Sunday, November 2, 2014

シリーズ 愛と法 第十四章 種と愛の在り方②

聖書では「はじめにロゴスありき」と記されている。キリスト教は多分の言語唯一理性ツール主義と言える。事実アメリカ人の母親は世界でも最も赤ん坊をハグしないと言われる。赤ん坊へスキンシップで愛情を示すのは東南アジアやオセアニア等では多いかも知れないが、欧米で同じ様にそうであるとは言えない。この事一つ取っても欧米社会が言語理性的正義を命題化させている事が分かる。
アメリカ軍が終戦後日本に駐留していた時代ミステリアススマイルと日本人の笑みを称したのは有名である。それから約七十年が経った。しかし確かに表面的には日本は欧米型の社会に移行したかの如き様相である(マスメディアや資本主義自体はそうである)けれど、赤ん坊へのあやし方等では異なっているだろうか?それはあくまで地方部の事で都市部ではそうとも言えないと言えるだろうか?
実際には赤ん坊をハグする風習自体もかつて程ではないかも知れない。しかし身体感覚的には日本人はやはり決定的に欧米人とは違う。
神道のお清め、お祓い等は死を穢れとして捉える思想が根源にある。それは道教でも同じであると前回述べた。その発想自体が日本民族の感性が言葉正義論ではない事を示している。空気を読む等の感性は言葉化され得ないものの方を重視する感性と言える。日本人はロゴス主義的ではないが故に弁解とは見苦しいものと社会的通念としてはされる。
つまり日本人はこれだけビジネス優先的社会へ移行しても尚、言葉的ではないもの、つまりロゴス的な言語自体の普遍性とは別個の感性を重視する民族だと言える。
他方キリスト教ではあくまで人間主体の正義論が展開される。キリスト教徒は自分を進化論的な生物種、動物と同祖を持つ生命体とは捉えない。それは生物学者だけである。
キリスト教は人間が特別である。人間中心主義自体が神をも支える。従ってもし仮に此処で全ての生物も使命を全うする事を目指し、そのユニヴァーサルな価値としては対等だと言ってなら、 その者は進化論者ではあるけれど、人倫主義者ではないと見做される。これは宗教だけでなく哲学の徒も同様である。思想哲学宗教は全面的に人間中心主義である。その点ではルネッサンスの文藝復興運動自体も同様である。そして自然科学はその礎の上に成立する。
又キリスト教は一方では愛を隣人や敵へも注ぐが、イエスとその弟子達とは別格扱いとなっている。要するに聖書とはイエスとその弟子を家族愛的に結び付けられたものとして別扱いにしているのだ。この点では日本にキリスト教を移植した明治期の新島襄とその同志社大学の熊本バンドを中心とする人達にも受け継がれている発想である。 異教徒infidel、misbelieverとは異教徒でしかない。従ってユダヤ教の選民思想はキリスト教では階級制的家族主義へ移行している。
しかし仏教では修行に拠る悟りのレヴェルに於いて当然階級は成立する。解脱も涅槃も一つの悟りの境地であり、それは体得者同士にしか分からない事である。その点では仏教も又当然の如く階級制的である。
と言うより宗教とは必然的に階級制的にならざるを得ない部分がある。表向きの平等主義とは相反して宗教活動実践者同士では厳然とそうである。 その意味では他民族、異民族、異教徒を差別しない純粋にグローバルな宗教等世界に一つもない。しかしその事実は裏を返せば、その閉じた仲間内でのドメスティシティ自体はある程度どの宗教にもある訳だから、その点でのみユニヴァーサルである。
愛は確かに一方では宗教的な慣習性とは別個の理性論に拠って習俗文化を超越する。しかし私自身は日本人であり、死ねば土に還るという発想も色濃く持っている。これは日本での仏教風土的感性と言ってよい。恐らく欧米人にはないものである。日本人には逆に弁証法にせよ論理思考にせよ、所謂欧米人的な哲学論理思考自体が文化的にはない。
従って愛の在り方とか愛を論じる仕方も欧米人と日本人一般とでユニヴァーサルに理解し合えるとは限らない。
宗教的死生観が異なれば当然社会倫理的な色々な意味での通念や不文律も異なってくる。当然その不文律自体の考察や分析はユニヴァーサルに行えるだろう。しかしそれはあくまで学者や研究者間の中でのみである。つまり愛はそれ自体ハグし合う習慣がある欧米とそうでない日本(欧米では赤ん坊をハグする事は少なくても、大人同士は逆にハグし合うし、その点では五輪等に出場する海外経験の豊富なアスリート達以外は日本では今でも他人とハグし合う習慣はない)とでは当然セックスの感性も異なってくる。性愛自体が文化習俗的な感性に彩られていると言える。
それでも国際結婚もあり得るし、ビジネス上ではあらゆる異なった文化圏と交流しなければいけない現代人は常にドメスティシティとユニヴァーサリティというダブルスタンダードを理性論的に携えていかなければならない。
国際政治では愛はマララ・ユスフザイさんの様な人倫的演説でしか把握出来ない。しかしユスフザイさんが女性へ教育を訴えても、尚イスラム教の文化習俗自体は消滅しない。アメリカでも南アでも黒人は白人とは異なった文化ルーツも持っている。ヒスパニックも又白人とも黒人とも異なった文化背景がある。そういった異民族同士が共存し合うという事実は、我々に愛の普遍性を考えずに済ます事を許さない。だから逆に愛を文化習俗的異性から法それ自体が民族毎に多様であると捉える処から論議を進めていくしかないとも言える。
此処で一つの結論に達した。愛の普遍性を論じるには、法の個別性と個がどう向き合うべきかという事に尽きる、という事である。
次回からは法の個別性が愛の普遍性へ抵触し得るか、もしそうだとしたら、どう考えたらよいか、を考えていこう。

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