら、それは判断を支える信念であり、それをここで信頼としてみよう。その低次の信念について考えてみなくてはならない。そして再び良心とは何なのかを考え直してみよう。&lt;br /&gt;　例えばイスラム法として知られる「クルアーン」は二つ大まかな解釈が存在する。それはスンナ（スンニ）派解釈と、シーア派解釈である。前者は最も多くの信者を世界中に持つ考えであるが、要するに字義通りの解釈をせよという教えである。しかし後者はその字面に示されたものには背後の意味が存在し、それを読み取らなくてはならないという解釈である。もっと要約して言えば、スンナ派解釈で言えば、「クルアーン」はディノテーション（明示）的なテクストであり、逆にシーア派解釈で言えば、「クルアーン」はコノテーション（暗示）的なテクストであるということになる。しかしこのような大まかな宗教教義上の解釈の相違も、同一テクストを介在させて国家とか民族共同体を管理する上での分岐的な事実でしかなく、恐らくそれらは実は同一の視点から別々の解釈をしていると外側からは認識し得る（尤もその分岐性そのものがその成員同士では重大なことである場合も多々あるのだが）。寧ろ問題なのはある一つの事実に対する解釈の違いから、例えば一個の文章があるテクストに記述されている場合、あるいはある一個の発話（発言）がなされた場合、その発言が意味するところがディノテーションであるかコノテーションであるかというような判断はそれを受け取る者の解釈次第であるとさえ言える。例えば世の中には冗談の積もりで何かを述べた者の真意とか意図を解することが出来ず、要するに冗談の通じない人間というものはある。しかし冗談もまた時と場合を弁えてそれを言っていい場合と、そうではない場合というものもあるだろう。またこういうことも考えられる。ある発言をディノテーションであるかコノテーションであるかということはその発言の意味内容に関する理解度と理解速度に応じて変化するということである。例えばある専門的な語彙とか引用とか示唆を与える場合、その発言意図を即座に受け取り理解する者にとってそれはディノテーション以外の何物でもない。例えばその発言が聴者に対する当て擦りであるとか皮肉であるとかの場合などは特にそうである。しかしその発言の意味内容を即座に理解出来ないということが発話者に予め想定されて敢えてそのような聴者にとって難解な理解を強いるものである場合、それは明らかにコノテーションであると言える。しかも厄介なことにはある発言が意図的コノテーションとして指し示されて話者によって提示されていても、聴者が思いの他上手であり、それをディノテーションとして受け取ることの出来る能力を有しており、それを即座に不快感を示すことが出来て、「しまった。読み取られたか。相手を見くびっていたな。」と発話者が後悔するだけならまだよい。問題なのは気が付いていて尚気が付かない振りをする聴者である場合などは完全に話者の方が手玉に取られていて、尚且つそのことに言った本人は気付いていない場合、我々はこれを明示と暗示どちらと受け取ればよいのだろうか？要するに命題内容としての発言の波及力そのものに対する明示と暗示の裁定と同時に、話者の真意表出性をも考慮に入れた誠実性をも加味して考えるなら我々は命題表示部分とオースティンの言う発語内行為としての力表示部分（先述の「法解釈の言語哲学」大屋雄裕著、４０ページに詳しいので参照されたし。）からの考察と同時に発言態度の誠実性にまで考えを及ばせなくてはならないのである。従って明示性と暗示性は話者、聴者双方の誠実性によるコミュニケーションの前提基盤と、その了解（相互の）と、命題内容如何でどのようにも可変的であると言えるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　例えばある言辞が齎された場合、すり同士の会話とか銀行強盗同士の会話であるなら、その目的性において履行意志が明確であるから「～とあなたに報告する」という部分は全く述定する必要はない。また取調室の刑事と被疑者の会話の場合、刑事は逮捕拘留しようとしているわけだからたとえ柔和な態度で被疑者に接して被疑者が気が緩んでやってもいない犯行を自供したとしても、柔和で人当たりのよい刑事はただ「よく告白してくれました。」とだけ言い、その実彼は職務を遂行しただけのことであり、被疑者の立場に立ってはいないことは明白である。それはサラリーローンに藁をも掴む気持ちで借金に訪れた客と、その事務所で応対する女性従業員のにこやかな笑顔にして同様である。つまり言辞、陳述の全てはその命題内容だけではなく、あくまで話者たる相手の立場に立ったものであるか否かという誠実性に常に目的論的には着目しなくてはならない。しかし矛盾するようだが、そしてここからが大切なことなのであるが、話者同士が騙し合おうと思って接したり、画策したり、出し抜こうとしている場合ですら、実は意思疎通というものはその前提条件においては信頼性を基礎としているということなのだ。&lt;br /&gt;　例えば親しい者同士の会話では、その発話される陳述の意味内容如何というような問題は寧ろ過小なものにしか過ぎない。何故ならば彼等同士人間関係的にも信頼し合っており、それは発話することがその確認のためのルティンワークでしかないのだから、それは丁度地域共同体内での近隣住民としての顔見知り同士の朝の挨拶のようなものである場合も多い（勿論そうではない場合もあるが）。しかしそもそも面識のない者同士の会話ではまず発話した者が何故聴者に話しかけたかということの意図と目的を説明する義務がある。それは要するに意味内容明示性の行為なのだ。それに対して前者の親しい者同士の会話は意味作用受容性の行為であり、それは人間関係の信頼度の確認であり（家族内でおやすみのキスを交わすような意味での）信頼促進のための行為なのだ。しかし疎遠な者同士、純然たる他人同士という関係の場合、意味内容如何ではそれ以上の意思疎通は遮断すべき場合もある。話しかけてきた者が何らかの営業的な勧誘であるかも知れないし、押し売りであるかも知れない。しかし重要なことはここからなのだが、そういう場合でさえ、まず基本的に意志伝達することが可能であるという事実こそがそういう会話でさえミニマルな基本、つまり信頼性によって我々は会話している、ということなのだ。&lt;br /&gt;　例えば我々は猫や犬にはそういう会話をしようとはまず思わないし、明らかに観光客である外国人同士が我々の与り知らない言語で会話している場合、その者たちに対して通常の知人や同国人同士で会話するように話しかけることはまずないだろう。尤もその者たちの発話する言語が瞬時に理解出来たなら話は別であるが。&lt;br /&gt;　つまり命題内容が偽証であったり、嘘であったり、はったりであったり、その発話の目的が相手を騙すことであったとしても尚我々は意思疎通し合える相手であるという前提なしにはそういう会話すら成り立たないという現実を生きているということなのだ。すると我々はただ親しい者同士から純然たる他人にまである階層的な認識を個人毎になして会話しているが、責任の所在、つまり親しい者に対して誤った情報を仮に意図的にではなく伝えたとしたら、親しさの度合いに応じて良心の呵責に苛まれることが通常であるが、同時に見ず知らずの他人に対してどんな謝った情報を伝えても構わないかという判定においてこそ責任という倫理は問われ得るのだから、つまり職業倫理、アカウンタビリティー、情報開示といった全ては責任という名に収斂される意味合いを持っている。それはつまり良心（よい情報内容を相手に対する差別意識することなく伝え合う倫理の起源としての）を支えることの出来る能力こそが、ある意思疎通をすることは可能であるかという言語認識、言語理解能力に対する裁定基準、つまり会話が成立するか否かに掛っていると言っても過言ではない。すると良心という理性的な基準というものはその前提条件としては理解能力という知性、つまり低次の（理性が高次のものであるとしたら）条件によって支えられていると捉えることが出来る。しかし同時にその低次の条件が全ての言語活動を支えてきたわけでもなければ、また人間の言語活動を進化させてきたわけでもない、ということをしっかり認識した上で理解すべき前提条件なのである。例えば生物学的に大脳皮質によって我々が判断していることの前提条件として脳幹だけで判断していると判断してはならないだろう。しかし同時に我々は大脳による判断を身体によっても、それ以外の部位によっても同時的に行っているのだ、ということである。だから余程鈍感な者か、その場の状況を判断出来ない場合（取調室に缶詰にされているのに刑事から尋問を受けているという判断がつかないような病理的に鈍感な場合等）以外では通常我々はある命令に対して、「～を私はあなたに命じます。」とか「～をあなたに報告します。」などとは言わない。ただ単刀直入に命題内容を述べるだけである。「奴が死んだよ。」とか「そこに座れ。」とかのようにである。そしてそれは低次な信頼性（あなたは私と同一の言語を使用することが出来るということを承知であること）と同時に誠実性（それは威嚇的発言でさえそうなのだ。つまりその威嚇意志を伝達することが出来る相手であるという真意を表出しているのだから）をも使用しているのだ。そしてそれは殆ど無意識レヴェルからそのようにしているのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-7840073336904636754?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/7840073336904636754/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_17.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/7840073336904636754'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/7840073336904636754'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_17.html' title='〔責任論〕第三章　責任と信頼'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-6881116839651621878</id><published>2009-10-15T17:18:00.000-07:00</published><updated>2009-10-15T17:25:48.833-07:00</updated><title type='text'>〔責任論〕第二章   責任と良心①</title><content type='html'>　人間には他者に対して「もしも彼（女）の立場に自分が置かれたたら」という思念を持つことが出来る。それは自己を他者に置き換えて考える仮定法の思念である。この能力が人間に言語活動（現在までのような）において多大な進化を齎してきた。&lt;br /&gt;　人間が利他的な行動に出たり、利他的な価値観によって決心したりするのは、人間が集団内で利他的な行動をするべきであるという観念が定着しているからであり、その観念の出所とは一方で人間がややもすると利己的な特殊意志を知らず知らずの内に発動することがある、と全ての成員が了解し合っているからである。それはある意味では性悪的傾向を有していることを皆が了解し合っていることを意味する。&lt;br /&gt;　利己的対他攻撃欲求を抑制する知性とは自主的なものであり、それを支えるものは良心である。人間は悪を悪であると認識することが出来る。この能力は悪事を働く者にある種の疚しさを感じさせるところのものである。疚しさを感じることが出来るということはそれだけで良心を抱くということであるから、どんな悪党でも疚しさを克服する仕方を知っているのだろう。責任は疚しさを感じるという事態にて疚しさを感じずに済む処方として捻出された観念であるとも言える。しかしもしそれを遂行しなければ疚しいと感じるから、それを避けたいという消極的な観念とは、寧ろ責任感のない者に向けられた最終的な防波堤であり、真実に責任を全うする者に対して責任とは善行に勤しむことを促進する里程標である。防波堤であるだけの責任に対する認識と、里程標としての認識に横たわるずれが、我々を自分に対する評定基準として作用させる時、出来得るなら自分をよい方において選択したいと望む心理を醸成する。&lt;br /&gt;　カントが善意志と言った時、彼の中では明らかに性格論的な行動としてではなく、つまりその人間の傾向性としての選択ではなく、その選択が自分にとって好ましくはないものであっても尚、義務履行的に、あるいは責務遂行的に選択する意志の方をこそ積極的に評価に値するとしている。だから逆に性善的な性格、傾向性を有する者も尚、意志的に正しいと確信して（ただ贔屓心によってではなく）遂行する行為にこそ意味がある、とカントは捉える。それは感覚的行動に対する認識的行動の優位性の主張であると受け取ることも可能である。ここで責任と認識について少し考えてみよう。&lt;br /&gt;　良心をただ単に悪いことをしたくはないということ、つまり悪いことをすると撥が当たるという観念からではなく、それが真に正しいと確信するから何らかの良心的行動を起こすという決意にはある積極的な信念が求められる。それはその信念を脅かす存在が立ち現れた時には敢然とそれに立ち向かい、攻撃することも辞さないという決意が必要である。よって良心に対する確信というものは一面ではただ優しく行動し、他者を傷つけずに済ますというような生易しさとは対極の性格が内在している。逆に責任に対する信念とは、それ自体が良好に世間的にも、結果論的にも作用している内は何の問題もないが、逆にそうではない場合ですら責任は責任なのだから、非良好であっても結果論的に良好ではなくても尚衆目の一致を見ることを強いるものでもあるのだ。それはある時には非情ですらある。例えば裁判官の息子や娘であれ、殺人を犯したら、それを裁くのが親であっても、親は自分の子供に死刑の判決を下さなければならない。勿論これは比喩である。要するにえこ贔屓を許さないという堅い信念が要求されるので、ある場合には窮屈な結果に終始することすらあるということなのだ。例えばそれは民主主義に関しても当て嵌まるのだ。全ての成員が間違った民主主義的選択をなした場合ですら、それは手続き上正しいことなのである。&lt;br /&gt;　つまり悪法があったとして、あるいは誤った判断によって無実の被疑者を護送する公務員には職務上の命令につき従っているだけであり、自らの判断によって被疑者を取り逃がしたりすることは通常許されない。その法を遵守する役人の行為それ自体は責務に忠実なだけであり、何ら責められる筋合いのものではない。故に責任というものは個人にばかりではなく、社会全体にもまた課せられていると考えることの方が理はあるのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-6881116839651621878?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/6881116839651621878/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_15.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/6881116839651621878'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/6881116839651621878'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_15.html' title='〔責任論〕第二章   責任と良心①'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' 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/&gt;　要するに責任は他者の存在に対する認可に対して他者に纏わる事項の認識を付与しつつ、それを他者に対する配慮として顕現させる。それは他者が大切に思うものを尊重することによって、あるいはそういう理解の下で他者にとっての大切なものを自己の所有にも勝るとも劣らないものとして認可することを通して、他者にとっての心の志向性を尊重することであり、他者の認識を自己の認識と勝るとも劣らない、ある時にはそれ以上の配慮を払うことで社会の成員として誠意を全うするという意識を生じさせる。そこに責任という考え方の基礎がある。他者の所有物に対する配慮のない成員とは従って他者存在の社会における位置づけそのものを認可していることにはならないということの意思表示として我々は他者の存在を他者の所有という観念にはまで拡張することで他者と自己の関係性を維持しているのである。それは他者の住居、他者の使用物、他者の行動範囲、他者の持つ自由時間その全てに適用されるものである。&lt;br /&gt;　これは一面では公的な機関、公的なあらゆる幻想、例えば民族、国家といったあらゆる事項において、そこで採用される法的な執行力のあるラングにさえつき従っておれば、後は何をしてもよい、という個的な自由の承認が集団全体によって認可されているとも言え、このような事態は、プライヴァシーというものを人間がかなり早い時期（つまり言語獲得しだした初期状態）から定着していた、と言うよりも、プライヴァシー尊重という利他的な観念の定着こそが言語行為を人間に齎したのだ、とさえ考えることが可能である。そしてそのように人間の個的な所有（事物、時間に関する）を認可する人間同士のプロセスにおいては、人間の記憶力の留まるところを知らない進化と共に、共進化してきた忘却のシステムの存在を抜きには語れない。簡単に言えば、人間は自分にとって必要なことはいつまでも忘れないのに、自分にとって不必要と思われることに関しては簡単に忘却してしまう、ということなのだ。そしてこのことに関して私たちが問わなければならないこととは、個人にとって必要なことと、集団全体にとって必要なことというのが必ずしも一致してはいない、という事態である。そしてその真理が本章最初述べた自分にとって大切ではないものであっても他者にとっては大切なものであるなら尊重すべしという観念へと結びつくのである。&lt;br /&gt;　責任とは成員相互の記憶能力に対する信頼を基本として成立している。記憶しているということが前提で責任とは問われる。しかし時として「覚えていない。」と白を切られるという経験は誰しも持っている。つまり社会とは記憶喪失とか記憶喪失偽装する者に対する処方を有していなければならない。そこで記録という観念が生じるのだ。記録さえしておけば、責任の所在が問えるし、それ自体が確たる証拠となる。しかし同時にそのことは記録者が誠実であることが要求されてもいるのだ。そのことはさておき、エクリチュールの発明とは記録されたものを各成員が個別に確認出来るという利便性をモットーとしている。しかも記述者も、その記述読解者も、その記述されたものを見た後、その細かい内容を忘れていたとしても尚、そういった各個人の記憶の不確かさを補うように記述を見ればよい、という便利さだ。少なくとも記述自体の改ざんさえ行われていなければ。しかしパロールにおいては今日のようにテープレコーダーのない時代にはその確かさを確認することが出来なかったので、エクリチュールは厳正なる手続きによって衆目の一致した状況でなされていたと考えるのが自然である。このパロールによるだけでの記憶の不確かさと、記録のないことによる証拠隠滅性こそがエクリチュールに発展を促した内的な要因であると考えられる。だからいつでも閲覧出来るというエクリチュールのシステム（その閲覧システムを保証するための社会制度が必要とされるけれど）とは、人間社会の記憶力の不確かさと、正式、公式と私的なことの弁別性において発明された、と捉えることも出来る。それは個人のレヴェルでもそうであるし、集団のレヴェルでもそうなのだ。&lt;br /&gt;　つまり仮にある個人の記憶力に頼っていたのなら、その個人の記憶事項の優先順位とは常に個人毎に異なるし、個人性格の傾向性に依拠しやすい。しかし集団全体が一つの確たる記憶を有して、それを後日衆目の一致を見ることは、そういった機会そのものを作ることにおける困難さがある。そこである個人が記憶していなかったり、思い違いをしていたりすることを前提にして、あるいはある個人が確固として記憶をしていてさえ、嘘をつくこと、記憶事項の偽証をすることの可能性を考慮に入れて、エクリチュールは法的な秩序としてなされた、と考えることが出来る。だからエクリチュールとは閲覧されることの自由と、その閲覧時期のなるべく常時であることが求められ、閲覧事項の保存を社会全体が保証するシステムと同時的に発展したと考えることもまた自然である。つまり閲覧の平等という観念こそが逆に特権階級的な閲覧をも可能にする。閲覧の利便性そのものが人間社会にエクリチュールを発展させたと考えてよいであろう。そして記述者にはそれ相応の正しい記載を行うべく責任が常に記述に際して求められたと言うことも出来よう。&lt;br /&gt;　責任には幾つかの重責と軽責との段階があったであろう。記述者、記載事項保存者にはある程度の重責が課せられたであろうし、責任の所在に関する記載事項においてはその記載された者に重責が課せられていたと考えることもまた自然である。そして一般的には全ての閲覧者において、その被閲覧事項の内容に関する記憶力こそが責任となって存在したとも言える。それを記憶していなかった者には懲罰が課せられたと考えることまた自然である。&lt;br /&gt;　ここで記憶には脳科学的に二通りあることを確認しておこう。一つが第一記憶（短期記憶）であり、もう一つが第二記憶（長期記憶）である。そしてこの二つはいささか性格が異なる。人間にとって大切で常に必要な知識は第二記憶であるし、ある時期が過ぎれば必要なくなる幾多の事項は標準的に言えば第一記憶として処理されると考えてもよいだろう。&lt;br /&gt;　そして責任というものの所在もまたこの第一記憶と第二記憶の使い分けそのものから派生すると考えてもよい。つまり社会では常に個人的、私的レヴェルとは異なって、覚えていなくてはならない事項と、そうではないことがある。そして人間は親しい者同士では非公的な事項をこそ忘れてはならないが、逆に親しくはない者同士では公的な事項をこそ忘れてはならないとされるのだ。私的、個人的レヴェルでの忘れてはならない事項とは得てして公的には大したことではないが、家族内では最重要事項である。家族の誕生日とか命日とかそういうことである。しかし公的なこととは家族内、親しい者同士では持ち込まないということが常識であるが、逆に公的にはそれだけが必要とされるのだ。そして第二記憶として長期に渡って忘れられないことというのも私的であり、かつ絶対忘れてはならないことと、公的常識として社会通念、生活手段として絶対忘れてはならないこととが共存している。そして第一記憶においても約束という事項の全てはそれが親しい者同士でも、そうではない場合でも適用されるし、公的、私的の双方にやはり跨っている。そして重責そのものもまた公的、私的にかかわらず、第一記憶においても第二記憶においても要求されるのだ。その細かい事例について少し考えてみよう。&lt;br /&gt;　まず公的なこと、つまり法的なことを遵守しないと社会では制裁を受ける。しかし公的なことさえ遵守すれば後は何をしてもよいかと言うと、社会では私的なことの充実こそが個人的な信頼獲得に繋がるのだ。他人にばかり親切で、家族内では目茶目茶であればそれこそ信頼というものは失墜する。しかし私的なことを最優先し過ぎると今度は社会的にやはり信頼を失う。つまり私的な充実と公的な義務の履行の両立こそが社会的成員としての自覚となって立ち会われると同時に、社会的責任履行という現実ともなっているのである。&lt;br /&gt;　つまり公的な義務の履行によって初めて成員は私的な充実を享受することが可能となるし、私的な充実があったればこそ公的な義務履行にも身が入るというフィードバックこそが社会全体の暗黙の了解事項となっているのだ。だから時と場合によって私的な事項は忘却すべきであるも、同時に義務さえ履行しておれば適当に公的な事項を忘却する権利もまた全ての成員は与えられているのだ。つまり全て公的な義務に雁字搦めになることを未然に防止することが出来るような義務を社会は前提するように常に全成員たちによって求められているのだし、それこそが政治を要求するのだ。そして政治参加という題目が義務履行と共に成就することで逆に私的な充実を図る機会が全成員に与えられるという寸法である。&lt;br /&gt;　だから社会では絶対忘れてはならない事項という義務と同時に適度に忘れていてもよい権利が全成員に与えられ、個人的生活の充実においては適度の公的義務履行の怠慢を十二分に使用することが求められ、それは公的な要求とは両立しない。つまり公的に絶対忘れはならない事項は同時に私的なことで適度に忘れてもよいことの両立において成立し、逆に私的なことにおける絶対忘れてはならないことというのは今度は逆に公的なことで適度に忘れてもよいという権利の使用によってのみ成立しているのだ。そのことは記憶と忘却のバランスそのものが脳判断レヴェルから義務と権利のバランスによって成立していることのよい証拠である。&lt;br /&gt;　例えばアメリカ社会ではあらゆるビジネスシーンにおいて、それが経済界であろうが学界であろうが、普遍的に私的生活の充実こそが義務と両立すべき事項であり、人間間の信頼醸成に不可欠である。そこで私的充実を図れないが義務履行の全てを完遂する人間には適度の冷ややかな評定が下される。そういう成員は逆に小さい出世はするかも知れないが、大きな出世はしない。逆に私的充実をそれこそルソーの言う特殊意志を完遂することで公的義務履行を怠慢していると法的制裁を受けることとなる。つまり社会が下す成員の価値評定という人間学は義務の完遂が私的充実を伴い、同時にそのことによる幸福感が社会的な義務と同時に義務的なレヴェルでは推し量れない（だからそれは儲かるとか会社や法人、集団を儲けさせるというレヴェルだけではない、ある時には儲からないこと、例えばボランティアなども含まれるのだが）価値論的な行為をこそ成員個人の存在理由として価値論的に評定するものなのだ、という判断が社会全体にあるのである。つまり義務履行と同時に人間性の所在が求められているのだ。&lt;br /&gt;　恐らくそのような適度の義務と絶対履行事項と同時に価値論的な人生の充実こそが倫理的にも行動論的にも人間社会の曙においても存在し、その事実が言語活動の進化と、意味内容の充実、概念規定の細分化を促したと見ることもまた理に適っている。だからこそケースバイケースで忘れてはならないことと忘れてもよいこと、あるいは忘れた方がよいことというのは自然と決定され、その全ての配分こそが人間の生活や行動を決定し、また逆に忘れてならないこととそうではないことの決定は、人間の生活内容や行動（その都度採るべき）によっても決定されている、と言うことが出来る。そして責任は責任遂行という義務と同時にその責任は何のためになされるのか、という判断をも伴っているのである。つまり責任さえ果たせば後は何をしてもよいというのかというレヴェルにおいて人間性とか個人的な成員に付与される存在価値というものの評定が決定されるのだ。つまり倫理とは責任遂行と同時に責任外行動とか義務的行動外の私的生活（権利としての）と、その社会責任が何のためになされるのかという面における評定によって構成された価値評定のことなのだ。だからたとえ社会的責任を果たしていても、悪辣な目的によってその責任遂行を履行しているのならその成員に対する倫理評定においては即座に義務完遂に対する評定は反故にされる可能性もあるのだ。だから社会とは公的、私的を問わず常に記憶必須の事項と忘却権利事項バランスをその都度求められる場であると考えてもよい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-5146973865739218875?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/5146973865739218875/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_13.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/5146973865739218875'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/5146973865739218875'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_13.html' title='〔責任論〕第一章   記憶と忘却に支えられた責任論'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-7855104943465290325</id><published>2009-10-11T18:03:00.000-07:00</published><updated>2009-10-11T18:22:05.670-07:00</updated><title type='text'>責任論　序</title><content type='html'>　責任という考え方は社会の基本である。しかしこの当然過ぎるような観念を人類が抱いたのはいつ頃なのだろうか？私は古生物学者でも、脳科学者でもないので、ある意味では類推的にしか考えることが出来ない。しかしそういうデータ解析ではない遣り方で考えた方が真実味に近い何らかの真理に到達することが出来る場合もあるだろう。その意味では人類学的思考実験の体裁を取ったこのテクストは哲学の一つの実験でもある。&lt;br /&gt;　しかし前作「死者と瞑想」（今のところ未発表だが、ある文学公募に応募した）で語りきれなかった面をここでもう一度掘り下げてみようという試みなので、私はここで責任を前作と同様の観点を基本にし、前提にしながら論を進めたい。しかし前作をもう一度ここで説明することは大変なので、前作で述べたこともまた多少繰り返されることもあるだろうが、更に前作で述べ切れなかったことを中心に論を掘り下げてゆきたい。&lt;br /&gt;　まず基本的に人類がどこら辺から社会意識を持ったかと言うと、年代論的には断言出来ないので、思考推論的に言えば、統語秩序形成期と期を一にしていた、と考えるのが理に適っている。何故なら言語使用という問題はそれ自体で社会意識と不可欠な意思疎通という面から考えることが順当だ、と思われるからである。&lt;br /&gt;　どのような動物でも自分の血族とか近親者同士のコミュニティーは持っている。しかしそれ以外の他人のコミュニティーにどれだけ配慮し得るかというと、人間ほど他者一般に対する意識が発達してはいないだろう、ということで仮に他の言語使用可能性所有種さえ人間ほどの言語能力を獲得出来なかった、と考えることもまた理に適っている。&lt;br /&gt;　ここで言語能力‐社会意識という面から責任の意味合いが出てくる。　&lt;br /&gt;　例えば近親者、血族の間でなされる配慮、生活上の思い遣りはどのような動物にも見られるが、人間にはそれプラス他人に対してもそれなりの配慮をする。自然界、とりわけここで例証しやすい動物界を見てみると、他個体を殺害してもそのことで報復を他集団から受けない限り彼等の社会で生存を危うくされるということはない。しかし人間社会では法的な制裁を受ける。そのこと一つを取ってみても、人間社会では基本としてある観念が定着していることが了解される。それは親しい者同士以外の者に対する意識と、親しい者同士の意識を等価に見る見方である。&lt;br /&gt;　その見方を正当化し、実践すべき徳とすることが出来るのは、恐らく親しい者同士での連帯では自分たちだけの都合で、勝手にそれ以外の成員たちに対して横暴なことをすることが心情的には連帯感から生じやすくても、それは「倫理的に正しくはない。」と抑制することで社会全体の正義的、道義的な倫理を構成しようとすることであり、それは親しい者同士の関係を利己的な感情からではなく、理性的な観点から認識し得るような価値規範に照準を合わせるということを求めるということである。親しい者やその者との関係を客観視することというのは、要するにえこ贔屓をすることを抑制することであり、親しい者をも親しくはない者と同等の権利を持つ者として認識することである。この親しい者の客観視という認識については今後も重要になってくるのでよく念頭に入れておいて欲しい。&lt;br /&gt;　社会とは成員の集合である。社会人としてのメンバーの集合体である。この集合という考え方には基本として異なった性格、人格の成員たちを、その個性とか異質性に依拠させずに、同じ人間同士であるという観点から結び付ける。これはそれ自体で平等と公平の論理の起源である。人間は身体的バイオリズムから先天的に他の動物同様、数えるという行為を難なく行える。この数える行為を目的意識に結び付けたものが集合という考え方である。一人の成員はよって社会の構成要素であり、単位である。単位という考え方は数えるための目的物であるということと、集合要素であるということの認識から派生している。つまり二つの認識の組み合わせである。&lt;br /&gt;　この親しい者同士において思い遣りを持つことは難なく行えるのだが、ある時には親しい者の肩を持つということが正しくはない、つまり他人の方に理がある、部があるという考え方こそが公平という考え方、平等という考え方の基本であると思われる。そして成員の集合には二つの行為がこれまた組み合わされている。それは数えるという行為と異なった性格、人格の成員を敢えて等価に見る（社会権利上）という行為というこの二つの組み合わせである。&lt;br /&gt;　あるビジネスマンはこう言った。「人間誰しも無から有を作ることは出来ない。皆誰かがやったことの上に何かを積み重ねてゆくことしか出来ない。」まさにその通りである。しかしそのようなことが出来るのは人間が前にやったこととこれからやらなくてはならないことの二つを弁別し、そしてそれを組み合わせることが出来るからであり、それが出来るということはその二つを組み合わせるまで、その二つが別個に存在し得るということを記憶することが出来る、組み合わせる行為へと赴くまで（それは準備が必要だから）、その構成要素を念頭に入れて、記憶し続けていなくてならないのだ。そしてそれを人間は難なく出来た。この前にしたことに対する記憶が人間に能力として確たるものとして存在しているからこそ、我々は次の行為を前の行為の上の積み重ねとして理解するとが出来るし、その累積的な結果こそが我々の文明なのだ。この記憶という事態についてＰ・Ｆ・ストローソンは的確に述べている。&lt;br /&gt;「（前略）綜合的統一の最高原則は、「与えられた直観における私の表象はすべて、そのもとでのみ私がそれらの表象を私の表象として同一的自我に帰属させることができる条件に従わなければならないということしか意味していない」（Ｂ１３８）。＜著者注、カントの純粋理性批判に対する論文である故ストローソンはカントテクストの番号を記している。＞この思想はそれ自体十分明晰である。多様な表象が一つの意識において結合させると言える条件は、どのようなものであるにせよ、まさに、経験主体がさまざまな経験を自己自身に帰属させることができる条件にほかならず、この主体はこれらの経験が異なる時間にありながら等しく属しているものの同一性を意識しているのである。ところでこうした条件の充足は心の綜合する働きに依拠すると言われるが、こうした綜合の活動は、結局、通常の経験的自己意識が与える以外の如何なる自己認識ないし自己意識も産み出さないのであるから、我々は、経験の自己帰属の可能性の説明を、綜合の活動そのものに関する、あるいはその活動の遂行のために使用させる能力に関する特別な意識のうちにでなく、むしろ綜合の活動の結果のうちに求めなければならないと思われる。おそらく、綜合によって産出させると考えられる、かの客観的なものの概念のもとでの諸経験の結合それ自身が、そのもとでのみ経験の自己帰属が可能となる条件、ないしはその基本的条件である。（後略）」（「意味の限界」勁草書房刊、１０４～１０５ページより）&lt;br /&gt;　ストローソンの言う綜合とか同一性とは、自己を統一的な主体として捉える仕方である。例えば現在の私にとって私の過去の行為とは無縁に生活しているが、仮に私が犯罪的事実と判定され得る行為を過去を行った場合、法的には私は過去の行為と無縁な今現在の私という哲学的な認識は無効とされる。つまり過去の私の行為も、今現在の私の行為も共に、私という一個の成員の責任に帰属され得るのだ。そしてその事実はもう一つの私という綜合に対する認識を生じさせる。それはこういうことである。私にとっての私の行為に対する記憶は外部的に私に対して判定され得るものとは異なった様相で立ち現れることの方が多く、またその事実は私にとっての私の行為に対する責任という面を私に顕現させるが、それは私の行為に対する外部からの評定基準とは何のかかわりもない、ということである。&lt;br /&gt;　例えば記憶とは経験そのものではない、とフランソワ・アンセルメとピエール・マジストレッティーは語っている。（「脳と無意識」青土社刊、第二章‐トラジメーノ湖のほとりの制止より）そのことをこの二人の著者は「経験の刻印を許すメカニズムが、経験を分離してしまうメカニズムであるという、一つのパラドックスに出会うことになる。」と言う。「ある痕跡が再発見されたとしても、それはもはや経験の再発見ではない＿痕跡は精神生活に特有の法則に従ってべつの痕跡と組み合わされ直すだけに、なおさらのことである。フロイトのいうように、はじめは知覚があってそれが刻印されるとしても、この知覚は神経器官にたいするまたべつのレベルの刺激となり、シナプスの可塑性というメカニズムを介して転写に転写をかさねた末に、それが永続する痕跡を生じたとしても、経験そのものとしては失われている」（先述同書、同ページより）のだ。ここでこの二人の著者は人間の記憶作用に関して、事実に対する記憶と、その事実に関する認識、願望、別の事実に対する連想といった様々な関わりによって事実記憶自体が変形してゆく可能性において、幻想を記憶と並置されるもう一つの現実として捉えている。この事実記憶と幻想との並存という現実こそが、私たちが私性と公共性との齟齬を常に創造しながら、同時に、責任の所在という現実に対しては如何なる私性も認めないという判断を法的に下すことの根拠にしているというわけである。&lt;br /&gt;　例えば自然科学上での如何なる法則も、それを発見した科学者たちの個人的な発見にまで至る事情とか経緯がある。しかしそれらの発見者に纏わる如何なる個人性とも、発見された法則は独立に存在価値があり、それは普遍的に我々にとっての真理である。そのことをディタッチメントと言う。（茂木健一郎著「「脳」整理法」にそのことに関する叙述が詳しいので参照されたし。）ディタッチメントは如何なる法則的価値も、その法則を発見した者の個人的な経緯とか背景に左右されないとする考え方であるが、これは法学においてもまた主張されているところの真理である。このことは法哲学者の大屋雄裕も指摘している。「ある判断がいかなる人間によって・いかなる状況において為されたかはその正当性とは無縁の問題であるとするのが尾高の主張であり、この立場に立てば判断の正当性はすべてあらかじめ・人間の行為とは無関係に決定されていることになろう。」（著者注、尾高とは尾高朝雄のこと。尾高朝雄（おだかともお）（&lt;a title="1899年" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/1899%E5%B9%B4"&gt;1899年&lt;/a&gt; - &lt;a title="1956年" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/1956%E5%B9%B4"&gt;1956年&lt;/a&gt;）は、&lt;a title="法哲学" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%93%B2%E5%AD%A6"&gt;法哲学&lt;/a&gt;学者。 日本統治下にあった朝鮮の&lt;a title="ソウル特別市" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%AB%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B8%82"&gt;漢城&lt;/a&gt;生まれ。第3期&lt;a title="日本学術会議" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AD%A6%E8%A1%93%E4%BC%9A%E8%AD%B0"&gt;日本学術会議&lt;/a&gt;副会長。初め、外交官を志すも、親の反対により諦め、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学大学院にて哲学を研究する。その後、&lt;a title="法哲学" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%93%B2%E5%AD%A6"&gt;法哲学&lt;/a&gt;研究者として、&lt;a title="京城帝国大学" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%9F%8E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6"&gt;京城帝国大学&lt;/a&gt;教授や&lt;a title="東京大学" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6"&gt;東京大学&lt;/a&gt;教授を歴任。&lt;a title="1947年" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/1947%E5%B9%B4"&gt;1947年&lt;/a&gt;（昭和24年）に、『国民主権と天皇制』（1947年）に掲載された論文「国民主権と天皇制」において、ノモス主権論を提唱し、&lt;a title="宮沢俊義" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E4%BF%8A%E7%BE%A9"&gt;宮沢俊義&lt;/a&gt;と論争した（&lt;a title="尾高・宮沢論争" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%AB%98%E3%83%BB%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%AB%96%E4%BA%89"&gt;尾高・宮沢論争&lt;/a&gt;）。結局、宮沢との論争でノモス主権論は幅広い支持を得ることなく、&lt;a title="1956年" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/1956%E5%B9%B4"&gt;1956年&lt;/a&gt;（昭和33年）に、歯の治療中に&lt;a title="ペニシリンショック" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF"&gt;ペニシリンショック&lt;/a&gt;で死亡した。ノモス主権論は、学術領域では歴史上の学説として研究対象となっているに過ぎないが、非学術領域では保守系の論壇誌を中心に再考する意見もないわけではない。＜Wikipedia尾高朝雄２００７、３/７より＞）&lt;br /&gt;　この法律学的なディタッチメントは、私たちにある真理を教えてくれる。それは行為自体の価値と行為を行った遂行者の評定、あるいは人物的な性格とか、日頃の行動とか、その他一切の人間的な評定とは何の関わりもないということである。だからどのような偉大な業績のある者に対しても法はそうではない人々に対してと同様公平に適用されなければならない（偉大な業績者の犯罪事実を見逃すようなことがあってはならない）し、また日頃どのような言動をしている者の意見であろうとも正論であれば、それが偉大な業績の人物の意見（ここではそれが間違っているとしよう）と食い違っていようとも、そちらの意見を採用すべきなのである。勿論その逆も真なりである。しかしそれがそう容易に遂行され得ない（偉大な者の意見が間違っていても罷り通ったり、逆に偉大な業績者に対する嫉妬が、偉大ではない者同士の連帯を生み、偉大な業績者の正当な意見を封じることもある。）ところに社会的な問題点があるのだが。&lt;br /&gt;　大まかに言えばこれまで記してきたような思想的な概略を通して本論は構成されている。そして第一章ではまず責任という倫理が人間社会において人間が記憶能力を極度に他の動物以上に進化させてきたことに起因するということをやや生物、生理学、神経学的な考察から探りつつ社会学的認識を採用して考えてゆくことにしよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-7855104943465290325?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/7855104943465290325/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_11.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/7855104943465290325'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/7855104943465290325'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_11.html' title='責任論　序'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-925071736606027813</id><published>2009-10-09T08:00:00.000-07:00</published><updated>2009-10-09T08:02:25.468-07:00</updated><title type='text'>責任論＜梗概＞</title><content type='html'>　責任という言葉は我々現代人固有の響きが感じられる。しかしそれは恐らく人類発祥の頃からあった。だが責任は知性の発達に伴って然る後に発生したと考える向きもあるが、私は責任が理性と抱き合わせとなって初めて知性が発達したと考える。というのも責任とは責任を負う者に対する能力の承認、とりわけ記憶能力の承認であるからだ。責任と常に共存してきたのが良心であり、我々は責任と良心を常にある時には協力させ、ある時には対立させてあらゆる判断をしてきたのだ、と思う。行動はそれ自体で一つの決心である。それは個人のレヴェルでも集団のレヴェルでもそうである。だから我々は意志決定の合理化において責任と良心を常に発動させている。何に対して責任を取り、何に対して良心を抱くかということが行動における選択を決するのだ。&lt;br /&gt;　私は記憶と意識と情動の三角形構図を考えている。意識と情動の狭間に行動があるが、そのことは本論では特に扱わない。寧ろ記憶と意識の狭間に反省があり、記憶と情動の狭間に後悔があり、反省と後悔の狭間に責任がある。責任は理性に頼られ、理性を利用する。言語活動もまた責任においてなされる。勿論良心によって責任が活性化することもあるだろう。しかし良心の情による流されやすさに対して責任は冷厳に接する。責任と良心が一致して行動したり、発語することもあるだろうが、反発し合い行動したり、発語したりすることもあるだろう。そして個人の責任と良心は別の個人のそれや集団のそれとも一致しない場合もある。そういう時、何を優先するかで我々の行動や発語は流動的となる。&lt;br /&gt;　本論ではカント、ヘーゲル、ニーチェ、マックス・ヴェーバー、ベンヤミン、シュレーディンガー、ライル、そしてウィリアム・カルヴィン（理論神経生理学）、フランソワ・アンセルメ（精神分析）＋ピエール・マジストレッティー（神経学）、ジェームズ・Ｌ・マッガウ（脳科学）、大屋雄裕（法哲学）のテクストを大きく参照しつつ、あるいは孔子解釈、ネット社会といった現実をも交えて責任の在り方、あるいは責任を根幹とした人類の進化と現状を考えてみたいと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/281729230527958773-925071736606027813?l=deadmemoresponse.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/feeds/925071736606027813/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_09.html#comment-form' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/925071736606027813'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/281729230527958773/posts/default/925071736606027813'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://deadmemoresponse.blogspot.com/2009/10/blog-post_09.html' title='責任論＜梗概＞'/><author><name>Michael Kawaguchi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/01006964713949738985</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='32' height='24' src='http://2.bp.blogspot.com/_JGcHsWXMWRw/Sr2R6z_nu-I/AAAAAAAAAAw/a_0S1NiNe94/S220/006.JPG'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-281729230527958773.post-8167661508128289613</id><published>2009-10-06T17:02:00.000-07:00</published><updated>2009-10-06T17:23:05.931-07:00</updated><title type='text'>結論　喪と瞑想</title><content type='html'>　人間が死した他者との思い出を持ち、その中でその他者だけが知る唯一の私という観念はその他者の親しさに応じて、重要となってくる。しかし通常他の動物はその他者しか知らない自己という観念は持たない(と思う）。人間がそれを所有出来たのが、記憶能力の進化によるものかも知れないし、そのような想念を偶然持ったことが記憶作用に進化を齎したと考えることも出来るが、そのことについて問うことには今のところそれほど重要ではない。問題はそのような自己という観念を抱くこととなる何らかの社会的な出来事が問題設定上必要である。それを取り敢えず喪という行為から考えていってみよう。&lt;br /&gt;　もし今現在の人類のように他者の死に際して、その他者だけが知る自分という意識があったのなら、人類の祖先はその当時から既に死した他者と親しい度合いに色々な等級があったと考えるのはごく自然なことではないだろうか？例えば死者の知る唯一の私というものに近い観念が既に殆どの成員に備わっていたのなら、例えば長老者が亡くなった場合、当然その親族、つまり配偶者、子供、親戚、同僚（尤もこれは公務に付く者の場合、とそれほどの地位にない者とでは喪の形式には違いがあったと考えるのも自然であるが）といった人たちがまず最も死に際して悲しみを持つと言うことはあり得るから、そういう長老的な人の死には、通常の人間社会での親等と社会的地位に応じた喪に同席する成員間の死者との親密度の等級が存在したであろう。しかし若い青年が亡くなるという事態も決して珍しいことではないだろうから、そういう場合、近親者以外では同世代の友人とか同僚とかが優先的に喪の中心に置くことを長老者もまた承諾していたのではないだろうか？要するにそれは思い遣りという意識である。&lt;br /&gt;　また言語面から考えると、既に名詞と動詞はかなり発達していたが、未だ確固とした統語秩序の形成期においては、感情的な内容叙述としては確かに形容詞が重要な役割を果たしたが、同時に死者に対する親密度の等級という意味では既にかなり明確に日本語で言えば助詞とか、英語で言えばisn’t it？とかwould you？といった付帯節注１がかなり発達していた可能性も否定出来ない。つまりこれはやがて社会階級の固定化に伴って敬語と、日常語の差異を生じさせる契機として作用したとも考えられる。そしてこの助詞とか付帯節のようなものの発達それ自体もまた統語秩序としての統辞能力を急速に進化させていったとも考えられる。だから統語秩序の完成期以前には、＜名詞＋動詞→名詞with形容詞＋動詞＞あるいは＜形容詞だけ→名詞with形容詞＋動詞＞→＜名詞with形容詞＋動詞、形容詞だけ＞、あるいは＜前記一切＞→＜前記一切に付帯する付帯節、助詞＞→＜前記一切＋敬語表現＞といった使用例における進化順序はそれぞれ考えられるところである。&lt;br /&gt;　この際私が最も強調したいのは、親密度の度合いを他者が他者同士に対して認識し、それを言辞自体に弁別させる能力そのものが、統語秩序と社会階層というものの秩序を完成させるに至ったのではないかというものである。だから社会的地位の低い者なら者同士の親密度の度合いに応じた喪の際の列席順序、これがもし初期人類にあったとしたら、逆に今まで考えられてきたような社会階層という合理主義以前的に厳
